現代語訳『海のロマンス』102:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第102回)

花雫(はなしずく)せよ、沈黙の谷

いずこに彼は今や在(あ)る!!
かつては超人と謳歌(うた)われ、傲慢(ごうまん)と誹謗(そし)られた彼。
全欧の覇権(はけん)とたわむれ、各国の王の位を弄(もてあそ)び
地球というテーブルで、人骨(ほね)のサイコロを振った彼。
すさまじき最後を見なかったか。人の世から離れた遠き孤島に。
心ある人は独り静かにただ微笑(ほほえ)みて泣くべし。

とは、「人食鬼」、「悪魔」、「猛獣」などと恐れ、嘲(あざけ)り笑う以外にはこの大英傑を呼ぶことのできなかったジョンブル(英国人)の中のただ一人(いちにん)の、真摯(しんし)にして感傷的な謳歌者たるバイロン卿の有名な賛辞である。

ナポレオンが死去した際には遺骸(いがい)を英本国に送るべしという、コックバーン司令官に下った内令は途中で変更された。新総督サー・ハドソン・ローエは、万一の際におけるナポレオンの墓地は、生前に彼が最も愛慕(あいぼ)した谷に定むべしとの訓令を受け取った。

ごつごつとした形状(かたち)のセントヘレナという孤島における六年間。

ナポレオンは、まぶしいくらいに光り輝き、目もくらめくばかりに絢爛(けんらん)だった過去の追憶に生きるの外(ほか)は、閑暇(ひま)あるごとに日々、気の毒なほどに狭苦しく限られた土地の上に、窮屈な馬上の散策を試みては、はかなき瞬間の満足を、意義も努力も責任もない当時の生活において見いだすことを寂(さび)しい日課とした。

そして、その散策は常に、ロングウッドの館から三マイルほど北西にあたるゼラニウムの谷に向けられた。鬱然(うつぜん)と茂る木の間に鳴く鳥の音もかすかに、風もないのにホロホロと散るゼラニウムの花雫(はなしずく)がなんとも艶(えん)なる山懐(やまふところ)に、この偉人は散策する場所を静かに見いだした。

猜疑(さいぎ)と白眼(はくがん)との圧迫に耐えずして、水に乏(とぼ)しく霧に苦しめられるロングウッドの館をさまよい出た彼は、ビロウドのような青い草に身を投げて、耳元近くでこんこんと湧き出る泉の声を聞きながら、木の間を透(す)かして悠々(ゆうゆう)たる白雲の流れていく様子を仰ぎ見るとき、しばしば、志を得ず囚(とら)われの身となった愁(うれ)いを忘れたのであろう。

清らかに湧(わき)いずる泉の音と、無心の風に吹かれてなびける二本の柳樹(りゅうじゅ)とは、彼をこれほどまでに強くゼラニウムの谷に執着させた最大のものであった。

帝(てい)が後年、総督本人に向かって、「今後十数年をいでずして英国のカストレリー卿やバサルスト卿やその他の連中は、今、吾(われ)と言葉を交わしている君ももろともに、いずれも皆、忘却の墓に葬られてしまうだろう。もし、将来において君らの名前を記(しる)す者がいるとすれば、それは君らが吾に対して無礼侮辱(ぶれいぶじょく)を加えたとしてであろう。これに反してナポレオン帝は長く歴史上の花となり――」と憤慨(ふんがい)したごとく、ハドソン・ローエの過酷(かこく)で無情なる圧迫の手はひしひしと帝(てい)の周囲に加えられた。

――実際、ローエはこの偉大なる囚人の看守役たる歴史的名誉をまっとうするの道は、ただもっぱら誅求(ちゅうきゅう)束縛(そくばく)を厳にするの一途(いっと)のみであると考えたかも知れぬ

――しかも、帝(てい)はなお平素(へいそ)、このローエが統治している小領地たるこの谷を思慕(しぼ)して、その最後の病褥(びょうじょく)にあっても、

「余(よ)、もし健康を回復したら、あの泉のほとりに記念碑を建てよう。もしまた、このままに死ねば、あそこに遺骸(いがい)を葬(ほうむ)ってくれ」とまで言われた。

一八二一年五月五日、紆余曲折(うよきょくせつ)の多かった五十二年の生涯を遺伝性の胃がんに終わった帝(てい)の葬儀は、ゼラニウムの谷で、同年五月八日に行われた。

英国の歩兵にかつがれた棺(ひつぎ)の上には、紫色のビロウドと、帝(てい)がマレンゴの決戦で銃弾により穴があいた外套とが置かれた。

追悼(ついとう)し回想して涙に泣き崩れたる女性等を乗せて随行する馬車、馬に乗ったベルトランとモントロンの二人の伯爵、総督ローエおよび提督マルコルム二の両氏、帝(てい)の生前の愛馬などからなる葬列は、島生活の六年間を通じて帝に最も愛撫(あいぶ)された小ナポレオン、ベルトランを先頭に静かに谷へと下っていった。

宗教上の儀式が終わってレンガ工事に着手中、いちじるしく帝(てい)を敬愛していた群衆は、争って帝(てい)が生前に好きだった柳の枝をとって記念にしようとした。この憧憬にもとづく真情の流露(りゅうろ)を見せつけられた総督は、いちじるしく機嫌をそこない、制止するよう厳命を発した。が、群衆の来襲はますますはなはだしくなり、制止の命令も役に立たなかったので、ついに帝(てい)に対する最後の反抗的私憤を示すため、墓に柵をめぐらせ(今も墓の周囲には柵が現存している)、さらに、見張りの哨兵(しょうへい)を配置して人民の墓参を禁ずるに至った。

されど、ぼくは、死後においてなお迫害と陵辱(りょうじょく)から脱することができなかった憐れなる世界最後の偉人に報いるに、

“Si taceant homines, facient te sidera notum, sol nescit comitis immemor ease sui”
(人が沈黙を守れば、星、なんじの名を輝かす。彼の輝ける太陽は永劫にその友を忘れない)というエピグラムを以てしよう。


セントヘレナ島での滞在記は今回で終了し、次回からは、セントヘレナを出発して南大西洋、インド洋、太平洋を進む帰途の航海となります

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現代語訳『海のロマンス』100:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第100回)

ロングウッド館を振り返って

またもやド・ラ・カーズ伯の回想録のご厄介になるのであるが、ナポレオン臨終の箇所に

『……藍色の羅紗(らしゃ)の外套は帝(てい)がマレンゴの役*に着用されたものであるのだが、これで御遺骸(ごいがい)をおおった。手足を自由にし、左の腰間(ようかん)に御剣(ぎょけん)を帯(お)びさせ、胸上に十字架を持たせた。御遺骸(ごいがい)から少し離れたところに銀器を置き、その内に御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)とを盛る……。』

という一節がある。

* マレンゴの役: 一八○○年六月にナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍が相対した、イタリア北部にあるマレンゴでの戦闘。ナポレオンはその勝利を記念して愛馬をマレンゴと名づけた。

この御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)については

『……卿(おんみ)はまた朕(ちん)の心臓を取りてこれをアルコールに漬け、バタムに携えて行き、これを朕(ちん)が愛するマリー・ルイーズ皇后にもたらせよ、かつ朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕(ちん)は深く后(きさき)を愛して一日も忘れたることなしと……』

また

『朕(ちん)は卿(おんみ)に、朕(ちん)の胃を特によく診察検査して正確で詳細な報告を作り、これを朕(ちん)の太子(たいし)*に渡すよう依頼する……お願いだから、わが太子がこの苦しい病にかからないようにしてくれ……』と言っている。

* 太子(たいし): 皇位を継承する者のこと。皇太子、王太子とも呼ばれる。ここではナポレオンの息子であるローマ王を指す。
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二十代で夭逝したローマ王(ナポレオン二世)の肖像画
[Moritz Michael Daffinger, Public domain, via Wikimedia Commons]

どんな偉人でも豪傑でも子に対する純愛のためには盲目的となるのは下世話(げせわ)にいう『親馬鹿ちゃんりん』の一句につきている。

しかし、囚(とら)われ人として六年間の流刑地生活で、それを慰謝(いしゃ)するような書簡を一通も送らなかったマリー皇后の冷淡な所作と、病気で苦しく呻吟(しんぎん)しつつもなお思慕(しぼ)の情を最愛の后(きさき)の上にはせている帝(てい)の心持ちとを比べると―-もっとも、当時は島の内外の書簡の交通は実に厳重で、帝(てい)からの手紙もしばしば総督に抑留されたが、逆に欧州より帝(てい)に宛てた書信は問題なく届いたようだし――女の恋は橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事のごとし*、手管(てくだ)に乗るな甘い男たちと言ってやりたい。

* 橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事: 出所不詳。
橄欖とは「かんらん科」の常緑高木のことだが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる橄欖の森は「オリーブの森」の誤訳という。また、女性心理の機微を描くのが巧みなモーパッサンの短編集『オリーブ園』(Le champ d’oliviers)も当時は橄欖の森と訳されていた。

ぼくは――ぼくに限らず、ナポレオンを偉人として崇拝するすべての人々はたぶん――その政策に、兵略に、その外交に、人びとの信頼を得るやり方に、彼の行くところ必ず現れる性格のうちに、必ず啓示される精神力に、離れようとして離れられない魅力を持つ、雄渾(ゆうこん)な思想の閃(ひらめ)きをみとめざるをえない。

こうした色彩を有すると信じられる彼の性格や気魄(きはく)は、ぼくをして過去の歴史上に現れた人物の中で最も崇拝するにいたった理由であろうと思う。清盛に見るような、秀吉に見るような、その鋼鉄をあざむくような冷ややかにして強固なる意志と、いったん志を定めるとあくまでも徹底せずにはおかないといった微動だにしない気概(きがい)は、いかにも男の中の男らしいという、快(こころよ)い響(サウンド)を吾人の耳に与えるのである。

しかも、その境遇がいささか異なるといえども、同じく悲惨極まる末路をたどりながらも、その一方で浄海入道(じょうかいにゅうどう)*は煩悩(ぼんのう)解脱(げだつ)の大事な瀬戸際に立ちつつ不可避の、悪病のむくいたる重い病にうなされつつ、なお、わが死後は一切の供養(くよう)念仏(ねんぶつ)はこれを営むに及ばず、ただ急ぎ右兵衛佐(うひょうえのすけ)の頭をはねて吾が墓前にかけよと豪語したが、それに比べると、なんとも心弱き大ナポレオンの臨終の遺言なることか!!

* 浄海入道(じょうかいにゅうどう): 平清盛(1118年~1181年)のこと。出家後の法号が太政入道浄海。

胃や腸の痙攣(けいれん)、深いため息、悲しい叫び声などに続き、絶え間ないむせび泣きに見舞われた臨終の苦痛は、病気に倒れた日から、湯や水も喉に入らず、その胸中の熱いこと、あたかも火のごとく、その寝ているところから四方へ四、五間(八、九メートル)内では熱気が燃えるように、ほんとうに怪しい病であった、とされる入道が死去した際の苦悩と比べてみると、かの入道にも負けない大なる執着を有し大なる意思の征服を遂行したナポレオンの遺言が、たとえようもなく見劣りすることこそ、口惜(くちお)しくも恨(うら)めしき限りである。

朕(ちん)はセーヌ河畔(かはん)、朕(ちん)の深く愛したるフランス国人民のうちに朕の遺骸が葬られんことを希望する。これは、まずまずよいだろう。

朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕は后を愛して一日も忘れたることなしと。

とは、さてもさても芸のない、のろけなることよ!

卿(おんみ)の目撃したるところをことごとく、彼ら(ナポレオンの母および一家)に告げよ。ナポレオン大帝は身に一物をも所持せず、たった一人で遺棄(いき)され、きわめて悲惨な状態で崩御したと。

というに至っては、はかなく落ちぶれて死んでいく人の声である。

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現代語訳『海のロマンス』98:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第98回)

ロングウッドの館

Longwood House(source: Public domain, via Wikimedia Commons)

これぞ、まさに八十八年前の秋九月、自然の花や草も野や丘でいたずらに枯れ、流れる水もいたずらに減ってしまった悲しき朝(あした)、今歩いているのが一世を風靡(ふうび)した一代の益荒男(ますらお)を葬送したし道かと思えば、そぞろ身にしみて懐(なつ)かしく、青き丘に、生い茂れる千草(ちぐさ)の間を切り開いて通じた一筋の赤土路が、一世紀の長き月日にわたっていかに多くの階級の人々が足跡をきざんだことであろうと思いめぐらしたとき、数年来このかた感じたことのない思いが怪しくも浮かびだした。

これが、英雄は死してなお人身を支配するということであろう。不世出(ふせいしゅつ)の傑物と呼び、憎むべき悪魔とそしり、毀誉褒貶(きよほうへん)のちまたに今もなお彷徨(ほうこう)しとどまっているナポレオンも、その遺跡(あと)を訪れてみようとするほどのすべての人の心に、これほど絶大にして比類のない深い印象を与えたことを伝え聞いては、破顔一笑(はがんいっしょう)、「だから俺もハドソン・ローエに向かって、ナポレオン帝は永く歴史の花となり、文明国民の光となって、その口にのぼるべきや疑いをいれず云々(うんぬん)と啖呵(たんか)を切ったのさ」と、豪語するかもしれぬ。

精神的にはぼくとまったく別世界に住んでいる案内の老爺(ろうや)の教(おし)えるままに、秋空にくっきりと高くそびゆる二七〇〇フィート(標高八一八メートル)のダイアナス・ピーク(セントヘレナ島の最高峰)を望めば、白い馬尾雲(メイヤーズ・テイル)はしとやかなる高山の呼吸(いぶき)に静かに呑みこまれたり吐き出されたりしている。肌に快(こころよ)い秋風が白く光って通り過ぎた路に、うすら寒い影を落としながら、案内者はいろいろのことを話して聞かせる。遠く右手に見える富貴湾(プロスペラス・ベイ)から上陸した英人が一六七二年に二度目に、いったんオランダ人の手に委(ゆだ)ねたジェーズムタウンを背面攻撃で難なく攻略した物語、孤島に幽閉された不遇の身に自暴自棄(じぼうじき)になったナポレオンは死にたい死にたいと口癖のように言っておったことなど――

路はさらに一度うねって、ささやかな家が二、三軒、チョコナンとたたずんでいるところへ出た。里標(マイルストーン)が一つ立っている。この家と家の路地をつと抜けた案内のローレンス老は、同じ年配の老人と親しげに挨拶(あいさつ)している。その老人はまだ若いときセントヘレナに来たフランスの宣教師で、今は布教をやめて還俗(げんぞく)している先生だと後でわかった。

この抜け道がすなわちまっすぐにロングウッドの館の正門に通ずるのだと知ったときは、いささか意外な感じがした。

蒼(あお)く美しい芝生で縁をとった砂利まじりの路がゆるく右へ右へとカーブして細々となよやかに縮まり、一面に青い絨毯(じゅうたん)を敷いたような軽い勾配(こうばい)の斜面にスラスラと蛇のごとく這(は)い上がっていく路の末が見える。

漆喰(プラスター)塗りの白い建物が東西に長く、南北に短い丁字形(ちょうじけい)をなし、東西に立てる別の一棟と並行して灰色がかった空の下になつかしげに見えている。この美しい斜面を上りつくしたところに形ばかりの小さな粗末な門があって、これを中心として低い生け垣が四方に連なって「館(やかた」」とニューハウス(英国から新しい材木を送って築造したのだが、ナポレオンは移住せず死んでしまった。今は製麻会社の事務所となっている二階家)との境界を区切っている。この生け垣の外に一つの傾きかかった掘っ立て小屋があって、踏みしだいた飼い葉や燃えさしの薪(まき)などが散らばっている上に、自在鉤(じざいかぎ)*がかかって水桶(みずおけ)を片手にした現地の人が二、三人、ひそひそと話をしておった。

* 自在鉤: 鍋や釜などを吊(つ)るせるようにした鉤(かぎ)

毎度のこととて年中行事の一つでもあるごとく、つと無遠慮に入る案内者の後から、くぐるように半ばくずれかけた屋根のない冠木門(かぶきもん)を通ると、路の左側はひねくれた一本の高い松(まつ)の他はもうもうたる雑草の原であるのに対して、右側の庭の一般は見事な花園(かほ)となって、ゼラニウム、ダリヤ、ベツレヘムの星(オーニソガラム、和名オオアマナ)などが、この時期のこの館にふさわしい風姿(ふうし)を見せ、偉人の跡を偲(しの)べとばかり奥ゆかしく咲きにおっている。なかんずく、もう復活祭(イースター)が近づいたためか(三月三十日のことだ)、ところどころイースター・リリーが藤紫色の花弁をしとやかに風にそよがしているのが美しく目についた。花園(かえん)の柵に沿った道の導くままに、吾らは南北に連なる丁字形の家屋の一角翼(ウイング)の端に出て、ささやかなポルチコ*とベランダとを有する部屋へ通る。澤太郎左衛門のいわゆる『前房(ぜんぼう)』といった応接室であろう。三つの窓がうす暗く開いている右側の壁に沿ってかまぼこ形でビロウド張りの机があって、ペンと芳名録とが載せてあった。右側の中程には黒大理石のマントルピースがあった。

* ポルチコ: 屋根のあるポーチ

何気(なにげ)なく次の部屋へ入ろうとして、ふと入口の上に水平に渡された長押(なげし)を見上げると、粗末なラベルに Salon ou mour ut l’empereur (皇帝が逝去されたサロン)とある。すわとばかり、襟(えり)ならで浮き出しかかったカラーをただす。この涙のもようされるほどにお粗末に見ゆる十畳に足らぬ小さな部屋こそ、かの超人ナポレオンが Tete … Armee(武装の頭)なる二語を最後に、雄図むなしく孤島のがいろうに埋められたところである。一面にそっくれ立った、木目の多い、汚い、赤松の粗材(そざい)を用いた床板に落ちる初秋の力なき薄暗い影を見つめていると、いわれなき涙がとめどもなくにじみ出て、恨めししような癪(しゃく)にさわるような苛々(いらいら)した哀感がそこはかとなく胸にあふれた。今更、狭量(きょうりょう)にして無知なる敵愾心(てきがいしん)を悪しざまに乱用した小人物が腹立たしくもまた気の毒になる。

かつてはチュレリーにフホンテネブローに、あるいはマルメイゾン王宮に翠帳(すいちょう)珠簾(じゅれん)の豪奢(ごうしゃ)な生活に飽きし発乱治世(はつらんじせい)の大天才が、かかるいぶれき陋屋(ろうおく)に幽囚(ゆうじゅう)六年の月を眺めしかと慨(がい)すれば、いたずらに成敗を天の命に帰して一切の執着、隠忍を一笑にふしさる宿命論者の消極的の愚(ぐ)を嘲(あざけ)りたくなる。かく観じきたる時、現今(いま)は知らず一世紀前の英国紳士の武士気質(ナイトシップ)――謹厳にして常識的と天下に呼称しおれる――に忌(い)まわしい疑念を差し挟まずにはいられない。

かく心の興奮と、遊子俯仰(ふぎょう)の涙とに熱き目を上げれば、何一つ飾りのない薄寒い部屋の右側に、大理石のマンテルピースにまたがって幅四尺高さ六尺くらいの見事な鏡がある。

右側の壁に開ける、フランス式シャッターのついた二つの窓を通して見える、花美しき前庭と、うら哀しきロングウッドの至景(ちけい)とを一時にその中に映じている。この鏡と対面(むか)って二つの窓の間に薄い木片(きぎれ)の柵に護られ、月桂冠(ローレル)を戴けるナポレオンの半身像(バスト)が安置せられてある。絵で見、事績で想像した顔とはだいぶ勝手が違うようである。どことなく覇気(はき)とか精悍(せいかん)とかいう分子を去勢(きょせい)したような疲れた表情を見せている。それもそのはず、その下に

Buste àapes lel moule (par Chaudet) 型どりした胸像(ショードによる)
Copy from the Cast after death 死後の型からの写し

と英仏二カ国語で二行に分けて書いてあるのを見ると、この石膏像は帝(みかど)が死去した後の顔面の模型(デスマスク)から、ショーデ氏によって直ちに模造せる最も真に近い最も尊いものであることがわかった。

『……たまたまドクトル・ブルトンは石膏のある地脈を吾らに示してくれたれば、海軍少将マルコルムは直ちに命を与えて端艇(ボート)を海に浮かべ、数時間の後、石灰となれる土(つち)五塊(ごかい)を携え来たりたる故に……』と「ナポレオン回想録」に当時の実況を詳しく伝えている。

この部屋――ささやかな十畳敷きの見る影もなき室なれど、なんのとりえもないこのセントヘレナを懐古的、歴史的に世界に膾炙(かいしゃ)せしめている――と、Sallea manger (食堂)と銘うった次の室(へや)との間には小さな衝立があって、その後ろに暗い大きな室(へや)がどうぜんと見いだされる。この食堂はちょうど丁字形の根元に当たるので、これから左右の母屋の各部屋にはprivate(私室)と扉(ドア)に書いてあった。

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現代語訳『海のロマンス』92:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第92回)

その土を踏んで

自分の内部で燃えている古今に例をみない破天荒(はてんこう)で大いなる覇気(はき)と大いなる野心(やしん)に耐えやらず、我(われ)とわが身を絶海の荒廃した島に焼きつくしたかつての英雄の、臨終(いまわ)の無念(むねん)の精霊(おもい)が通じないかとばかりに、醜悪(しゅうあく)な骨相(こっそう)を具備(そな)えた奇岩(きがん)絶壁(ぜっぺき)が水際(みずぎわ)からすっくと突っ立って、崩(くず)れるがごときその黒い陰影(かげ)は青黒く澄(す)む深い湾内の水にさらに一層のものすごさを与えている。

この青い深い海に玩具(おもちゃ)のようなボートを浮かべて最初のセントヘレナ上陸をやる。寄せては返す荒い波が天然の埠頭(ふとう)に砕(くだ)けるなかを、かろうじて上陸すると、花崗石(みかげいし)を積み重ねて築きあげた階段状の坂の、七百段ほどの石畳(ラダーヒル)が六百フィート(二〇〇メートル弱)の中空に向かってムカデのように伸びている。

セントヘレナ島(地図をクリックすることで拡大、移動可能です):ジェームズタウンは島の北西側にあり、島の中央部の Longwood (ロングウッド)とあるところがナポレオンの館があったところです。

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現代語訳『海のロマンス』90:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第90回)

五十年前の追憶

本船がいよいよセントヘレナ寄港を予定に入れた世界周航の途につこうとする際、海軍の澤(さわ)造船総監から日記のようなものが贈られた。それは総監の厳父(げんぷ)たる澤太郎左衛門氏の直筆によるもので、今からまさに五十年前の文久三年(一八六三年)、氏が、かの榎本武揚(えのもとたけあき)、赤松大三郎、伊藤玄伯(げんぱく)、内田恒次郎(つねじろう。維新後に正雄と改名)らの海国(かいこく)の先覚(せんかく)者とともに、大西洋の一孤島であるセントヘレナ島を訪問したときの日記が書かれていた。中に、こんな記載がある。 続きを読む

ヨーロッパをカヌーで旅する 66:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第66回)
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日曜は散歩したり本を読んだり、のんびりとすごした。宿の気持ちのいい離れで、ミュルーズから釣りに来ていたイギリス人一家と一緒に食事をした。娘の一人が深い池に落ちておぼれかけた。叫び声が聞こえたので、すぐに駆けつけて引き上げた。

このイギリス人の英語には、ちょっと外国人風のアクセントがあった。もうフランスに六年もいるのだそうだ。とはいえ、故郷のランカシャーなまりは会話の随所に出ていた。彼は「マンチェスターの新聞で、ちょうどカヌーについての記事を読んでいたところなんだよ」と語った。その日の朝、子供たちは日曜学校に行き、それから汽車でここまで来たらしい。英国北部の、およそ上品とはいえない彼の所作と、「小さな紳士淑女」たる子供たちのお行儀のよさは対照的だった。その上品な子供の一人であるフィリバートは非常に利口で、一時間か二時間、ぼくの話の相手をしてくれた。仲良くなり、その子はイギリスやアメリカについて、ありとあらゆることを質問しまくった。挿絵の入った本を渡すと、大喜びでフランス語の本を父親に読んでやっていた。その本では、ナポレオンと元帥が、島流しにあったセントヘレナ島でキリスト教の信仰について語りあったりしている、ちょっとびっくりするような本なのだ。フランス語を解する者にとっては、読む価値のある本だ。

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