米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第7回)
練習生の船内生活
練習船では毎日午前八時と午後の日没時に、船尾の国旗とメインマストの羅針船旗(コンパスフラッグ)*1との昇降式を行う。このときほど船上や船内すべてで荘厳な沈黙の雰囲気が満ちるときはないだろう。当直士官の用意という号令で、一人の甲板当番の学生が船尾に、他はメインマストの下に立つ。
やがて静かな反響を海に残してラッパが鳴り響くと、上甲板に立っているすべての乗組員は船尾に向かって挙手注目の礼*2を行い、下甲板にいる者は、そのときにいた場所で静止し、丁重に見上げて敬意を示す。
モーゼの十戒は世に有名だが、現代のセイラーは、これに加えて、さらに守るべき一戒となる規律がある。それは、毎週土曜日の朝に行われる祈祷(きとう)で、石磨きの祈祷(ストーン・プレーヤー)と呼ばれている。
ゴミのない細かい砂をデッキにまき、大きな重い粗(あら)い砥石(といし)を持った髭面の男たちが、船を横切って一列にずらりと並ぶ。バケツで水を運び、箒(ブルーム)でそれっとばかりにデッキを潤す。エンヤエンヤの掛け声も勇ましく、粗い砥石を滑らせていく。チークの細板はたちまちのうちに磨かれて、木目は大理石のように光りだし、まだ失われていない芳醇な残り香は南欧の夏山をしのばせるほどだ*3。
「失礼な言い方になるかもしれないが、心地よい暁(あかつき)の夢見心地のうちにホリーストーンの音が上甲板から聞こえるときは、かすかなかすかな春雨が芝の野原にささやくのを聴くようで、実にうっとりしてしまうね……」とは、非直の学生の述懐である。
例の軽快なラッパの余韻がまだその辺の船室のカーテンあたりに残っている間にも、百三十人もの練習生たちは上甲板に飛び出し、節をつけた掛け声とともに、海面に浮かべている端艇の綱を引っ張る。しかし、前日に雨でも降って、この綱が固くなっているときなどは、なかなか引き上げることができない。
かつてこういう話を聞いたことがある。混沌たる太古の時代に、かの有名な金毛の羊を探すために造られた世界最初の巨船アルゴー*4が進水したとき、あまりに重くて海底の砂にめりこんでしまい、どうしても進水できなかったという。このとき、かの有名な楽聖オルペウス*5が巨船の船首に立ち、琴の音も清くハープをかき鳴らしたところが、その妙なる音に魅せられて首尾よく砂から滑り出たという。
わがオルペウスならぬ無名の一号角手が奏でる進行曲のラッパの音に、端艇が感動して耳を傾けたか否かは疑問だが、乗組員の心は一時に若やいで、綱を握る手にはおのずと力がこもり、やすやすと物の見事に引き上げられることは確かな事実である。
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脚注
*1: コンパスフラッグとは、上下を水平に二分割し、上半分が黄色、下半分が青色の旗で、これと数字旗を組み合わせて掲揚することで船の針路を示した。現在の国際信号旗では使用されていない。
*2: 挙手注目の礼とは、右手を肘で折って指先を帽子のツバあたりに持っていく、軍隊や警察などで一般的な、いわゆる敬礼のこと。
*3: 甲板でのチーク磨きは、帆船で最もよく語られる作業の一つ。
通常は海水を流して、ヤシの実を半分に切ったものでこすって汚れを落とす(タンツーと呼ばれることが多い)。汚れがひどかったり、チークが削れて凹凸が出てくると、砥石状の石で平滑にする。
*4: ギリシャ神話に出てくる船大工のアルゴスが建造した巨大な船。彼の名前にちなんでアルゴー船と呼ばれた。ヘラクレスをはじめとするギリシャ神話の英雄たちがこの船に乗りこみ、黄金の毛を持つという羊の毛皮を求めて冒険の旅に出た。
*5: オルぺウスはギリシャ神話に出てくる吟遊詩人。ヘラクレスらと共に前述のアルゴー船に同乗していた
(『海のロマンス』では「オルフヰース」と表記されている)。