スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その7)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (7)

ジャック・ロンドン

風の強い闇夜に暖かい寝床を抜け出し、状況が悪化した錨泊地から脱出するのは楽しいことではない。そのとき、われわれはやむをえず寝床から起き上がり、メインセールにツーポンリーフを施しておいてから、錨を揚げはじめた。ウインチは古くて、波で船首が上下する際にかかる負荷には耐えられず故障してしまったが、とはいえ、錨を手で揚げるのは無理である。実際にやってもみたのだが、びくともしなかった。むろん、とりあえず錨綱に目印のブイをつけておいてからその場を離れるという手もあったのだが、われわれはそうせず、他のロープを用意して元の錨とは向きを変えて別の錨を投げ入れた。

それからもほとんど眠れなかった。というのも、船が横揺れするため、一人ずつ寝床から放り出されてしまうからだ。海はますます荒れてきて、船が走錨しはじめた。潮通しがよく海底が滑らかになっている海峡まで出てしまうと、二つの錨がスケートをするように滑っている感触があった。海峡は深く、対岸は渓谷のように急峻なかけあがりの崖状になっていた。錨はその崖にぶち当たり、そこで持ちこたえた。

しかし、錨が効いて船がそれ以上流れなくなると、暗闇を通して、背後の岸に砕ける波の音が聞こえた。非常に近くだったので、足舟の舫綱を短くした。

明るくなってみると、足舟の船尾はきわどいところで破損を免れたことがわかった。なんという風だったことか! 時速七十マイルから八十マイル(風速三十六メートルから四十一メートル)の突風が吹いたりもしたのだが、錨は持ちこたえてくれた。逆に、がっしり食いこんでいるので、今度は船首のビットが船からはぎ取られるのではないかと心配になったほどだ。一日中、われわれのスループは船首と船尾が交互に持ち上がったり沈みこんだりしていた。嵐がおさまったのは午後も遅くなってからだったが、最後に猛烈な突風が吹いた。まる五分間の完全な無風状態の後、ふいに雷鳴が起こり、南西方向から風がうなりを上げて吹き寄せてきた。風向は九十度も変化し、暴風が襲ってきた。こんな状況でもう一晩すごすのはこりごりだったので、われわれは向かい風の中で、手で錨を揚げた。重労働なんてものじゃなかった。心が折れるとはこのことだ。われわれは二人とも苦痛と疲労で泣き出す一歩手前までいっていた。ともあれ最初の錨を引き上げようとするものの、錨は抜けない。波が押し寄せてきて船首が下がったときにゆるんだロープを船首のビットに余分に巻きつけておいて、次の波で船首が持ち上がるのを利用して引き上げようとした。ほとんどすべてのものが壊れてばらばらになったが、錨は食いこんだままだった。チョックは急激な力が加わったので外れてしまうし、舷側もちぎれ、それをおおっていた板も割れたが、錨はまだ食いこんだままだった。仕舞いには縮帆したメインセールを揚げて、張力のかかったチェーンを少したるませながら帆走で抜錨しようとした。しかし、力が均衡した状態でにっちもさっちもいかず、船は何度か横倒しになった。われわれはもう一つの錨でもこの作業を繰り返したのだが、そのうち河口の避泊地にはまたも宵闇が迫ってきた。
● 用語解説
ツーポイントリーフ: 二段階に縮帆(リーフ)すること。風の強さに応じて、ワンポン(一段階)、ツーポン(二段階)、スリーポン(三段階)と帆の面積を小さくしていく
ウインチ: ヨットでロープ類を巻き上げる小型の装置。錨を巻き上げるものはウインドラスともいう
ビット: 舫い綱などの端を固定しておく支柱のようなもの。現代のヨットではクリートを用いるのが一般的
チョック: 舫い綱や錨綱を船上に引きこむ際に船縁でロープを通すところ。船体の補強とロープの摩耗防止を兼ねている。フェアリーダーともいう

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その6)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

土手はでこぼこしているし、船の真下では潮が急激に引いて、おそろしく汚くて悪臭のする、潮汐のたびに姿を現すおぞましい干潟が見えていた。クラウズリーがそれを見下ろしながら私に言った。
「愛してるぜ、兄弟。俺はあんたのためだったら決闘もするし、吠えるライオンにだって立ち向かってみせる。野垂れ死にも洪水もこわくはないし、あんたがここに降りさせるようなことはしない」 そう言いながら、彼は吐き気に身震いした。「だけど、もしあんたが落っこちてしまったら、俺にはあんたを引き上げる度胸はねえからな。無理にきまってる。あんたはひどいことになるだろうし、俺にできるのは、ボートフックをつかんで、あんたを見えないところまで押しやることだけだろうよ」

われわれは船室で上になった側壁に座ってデッキにもたれ、船室の屋根に足をぶらぶらさせながらチェスをした。潮が満ちてきたところで、ブームリフトの滑車とタックルを使い、船をまた頑丈な竜骨の上に立たせることができた。それから何年もたってから、私は南海のイサベル島で同じような窮地に陥ったことがある。船体に張った銅板の汚れを落とすため、浜辺でスナーク号の側面を海側に傾けたのだが、潮が満ちてきても船は起き上がろうとしなかったのだ。海水がスカッパーから入ってきた。海水は舷側を乗りこえ、斜めになったデッキをじりじり上がってくる。われわれは機関室のハッチを閉めた。海面はそこまで達し、さらに船室のコンパニオンウェイや天窓の近くまで上昇してきた。われわれは皆熱があったのだが、熱帯の炎天下で何時間も必死に作業するはめになった。一番太いロープをマストヘッドに結んでおいてから陸まで運び、この重い船を引き起こそうとしたが、われわれ自身を含めて、すべてがこわれてしまった。われわれは疲労困憊し、死人のように横たわった。それから、また立ち上がって引っ張り、そうしてまたぶっ倒れた。下側の舷側は海面下五フィートに沈み、さざなみが寄せてきてコンパニオンウェイを包みこむようになってやっと、この頑丈で小さな船は身震いし、動揺し、そうして再びマストが天頂を向いたのだ。

小さな船を帆走させていると運動不足になることはないし、重労働はその楽しみの一部でもあり、医者いらずってことにもなる。サンフランシスコ湾はちっぽけな池などではない。大きいし、風もよく吹き、変化の激しい海域だ。ある冬の夕方、サクラメントの河口へ入ろうとしたときのことを思い出す。川は増水していた。湾からの上げ潮も流れに負けて強い引き潮になっていた。日が差すと、力強い西風は衰えた。日没だった。順風から中風くらいの追い風を受けていたのだが、急流をさかのぼることはできなかった。われわれはいつまでたっても河口にいたのだ。投錨地はなく、後退する速度もだんだん速くなってくる。風がなくなってしまったので、河口の外に出て錨を下ろした。夜になった。美しくて暖かく、星がよく見えた。私がブリストルの流儀ですべてをデッキに出している間に、仲間の一人が夕食を作った。九時になると、天候が回復する見こみがでてきた(気圧計を積んでいたらもっと正確にわかっただろう)。午前二時までにはサイドステイが風で鳴り出したので、私は起きだして錨索を繰り出した。もう一時間もすれば、間違いなく南東の風が吹き出してくるだろう。
● 用語解説
イサベル島: 南太平洋(メラネシア)にある島
スナーク号: ジャック・ロンドンが建造したヨット。これに乗って太平洋を周航し、『スナーク号の航海』(未訳)を著した
スカッパ: 排水口
コンパニオンウェイ: 船室への入口
サイドステイ:  マストを横方向から支える静索

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スモールボート・セイリング(4) 〜 スモールボート・セイリング(その4)

日本人たちは共用しているゴザの下に潜りこんで眠った。私もそれにならい、断続的にではあるが仮眠をとった。氷のような海水が打ちこんでくるし、ゴザの上には数センチの雪まで積もった。潮が満ちてきて風上側の岩礁が見え隠れするようになり、岩の上を波が洗っていた。漁師たちは海岸を心配そうに眺めている。私も同じだったが、船乗りとしての目で見れば、どんなに泳ぎが達者でも、波が打ち寄せている連なった岩のところまで泳いでいける望みはほとんどなかった。私は両方の海岸の先端を示し、どうだときいてみた。日本人たちは頭をふった。それではと、恐ろしい風下側にある海岸を指さすと、彼らはやはり頭をふって黙りこんでしまった。絶望的な状況に呆然となっているのだろうと思った。緩衝帯になってくれていた岩礁が満ち潮のために海面下に消え、錨で支えられているだけの船に波が打ちこんできたし、私たちはたえず波をかぶるようになった。それでも、くだんの漁師たちは波が打ち寄せている岸辺を凝視したまま黙っていた。

何度か完全に水浸しになろうとするところをきわどく逃れた漁師たちは、とうとう行動を起こした。全員がアンカーにとりつき引き上げたのだ。船首が風下に向いたので、小麦粉を入れておく大きな袋ほどの大きさの帆を揚げ、そのまままっすぐ陸へと向かった。私は靴のひもをほどき、厚いコートのボタンをはずして、船が岩にぶつかる前に脱げるよう準備した。しかし、船は岩にはぶつからなかった。そうして、そのまま先へと進んでいったのだ。景色は一変していた。眼前には狭い水路が口を開けていて、その入口に波が押し寄せている。ついさっきまで、いくら岸辺を眺めても、そんな水路などなかったはずなのだ。私は干満の差が三十フィート(約九メートル)もあるのを忘れていた。日本人たちが危険と隣り合わせの状態で辛抱強く待っていたのは、この満ち潮だったのだ。われわれの船は砕けている波に突っこんでいき、そのまま曲がって小さな保護された入江に飛びこんでいった。そこは強風の影響をほとんど受けていなかったし、前の満潮時の潮が寄せた跡が長く湾曲した線になって凍りついている海岸に上陸できた。これがサンパンに乗っていた八日間に遭遇した三度の嵐の一つだった。これは、船に乗っていて打ちのめされたということになるのだろうか。私は、船が辺境の岩礁に乗り上げ、乗員は自制心を失い、そのまま溺れ死ぬのではないかと恐れていたのだったが。

別の小さな船で航海した三日間には、大型船で丸一年外洋を航海したのに匹敵するほどの驚きと災難にたっぷり見舞われた。買ったばかりの小型の三十フィートの船で試験航海に出たときのことも思い出す。六日間で二度も激しい嵐に遭遇した。一度は通常の南西風で、もう一つは荒れ狂った南東風だった。こうした強風の合間に短い完全な凪があった。また、その六日間では三度も座礁した。サクラメント川の岸辺に舫いをとったところ、引き潮で急な斜面に乗り上げた格好になり、船がとんぼ返りでもするように斜面で横転しかけたのだ。カーキーネス海峡では潮が激しく流れているのに、風がまったくなかった。錨は潮流で磨かれた海底を滑るだけで、船は大きな埠頭に吸いこまれるし、あちこちぶつかりながら四分の一マイルほども押し流されてやっと広い海面に出た。それから二時間後、サン・パブロ湾では風が吹き上がり縮帆するはめになった。嵐で荒れた海で流された小舟を拾い上げるのは楽しいことではないが、私たちはそれも強いられた。というのは、曳航していた小舟を留めていたペインターが壊れて流されてしまい、浸水までしてしまったのだ。それを回収したころには疲れきって死にそうだった。スループタイプのヨットの内竜骨から備品に至るまであらゆる箇所を酷使した。その最後の締めくくりとして、母港へ向けてサン・アントニオの河口の一番狭いところを風上に向かって帆走していたとき、タグボートに引かれた大きな船と衝突しそうになり、かろうじてかわしたこともあった。私はずっと大きい船で大海原を一年かけて航海したこともあるのだが、そのときには、こんな肝を冷やすような出来事には遭遇したりはしなかった。
● 用語解説
サンパン: 主に(東/東南)アジアで使用される平底の小型木造船
ペインター: 舫い綱を通して固定する輪などの金具。舫い自体を指すこともある
タグボート: 曳船/押船。小回りのきかない大型船などの動きを助ける

スモールボート・セイリング(3) - ジャック・ロンドン著

重労働とアドレナリン? 風はきまぐれで、小さなスループで帆走しながら狭い跳ね橋を通り抜けようとしているときに限って、潮の流れが速いところでやんでしまう。頼みのセイルはと見ると、ふいに風がなくなってしまったので、パタパタしているだけだ。それから、いたずらな風が吹くのだが、九十度も方向が変わったところから突風がおそってきてジブに裏風が入る。船の向きが変わり、波に押され、開けた水路ではなく、頑丈な杭に向かって流されている。潮は音を立てて流れていて、船は橋脚の間に吸いこまれようとする。かわいい、ペンキを塗ったばかりの自分の船が杭に押しつけられ、ぶつかる音が聞こえる。丸みをおびた丈夫な船体を通して衝撃が感じられる。横棒が実際に食いこんでいるのが見える。帆が裂けるのが聞こえる。末端が黒い角材が帆を突き破るのが見える。衝突! トップマストのステイが吹っ飛び、トップマストが頭上で酔っ払いのように暴れる。引き裂き、かみ砕かれる。このままだと右舷側のシュラウドが切れてしまうだろう。ロープをつかめ。なんでもいい。そして、杭に巻きつけろ。とはいえ、ロープが短すぎる。しっかり固縛することができない。ロープから手を離すわけにもいかず、大声で仲間の一人を呼び、もっと長いロープを巻きつけてもらう。しっかり持ってろ! 顔が紫色になるまで、腕が引きちぎられそうになるまで、指から血が流れだすように思えるまで握ってろ。自分がそうやって支えている間に、パートナーがもっと長いロープを持ってきてしっかり結んでくれる。やれやれと背を伸ばして手を見る。傷だらけだ。握りしめていた指は曲がったまま伸ばせない。痛みはひどくなる。だが時間がない。いつも頑固で思いどおりに動いてくれない小船は杭についたフジツボに激しく押し当てられて、ガンネルがこそげ落とされそうになっている。帆を降ろさなければ! ジブを降ろせ! それから、ロープをかけ、引いて、たぐって、持ち上げて――そういうときに限ってやってくる橋の管理人と不愉快なやり取りを交わすはめになるのだ。そうやって一時間も格闘して苦境を脱したときには、背中は痛むし、シャツは汗でびしょぬれ、指は傷だらけ、というわけで、土手の間の狭いところを流れている穏やかで慈悲に満ちた潮流にわれわれが翻弄される様子を、膝まで水につかった牛たちが、びっくりしたように眺めていたりするのだ。なんとも刺激的ではないか! 大海原の穏やかな航海の日々でこれほど刺激的なことがあるだろうか?

私はどちらの経験もある。ニュージーランドの沖で十四日間嵐に苦労したこともおぼえている。われわれは六千トンの石炭を積んだ石炭船の作業員で、錆まみれになり疲れきっていた。ライフラインは前後に伸びきっていた。海の力に抵抗するため、風上側の煙突を支える張り綱と索具に太いロープの網をかけて食堂室の扉を守っていた。しかし、扉は打ち砕かれ、食堂室も同じように海水に押し流されたりした。しかし、そのさなかにも、一つの感覚、つまり退屈だなという感じがあったことは否定できない。

それとは対照的に、私の人生で最も鮮烈な八日間は、朝鮮半島の西岸で小型船に乗っていて体験したものだ。氷点下になる二月になぜ黄海くんだりまで航海したのかはともかく、肝心なのは、私はサンパンという無甲板の船に乗っていたということだ。岩礁の多い海岸で灯台なんかないし、干満の差は三十フィートから六十フィートもあった。一緒に乗っていたのは日本人の漁師たちだ。お互いに相手の言葉ははなせなかったが、その航海は退屈ではなかった。刺すように寒かったことが忘れられないのだが、雪が猛烈に吹き荒れたので、帆をたたんで錨を降ろした。北西の風が吹き荒れ、風下には陸が迫っていた。前後の脱出路は切り立った岩だらけの岬で、その足下では波が砕け散っていた。風上側の遠くないところに低い岩礁があって、吹雪の合間に見え隠れしている。荒れ狂う黄海から私たちを不十分ながらも守ってくれていたのがこれだった。

● 用語解説
シュラウド: 横静索。マストなどを支えるために舷側から伸びているロープ/ワイヤー
ガンネル: 船縁
干満の差: 朝鮮半島では仁川付近の干満の差は最大十メートル(約三十フィート)といわれている。日本国内では有明海で最大六メートル程度

スモールボート・セイリング(2) 〜 スモールボート・セイリング(その2)

ジャック・ロンドン著

 それから十七歳のときに、三本マストのスクーナーの熟練甲板員として契約し、太平洋を巡る七ヶ月の航海に出た。船乗り連中がすぐに、熟練甲板員として契約するとはいい神経してるなと言ったが、なに、私は実際に熟練した船乗りだったのだ。まさにそれにふさわしい(実地で覚えるという)学校を出ていたのだ。スクーナーに乗ってもロープの扱いで初めてというのは少なかったし、その名前や使い方もすぐに覚えた。簡単だった。私は何であれ、何も考えずに丸暗記するなんてことはしてこなかった。小さな船の船乗りとして、何事についても論理的に考え、その理由を知ろうとしてきた。コンパス(方位磁石)を見ながら舵を取る方法は知らなかったので覚えなければならなかったのは本当だが、さほど時間もかからなかった。「詰め開き」とか「クローズホールド」で操舵するとなれば、そこらの船員連中に引けはとらなかった。というのは、私はそれまでまさにその方法で帆走してきていたのだから。十五分とかからず、コンパスを見て進路を確保することにも慣れることができた。複雑な飾りひもとか組みひも、ロープマットの作り方など、いかにも船乗りらしい装飾的な技術を除けば、この七ヶ月の航海で新しく学ばなければならないようなことはほとんどなかった。あらゆる点で、小型船のセイリングという手段が本物の船乗りにとっての最上の学校だったということだ。

  さらに、生まれつきの船乗りで、海という学校の経験がある者は、生涯を通して海から離れることはできない。骨の髄まで潮っけが染みついているし、死ぬまで海が呼びかけてくるのだ。後年、生活費を稼ぐのは楽になったが、私は船首楼で監視するのはやめて、いつも現場に戻ってきた。私の場合、具体的にはサンフランシスコ湾ということだが、ここほど光り輝くように明るくて、しかも厳しくもあり、小さな船でのセイリングに最適な海面はないのだ。

サンフランシスコ湾では本当に強風が吹く。風が安定するのでクルージングに最適な冬の間は南東と南西の風が支配的で、ときどき途方もない北風が吹く。夏になると、平日の午後にはたいてい、大西洋岸のヨット乗りなら疾風と呼ぶような「海風」が確実に太平洋から吹きこんでくる。東海岸の連中はいつもわれわれ西海岸のヨットが展開する帆の小ささに驚いている。連中のなかにはホーン岬をまわったスクーナー乗りもいたのだが、彼らは自分達のとてつもなく高いマストと大きく展開した帆を誇らしく見上げ、こっちの小さくした帆を見くだし哀れむように眺めるのだ。あるとき、たまたま連中がサンフランシスコからメア・アイランドまでの、こっちのクラブのクルーズに参加したことがあった。午前中、連中は湾内を快走しつつ北上していった。午後になって強い西風がサン・パブロ湾の方へ吹きこんできて戻りが長い上りのレグになってくると、事態は多少違ってきた。我々が極上のセイリング向きと呼んでいる風に対して、連中は強風が吹いたと言いながらあたふたとし、行き足を止めて縮帆におおわらわだった。それを尻目に、すでに縮帆していたわれわれの小さい帆のヨットがツバメの飛行のように一艇ずつ連中のヨットを追い抜いていったものだ。その次に彼らが姿を現したときには、マストやブームは短く切り詰められ、帆も全体に小さくされていた。

アドレナリンがほとばしるといえば、大海原で困難に陥った大型船と陸に囲まれた内海で困難に陥った小型船とではまったく違う。が、言わせてもらえば、本当に刺激的でスリルがあるのは小型船の方だろう。小さな船の船乗りなら誰でも知っていることだが、大型船に比べて、何事も一瞬で起きるし、常に何かしらすべきことがあるのだ――それも重労働が。日本の近海で大型船に乗り組んでいて台風に巻きこまれたとき、私はワッチやデッキ作業で夜通し奮闘したのだが、それよりも小さな三十フィートのスループに乗っていて縮帆に二時間も悪戦苦闘したり、南東の風がうなりをあげて吹きすさび、風下側に海岸が迫っている場所で二個の錨を引き上げたりするほうがよほど疲れたりしたものだ。
● 用語解説
熟練甲板員: 原語は able seaman。航海士などの資格は持たないが、技術や経験を持つ甲板員
ワッチ: 夜間当直
詰め開き/クローズホールド: できるだけ風上に向かって帆走すること。風が最も強く感じられ、船の傾きも一番大きくなる
海の学校: 海の上で失敗などを繰り返しながら実地で学んでいくことの比喩的表現
メア・アイランド: サンフランシスコ北方のサン・パブロ湾にある現在は本土と陸続きになっている半島

スモールボート・セイリング 〜 スモールボート・セイリング(その1)

スモールボート・セイリング(1)
Small-Boart Sailing (1)

ジャック・ロンドン
明瀬 和弘 訳

船乗りは生まれるもので、作られるものではない。ここでいう「船乗り」とは、外航船の船首楼に陣どっている、そこそこ仕事はこなせるが使えない連中のことではなく、海の上で木や鉄、ロープや帆布からなる構造物を自分の意思に従わせる者たちのことだ。本船の船長や航海士はともかく、小型帆船の船乗りこそ本物の船乗りである。彼は風を利用して船をある場所から次の場所へと運航させる術を知っているし、また知っていなければならない。潮流や激流、渦、砂洲や航路標識、信号や灯火に関する知識は必須だし、観天望気にも熟達していなければならない。船は一隻ごとに構造や艤装も違うし、船が好きであると同時にその特質を把握していなければならない。数限りない状況で船をコントロールする方法を熟知し、行き足を止めないようにし、また風下に流されずに船の向きを変えさせることができなければならない。

現代の外国航路の船員はこうしたことを知る必要がないし、実際、知りもしない。命じられるまま、ロープを引いたり運んだりし、甲板を磨き、塗料を洗い流し、鉄錆を削り落としたりするだけだ。何も知らないし、注意も払わない。こういう船員を小舟に乗せても何の役にも立たない。水夫を暴れ馬に乗せた方がまだましだろう。

こうした奇妙な連中の一人と子供の頃に出会って驚いたことを私は決して忘れない。その人はイギリスの便宜置籍船の船員だった。私は当時十二歳で、デッキのある十四フィートのセンターボード式の小舟に乗っていた。帆走は独学で覚えた。この船員が不思議な土地や人々、暴力ざた、ぞっとするような嵐について話をするとき、私は自分が神の足元に座っているような気がしたものだ。そうしたある日、彼をセイリングに誘った。自分がど素人でへまをするのではないかとびくびくしながら、私はセールを揚げ、船を進めた。その人は一目で私より巧みに船や海の状態を見抜くだろうし、批判的な目でじっと自分のすることを眺めているのだと感じていた。しばらくして彼にティラーとシートをまかせた。私は中央のスウォートに座り、感心するあまり口を開けて本物の帆走がどんなものかを学ぶことになるのだろうと思っていた。私の口はそのまま開いたままだった。というのは、本物の船乗りが小さなヨットに乗ったらどうなるかを知ったからだ。彼は状況に合わせてシートを調節することもできなかったし、一度ならずジャイブに失敗し、突風で何度か船を転覆させそうになった。センターボードがどういう働きをするのか知らなかったし、追い風を受けて帆走するときには片側の舷に寄るのではなく船の中央に座らなければならないということも知らなかった。締めくくりは波止場に戻ってきたときだ。彼はヨットのスピードを落とさずそのまま激突させたので、船首は壊れ、マストステップは吹き飛んだ。それでも、彼は大海原を実際に航海している本物の船員なのだった。

私の得た教訓はこうだ――大きな船の船首楼で生涯を過ごすような船員でも、真のセイリングがどういうものか知らないことがある。私は十二のときから、海に魅了されてきた。十五の時には、牡蠣を密漁するスループの船主船長だった。十六の時には大型で平底のスクーナーに乗って、ギリシャ人たちと一緒にサクラメント川でサケ漁に従事したり、漁業監視船に水夫として乗り込んだりしていた。私が活動していた海域はサンフランシスコ湾とそこに注ぐ川に限られていたが、自分は腕のいい船乗りでもあった。その時点で、私はまだ外洋を航海したことはなかった。

● 用語解説
便宜置籍船: 税金対策などのため外国で船籍を登録した船舶
センターボード: 横流れ防止のため海中に突き出す板
スウォート: ボートを漕ぐために腰かけるところ
ティラー: 舵柄
シート: 帆の開き具合を調節するためのロープ
ジャイブ: 風下に向かっているときに風を受ける帆を出す舷を変えること
強風のときほどタイミングが難しい
スループ: 一本マストの前と後ろに帆を張るタイプのヨット。ヨットと聞いて思いつく一般的なイメージのヨット
スクーナー: 時代や国によって異なる場合があるが、一般に二、三本マストの縦帆を備えたヨットで、後側のマストが高い。

将来の遊技の一大科(2) 幸田露伴

将来の遊技の一大科 (2)
『蝸牛庵夜譚』所収

 幸田露伴
幸田露伴(1867年~1947年) 明治を代表する文豪。代表作に『五重塔』『天うつ浪』など。
 夏目漱石と同世代だが、文語体の作品や江戸、中国についての博覧強記な随筆などのためか、それより古いタイプの書斎人という印象があるが、釣りなどアウトドア好きの一面も。千島列島の探検・開発で知られる探検家・郡司成忠は露伴の実兄。この随筆は明治40年刊行の『蝸牛庵夜譚』所収。  

 

水上生活の愉快

いかなる富豪でも陸上においては移動しうる大邸宅を有することはできない。実に善美の別荘でも、造花の手で按配(あんばい)せられる四季の変化を除いては、小山(こやま)一つ小流(こながれ)一つを変化せしむることもまず難(かた)い。

で、その高楼から見る景色はいつも同様で、その窓から見る青山白水(せいざんはくすい)はいつも同じ青山白水である。そこで景色の好い方に面した窓を平常は閉じておいたというような面白い心がけの人でない平凡の人であってみると、いくら好い風景のところに家(いえ)しても、三日目には鼻につき、五日目、六日目には感じなくなってしまって、せっかくの別荘にもただちに厭(あ)いてしまうのが常である。財力の非常に豊かなものはその結果として四ヶ所にも五ヶ所にも邸宅を構えるようになり、それまでに及ばぬ者は好風景の地にいながら、窓も明けずに花合(あわ)せ友達と花牌(かるた)遊びをするというようになる。

この海岸線の多い日本に住み、かつは平穏な内海を前にした首都に住んでいながら、変化無尽(むじん)なる景色の中に移動しうる邸宅を構えるもののないのは実に愚かなことではあるまいか。いや愚かなわけではないが、先例のないことには誰しも手を出しかねるもので、ひっきょう水上生活の面白さを解(かい)せぬからのことである。

が、想像してもわかることで、百数十トンから以上の船の広さは、陸上の家屋にしてみてもかなりの大きさである。数百トンの船にしてみればなかなかのものである。好みによってはなお大なるものもよろしい。

それらのヨットを好み通りに建造して、そのサルーンを自己の趣味に従って装飾し、家族や朋友(ほうゆう)と共にこれに乗じて、あるいは海上遠くも去り、あるいは陸地近くも来たり、または北方の障壁断巌(しょうへきだんがん)の凄(すさま)じい景色の地、または南方の砂浜松洲(さひんしょうしゅう)の明媚(めいび)な景色の地、いずこなりともわが好むところの地に船を繋(つな)ぎ、花に月に夏に冬に賞覧(しょうらん)をほしいままにし、時には長風(ちょうふう)に賀(が)して朝鮮半島、中国、ロシア、南洋(なんよう)アメリカないし諸外国へまでも駛走(しそう)したらば、実に雄壮の趣味も優美の趣味もただこの一隻船(いっせきせん)によりて愉快に味わいうることではないか。

しかもサリヴァンの記(しる)するところによれば、ヨットを競走の目的でなく、単に愉快のために使用するにおいては、さのみ費用をも要せないで、百トンから二百トン位の船では幾許(いくばく)も要せぬようである。同人が記(しる)しているには、陸上の生活は贅沢な仲間であれば一週間に宿屋の費用が三十ポンドから四十ポンドあるいは五十ポンドくらいは容易にかかる。けれどもヨットの方はその半額で三、四ヶ月間、百トンあるいは百五十トンの船で遊ばれて、そのうちに水夫などの賃銭や、船具の破損料、食物など一切を含んでいる、とある。

その言の当否は予(よ)には判断しかねるが、けだし費用をかけるかけぬは、陸上で加減するよりよほど自由にゆくらしい。よしや反対に少々高価であるとしたところで、陸上では、たまたま別荘を構えれば、隣家にあまり感心せぬ者が住んでいて不快を与えてくれたり、村人の好遇を受けなかったり、いかんともなしがたい種々のことに遭遇して困却することがありがちのものであるが、ヨットであればすべて不快の箇所には遠ざかり、わが好む所にのみ居(お)るをうるの便があるのだから、むしろ高価でも忍ぶべきである。いわんやまた海上生活が肺病(はいびょう)や気管支病(きかんしびょう)や咽喉病(いんこうびょう)や喘息(ぜんそく)やなんぞに対して自然の薬剤たることは、とても温泉やなんぞの比でないにおいてをやだ。

荒潮(あらしお)に洗われて差し出(いず)る初日、浪の果てに沈む弦月(げんげつ)、あるいは高華(こうか)あるいは清冷(せいれい)、これらの景色はなにほど怯懦(きょうだ)の人や煩悶(はんもん)の人をして自然の大なる教えに浴せしむるを得るだろう。実にあにただ愉快とのみいはんやである。
遠航の愉快
新しい刺激は新しい知識と新しい興感(きょうかん)とを生ずる。この点において外国にまでの遠航は実に人の智を広め肝を壮(さかん)にし感興を新鮮にする。特にヨットに乗じて世界を周遊(しゅうゆう)するなどということになれば、その一船に招致しえた学者や才人や美術家やの知識と技芸の分量とに応じて、世界の種々の価値あるものを吸収したり批評したり消化したりして、直接には興味深く一切の事物に触接(しょくせつ)し、間接には学芸に何物をか貢献寄与することになる。

これらはヨットの本旨(ほんし)の方から言えばむしろ副産物的の結果であるが、決して軽視することのできぬことである。ヨットの本然(ほんねん)から言えば、八方の風を駆使して五大洋をわが馬場のごとくにみなすところに興味があるのであるが、副産物もまた小なるものではない。公務に服する軍艦ではなし、実利を主とする商船ではなし、純粋に遊戯のために万里(ばんり)を往来するというのは、馬鹿げているようではあるが実に尊ぶべきで、そしてその副産物も侮(あなど)るべきではないから、英国政府がヨットに対してはまったく免税し、かつまた軍艦あらざる時は公用浮標に緊纜(けいらん)しうるの権利を与え、また軍艦は入港し来たれる外国のヨットに対して時辰儀(じしんぎ)の差を教え正す等の便宜(べんぎ)を与うるを慣例とするごときことも生じたのであろう。何故となればヨットの乗者は実にその品格において高級を占むべき人士(じんし)なること自明の道理であるからである。

遊戯である、遊戯である、実にただ遊戯である。しかしながら他のいくたの遊戯のごとく不純不美(ふじゅんふび)であったり、または厭(いと)はしい副産物を多く有している遊戯でない。日月(じつげつ)や星辰(せいしん)や雨露(うろ)や霜雪(そうせつ)や、一切の自然に親炙(しんしや)して、そして大海の水の懐(ふところ)に抱かれて大空の風の手に擁せられて遊ぶ遊戯である。ブラッセイ卿がその高名なるサンビーム号その他のヨットに乗じて、遊戯とはいえ千八百五十四年より千八百九十三年までの間において二十二万八千六百八十二海里を悠然航走せるがごときは、実にヨットの遊びの中には無経験者の想到(そうとう)せざる幽趣妙処(ゆうしゅみょうしよ)の人を引きつくるものあるがためであることを思わしめるではないか。
競走の愉快

ありてい言えば予(よ)は競走ということについてあまり多く好まぬ故に、ヨットレースについてはむしろあまり多く言うを好まない。しかしヨットを談じて競走を談じなければ、全然無意味になってしまう。ヨットの競走の妙はけだし一新機軸を出(いだ)したヨット、もしくは大改良を施したるヨットを率いて相戦(あいたたか)うにあるので、他の腕力脚力等の比較、もしくは人間のなんらかの動物的精力の比較に勝負を決するところの、やや愚劣なる競争や競走とは異なっている。

で、千八百七十五年にヨットレース協会ができ、ヨットレースの規則ができてから大(おお)いに一切は整頓して、英国はいうに及ばず米国、ドイツでも各々競走に熱することひと通りではない。むろん小競走は各地にもあるが、大競走は国と国との間にも起こる。すなわち世界的なのである。

ヨットレースの賞杯の歴史はすなわち世界のヨッティングの歴史といってもよかろう。わが国なんぞからも参加するがよいのである。ドイツ皇帝がそのメテオルに乗じてシャツ一枚でメインシートを引っ張ったり、英国皇帝がウェールズ親王時代においてしばしばブリタニヤに乗御(じょうぎよ)せられたことは誰も知っている事実であるが、わが国の貴公子にもやがてあるいはそういう人も生ずるであろう。

英国のヨットの数は純帆船二千二百余艘(そう)にして計六万四千余トン、汽機(きき)を具(ぐ)せるもの七百艘(そう)にして計六万八千余トン、すなわち総計十三万余トンにして、なお小ヨット三千隻はこの算計に包含しないといえば、その盛んなこと、実に驚くべきで、ああさすがに皇帝国たる英国であると思われる。

古い遊戯はもう復興せずともだ。かくのごとき遊戯はあるいは将(まさ)に起こらんとするではなかろうか。予(よ)はわが国の位置から考えてもまさに起こすべき遊戯だと思う。猪牙(ちょき)や屋根船(やねぶね)や屋形船(やかたぶね)や御座船(ござぶね)の時代は過ぎた。横浜から伊豆の大島までの逆風競走が挙行されるなどという新聞紙の記事は、けだし遠からずして世に現われるようになるだろう。                     <了>

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『蝸牛庵夜譚』は1907年刊行。
 底本: 春陽堂版『明治大正文學全集』第六巻。
 旧字体の漢字、旧仮名遣いは新字体、現代仮名づかいに改め、漢字の読みはルビではなく (読み) の形で直後につけ加えてあります。
また、現代の読者の便宜を考慮し、句読点、改行なども必要とみなされる範囲で適宜修正してあります。

将来の遊技の一大科(1) 幸田露伴

将来の遊技の一大科 (1)
『蝸牛庵夜譚』所収

 幸田露伴

幸田露伴(1867年~1947年) 明治を代表する文豪。代表作に『五重塔』『天うつ浪』など。
 夏目漱石と同世代だが、文語体の作品や江戸、中国についての博覧強記な随筆などのためか、それより古いタイプの書斎人という印象があるが、釣りなどアウトドア好きの一面も。千島列島の探検・開発で知られる探検家・郡司成忠は露伴の実兄。この随筆は明治40年刊行の『蝸牛庵夜譚』所収。  

 

明治はわが国の一切の事情に一大横線を画した観があるが、遊技(ゆうぎ)においてもまた実にその通りである。明治以前、すなわち徳川氏時代の遊技は明治において次第々々にその優美な姿を隠して、ようやく世と相遠(あいとお)ざかってゆくものが少なくない。その一方にはまた徳川氏時代においてはいまだ産声をあげなかった新しい遊技が今日ようやくその快活な風采を現わしだしているのが、実に現在の状態ではないか。

楊弓(ようきゅう)は真に美術的の遊技であった。蓬矢抄(ほうししょう)のような書を読み、またその今なおまれに存在している桑(くわ)や紫檀(したん)やの美材が金銀その他の貴金属によって装(よそお)い作られた良工苦心(りょうこうくしん)の痕(あと)の明らかな弓を熟視し、その乾定(かんてい)して歪反(はいはん)せざるを賞するよりして、いくたの書籍の版木を犠牲として造られた桜の木の幹に、角筈(つのはず)や牙筈(けはず)と精良(せいりょう)の細工の鉄族(てつぞく)との取りつけられて、そして朱鷺(とき)その他の麗(うるわ)しい羽の矧(は)がれた箭(や)を熟視し、かつまた同じ時代の浮世絵画家等がその遊技を試みおる美女美男等の状(ありさま)を描いた画図等を見れば、われらは前代の遊技もまたはなはだ愛尚(あいしょう)すべきものであることを感じる。

しかし、その遊技は今どうである! いわゆる楊弓場(ようきゅうば)の感心しがたい情状のみがわずかに残存していたのもすでに古いことで、今は誰がまた楊弓の箭(や)の鏃(やじり)の頭が平らかであるか尖っているか知っていよう! いわゆる矢場の姉様(ねえさん)という語さえもクラシックになりかかっているくらいである。すなわち楊弓は隠れたのである。

蹴鞠(けまり)はもとより賤庶(せんしよ)の遊技ではなかった。けれどもその貴紳富豪(きしんふごう)の間に行われたことは、いかに多く画題や談柄(だんぺい)になっているかに徴(ちょう)しても明らかである。上代の高雅な装束や、鈍い安らかな曲線をなした沓(くつ)や、見るからが上品でこせつかぬ大きな鞠(まり)や、四本懸(よんほんがかり)の鞠坪(まりつぼ)や、今日その物を見たりその画を見たりしてもわれらはその優美な光景を想像して愛すべきを覚える。が、その愛すべき遊技は早く世人と相隔(あいへだ)ってしまって、今の若いものは誰かまた鞠垣(まりがき)の高い低いを明らかに覚えていよう!

狩衣(かりぎぬ)に綾蘭笠(あやいがさ)、弓寵手(ゆごて)行縢(むかばき)といういでたちの流鏑馬(やぶさめ)や、あるいはまた笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)などの式張(しきば)った競射や、それでなくとも競射や賭弓(かけゆみ)や、貴族的のにせよ平民的のにせよ、それらは皆いづれも勇(いさ)みのある面白い遊びであることは想像するに容易であるが、それらの射術(しゃじゅつ)騎術(きじゅつ)に関した遊びも、また現在においては、わずかに告朔(こくさく)の気羊的(きようてき)に存在しているのみで、時に催さるる競射会もさのみ盛んではないようである。

その他折端(おりは)の双六(すごろく)であれ、投扇興(とうせんきょう)であれ、単に遊びというのでもないが香道茶道というがごときものであれ、いづれも皆あるいは既にまったく滅び、あるいはようやく衰へゆくの勢いを現わしている。昔の遊戯でいまなお盛行(せいこう)しているのはわずかに囲碁、将棋、謡(うたい)などくらいのものである。

かくのごとくに徳川氏時代と明治とはその遊戯の上にも一線を画された観がある。で、新たに起こってきた遊技、すなわち球つきであるとか、端艇(ボート)競漕(きょうそう)であるとか、フートボールその他の球戯であるとか、単に遊戯というでもないが、自転車であるとかいうようなものが、次第々々に前代の遊戯の占めていた椅子の空位を占めて、明治の代(よ)の遊技の主なるものとなってきたのが現在の有様(ありさま)で、椅子の空位はまだ沢山に残っているし、そこで色々の新しい遊技が悠然と歩いて来てその椅子に着(つ)かんとするのもまた現在の有様(ありさま)である。

この時に際してヨットの遊びは確かに新たに起こるべき遊びで、また実に明治の士人(しじん)の手で興(おこ)すべき遊びであろう。

遊びも多い。楽しみの種類も多い。しかしヨッティングほど高尚で、優美で、壮快で、社会的でかつ超世的な面白いものがまた二つあろうか。おそらく二つはあるまいと予(よ)は想像する。高楼(こうろう)に置酒(ちしゅ)して巧笑(こうしょう)愁(うれい)を解(と)くに足り美目(びもく)情を悦ばすべき麗人(れいじん)を侍座(じざ)せしめ、粉陣(ふんじん)香囲(こうい)歌声(かせい)舞影(ぶえい)の裏に夜光の杯を挙ぐるのは、それはなるほど豪興群小(ごうきょぐんしょう)に誇るべくもあろう。しかし、要するに鄙俗(ひぞく)であるを免れない。どうも高尚とはいいかねる。

黒白(こくびゃく)の石子(いし)に一面の盤、疑神枯座(ぎょうしんこざ)して手談の楽みにふけっているのは、いかにも仙趣があって実に高尚である。しかしそれは智を熾 (さかん)にして物を忘るるの戯(たわむれ)で、必ずしも心を喜ばしめ情につちかう楽 しみではない。音楽を聞き演劇を見ることは高尚でもある優美でもある。しかし、いかに弁護者が弁護し、建築家が建築しても、盆の内の炒豆(いりまめ)の一個のような姿になって群衆中に視聴しつつ、ありがたからぬ空気を呑吐(どんと)することは、せっかくの高興を大いに減殺するし、かつまたたとえその楽譜は勇壮にその脚本は痛快なるものにせよ、要するにこれらの娯楽は壮快の娯楽とは決して言えぬのである。

端艇(ボート)競漕(きょうそう)や、競馬や、銃猟やは壮快ではある。ただし、あるものはいささか優美を欠き、あるものは高尚を欠き、かっすべて超世的でなく、これを嗜(たしな)む人の如何(いかん)によっては、ややもすれば修羅的になる傾(かたむ)きがある。釣魚(つり)は非常に複雑な多種多面の好遊技で、かつは超世的であるともいえるが、どうも幽静寂寞(ゆうせいせきばく)を恐るる人や、早急な人のあずかるあたわざる遊びで、かつ必ずしも非社交的ではないけれども、要するに非社交的になる傾きがある。

いや、予(よ)はヨッティングを掲(かか)げんがために他の遊技を抑えんとしたのではない、他の遊技とヨッティングとの差違を明らかにしようとしたのである。遊びも多い。楽しみの種類も多い。しかしヨッティングのように多趣味多方面で、そして社会の各部に関連接触する点の多い、しかも遊技の徳を円満に具有(ぐゆう)しているものはあまりあるまい。実に娯楽の王といってもよかろう。

ただし、強(し)いてその欠点を挙ぐれば、そのやや貴族的富豪的であって、民庶(みんしょ)に佳趣(かしゅ)を供給することの易(やす)からざる一段である。誠に「遊技娯楽の平民的ならざることは、その遊戯娯楽の大なる欠点」と言わざるをえないことであるが、しかしヨッティングも五レーターとか三レーターとか二分の一レーターとかいうような小艇の嗜好(しこう)が起こるに及んで、単に貴族や豪家のみの娯楽といふのでなく、かつは有髯者(ゆうぜんしゃ)のみの娯楽というのでもなく、最上級ならぬ人も、または婦人も、同じ遊技にたづさわるようになって、それらの小帆船、すなわちいわゆる海燕(うみつばめ)がカルショット城付近に群翔する碧瀾(へきらん)雪帆(せつはん)の好光景は実に天下の美観であるとまで人をして言わせるようになっているのが英国の実状であるに徴すれば、ヨッティングに対する唯一の非難さえすでにいくぶんか軽減されているのである。いよいよヨッティングは称揚すべき遊(あそび)である。

遊船構造設計の愉快

世界は人間の理想および理想を実現せんと努める不屈の勢力の発露(はつろ)によって進歩しているのである。ヨッティングは単に快走ということを目的としているので、その目的にかなわんがためには、種々の条件、すなわち構造の費用の多寡(たか)だの、積載する数量の大小だのということを犠牲にして顧みない。で、その点においては世の実用を主としている軍艦や商船の設計とは非常に相違があって、ヨットの船形の案出は、実に船舶の駛走(しそう)という点においては最大自由の境界(きょうがい)にあって人間の理想を最高度に実現せしめうるものである。

すべて何事によらず理想の実現ということは人生においての高級快楽であることは言をまたぬことで、いかなる微小の理想でも、これを実現しえた時、あるいはまさに実現しえんとする時の愉快は、五官に対する欲求の満足をえたときなどの愉快とは比較にもならぬほど大きくて、かつ高いものであるのは、何人も異論のない、換言すれば、ほとんど人間というものはその愉快に憧(あこが)れて営々として生活していると言ってもよいくらいである。そしてまた世界はその愉快を味わんとする人、もしくは味える人のために進歩しているので、汽車汽船であれ電話電信であれ写真であれ写声機であれ印刷機であれ爆発薬であれ、皆その実例である。

故に遊戯の一にして、もしも不正でない理想の実現に努むるものがあったら、その遊戯の性質ははなはだ高尚で、そしてまたその遊戯の効果、(遊戯そのものからいえば副産物であるが)ははなはだ洪大(こうだい)なるものであるとして十二分に尊敬してよい。競馬も実は一の遊戯である。しかし勝負の予想に対して金銭を賭(と)したり、あるいは自ら鞍上(あんじょう)に叱咤(しった)したりするような、賤(いや)しい、もしくは低い愉快を超越してしまって、おのずから理想的の駿馬(しゅんめ)を得ようとする上において焦慮苦心(しょうりょくしん)をするに至ったならば、たとえその人自身が飼料を与えたり、四下(すそ)を仕(し)たりせぬまでも、その人の愉快とするところの趣味ははなはだ高尚で、そしてその効果は階級こそあるだろうが世を益するに疑いないことである。

で、競馬は実に馬匹(ばひつ)を改良する上に大なる力があるという一大事実にも到着するのである。ヨットレースもその通りで、いかにもして快走の目的を十分に達しようという希望からして、種々様々の構造設計が案出され改補され、そして次第々々に最良最好の船形が世間に指示(しじ)発現(はつげん)さるるに至ったのである。水に没する船腹の形が描く曲線といえばそれまでのことではあるが、最も抵抗の少く最も滑らかに水を切って行く曲線の一個の式の価値は、いかに深遠(しんえん)洪大(こうだい)なものであろう! してまたその一曲線が得らるるまでには、いかに良工の苦心によって忠実精美な苦労と思慮が費やされたことであろう!

ワットソンの近代競走遊船(ゆうせん)の進化といえる一篇(いっぺん)を瞥見(べっけん)して、ヨットレースの歴史の初歩の船の形から、名高いブリタニヤだのメテオルだのその他の船に至るまでの種々様々の、あるいは深く、あるいは浅い各船の形を見れば、まったく船舶のことに関して知識のないわれらでさえ、いかに多くの聡明(そうめい)俊敏(しゅんびん)の人々の尊い知識や技術や堅確(けんかく)の意識や優美の趣味やが相合(あいがっ)して働いて、そして今日に至ったかを想像せずにはいられない。

かくのごとくして世は進歩し、古昔(こせき)無智(むち)時代の画家が、船の速力の大なることを現わさんがために船首に白浪の騒(さわ)げるさまを描いたのは既に過去の夢となってしまって、十二分に巧みに水の抵抗を少くするに足る美(うる)わしい曲線をもって造られたる船の舷端(げんたん)には、いわゆる水夫の経帷子(きょうかたびら)のような白浪は無益に立たぬようになってきたから、詩にしても、行船(ゆくふね)の舳浪(へなみ)騒ぎて、などと歌ったら、もはや船の速力は大きくなくて、そして却って非合理的の拙設計(せつせっけい)になった野蛮船であることを現わすようになってきた。

しかし今日でもこのうえ進歩の余地がないというに至ったのではないから、良いが上にも良かれと希望して、理想的の快走船を得んとし、たとえみずからコンパスや鉛筆を用いて設計せぬまでも、知識ある人の知識を使い、技術ある人の技術を用いて、自分の意識の下に新形式のヨットを建造し出そうとしたらば、必らずしも名高いヴァルキリーやナヴァホーをはるかに凌駕するものもできぬとは限るまい。よしやそうまではゆかぬとしても、もし有力者があってそういうことを敢えてしてみたら、その人の享受する快楽はかの万金(ばんきん)を持って宝玉(ほうぎょく)や骨董品(こっとうひん)を購(あがな)うがごとき低微(ていび)なものでなくって、実に趣味の高い、かつは世に対して貢献するところの効果のある高級娯楽であることをその人自身に発見するであろうと信ずる。

[(2)に続く]

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『蝸牛庵夜譚』は1907年刊行。
 底本: 春陽堂版『明治大正文學全集』第六巻。
 旧字体の漢字、旧仮名遣いは新字体、現代仮名づかいに改め、漢字の読みはルビではなく(読み)の形で直後につけ加えてあります。
また、現代の読者の便宜を考慮し、句読点、改行なども必要とみなされる範囲で適宜修正してあります。