スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (36)

ノアイヨン大聖堂

ノアイヨンは川から一マイルほど離れた、木々の生い茂る丘に囲まれた狭い土地にあり、町全体に瓦屋根の家々が密集し、その先に二つの高い塔を持つ大聖堂がそびえていた。町に入ると、瓦屋根はごちゃごちゃ重なりあって坂を登っていたが、そうした家々は、群を抜いて高くそびえている荘厳な大聖堂の膝にまでも達していなかった。大聖堂はすべてを圧倒して屹立していた。町役場のそばの商店街を抜け、この町を支配しているといった大聖堂に近づいていくにつれて、人通りもまばらになり落ち着いた感じになった。この大建築物に向いている壁には窓がなかったり、窓があっても閉ざされており、聖堂へと続く白い道には草が茂っていた。「ここは聖なる地、靴を脱ぎたまえ」というわけだ。とはいえ、オテル・デュ・ノルドという宿は、この教会の近くで看板を掲げていた。ぼくらの寝室の窓からは午前中ずっと目の前にすばらしい東面が見えていた*1。ぼくは大聖堂の東面、つまり礼拝堂の正面を、これほど共感を持って眺めたことはなかった。三つの広いテラスが伸びて地面に達しているので、昔の立派な軍艦の船尾楼のように見えた。内側がえぐられている控え壁に置かれている花瓶は船尾灯のようだった。地面には起伏があり、大西洋を航海する船が大洋のうねりでゆるやかに船首を下げるように、塔は家々の屋根の勾配の上に見えていた。次のうねりを乗り切れば百フィート先まで進んでいてもおかしくない感じだった。ふいに窓が開いて老提督が三角帽をかぶった頭をのぞかせて天測を行ってもおかしくなかった。そういう老提督たちはもはや航海してはいない。古い軍艦はすべて解体され、絵画の中でだけ命脈を保っているだけだ。この教会は軍艦などより古くから存在していたし、現在も教会として存続しており、オアーズ川からもその偉容が望まれた。大聖堂と川の二つが、この近郊ではおそらく最古のものであり、どちらも古いすばらしい時代を経ているのだった。

教会で聖具を保管する係の人がぼくらを塔の一つの最上階に連れていって、天井から吊してある五つの鐘を見せてくれた。高所から眺めると、町全体が屋根と庭園の寄せ木細工でできた舗道のようだった。古い城壁もはっきり確認したどることができた。係の人は、平原のずっと向こう、二つの雲にはさまれた明るい空のところにクーシ城が見えていると教えてくれた。

立派な教会というものは見飽きることがない。山岳風景を見ているようで、ぼくは好きだ。大聖堂の建築をめざしたときほど、人間が幸福な意欲に満ちあふれたときはないだろう。一瞥しただけでは一つの巨大な像のようにも思えるが、じっくり眺めていると、森のように、細部にわたって興味深いものがひそんでいる。尖塔の高さは単に三角法で決定できるものではない。実際に測定してみれば意外に小さかったりもするのだろうが、それにあこがれている者の目には何とも高く見えるものなのだ! エレガントでバランスのとれた細部が集合し、それぞれが互いにバランスを保ちながら拡大していき、全体として一つのまとまったものになっているため、均衡ということを超越した、何か別の、もっと堂々とした存在になっている。大聖堂で説教するために人がどれほど声を張り上げなければならないか、ぼくにはわからない。が、何を説いても、大聖堂に見合うものにはならないのではないだろうか? ぼくはこれまでさまざまな説教を聞いてきたが、こうした大聖堂に見合うほど意味のあるものを聞いたことはない。「教会自体が説教者そのものであり、昼も夜も説教をしている」のだった。過去における人間の芸術や願望について教えるだけでなく、聞き手の心に激しい共感をもたらすものでもあって、あらゆる立派な説教者のように、聞く者自身が教えを説くようになる――そうして、人はすべて最後の段階では、自分自身が自分の神性について処方するしかないのだ、と。


脚注
*1: 教会の東面 - 礼拝堂の正面を指すが、実際に向いている方向が東とは限らない。キリスト教の聖地はエルサレムであり、ヨーロッパにおいては常に東にあるためとされる。