オープン・ボート 11

スティーヴン・クレイン

V

「パイだと」と、機関士と記者が怒ったようにいった。「そんな話するなよ、馬鹿野郎!」

「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えていたんだ。そしたら――」

海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。とうとう完全な闇が訪れ、南の海から射していた光が黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。

ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っていた。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足まで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力したが、ときどき波がボートにどっと入りこんだ。夜の、氷のように冷たい波だ。彼らはまたしても冷たい水でびしょぬれになった。彼らは一瞬、体をひねってうめき、また死んだように眠りこんだ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てていた。

機関士と記者の計画では、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。

機関士は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼んだ。「ちょっと交代してくれないか?」と静かにいった。

「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移った。二人は慎重に場所を入れ替わった。機関士は料理人に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。

海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。

記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」

船長はいつもの落ち着いた声で答えた。「そうだ。左舷から二点(22.5度)ほど離しておけ」

料理人は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけていた。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると、すぐに寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理人はストーブのように暖かかった。

オープン・ボート 10

スティーヴン・クレイン

低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。

「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」

「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」

 岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。

音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞った。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。

「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」

「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」

「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」

 そうこうしている間も、機関士はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関士が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前屈みになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。

「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」

忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる連中にときおり意識して声をかけていた。

「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」 その声は疲れていて低かった。

本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。漕ぎ手はといえば、ときどき波頭を抑えつけられるようなうなり音が聞こえる以外には、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。

料理長は頭を漕ぎ座に載せていたが、眼下の海水を興味もなく見つめていた。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」

オープン・ボート 9

スティーヴン・クレイン

砂浜は遠く離れていて、海面より低く見えた。小さな黒い人影を見分けるには、目をこらして探さなければならなかった。船長が棒きれが浮いているのを見つけたので、そこまでボートを漕ぎよせた。ボートにはなぜかバスタオルが一枚あった。それを棒きれに結びつけて、船長が振った。ボートを漕いでいると振り返って見ることもままならないので、聞いて確かめるしかない。

「あいつ、どうしてる?」

「立ったまま動かない。こっちを見てるんじゃないか……また動いた。家の方に向かってる……また立ち止まった」

「こっちに手でも振ってるかい?」

「いや、もうやってない」

「見ろよ、べつの男がやってきた」

「走ってるぜ」

「よく見ててくれよ」

「なぜか自転車に乗ってる。別の男と話をしてるな。二人ともこっちに手を振ってる。見ろよ!」

「何かビーチにやってきた」

「何だ、ありゃ?」

「ボートみたいだ」

「そう、たしかにボートだ」

「いや、車輪がついてるぜ」

「そうだな。救命ボートじゃない……馬車に乗せて引いてるんだ」

「救命ボートだよ、きっと」

「いや、えーと、あれは、あれは乗合馬車だ」

「救命ボートだよ」

「ちがう。乗合馬車だって。はっきり見える。ほら、あそこにある大きなホテルのどれかの馬車なんだ」

「畜生め、そうだな。馬車だ。乗合馬車で何をしようってんだろう? 救助隊のメンバーでも集めてるのか」

「そうだよ。見ろよ! 小さな黒い旗を振ってるやつがいる。乗合馬車のステップに立ってる。もう二人やってきた。ほら、みんな集まって話をしてるぜ。旗を持ってたやつを見てみろよ。もう旗を振ったりはしていないだろ」

「あれは旗じゃないんじゃないか? やつの上着だ。間違いない、あいつの上着だよ」

「そうだな。上着だ。上着を脱いで顔のまわりで振りまわしてる。振ってるのが見えるだろ」

「そうだな。あそこは海難救助の詰め所じゃなかったんだ。ただの避寒地のリゾートホテルの乗合馬車で、おぼれかかってる俺たちを乗客がたまたま見つけたってところか」

「あのくそったれ野郎、上着で何をしようとしてるんだ? 何か合図でも送ってるつもりか」

「北へ行けっていってるみたいだ。そっちに海難救助の詰め所があるに違いない」

「そうじゃない! あいつは俺たちが釣りをしてるって思ってるんだ。ただ合図してるだけさ。見えるだろう、ほら、ウィリー」

「うーん、あれが何かの合図だったらいいんだが。お前はどう思う?」

「意味なんてないんじゃないか。あいつ、ただ遊んでるだけだ」

「そうだな、もういちど陸に近づけとか、沖に出て待てとか、北とか南へ行けとか伝えようとしてるんだったら、そこには何か理由があるはずだ。だけど、よく見ていると、ぼうっと突っ立って上着を腰のあたりで車輪みたいに振りまわしてるだけの大馬鹿野郎だ」

「人が集まってきてる」

「大勢やってきたな。見ろよ! あれこそボートじゃないか?」

「どこ? ほんとだ、見えた。いや、あれはボートじゃない」

「あの野郎、まだ上着を振りまわしてやがる」

「俺たちが感心して眺めてるとでも思ってるんだろう。いいかげん、やめりゃいいのに。意味なんかないんだし」

「かもしれんが、俺には北へ行けっていってるようにも思えるんだがな。そっちの方に海難救助の詰め所があるんだ」

「おいおい、飽きもせずまだ振ってぜ」

「どんだけ長く振ってられんだよ。俺たちを見つけてからずっと振ってるんだぜ、あいつ。馬鹿じゃねえか。なぜボートを出してくれないんだ、あいつら。ちょっと大きな漁船でここまで来てくれさえすれば一件落着なのに、なんでそうしないんだろ」

「あ、もう大丈夫だ」

「やつら、すぐにボートを出して、ここまで来てくれるさ。今、俺たちのことをじっと見てるからな」

オープン・ボート 8

スティーヴン・クレイン著

そのとき迫ってきた波は、さらにおそろしかった。こういう波はいつだって、小さなボートに襲いかかって泡立つ海に引きづりこもうとする。波が迫ってくるときは、その前から長いうなりのような音がした。海になれていなければ、ボートがこれほど急激に盛り上がってくる波を駆け上がっていけるとは、とうてい思えない。岸までは、まだかなりの距離があった。機関士はこういう磯波にはなれていた。「いいか」と、彼は早口でいった。「このままだとボートはあと三分と持たない。といって岸まで泳ぐには遠すぎる。またボートを沖に戻しませんか、船長?」

「そうだな! そうしよう!」と船長がいった。

機関士は目にもとまらぬ早さでオールを操り、次々に打ち寄せる波間でうまくボートの向きを変え、なんとか沖に引き返した。ボートが水深のある沖まで戻る間、ボートでは沈黙が続いた。やっと一人が暗い調子で口を開いた。「やれやれ。ともかく、これで陸の連中には俺たちが見えたはずだ」

カモメたちは風を受けて斜めに上昇し、灰色の荒涼とした東の方角へと飛んでいった。南東ではスコールが起きていたが、出火した建物から立ち上るどす黒い煙のような雲やレンガ色をした赤い雲でそれとわかった。

「救助隊の連中をどう思う? なんともいかしたやつらじゃないか?」

「俺たちを見てないってのは、どう考えてもおかしいよな」

「たぶん遊びで海に出てるとでも思ってるんだろう! 釣りをしてるとか、とんでもない馬鹿だとでも思ってるだろうよ」

午後は長かった。潮流が変わり、ボートを南に押し流そうとした。が、風と波の方は北へ追いやろうとしていた。前方はるかに海岸線をはさんで海と空が接していた。岸辺には小さな点のようなものがいくつかあったが、それは街の存在を示しているようだった。

「セントオーガスティンかな?」

船長は頭を振った。「モスキート湾に近すぎるよ」

そこで、機関士が漕いだ。それから記者が交代して漕ぎ、また機関士が漕いだ。うんざりするような重労働だった。人間の背中には、分厚い解剖学の本に書いてあるよりもっと多くの痛点があるようだ。背中の広さは限られているが、いたるところで無数の筋肉のせめぎあいやもみあいが生じ、よじれたりからみあったり、なぐさめあったりしている。

「ボートを漕ぐのが好きだったことあるかい、ビリー?」と、記者がきいた。

「いいや」と機関士が答えた。「くそおもしろくもねえよ」

漕ぎ手を交代してボートの舟底で休むときには、極度の疲労感から、指の一本がぴくぴく動くのをのぞけば、すべてのことがどうでもよくなってしまう。舟底では、冷たい海水が揺れ動きながらパシャパシャはねている。そこに横になるのだ。漕ぎ座を枕がわりに頭をもたせかけると、そのすぐ横では波が渦をまいていた。海水がどっとボートに流れ込み、一度ならずびしょ濡れになった。だが、そんなことは気にもならなかった。ボートが転覆してしまえば、巨大な柔らかいマットのような海に投げ出されるのは確実だったからだ。

「見ろ! 岸辺に男がいるぜ!」

「どこだ?」

「あそこだ! 見えるだろ、やつが見えるだろ?」

「見えた。歩いてるな」

「お、立ち止まった。見ろよ! こっちを見てる!」

「俺たちに手を振ってるぜ!」

「たしかに! 間違いない!」

「やった、もう大丈夫だ! もう大丈夫だ! 三十分もあれば、救助のボートがここまでやって来るな」

「あいつ、まだ動いてる。走りだした。あそこの家まで駆けてくつもりなんだ」

オープン・ボート 7

IV

「料理長君」と、船長がいった。「君のいう避難所には、人のいる気配がないようだが」

「そうですね」とコックが答えた。「妙ですね、俺たちのことが見えてないなんて!」

 ボートに乗った男たちの眼前には、低い海岸が広がっていた。上が植物で黒っぽくなった低い砂丘のようだった。波の打ち寄せる轟音がはっきり聞こえたし、ときどき海岸に打ち上がる白い唇のような波頭も見えた。空を背景に、小さな家が一軒、黒い影となって見えていた。南の方には、細い灰色の灯台も見えていた。

潮流に加えて風や波がボートを北に押し流していた。「おかしいな、誰も見てないなんて」と、男たちはつぶやきあった。

ボートに乗っていると、波の音はそれほど明瞭ではなかったが、雷鳴のように力強いものだった。ボートが大きなうねりで持ち上げられると、ボートに座っている男たちにも轟音がはっきり聞こえた。

「こりゃきっと転覆するな」と、誰もが口をそろえた。

公正という点では、ボートのある場所からは、どの方向にも、二十マイル以内に海難救助の詰め所はなかったという事実をここで述べておくべきだろう。が、ボートの男たちはその事実を知らなかったので、国の海難救助に携わっている人々の視力について、口を極めて悪口をいいあった。しかめっ面をしてボートに座り、四人は罵詈雑言の限りをつくした。

「俺たちが見えないって、おかしいだろ」

少し前までの助かったという安心感は完全に消え失せていた。心も辛辣になり、やつらは無能なんだとか、何も見えちゃいないんだ、ひどい臆病者なんだなどと、自分たちがまだ発見されていない理由を次から次に数えあげた。人がたくさん住んでいそうな海岸で、人影がまったく見られないというのは、なんともつらいことだった。

「どうやら」と船長が、やっと口を開いた。「自力でなんとかするしかないようだな。こんなところに浮かんだままで救助を待っていたら、ボートが転覆したときに陸まで泳いでいく体力も奪われてしまう」

それを受けて、オールを手にしていた機関士がボートをまっすく陸に向けた。ふいに全身の筋肉が緊張した。考えるべきことがあるのだった。

「全員が上陸しなかったとしても」と、船長がいった。「全員が上陸できるとはかぎらないが、もし私ができなかったとして、私の最後を誰に連絡すればいいか、君らは知ってるかね?」

彼らは万一のときに必要となる連絡先の住所や伝言について教えあった。彼らには強い怒りがあった。それを言葉で表現すると、おそらく、こういうことだ――万一、自分がおぼれることがあったら、もし俺がおぼれたりしたら――おぼれてしまったら、海を支配している七人の怒れる神の名にかけて、なぜこんなにも長く漂流したあげくに砂浜や木々を見せられているのか? 苦労してここまでやってきて、どうやら助かりそうだとなったところで無慈悲にもその望みを絶つためにここまで生き延びさせたってことなのか? それはおかしい。運命という名の年とった愚かな女神にこんなことしかできないのであれば、人間の運命をもてあそぶ力を剥奪すべきだ。自分が何をしようとしているかも知らない老いたメンドリにすぎないのか。運命の女神が俺をおぼれさせると決めたというのなら、どうして船が沈没したときに殺してくれなかったんだ。そうすれば、こんなきつい目にあわなくてもすんだのに。すべてが……不条理だ。だが、いや、運命の女神だって俺をおぼれさせることなんかできはしない。俺をおぼれ死んだりさせたりはしない。こんなに苦労させられた後で、死ぬなんてありえない」 そうして、天にむかって拳を振り上げたい衝動にもかられた。「俺をおぼれさせてみろ。そしたら、俺がお前を何と呼んでやるか聞きやがれ!」

オープン・ボート 6

スティーヴン・クレイン

こうした理由から、機関士も記者も、このときばかりは漕ぎたくなかった。記者は、正直にいうと、まともな人間で、こういうときにボートを漕ぐのが楽しいと思うようなやつがいるわけないと思った。気晴らしのレジャーではないのだ。ひどい罰を受けているみたいだったし、頭のいかれた天才であっても、これが筋肉に対する拷問ではなく、背中に対する罪悪でもないと断言することはないだろう。ボートを漕ぐのがこんなに楽しいとは思わなかったよ、と記者がボートに乗った連中につぶやくと、疲れ切った機関士がまったく同感だというように苦笑した。船が沈没する前、彼は船の機関室で昼も夜も当番を続けていたのだった。

「まだ無理はするなよ」と、船長がいった。「体力を残しておくんだ。波打ち際まできたら、必死でがんばらなきゃならなくなる――泳ぐ羽目になるだろうからな。のんびりいこう」

陸地が少しずつ海面から高くなってくるのがわかった。黒っぽい一本の線だったものが、黒い線や白い線、樹木や砂浜が見わけられるようになった。とうとう、岸辺に家が見えると船長がいった。「あれが避難所でしょう、きっと」とコックが応じた。「そのうち俺たちを見つけて、救助に来てくれますよ」

遠くに見えていた灯台が建物の背後にそびえていた。「もう灯台守が気づいてるはずだな、ちゃんと望遠鏡で見張っててくれれば」と船長がいった。「救助隊に連絡してくれるだろう」

陸地が徐々に、しかも美しく、登場してきた。また風が強くなった。風向は北東から南東に変化していた。そうして、ついに今まで聞こえなかった音がボートの男たちの耳に聞こえてきた。岸に打ち寄せる、低い雷鳴のような波の音だ。「まっすぐ灯台には向かっていけないだろう」と船長がいった。「ボートを少し北に向けてくれ、ビリー」

「少し北ですね、船長」と機関士が応じた。

小さなボートが船首をまた少し風下の方に向けると、漕ぎ手以外の者は、陸が大きく迫ってくるのを見守っていた。陸がだんだん大きくなってくるにつれて、無事に上陸できるかという疑念や不吉な予感めいたものも、彼らの心から消えていった。ボートを操船するのは相変わらずやっかいだったが、それでも、うれしい気持ちは隠しきれなかった。たぶん、あと一時間もすれば上陸しているはずだ。

男たちは自分の体重を使ってボートのバランスをとるのになれてきていた。今では暴れ馬に乗ってロデオをやってみせるサーカスの男たちのようだった。記者は全身びしょ濡れだと思っていたが、上着のポケットを探ってみると、葉巻が八本見つかった。半分は海水で濡れていたが、残りの四本は無事だ。探すと乾いたマッチも三本見つかった。ボートに乗った四人は、救助が近いことを確信し、目を輝かせて葉巻をくゆらせ、互いの長所や短所を判断しつつ、それぞれ水を一口飲んだ。

オープン・ボート 2

この救命ボートに乗るのは、ロデオの暴れ馬に乗っているようなものだった。馬とボートを比べても、大きさにたいして変わりはない。ボートは馬のように跳ねたり船尾を下にして立ち上がったり、海面に突っこんだりした。波が来るたびにボートは高く持ち上げられ、とんでもなく高い柵に突進するようにも思えたが、こうした海水の壁を登っていく様子は神秘的でもあった。波の頂点は白濁した泡になっていて頂点から崩れ落ちていくので、そのたびにボートは宙を飛び、海面に激突しては水しぶきをあげながら滑り落ちていくのだが、次の脅威となる波の前で武者震いするようにまた揺れ動くのだった。

海で特筆すべきことは波に限りがないということだ、波をうまく乗りこえてもすぐにまたボートを沈めようとたくらんでいる次の波が押し寄せてくるという事実がそれを示している。長さ三メートルのちっぽけなボートに向かって波が次々に押し寄せてくるのを見ると海の資源にはきりがないことを痛感させられるが、こういうことを小さなボートで海に出たことのない普通の人々が経験することはあるまい。灰色の海水の壁が迫ってくるたびに、ボートに乗っている人間の視界から他がすべて遮断され、こんなにひどい波はこれが最後かなと、つい思ってしまうほどだ。波の動きには非常に優雅なところがあって、巻き波が頂点に達して崩れ落ちるのをのぞけば、音もなく迫ってくるのだった。

青白い光を受けたボートの男たちの顔は灰色だったに違いない。視線はたえず船尾の方向に向けられ、異様な光をやどしていたことだろう。その様子を高いところから眺めていれば、そうした光景は全体として疑いもなく絵のように美しかっただろう。だが、ボートの男たちにはそれを眺める余裕はなかったし、かりにあったとしても、心はそれ以外のことで占められていた。太陽はたえず空を背景にゆれていたし、海の色が灰色からエメラルドグリーンに変化したので夜が明けたことを知ったのだ。黄金色の光の筋が走り、泡は雪のように舞っていた。夜が明けていくんだなという認識はなかった。自分たちに向かってくる巻き波の色がそれに応じて変化したことに気がついただけだ。

コックと記者は互いにかみ合わない言葉で海難救助の詰め所と避難小屋の違いをめぐって言い争った。コックは「モスキート湾の灯台のすぐ北に海難救助の詰め所があるんだ。俺たちを見つけてくれればすぐに船を出して拾い上げてくれるぜ」と言った。
「誰が俺たちを見つけてくれるって?」と記者。
「詰め所の連中さ」とコックが言った。
「避難小屋に詰めてる人間はいないぜ」と記者が言った。「俺の知る限り、船の難破に備えて服や食料が保管されているだけさ。スタッフが配属されてるわけじゃない」
「いるんだよ、本当に」とコックが言った。
「いるわけねえだろ」と記者が言った。
「おいおい、俺たちはまだそこに着いたわけじゃないんだ」と、船尾の機関士が口をはさむ。
「そうだな」とコックが答えた。「俺のいうモスキート湾の灯台の近くにあるっていうのは避難小屋じゃないんだ。海難救助の詰め所のほうなんだ」
「だから、そこまでまだ遠いんだって」と船尾の機関士が言った。