スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (22)

 

カヌーは川に浮かぶ木の葉のようだった。流れにとらえられ、ゆさぶられて、半人半馬のケンタウルスに巧みに運ばれる妖精のように押し流されていく。方向を維持するため。パドルを必死にこがなければならない。川は海へ向かって大急ぎで流れていた! 水の一滴一滴が、驚いた群衆の中の人間のように、あわてふためいて流れていた。だが、こんなにも多くの群衆が一つの心で動ていくということがあるだろうか? 見えるものすべてが、飛びはねながら通りすぎていく。目と急流との競争だ。一瞬も気をゆるめることができず、ぼくらの体はよく調律された楽器のように震えた。けだるさなど吹き飛び、血流はとんでもないスピードで動脈から静脈へと、末端に至るまで全身を駆けめぐり、心臓に戻っては出ていく循環は、七十年も毎日コツコツ働いているそれではなく、休日に旅をするような心躍るものだった。葦は警告するように頭を振っていたが、びくびくしたように揺れることで、この川が強いこと、冷たいこと、しかもそれと同じほどにも残酷であり、柳の木にできている渦には死が待ち伏せていることを告げていた。だが、葦はその場から動くことはできない。じっと立っている者は、常に臆病な助言ばかりしたがる。ぼくらは逆に大声で歓声をあげたいくらいだった。この躍動している美しい川が本当に死を招く罠だというのなら、死という年老いた灰色のならず者は、ぼくらに裏をかかれたのだ。実際の一分間に、ぼくはその三倍も生きていた。パドルを一かきするごとに、川の湾曲部をまわるごとに、ぼくは死に対して生の充実という得点をあげていた。人生でこれほど心が高揚したことはない。

死という個人のささやかな戦いについては、こうした光に照らして考えることができると思う。自分が旅に出ていて、いずれ強盗に襲われるとわかっているとする。誰だって宿では最高のものを食べたり飲んだりするのではなかろうか。ただ泥棒に盗られるより、そうした無駄づかいした分だけ得をしたと思いたいからだ。無駄に散財するのと違って、自分の金を失うリスクもなく、利益が出るものに投資にする場合には特にそうだ。充実した生の一瞬一瞬が、特に健康によいというのであれば、すべてを奪っていく者である死に対して得点を重ねることになる。死に襲われて運ばれていくときに、手元の金は少ないかもしれないが、日々の充実という食べ物をたらふく食べて満腹になっているわけだ。急流には死がつきもので、毎年そうした罠にとらわれてしまう者も多いだろう。だが、死がぼくらの勘定を清算しようとするときには、ぼくはオアーズ川の上流での、こうした充実した時間を思い出し、納得して受け入れることができると思う。

午後にかけて、あふれんばかりの日光を浴び、ペースも落ち着いてきた。ぼくらは気持ちの高揚や充実感をこれ以上おさえることはできなかった。カヌーはぼくらには小さすぎた。ぼくらはカヌーを降り、岸辺で思いきり体を伸ばした。草の上で手足を伸ばし、たばこを吸った。神々しいほどの香りだ。世界はすばらしい。それがその日最後のよき瞬間だったが、その後も、ぼくはずっと満足感にひたっていた。

谷の片側は丘になっていて、白亜質の頂上が高くそびえ、土地を耕している農民が一人、同じリズムで姿を見せてはまた消えたりしていた。姿が見えるたびに、彼は空を背景にちょっと立ちどまった。(シガレット号の相棒によれば)その様子はまったく、うっかり野生の花を傷つけてしまったスコットランドの国民詩人バーンズのようだった。川を別にすれば、あの農民は、ぼくらの目に映っている唯一の生物だった。

谷のもう一方の側には、赤い屋根の家々と鐘楼が一つ、木々の間に見えていた。そして、見事な鐘の音によって、その日の午後は音楽的になった。鐘つきのかなでる鐘の音には、何かとても甘い叙情があって、鐘の音がこれほど明瞭に、また旋律豊かに歌うのを聞いたことがない。シェークスピアの芝居『十二夜』の舞台となっているイリリアで糸をつむぐ乙女や娘たちが「おいでよ、死」と歌うのもこんな風だったのだろう。鐘の音はどこか騒々しく金属的で、なにかしら不穏な調子に聞こえたりして、聞いて楽しいというよりも苦痛を感じる方が多いと思う。だが、このとき聞いた鐘の音は高く低く遠くまで響き、流行歌のように耳になじみ、しんみりさせたりもしたが、常に適度に調音されていて、滝の轟音や春にミヤマガラスが鳴き交わすときのように、静かでのどかな田園風景にしっくり溶けこんでいた。ぼくはこの鐘を鳴らしている人の祝福を受けたいと思った。この人は物静かな好々爺で、自分も瞑想しつつ、鐘をならすロープを揺らしているのだろう。神父や鐘を相続した人々、あるいはフランスでそういうことに関わっている人達すべてを、こうした午後の喜びのために古い鐘を残しておいたことについて祝福したいくらいだ。集会を開いて募金をつのり、自分たちの名前を繰り返し地方紙に載せ、新品の真鍮でできたバーミンガム製の代用品の鐘と取り替え、鐘を鳴らす人間も新しく雇って鐘を打ち鳴らさせ、この谷を畏怖と混乱の響きで満たすこともできたはずなのだから。

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