米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第141回)
総員、上へ
強い北西の順風を受け、図に乗って走った練習船は、五月八日ごろから左まわりにグルリと向きを変えて南東に偏向した東方からの疾風(ゲール)のため、その船首を北へ北へと折って、ついに東北東にまで達したので、九日には「下手(したて)まわし」を行って針路を南南西とした*。
* 下手まわし(ウェアリング wearing) 帆船で風下に向かいながら風を受ける舷を左右逆にすること。
帆船は風の吹いてくる方向に直接向かうことはできないので、風上に向かう場合、風を受ける舷を左右交互に変えながらジグザグに帆走することになる。
風上への帆走性能が高い船(快速のクリッパー船や現代のヨット)は上手(うわて)まわし(タッキング)を行うが、あまり風上にのぼれない船では、いったん風下に向かって帆の展開を左右逆にしてから少しずつ風上へ向かう。ヨットでは、この操作はジャイブ/ジャイビングと呼ばれる。
黒装束に覆面(ふくめん)をした男がニュッと暗黒(やみ)のうちに入ってくる。夢であるか幻(うつつ)であるか……それは知らぬ。
ただ意識の眼だけは大きく開いている。音もなくスラスラと寄ってきたと思ったら……覆面(ふくめん)のあやしい男は、何の容赦(ようしゃ)もなくぼくの上に馬乗りになる。
すわとばかり眼を覚まして身構えする鼻先に、毛むくじゃらで太い一番大工(カーペン)の手が見える。よく見ると、ぼくの寝床(ボンク)に横ざまにおおいかぶさるようにして、雨ガッパに雨よけの帽子という格好のあやしい男が、一生懸命、船窓(スカットル)に窓のおおい(ブラインダー)をかけている。
まだ夜中の二時らしい。五月十九日である。 続きを読む