米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第138回)
六、渡航の不便と奨励金
日本人のうち、最初に通商、あるいは植民の意思をもってブラジル入りしたのが誰であるかは、もちろん判明していないが、今日のブラジルへの移民の基礎を建設する上で鮮やかな功労を有する人々は、当時の公使にして、ついにその英姿をブラジル国の青山(せいざん)に埋めた杉村虎一(すぎむらとらいち)氏、アルゼンチンから帰国してブラジル国の珈琲(コーヒー)の直取引を画策し、南米通と呼ばれた水野龍(みずのりゅう)氏、山縣商会の長としてリオ市第一の日本商店を管理し、唯一の肝(きも)いり役となっている山縣勇三郎(やまがたゆうさぶろう)氏、その他に盬川伊四郎(しおかわいしろう)氏、上塚周平(うえづかしゅうへい)氏などであろう。
次に、ブラジルへの移民の数と年代と会社名の統計を記載する。
一九〇九年 竹村植民会社、八百二十七人、笠戸丸、大不成功。
一九一〇年 前回の失敗と小村外務大臣の満韓集中政策のため移民中止。
一九一一年 竹村、千二百人、旅順丸(りょじゅんまる)。
移民にも船員にも逃亡した者がいたが、まずは成功。
一九一二年 「竹村」と東洋移民会社、五百人。
竹村組は鹿児島人と琉球人を募集しなかったが、
東洋組は募集したので、そのうちの七割が逃げた。
厳島丸(いつくしままる)
一九一二年 「竹村」と「東洋」三千人、第二開運丸、若狭丸。 続きを読む