米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第96回)
怖ろしい大波(ローラー)
どこにもいろいろの名物はあるが、セントヘレナの名物となっている巨大波のローラーは実に怖ろしい。無風のとき何らの危険な前兆も予知できない状況で、間髪をいれず殺到してくる津波のことだ。
毎年、二月と十月にこのジェームズタウンに停泊する船は、きまって輪転性の、波長に比して振幅がすばらしく大きい長濤(スウェル)の襲来を実際に体験する。ことに、空はうららかで海は穏やかな、いわゆる天気晴朗(てんきせいろう)のときを選んで奇襲してくるから始末が悪い。だから、うかうかと油断してのんきにかまえていようものなら、それこそ大変である。知らぬ間に錨を引きずられて梅ケ香丸(うめがかまる)の二の舞*を演じないともかぎらない。セントヘレナの海浜の底質は花崗岩(みかげいし)で、錨爪(いかりづめ)のかきが悪いのだ。練習船の停泊は三月でいくぶんか危険な時期をそれていたが、どうしてまだまだ油断ができない。そこでエンジンは絶えずスチームを上げており、錨鎖(ケーブル)に注意し、錨の位置(ベヤリング)の変化に注意するなど、警戒おさおさ怠りなかった。
* 梅ケ香丸(うめがかまる): 練習船・大成丸が世界周航に出発して約二カ月後の一九一二年九月二十三日、門司港沖で停泊中、荒天のため舷窓から浸水して沈没した。新造船として進水してわずか三年目のことだった。
その長濤(スウェル)の方向は十一月より二月までは北東―北―北西で、五月より十月までは南西―西―北西である。
原因については、あるいは島の北西に短期間の強風(ゲイル)が吹いているからだとか、島の北東に低気圧(サイクロン)が生ずるからだとか、周期的に地滑りによる地震が海底に起こるからだとか、学説まちまちで一定しない。これが普通の年であれば桟橋(さんばし)や道路を洗われて陸上との交通が途絶(とぜつ)するくらいですむけれど、海神のネプチューンやトリトン*の腹の虫の居所が悪いことになると、それこそ惨憺(さんたん)たる光景となる。一八二七年七月のやつを除(のぞ)けば、一八二八年、一八四六年、一九〇二年の三回とも二月にやって来ている。そのうちで最も有名な一八四六年のローラーについて書いてみよう。
* ネプチューンはローマ神話の海神で、ギリシャ神話ではポセイドン。トリトンはポセイドンの息子。
二月十六日、十七日はきわめて息苦しく、温度は危険なほどいきなり急上昇し、夜中にはときどきスコールが来て磯浪(サーフ)はますます高く強く砕(くだ)け、ついに十八日には、海神の激怒はその絶頂に達して堤防は破れ、クレーンは飛び、倉庫はさらわれ、人畜は死傷し、埠頭(はとば)は影も形もない惨状(さんじょう)を呈した。停泊の船は一八艘(そう)のうち一三艘まで転覆(てんぷく)したり沈没したりして、苦しみに泣き叫ぶ阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界が海にも陸(おか)にも一時的に生じてしまった。無風(カーム)の津波であるから、帆船は風を利用して沖合はるかに難を避けることができなんだのがそもそのもの原因であった。当時、その修羅場(しゅらば)を目撃して描写(スケッチ)した郵便局長トーマス・ブルースの絵を見ると、多くのあわれな帆船が海に踊るイルカのようにもんどり打って、波の谷に沈んでいく様子がきわめてグロテスクに描かれてあった。
トーマス・ブレースの描いたローラー到来時の様子( “The Rollers of 1846” )
こちらは一部を拡大したもの
取り残された孤島
一五一三年にポルトガルの貴族が遠島(えんとう)を申しつけられて以来、世界に二つとない島流しの適所となったセントヘレナは「南緯一五度一五分、西経五度四十六分」の位置にあり、アフリカ大陸から西へ千二百海里、南米大陸から東へ千八百海里の、どこまでも青くて広い南大西洋中の一孤島である。大きさは南北に十里、東西に六里四分の三の長さで、面積は四十七平方マイルだという*。
* セントヘレナ島: 面積はメートル法に換算すると約122平方キロメートル。
日本でいえば伊豆大島よりやや大きく、瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)よりやや小さい。
中央にあるダイアナ峰(ピーク)を中心に、いくつかの狭い急峻(きゅうしゅん)な谷(バレイ)が四方に滑り落ちて、あるところ(東西二つの側)では急な断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)となり、あるところ(南北二つの側)では比較的に緩慢な斜面を形成し、かろうじて停泊地となる入江(北のジェームズタウン、南のサンデイ湾)を抱(だ)いている方には、ロングウッドのような高くて乾燥した場所がある。これがセントヘレナの地勢である。そして、この谷といわず丘といわず高原といわず、いたるところ、何々(なになに)砲台(バッテリー)、何々(なになに)砲座の名のついた物騒(ぶっそう)な跡が、突っついて壊(こわ)したハチの巣のように散在している。
ロングウッドは別として、一般の気候は想像したほど悪性のものではないらしい。もちろん、夏は厳しい暑さであるが、それでも(華氏)七十五度から八十五度*である。降雨はなかなか潤沢で一年平均三十五インチ(九百ミリ弱)の雨量があるという。風は北西から南西の地方風が感じられることもあるが、地理的位置から多くは南東の貿易風に吹きさらされている。
* 華氏(かし)七十五度から八十五度: 摂氏(せっし)に換算すると23度~30度。
同島の貿易は、これを歴史的、人文的、地理的などいろいろの方面から見て、その栄枯盛衰には三つの要因がある。一八六九年のスエズ運河の開通は、わざわざ喜望峰をめぐって行われていた、従来の対東洋貿易に激(げきじん)甚なる革命を与え、南大西洋から多くの船影を奪い去ってしまった。結果として、一時は帆柱が林立し、「泊まりはいつも春景色だった」 ジェームズタウンの賑(にぎ)わいは短期間で消滅してしまった。これが第一の要因である。
一八〇三年に、かのフルトンが世界最初の外輪汽船をハドソン河に浮かべて以来、帆船の権威はゼロとなった。便利という二字は気概(きがい)とか風流を解するとか、神秘とかロマンスとかいうのんきな気分をすべて海の上から追いやってしまった。広大無辺(こうだいむへん)の大洋を横切る船は、わざわざ航路を曲げてまで、この小さくて、たいして役にも立たない小島に寄港するという不便利は避けるようになった。これが第二の要因である。
長い航海をする船乗りにとって、最も怖ろしかったものは青い新鮮な食物の欠乏であった。壊血病(かいけつびょう)の横行(おうこう)であった。ところが「青物屋の天才」が乾燥野菜と缶詰肉などを発明して以来、船乗りはもはや長い航海をこわがるものではなくなった。セントヘレナへ寄港して積みこみをしなくても南大西洋を航海できることとなった。これが第三の要因である。これら三つの要因が現実に裏づけされると、セントヘレナはあわれにも秋になって捨てられた扇(おうぎ)の悲哀(ひあい)をかこつ身となった。
セントヘレナは現在、英王室の植民地である。総督の下にあって重要な政務に参加し、行政組織としては協議に参加できる四人の評議員がいる。その中の一人は駐屯兵(ちゅうとんへい)の指揮をとり、総督不在のとき、これに代わる者である。島で命令を布告(ふこく)する全権はすべて総督の手中にあって、それとは別に立法部といったものはないが、評議員会は本国の王様の勅令の下に議会を設立する権利を保留している。現時点の総督はキャプテン・コルドーという人だそうだ。総督邸はジェームズタウンの南西三マイルばかりのプランテーションにあって、花崗岩(みかげいし)の二階づくりで、本島一の建物である。
飲料水は非常に潤沢で、清冽な泉が計四十カ所もある。その上で、この泉のない唯一のロングウッドをわざわざナポレオンの適所に選んだのは、英人の意地の悪さを極めて露骨に示しているといってよかろう。
灯火は全島みな、パラフィン・ランプかまたはロウソクである。ひとりジェームズタウンの素封家(そほうか)で有力者たるジャックソン商店のみは、自家用の機関とダイナモとを動かして電灯をつけている。
セントヘレナの花は音に名高きもので、その種類の多さと色彩と芳香とは、やさしく旅人の胸に迫るものがある。アラム・リリーやベコニア、ペチュニア、ゼラニウムの豊かな色彩、カメリアやクチナシ、アオイの姿の優美さ。そうした花々がごつごつした岩だらけの離れ島に静かに咲き出でて、浮世(うきよ)の栄枯盛衰(えいこせいすい)をよそに、もの言わぬ島守りのゆかしき心意気を示すと言わんばかりだ。
教育機関としては小学校が八つ(生徒六三九人)と洋裁(レイス)学校が一つある。寺院にはジェームズタウンにセントジェームズ派とセントジョン派が二つ、島の東区にセントマシュー派が一つ、東区にセントポール派が一つある。
人種はオランダ、ポルトガルの移住民と、ズールー等の南アフリカ原住民を奴隷的に輸入したものとの混血が大部分を占めて、英国人は極めて少ない。
同島には海軍の貯炭所(ちょたんじょ)があって、軍艦は一年に二回の割合で入港するので、現に練習船・大成丸が碇泊(ていはく)していた間もヒヤシンスという名前だけはすこぶる優美な巡洋艦(実は古い汚い船で、この航海で服役期間が満了すると水兵は言っておった)が碇泊(ていはく)していた。その他、英国のユニオン・キャッスル・ラインの船が三週間に一回寄港する。一九〇九年、入港船舶総トン数は一五九、七六六トンで、うち外国船はわずかに八三四トン、他はみな英国船であるが、今年は大成丸*入港のため外国船入港トン数の相場を狂わせるだろうと大笑いであった。
* 大成丸(初代): 2224トン。
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