オープン・ボート 2

この救命ボートに乗るのは、ロデオの暴れ馬に乗っているようなものだった。馬とボートを比べても、大きさにたいして変わりはない。ボートは馬のように跳ねたり船尾を下にして立ち上がったり、海面に突っこんだりした。波が来るたびにボートは高く持ち上げられ、とんでもなく高い柵に突進するようにも思えたが、こうした海水の壁を登っていく様子は神秘的でもあった。波の頂点は白濁した泡になっていて頂点から崩れ落ちていくので、そのたびにボートは宙を飛び、海面に激突しては水しぶきをあげながら滑り落ちていくのだが、次の脅威となる波の前で武者震いするようにまた揺れ動くのだった。

海で特筆すべきことは波に限りがないということだ、波をうまく乗りこえてもすぐにまたボートを沈めようとたくらんでいる次の波が押し寄せてくるという事実がそれを示している。長さ三メートルのちっぽけなボートに向かって波が次々に押し寄せてくるのを見ると海の資源にはきりがないことを痛感させられるが、こういうことを小さなボートで海に出たことのない普通の人々が経験することはあるまい。灰色の海水の壁が迫ってくるたびに、ボートに乗っている人間の視界から他がすべて遮断され、こんなにひどい波はこれが最後かなと、つい思ってしまうほどだ。波の動きには非常に優雅なところがあって、巻き波が頂点に達して崩れ落ちるのをのぞけば、音もなく迫ってくるのだった。

青白い光を受けたボートの男たちの顔は灰色だったに違いない。視線はたえず船尾の方向に向けられ、異様な光をやどしていたことだろう。その様子を高いところから眺めていれば、そうした光景は全体として疑いもなく絵のように美しかっただろう。だが、ボートの男たちにはそれを眺める余裕はなかったし、かりにあったとしても、心はそれ以外のことで占められていた。太陽はたえず空を背景にゆれていたし、海の色が灰色からエメラルドグリーンに変化したので夜が明けたことを知ったのだ。黄金色の光の筋が走り、泡は雪のように舞っていた。夜が明けていくんだなという認識はなかった。自分たちに向かってくる巻き波の色がそれに応じて変化したことに気がついただけだ。

コックと記者は互いにかみ合わない言葉で海難救助の詰め所と避難小屋の違いをめぐって言い争った。コックは「モスキート湾の灯台のすぐ北に海難救助の詰め所があるんだ。俺たちを見つけてくれればすぐに船を出して拾い上げてくれるぜ」と言った。
「誰が俺たちを見つけてくれるって?」と記者。
「詰め所の連中さ」とコックが言った。
「避難小屋に詰めてる人間はいないぜ」と記者が言った。「俺の知る限り、船の難破に備えて服や食料が保管されているだけさ。スタッフが配属されてるわけじゃない」
「いるんだよ、本当に」とコックが言った。
「いるわけねえだろ」と記者が言った。
「おいおい、俺たちはまだそこに着いたわけじゃないんだ」と、船尾の機関士が口をはさむ。
「そうだな」とコックが答えた。「俺のいうモスキート湾の灯台の近くにあるっていうのは避難小屋じゃないんだ。海難救助の詰め所のほうなんだ」
「だから、そこまでまだ遠いんだって」と船尾の機関士が言った。

オープン・ボート 1

今回からスティーヴン・クレインの『オープン・ボート』の新訳をお届けします。

 スティーヴン・クレイン(1871年~1900年)は米国の自然主義文学の先駆とされる作家で、『赤い武功章』『街の女マギー』などの作品があります。

 二十八歳で早世したため、作品の数は多くなく、日本で知られているとは言えませんが、フォークナーやヘミングウェイなど後の世代の作家にも大きな影響を与えました。

 特にヘミングウェイは、若い作家志望者に与えた必読書十六冊のリストに、クレインの『オープン・ボート』と『青いホテル』の二作品を含めるなど、高く評価していました。このリストにはトルストイの『戦争と平和』やドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、スタンダールの『赤と黒』、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』など、世界文学の傑作が網羅されています。

 

『オープン・ボート』は、クレインが通信員として向かうために乗っていた船がフロリダ沖で沈没したため、三十時間漂流した後に生還したという彼自身の実体験に基づくものです。

 

最初はノンフィクションの手記として発表され、後にフィクションとして『オープン・ボート』という作品にまとめられたものです。

 

ちなみに、ヘミングウェイが若い作家志望者に示したという必読書十六作は、こうなっています。

 

『青いホテル』スティーヴン・クレイン
『オープン・ボート』スティーヴン・クレイン
『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール
『ダブリン市民』ジェームズ・ジョイス
『赤と黒』スタンダール
『人間の絆』サマセット・モーム
『アンナ・カレーニナ』トルストイ
『戦争と平和』トルストイ
『ブッデンブローク家の人々』トーマス・マン
『歓迎と別れ』ジョージ・ムーア
『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
『英語韻文集』オックスフォード大学出版
『大きな部屋』E.E.カミングス
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
『はるかな国 とおい昔』ウィリアム・ハドソン
『アメリカ人』ヘンリー・ジェームズ

 

オープン・ボート

 

沈没した蒸気船コモドア号から脱出した四人の男たちの、
事実にもとづく物語

スティーヴン・クレイン 著
明瀬 和弘 訳

誰も空の色はわからなかった。視線は水平線に向けられ、自分たちに次々に迫ってくる波を見つめていた。波はスレートのような濃い灰色で、頂点は白く泡だっていた。四人とも海の色ははっきり見えていた。水平線は狭くなったり広くなったり、急に沈みこんだり盛り上がったりしていて、その縁はけわしい岩山のようにギザギザになっていた。

彼らが今乗っているボートは、たいていの家にあるバスタブよりも小さいくらいだった。次々に押し寄せてくる波は悪意に満ち残忍で、切り立っていて、しかも大きかった。こういう波の頂点にある泡は、舟を支える実体がないので、小さなボートの操縦ではやっかいだ。

コモドア号の調理担当だったコックはボートの舟底にしゃがんで、自分と海を隔てている六インチの船べりを見つめていた。両腕の袖をまくり上げていたが、舟底にたまった海水をくみ出そうとするたびに、ボタンをとめていないベストの前みごろが垂れ下がって揺れた。「くそったれ! いまのはやばかったな」と何度も言った。そう言うたびに、コックはきまって大荒れの東の海面を見た。

機関士は小さな救命ボートに積んであった二本のオールの片方で舵をとり、ときどきふいに立ち上がっては船尾ごしに渦をまいて飛びこんでくる海水を避けようとしていた。そのオールは薄くて小さく、何度も折れそうになった。

乗客だった記者は、もう一本のオールで漕ぎながら、波を眺めては、自分はどうしてこんなところにいるんだろうと思っていた。

負傷した船長は船首で横になっていた。この時点ではすっかり意気消沈し、周囲の状況にも無関心になっていた。どんなに勇敢で忍耐強い人でも、会社が倒産したり、戦闘で敗北したり、船が沈んだりというような場合には、否応なく、少なくとも一時的には、こういう心理状態に陥ったりするものだ。新米だろうとキャリア十年のベテランであろうと、船長の心は船と共にあるものなのだ。しかも、この船長は、夜明け前の薄明で見た光景、振り返った七つの顔と、先端に白い玉をつけたトップマストの帆柱が波に揺れながらだんだん低くなり、やがて沈んでいった様子に衝撃を受けていた。

それから彼の声音に変化が生じた。言葉や涙をこえた、落ち着いてはいるが、深い悲しみが感じられた。

「舟の向きはもう少し南だ、ビリー」と、船長が言った。
「もう少し南ですね、船長」と、船尾の機関士が応じた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (50)

元の社会へ




それからの二日間の航海についてはほとんど覚えていないし、ノートにも何も書いてない。快適な風景の中を川は安定して流れていた。青い服を着た洗濯女たちや青いシャツを着た釣り師たちが川岸の緑に変化をつけていて、この二つの色は、忘れな草の青い花と葉のようだった。忘れな草のシンフォニー。フランスの詩人テオフィル・ゴーティエなら、この二日間に見えた景色をこう描写しただろう。空は青く、雲一つなかった。川は平原をゆるやかに流れていき、なめらかな川面には空や岸辺が映っていた。洗濯女たちが大きな声でぼくらに笑いかけ、ぼくらはといえば、川を下る間ずっと、寝ぼけまなこで、とりとめもなく物思いにふけったりしていたが、その間も木々のふれあう音や川の音は伴奏のように聞こえていた。

川はまさに大河の風格でとぎれることなく流れていて、そのことはずっと念頭にあった。ここまで来ると川も終着点も近く、十分に決意をかためた成人男子のように、力強く、そしてゆったりと流れていた。ル・アーブルの砂浜では、波が音をたてて岸辺に打ち寄せていた。

ぼくはといえば、バイオリンのケースのようなカヌーに乗って、この動く大通りのような大河を移動していきながら、海を待ち遠しく感じはじめていた。文明化された人間にとって、遅かれ早かれ、文明に戻りたいと思う時が来るものなのだ。ぼくはパドルを漕ぐのにも疲れたし、人の生活の周辺で生きていくというのにも飽きてきた。もう一度、実社会に戻りたいと思った。仕事につき、自分の言うことを理解してくれる人々と、好奇の対象としてではなく同じ条件の人間として、会ってみたいと思った。

そして、ポントアーズで受け取った一通の手紙で、ぼくらは旅を終える決心をし、雨のときも日光が輝いているときもずっとぼくらを楽しませてくれたオアーズ川からカヌーを引き上げたのだった。長い距離を航海し、ぼくらと運命を共にしてくれたが、別れはいつか来るものだ。ぼくらは実社会から離れたところを旅してきて、今やっとなじみのある場所に戻ってきた。ここでは、人生そのものが激しく動いていて、パドルを漕がなくても人生という冒険の渦中に否応なく投げだされてしまう、そういうおなじみの世界に戻ってきたのだ。劇中の航海者のように故郷に戻ってきて、運命によりぼくらの周囲がどう翻弄されたのか、家に戻るとどんな驚きが待っているのか、留守中に世の中がどれほど、そしてどんな風に変わったのかを知らされる。カヌーは日中はずっと漕いでいられるが、夜になれば自分の部屋に戻ることになるし、ストーブの脇で愛や死が待っていたりするのだ。最も美しい冒険とは、ぼくらが探し求めて出かけていった先にあるものではないのだ。

[了]

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『スティーヴンソンの欧州カヌー紀行』は今回で終了です。
次回からは米国の作家、スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』(新訳)をお届けします。
これはジャーナリストだった著者が実際にフロリダ沖で体験した船の沈没と救命ボートでの脱出をもとにしたフィクションで、ヘミングウェイは小説志望者の必読書として、16冊の作品リストの冒頭にこの作品をあげています。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (49)

彼がワイン片手に語る体験談は傾聴に値した。話がとてもうまくて、自分の失敗談も笑いにまじえて披露したし、大海原で危険に遭遇し、押し寄せる波の音をきいたときのように、いきなり深刻な顔になったりした。二人分の鉄道料金と宿泊費で三フラン支払わなければならないのに、前の晩の公演で得た金は一フラン半だけだったとか、客席の前列に金持ちの市長が座っていて何度もフェラリオ嬢をほめくれはしたものの、その夜の公演では三スーしか払わなかったとか、そういう話だ。地方の役人が旅芸人の芸術家に注ぐ目も厳しかった。そう! ぼく自身もそういう仕打ちを受けたことがあるのでよく知っている。ぼくもまったくの誤解から情け容赦なく収監されたことがあるのだ。デヴォーヴェルサン氏が歌う許可を得るために警察をたずねたときのことだ。警察官はくつろいでたばこを吸っていたが、氏が入っていくと丁寧に帽子をぬいだ。「おまわりさん」と、氏は話しかけた。「私は旅公演をしている者なのですが──」 すると、くだんの警官はすぐに帽子をまたかぶったという。太陽神アポロの仲間として芸術を追求している者に対する礼節など持ちあわせていないのだ。「そんな感じで、ひどいもんですよ」と、デヴォーヴェルサン氏は煙草を持つ手を動かしながら言った。

とはいえ、ぼくが一番面白いと思ったのは、放浪生活の困難や受けた侮辱や苦しみについて夜を徹して話をしていたとき、氏が感情を爆発させたことだ。そういう生活をするくらいなら百万くらいの大金を手にして普通の暮らしをしたほうがいいなと誰かが述べ、フェラリオ嬢もそっちがいいと認めたときだった。「そうじゃない、私は違う──私はそうは思わない」と、デヴォーヴェルサン氏はテーブルを手でたたきながら叫んだのだ。「世の中に失敗者がいるとすれば、それは私でしょうよ。私は芸術にたずさわっていたし、その当時は上手にやれてましたよ──何人かには引けをとらず──そして、それ以外の者たちと比べたら、たぶんもっと上手に。今となっては過去のことなんですがね。今は旅をしながら、つまらない歌をうたって小金を稼ぐ生活をしていますが、私が自分の人生を後悔していると思いますか? 牛のように太った市民になっていたほうがよかったとでも? いや、そうなったらもう私は私でなくなってしまう! 私は舞台で何度も拍手喝さいされたことがありますが、そんなことはどうでもいいんです。劇場で誰も拍手しないときに、言葉の抑揚だとか、台詞と仕草の絶妙なバランスだとか、そういうコツをつかんだと人知れず感じる瞬間があったりもするんです。つまり、喜びとは何なのか、物事をうまくやるとはどういうことか、芸術家であるとはどういうことかということを、私は自分で体験して知ってるんです。そうして、芸術とは何かを知るということは、日常のささいなことでは見い出せない、いつまでもつきることのない興味を持ち続けられるということでもあって、それは、いわば──宗教みたいなものなんですよ」

ぼくの記憶があいまいだったりフランス語の理解に誤りがあるかもしれないが、氏はだいたいそういう意味の信念を表明したのだった。ギターとたばことフェラリオ嬢のことに加えて、彼の本名をここで出したのは、ほかの旅人が氏と出会う可能性もあるだろうと思ったからだ。彼のように誠実に美を追及していて運にめぐまれない人については、周囲の人はもっと丁重に遇してもよいのではなかろうか。詩の守り神でもある太陽神アポロが、これまで誰も夢想だにしなかった詩句を氏に贈ってくれたり、川では銀色に輝く魚が次から次へと氏のルアーにかかりますようにと、祈らずにはいられない。冬の旅で寒さに苦しめられず、ふんぞりかえった村の小役人に侮辱されず、彼があこがれのまなざしで見つめながらギター伴奏をしていたフェラリオ嬢がこれからも彼から離れることがありませんように!

一方、プレシーの人形劇の方はさんざんだった。『ピラムスとティスベ』と題する死ぬほど退屈な五幕物が演じられたが、全編すべてが人形と同じくらい長ったらしい十二音節のアレクサンドル格の韻律で書かれていた。人形の一つが王で、もう一つは邪悪な顧問官、第三の登場人物が比類ないほど美しいというティスベだった。他にも衛兵や頑固なおやじや通行人がいた。ぼくが座って見物していた二幕か三幕では何も特別なことは起こらなかった。しかし、時間と場所と筋は一つに限定され、三一致の法則は守られていた、そして劇全体は、例外が一つあったが、古典における役割にそって展開した。その例外とは、やせた人形が演じる、木靴をはいた道化の田舎紳士で、彼は韻文ではなく散文を語ったが、ひどいなまりがあって、それが観客には受けていた。君主に反逆し、他の人形の口を木靴で蹴りつけ、韻文調で恋を語る求婚者がいないときには、きついなまりのある、ふざけた散文でティスベをかきくどくのだ。

劇の全体を通して笑えたのは、この田舎紳士の所作と、興行主が劇団員を整列させ、彼らが毀誉褒貶には関心を払わず芸術に身をささげていることをほめた、ユーモラスな前口上のところだけだった。とはいえ、プレシーの村の人たちは芝居を楽しんでいたように思えた。実際に何かが演じられ、それを見るために料金を払っているのであれば、それを楽しもうという気にはなるものだ。夕日が沈むころ、ぼくらがそれを見るのにかなりの料金を払い、また神様がサンザシの花が咲く前にふれ太鼓をどんどん鳴らして宣伝したりすれば、ぼくらはその美について大騒ぎをすることだろう! だが、こうしたことについて、愚かな人間は、得がたいよき仲間と同じように、そういうものをすぐに当たり前だと思いこんで、じっくり眺めるのをやめてしまう。馬車に乗った商売人は、路傍に咲いている花や頭上の空の様子には目もくれず、通り過ぎていくのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (48)

以前、セーヌ・エ・マルヌ県の宿に滞在していたとき、旅芸人の一行がその宿にやってきたことがあった。父親と母親、それに夫婦の娘二人と色の黒い若者で、娘の方はどちらも歌をうたったり芝居をしたりしたものの、これで舞台に立つとは厚かましいと思えるレベルで、若者の方はどこか教師のようでもあり生意気な塗装工のようでもあるといった感じだったが、歌も演技も悪くはなかった。こういうお粗末な旅芸人の一行に芸達者という言葉を使ってよいのであれば、一座で一番の芸達者は母親だった。興行主の父親は、おかしな田舎者をうまく演じている妻をどうほめてよいかわからず、ビールで赤くなった顔をしてうなづきながら「ま、ご覧になってください」とだけ述べた。ある夜のこと、彼らは厩舎前の庭にランプをともして上演を行った。ひどく出来の悪い出し物で、村の観客たちも冷ややかに眺めていた。翌晩はランプが点灯されるとすぐに雨が激しく降ってきたので、彼らは大急ぎで荷物を片づけ、寝泊まりしていた納屋に避難しなければならなかった。体は冷え切り、びしょ濡れで、晩飯も抜きになってしまった。朝になり、ぼくと同じように旅芸人に好感を持っている親しい友人が連中をなぐさめようと少しばかりカンパを集めてきたので、ぼくが連中のところへ持っていくことになった。その金を父親に渡すと、彼は丁重に礼を述べ、台所で一緒にコーヒーを飲みながら、道路や観客について、また景気が悪いことなどについて話をした。

ぼくが戻ろうとすると、その旅芸人の親父は立ち上がって帽子を脱いだ。「すいません」と彼は言った。「ずうずうしいと思われるかもしれませんが、もう一つお願いがあるんです」 ぼくはとたんにうんざりしかけた。が、彼は「私らは今夜も公演をするんです」と語を継いだ。「もちろん、あなたやお友達からお金はいただきません。もう十分いただきましたからね。でも、今夜の出し物は本当にいいものなんです。あなた方に来ていただけると信じていますよ」 それから、肩をすくめて笑った。「おわかりでしょうけど、これも芸術家の見栄ってやつです!」 これだ! 芸術家の見栄! ぼくが人生についてそれほど捨てたものではないと感じるのは、こういうことがあるからだ。くたびれた服を着て、酒をちびちび飲んでいる、能なしの放浪者にも見えるような人間が、こうやって紳士然としてふるまい、芸術家としての見栄や矜持を持っているのだ。

とはいえ、この人よりもぼくの印象に残っている人がいるのだが、ヴォーヴェルサン氏という。最初に会ったのは二年ほど前だが、ぼくとしては、これからもまた再会できればと本気で願っている。ここで彼の最初の出し物を紹介しておこう。このプログラムは朝食のテーブルに配ってあったもので、楽しかった日々の思い出としてとっておいたのだ。

皆様
マドモアゼル・フェラリオとデヴォーヴェルサン氏が今夜歌う曲目をご紹介します。

マドモアゼル・フェラリオの歌う曲は「ミニオン」「小鳥」「フランス」「フランス人が眠っている」「青い城」「どこへ行きたいの?」です。

デヴォーヴェルサン氏の歌う曲は「マダム・フォンテーヌとロビネット氏」「馬に乗って」「不幸な夫」「おだまり、子供たち」「ちょっと変わった私の隣人」「このような幸せ」「私たちは間違っている」です。

彼らは食堂の隅にしつらえられた舞台で公演を行った。口に葉巻をくわえたデヴォーヴェルサン氏がギターをかき鳴らし、従順で忠実な犬のように、マドモアゼル・フェラリオから目を離さない様子は見ものだった! 公演の最後にトムボラという福引券を賭けた一種のビンゴゲームのような競売が行われた。ギャンブルの刺激すべてが織りこまれているが、夢中になったからといって恥ずかしいわけではないという、娯楽としては申し分のないものだった。というのも、皆が負けるのだ。デヴォーヴェルサン氏とマドモアゼル・フェラリオのために皆がポケットを探ってお金を出し、それを失うのを競いあうのである。

デヴォーヴェルサン氏は小柄で、黒々と豊かな髪をして、愛想がよく魅力的な雰囲気をまとっていた。歯並びがよければ、その笑顔の魅力はもっと増したことだろう。氏はパリのシャトレ座で役者をしていたのだが、舞台のフットライトの熱やまぶしさのため神経をいためてしまった。そういう舞台には向いていなかったのだ。そのとき、マドモアゼル・フェラリオ、つまり当時のアルカザール座にいたマドモアゼル・リタ嬢が旅芸人になることを選択した彼と人生をともにすることに同意した。「彼女の思いやりは忘れられません」と彼は言った。とても細いズボンをはいていて、氏を知る者の間では、それをどうやって脱いだり着たりするのかというのが問題になっていたほどだ。彼は水彩でスケッチを描き、詩を書き、辛抱強い釣り師でもある。宿の庭の隅を流れている澄みきった川で、魚を釣りもせずに、何日もずっと釣り糸をたらしていたこともある。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (47)

ぼくはこの騒動にひどく驚かされた。というのも、こういうフランスの旅興行の連中とはよく出会っていて、いつも楽しかったからだ。旅芸人の存在は、人生についてしっかり考えようとする者にとっては、それが会社とか商業主義に対する反抗でしかなかったとしても、人生は必ずしもぼくらが続けている普通の暮らしのようなものである必要はない、ということを思い出させるものとして大切なはずだ。ドイツの楽隊が森や草原をめぐる地方公演で早朝に町を出るというだけで、ぼくらの空想にはロマンティックな香りがもたらされる。三十歳以下の者で、ジプシーのテント小屋を見て心をゆり動かされない者はいないだろう。少なくとも「ぼくら全員が紡績業者みたいに経済にしばられているわけではない」し、そういう境遇に首までどっぷりつかりきっているわけでもない。まだいくらかは人間らしさが残っていて、金勘定の損得には拘泥せず、職を投げうってでもバッグ一つで放浪の旅に出ようという若者もいるのだ。

英国人には、フランスのアクロバティックな演芸パフォーマンスをする連中と交流するための特別な場がある。というのも、イングランドは体操の母国とでもいえる国だからだ。体にぴったりのタイツをはき、スパンコールのついた派手な服を着た連中であれば英語の単語の一つや二つは知っているはずだし、英語でいう「ハーフ・アンド・ハーフ」というビールと他の酒をまぜたものを飲んだり、イギリスの演芸場で公演した経験者もいるだろう。つまり、そういう連中は、職業的には、ぼくと同国人なのだ。ベルギーのボートクラブの人々のように、ぼくみたいな者に対しても自分と同じアスリートに違いないと思って仲良くしてくれるのだ。

もっとも、ぼくはプレシーで出会ったタイプの旅芸人はあまり好きではない。演目の構成全体に芸術を感じさせるところが少ないかまったくないし、志が低く地面をはいずりまわっているだけだし、そもそも魂などというものには依存していなくて、そのほとんどが高尚な発想というものにはほど遠いからだ。とはいえ、道化芝居にやっと出演できる程度の駆け出しの役者であったとしても、そういう生き方を選んだ者は、新しい考えにも柔軟に対応することができる。そういう人生を選択した者には、何かしら金勘定以外の考えるべきことが存在する。彼らは自分なりのプライドを持っているし、それ以上に重要なのは、自分では決して達成できないような目標を抱えていたりもするということだ。完璧な演技という目標を実現するまでは終わることのない、いわば生涯続く巡礼に出ているようなものなのだ。一日一日と上達していくこともあるだろうし、あるいはその望みを放棄することもあるだろうが、自分がかつてはそういう高い理想を掲げていたことや、輝くスターに恋こがれていたのを忘れることはないだろう。「恋をしないより、愛して失恋するほうがまだまし」なのだ。月の女神セレーネが美青年のエンデュミオンに一目ぼれせず、彼が普通の娘と結婚して豚を飼っていたとしても*1、月の女神に夢で恋したことのある彼のしぐさにはどこか優美なところが出てくるだろうし、高邁な理想を胸に抱いていたりもするのではなかろうか? 教会で出会う武骨な連中は彼の平凡な妻の方に興味をそそられるかもしれないが、エンデュミオンの心には高貴な思い出が残っていて、それがスパイスのように活力を与え高い矜持をもたらしてくれるのではあるまいか。

芸術の世界の端っこでそれにふれているだけでも、人の表情には立派な刻印が残る。かつてシャトー・ランドンの宿屋で、ある集団と食事をしたことを思い出す。連中のほとんどは明らかに行商人で、他は裕福な農民だったが、一人だけブラウスを着た若者がまじっていて、その顔つきは残りの連中とは明らかに異なっていた。より洗練されていて生気がほとばしり、生き生きと表情豊かで、いろんな物事にも慣れているのがわかった。ぼくと相棒は、こいつ何者だろう、何をしてるんだろうといぶかったものだ。シャトー・ランドンで市場が開かれたときだった。出店を眺めながら進んでいくと、その答えが得られた。というのは、農民たちの踊りにあわせて、彼が情熱的にバイオリンを演奏していたからだ。彼は吟遊詩人のごとく各地を放浪しながらバイオリンを演奏していたのである。

脚注
*1: ギリシャ神話では、月の女神セレーネが山野で眠っている羊飼いの美青年エンデュミオンに恋をし、夜ごと彼の夢に入りこみ、五十人もの子をもうける、という展開になる。
エンデュミオンは人間でありながらセレーネの願いで眠ったまま不老不死の存在となるが、仮にセレーネと恋仲にならなくても、月の女神と愛し合ったという思い出だけで、その後の人生を気高くいきていけるのではないか、というのが若き日のスティーヴンソンの感慨。
ちなみに、美少女戦士セーラームーンは、このセレーネにまつわる神話が下敷きになっている。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (46)

プレシーと人形芝居

プレシーには夕方に着いた。このあたりの平原にはポプラが生い茂っていた。オアーズ川は夕日をあびて輝き、大きなカーブを描いて丘陵地帯のふもとを流れている。薄い霧がかかりはじめ、距離の検討がつきにくくなった。川沿いの牧草地のどこかから聞こえてくる羊の鈴の音と、丘を下っている長い道を進む一台の荷車のきしむ音の他には、何も聞こえてこない。庭に囲まれた館や通り沿いの店はすべて、前日に見捨てられたばかりのように思えた。静かな森の中にいるときのように、あまり音をたてずに歩かなければという気がしてきたほどだ。ところが、角を曲がると、いきなり芝生に囲まれた教会でクロッケーをしているパリジャン風の恰好をした娘たちに出くわした。娘たちの笑い声やボールとスティックの当たる乾いた音が、近隣に陽気に響いている。コルセットをつけリボンで飾ったスリムな娘たちを見てしまうと、ぼくらの心も揺り動かされた。パリの香りのするところまで来たという感じがした。プレシーが旅行先のおとぎの国ではなく、現実に生活の場所であることを示すように、ぼくらと同類の、クロッケーをしている人々がそこにいた。正直に言うと、農家の婦人たちは女として勘定に入れにくいし、そういう婦人たちが下着姿で畑を耕していたり料理をしている様子をずっと見てきたものだから、ちゃんとした服装でクロッケーをしている集団は異質で、のどかな風景から浮き上がっている感じがして、ぼくらもすぐにおばかな男子に戻ってしまった。

プレシーの宿屋はフランスで最悪のものだった。スコットランドでも、こんなひどい料理は食べたことがない。どちらもまだ十代のような兄妹がやっていた。妹の方が食事らしきものを作り、どこかで酒を飲んでいたらしい兄が、これもほろ酔いの肉屋を連れて入ってきて、ぼくらが食事をする間の相手をしてくれた。サラダには生ぬるい豚肉が入っていたし、シチューには正体不明の、形が変わる妙なものが浮いていた。肉屋はパリの生活はよく知っていると言っていたが、その話でぼくらを楽しませてくれた。その間、兄の方はビリヤード台の端に座って、不安定に倒れそうになったりしながら葉巻の残りをちびちび吸っている。そうやってわいわいやっている最中に、ドンという太鼓の音が家の前で鳴り、誰かのしわがれ声が何かの口上を述べはじめた。人形芝居の男が、その晩の出し物をふれまわっているのだった。

少女たちがクロッケーをやっていた芝生とは別のところにある、フランスでよく見かける市場用の壁のない屋根だけの小屋に舞台がしつらえてあり、ろうそくがともっていた。ぼくらがそこまで歩いていくと、興行主たちは客を迎える準備にかかっていた。

その場所では、なんともバカらしい問題が起きてしまった。興行側では一定数のベンチを並べていて、それに座った人は観劇料として二スー*1を支払うことになっていた。すぐに満席になり──とにかく人が多い──前には進めなくなる。興行主の女房が集金に出てくると、タンバリンの音が聞こえたとたん、客は座席から立ち上がり、ポケットに手を突っこんだまま素知らぬ顔で外に出てしまう。こんなことをされたら天使だって怒るだろう。興行主が舞台の上からどなった。俺はフランス全土をくまなくまわってきたが、どこでだって、そう「ドイツとの国境に近いところでだって」こんなひどい真似をする連中には出くわしたことがない、と。そうして彼は、この泥棒め、詐欺師め、悪党めと叫んだ! 集金にまわった女房も甲高い声で口論に応戦した。他の場所でも同じだったが、相手を侮辱する語彙が女にはどれほど豊富で、とんでもない毒舌を吐けるものかということを、ぼくはここでも述べておきたい。客たちは興行主の熱弁には愉快そうに笑っていたが、女の痛烈な攻撃に対してはむっとして叫び返した。男連中の痛いところをついたのだ。彼女にかかれば村の評判もかたなしだ。彼女に反論する連中の声が聞こえてはくるものの、すぐさま倍返しされていた。ぼくのそばにいた二人の老婦人はお金を払って着席していたのだが、顔を真っ赤にして憤慨し、こうした興行の下品な振る舞いについて、わざと聞こえるように声高に話しはじめた。すると、それを耳にした興行主の女房はその老婦人たちのところまでさっと下りてきて、お上品な奥様方から、この地元の人たちにもっと正直に行動するよう説得していただければ、あたしら芝居小屋の者も、もっとお上品にふるまえるんですけど、と述べた。老婦人たちはたぶんその晩は腹いっぱいの食事をしワインも飲んでいただろうし、芝居小屋の連中だって食事は好きだし、わずかな儲けをみすみす目の前で盗まれるようなことをさせるつもりはなかった。というわけで、興行主と若い観客との間でつかみあいの喧嘩になり、興行主は人形劇で人形が投げ飛ばされるように簡単に突き飛ばされ、どっと冷笑をあびた。


脚注
*1: スーはフランス革命前の貨幣の単位(補助通貨)で、2スーは10サンチーム(1フランの10分の1)に等しい。なお現在、フランは欧州連合の成立にともないユーロに移行している。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (45)

しかし、クレーの教会には、愚かというよりもっと悪いものが掲示されていた。それまで耳にしたことはなかったのだが、リビング・ロザリオの会という団体があって、そこがやっていることだった。貼ってあるポスターによれば、この会は一八三二年一月十七日、グレゴリウス十六世の書簡によって設立されたという。教会の彩色されたレリーフに描かれているところでは、それとは別のあるとき、聖母マリアがロザリオを聖ドミニクに与え、幼児だったキリストが別のロザリオをシエナの聖カタリナに与えたことにより設立された、とある。聖母や救世主自身に比べると教皇グレゴリウスでは印象が薄くなってしまうが、事実としてはこっちの方が近いだろう。この教会が純粋に信仰上のものなのか、慈善行為を目的としているのかについては、はっきりとはわからなかった。少なくとも非常に組織化されていて、月当番の週ごとに担当として十四名の既婚婦人や未婚女性の名前が記入されていた。たいていは、そのグループの責任者として、先頭に既婚婦人一名の名前が記されていた。その協会の義務を果たすと、罪の全部または一部が許されるらしい。「ロザリオの祈りをささげると罪の一部は許される」「ロザリオの祈りを必要な回数だけとなえる」ことで罪の一部がすぐにも許される、というのだ。人々が自分の罪を消すため、預金通帳の残高を気にするように神に奉仕するというのであれば、そうした打算的な意識というものは必ずや人との接し方にも現れてくるだろうし、となれば人間の生活そのものが、なんとも悲しく、あさましいものになりさがってしまうのではないかと不安にならざるをえない。

とはいえ、もっとましなことも一つ書かれていた。「こうした罪の償いが免除されるという仕組み」は、すでに煉獄に入ってしまった人の魂にも適用できるらしいのだ。だったらお願いだから、クレーの婦人たちにはそのすべてをすぐに煉獄にいる魂に適用してもらいたい! スコットランドの国民的詩人だったロバート・バーンズは純粋な愛情で祖国に奉仕することを選び、晩年の詩については報酬を受け取らなかった。彼女たちは、生活のため収税吏を務めていたこの詩人の真似をしてみてはどうだろう。そうしたからといって煉獄にいる人々の魂の状態がさほど改善されるわけでもあるまいが、オアーズ川流域に住んでいるクレーの人々には、現世でもあの世でも今以上に悪い扱いを受けなくてすむ人が出てくることだろう。

航海中の日誌を元に原稿を書きながら、生まれも育ちもプロテスタントであるぼくが、こうしたポスターを理解し、その価値に見合う正しい対応ができるのかと問われれば、ぼくにはその資格はないと答えざるをえない。ぼくと同じように、こうしたことがカトリックの信者にとっても醜悪で侮辱的だと感じられるとは思えないからだ。このことは、ユークリッド幾何学の問題と同じくらいに明白だ。というのも、これを信じている人たちは弱いわけでも邪悪でもない。彼らは、まるで聖ヨセフがまだ村の大工ででもあるように、この聖人の使命を銘板に掲げ、「必要な数のロザリオの祈りをささげ」ていて、それであたかも神に対して誇れる仕事をしたかのように免罪を手にし、教会の外では、このすばらしい川の流れを平然とながめ、オアーズ川よりはるかに大きな川を集めたよりもずっと大きな宇宙の星々を胸を張って見上げることができているのだ。プロテスタントであるぼくの目には見えず、ぼくが夢見ているものより気高くて宗教的にも深い精神を持つ、ぼくとは違う人々が存在するのは間違いないだろう。

こうした人々は、ぼくのような人間に対しても同じように許しを与えてくれるだろうか! クレーの婦人たちのように、ぼくが寛容というロザリオの祈りをとなえれば、ぼくにもすぐに罪の許しが与えられますように。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (44)

昼食のために立ち寄ったクレーでは、水上に浮かんでいる洗濯台にカヌーを係留した。正午だったので、赤い手をした声の大きな洗濯女たちがいっぱい来ていて、彼女たちの遠慮のない冗談だけがこの地の記憶として残っている。読者が気になるのであれば、本を調べてこの地の歴史上の出来事を一つか二つ紹介することもできないことはない。イギリスとの長く続いた戦争でもよく出てきた町だからだ。とはいえ、ここでは、ぼくは全寮制の女子校のことを書いておこう。女子校ということでぼくらも興味があったし、生徒たちもぼくらに興味しんしんだった。少なくとも、校庭付近に少女たちがいて、ぼくらは川でカヌーに乗っていて、通過するときにハンカチを振ってくれたりしたのも一人や二人ではなかったということだ。そのことでぼくの胸は高鳴ったのだが、ぼくらがクロケットの試合か何かで出会ったのであれば、彼女たちもぼくらも互いにうんざりして相手にしなかったはずだ! ぼくは、こういう出会いが好きなのだ。二度と会うことのない相手に投げキッスをしたりハンカチを振ったりして、頭の中であれこれ想像をふくらませるのである。それは旅行者にとって刺激になるし、どこでもたえず自分は旅の者というわけではないこと、さらに自分の旅が現実の生活が進展していく途中の昼寝のようなものだということを思い出させてくれるのだから。

クレーの教会の内部には特に目立つものはなかった。窓のステンドグラスからあふれた派手な色彩が彫りこまれた悲劇が浮かびあがらせていた。ぼくをとても楽しませてくれたものが一つあった。運河を航行する船の忠実な模型が丸天井から吊り下げられていたのだ。クレーの聖ニコラス号を天国へと導きたまえという願いが書かれていた。その模型はよくできていて、水辺で遊んでいる少年たちがもらったら喜びそうなものだった。しかし、ぼくが面白いと思ったのは、それによって想起される危険の程度だ。大海原を航海する船の模型を吊るすのは問題ないし受け入れられもする。世界各地に航路を刻み、熱帯や極寒の地を航海して危険にさらされるというのであれば、大海原を航行する船の模型を吊るしてもよいし歓迎もされるかもしれない。熱帯や凍てつく極地を訪ねるのだから、ローソクやミサをささげる価値もあるだろう。だが、クレーの聖ニコラス号は、草が生い茂りポプラの枝が頭上におおいかぶさっているような運河をおとなしい馬に引かれて何十年もすごすのであって、船長は舵をとりながら口笛だって吹いていられる。しかもそうした航海はすべて、緑の陸地で展開され、航行中もずっと村の鐘楼から見えているのだ。なにも神様に願わなくても実現できそうなことではないか! おそらくは船長はユーモアを解する人だったか、ある意味の預言者で、このありえない奉納品で人々に人生の厳しさを思い出させようとでもしたのだろう。

クレーでは、ノアイヨンのときと同様に、律儀な聖ヨセフに人気があるようだった。日付も時間も指定できるからだ。祈りがタイミングよく報われた場合、それに感謝した人々はたいていは奉納額にその内容を書き記していた。時間が大切な願かけには聖ヨセフが適任というわけだ。この聖人の果たす役割は、ぼくの故国、イギリスの宗教界では非常に小さいので、こうしたフランスでの人気について興味深く感じた。だが、一方で、この聖人について、きっと願いをかなえてくれるとこれだけ強く信じられていると、この聖人の方でもこうした奉納額に感謝するよう求められているのではないかと危惧せざるをえない。

こういうことは、ぼくらプロテスタントには馬鹿げたことだし、いずれにしても重要ではない。自分に施された恩恵に対する人々の感謝が賢明に受けとられているのか、疑わしく表明されているのかは、結局のところ、人々が感謝している限り二次的な問題にすぎない。本当の無知というのは、自分が恩恵を受けたことを知らなかったり、自力で勝ちとったと思いこんでいる場合だ。自分の腕だけで成功したという者の自慢話ほど滑稽なものはない! 混沌の中に光を示すことと、都会の片隅で特許品のマッチでガスを点灯させるのとでは、明らかな違いがある。ぼくらが何をしようとも、ぼくらの手には、たとえ指だけであっても、必ず何かが施されているものなのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (43)

オアーズ川を下る(続き) ── 教会の内で

まずコンピエーニュからポン・サント・マクサンスまで下った。翌朝、六時ちょっと過ぎに宿の外に出てみた。空気は刺すように冷たく、霜もおりているようだった。広場では二十人ほどの女たちが朝市に出された品物に群がって声を張り上げていた。値段の交渉であれこれ言いあう声が、冬の朝の雀のさえずりのように断続的に聞こえてくる。通行人はちらほらいたが手に息をはきかけて暖め、血行をよくしようと足踏みして木靴をがたがた鳴らしたりしている。街路はまだ冷たい影におおわれていたが、煙が出ている頭上の煙突には日が差し、黄金色に輝いていた。一年のこの季節に早起きすると、起床したときは十二月の寒さだったものが、朝食を食べるころには六月の陽気になっていることもある。

教会までの道がわかったので行ってみた。教会には、生きた礼拝者だったり死者の墓だったり、何かしら見るべきものがある。真摯な熱意や空虚な欺瞞に包まれていたりする。歴史的に由緒のあるものではないとしても、そこで暮らす人々についての情報が得られるのは確かだ。教会の内部は屋外に比べてさほど寒くはなかったが、どこか冷え冷えとしていた。白い祭壇のまわりは極寒の地のように見えた。人の気配も少なく、寒々として、英国国教会に比べて大陸側の派手なカトリックの祭壇はかえってわびしさを感じさせた。内陣に神父が二人座り、書物を読んだり告解者を待ったりしていた。祭壇から離れたところでは一人の老婦人が祈りをささげていた。健康な若い人々が寒くて掌に息をはきかけたり胸をたたいていたりしているときに、この老婆がロザリオを普通に扱っているのが不思議でもあった。それに気をとられたものの、それ以上に、ぼくは彼女の行動とその意味するものに何か失望を感じざるをえなかった。彼女は椅子から椅子へ、祭壇から祭壇へと動き、教会内をぐるっとまわっていた。聖廟の前まで来ると、どの聖人に対しても同じ数のロザリオで同じ時間だけ祈りをささげるのだった。経済の先行きにあまり楽観していない用意周到な資本家のように、彼女は安寧を願うあまり、さまざまな聖人やら守護神やらに分散投資して歎願しているらしかった。仲裁者を一人に絞って信用するというリスクをおかすつもりはないのだろう。一人と言わず聖人や天使すべてが最後の審判のときに彼女を擁護すべきだと思うように仕向けているのだった! それは、ぼくには、本当には信じきれていない、愚かな、無意識の、見え透いた偽善にしか思えなかった。

彼女は骨と皮だけの、死者と区別がつかないような老婆だった。彼女はぼくを一瞥したが、その目には表情というものがなかった。見るとはどういうことかの解釈にもよるだろうが、彼女はある意味で盲目といってもよかった。おそらく若いころには恋をし、子供も産んだことだろう。子供を育て、愛称をつけてかわいがったりもしたはずだ。しかし今となっては、そういったことすべてが過去のものとなり、彼女はその頃より幸福にもなっていなければ賢くもなっていないのだった。彼女が毎朝できる最善のことは、ここに来て、寒々とした教会の中で、来世の幸福を願うことだけなのだろう。ぼくは通りへと逃げ出し、すばらしい朝の空気を腹いっぱい吸わないではいられなかった。朝だって? 朝にこれほど厭世的であれば、どうやって夜まで過ごすというのだろうか! しかも、夜に眠れなかったりしたら、どうなるのだろうか? 七十歳までも生きた後で、自分の人生が間違っていなかったことを公衆の面前で示さなければならない人はさほど多くないというのは、幸運なことだ。こういう殺伐とした時代には、多くの人々は人生の最盛期に倒れ、どこか見知らぬ土地で自分の愚かな行動の償いをさせられるというのも、見方によれば幸運なことかもしれない。でなければ、病気の子供と愚痴ばかりのお年寄りを抱えて、人生そのものに嫌気がさしてしまうかもしれないではないか。

その日、カヌーを漕いでいる間、ぼくは自分の精神を立て直そうと努める必要があった。あの老婆のことが喉に刺さったトゲのように頭から離れなかった。とはいえ、やがて馬鹿になりきることができた。カヌーに乗って無心に漕ぎ、漕ぐ回数を数えつつ、それが何百になったか忘れたりしながら、それ以外のことは考えないようにした。ときどき漕ぐ回数が何百だったかをおぼえてべきだという不安にかられたりもしたが、そうなると楽しみが苦行になってしまう。そういう不安は漕いでいるうちに頭から消え、ぼくは自分が何をやっているのかもよくわからない状態でひたすら漕ぎ続けたのだった。