オープン・ボート 12

スティーヴン・クレイン

記者は漕ぎながら、足元で眠っている男二人を見おろした。料理長の腕は機関士の肩にまわされていた。服はやぶけ、疲れ切った顔をしていて、海に迷いこんだ二人の赤ん坊といった風だった。昔話にあった森に迷いこみ抱きあって死んでいたという赤ん坊を、奇怪な姿で再現したみたいな感じだ。

そのうち、彼はほとんど意識もなく漕いでいたに違いない。というのも、いきなり、うなるような波の音が聞こえたと思ったら、波がしらが音をたててボートに崩れ落ちたのだ。救命帯をまきつけた料理人が浮いて流されなかったのが不思議なくらいだった。料理長はそのまま眠っていたが、機関士は上体を起こし、目をぱちくりさせ、新たな寒さに震えていた。

「すまん、ビリー」と、記者は申し訳なさそうにいった。

「いいってことよ、坊や」というと、機関士はまた横になって眠った。

そのうち、船長もうとうとしているように思えた。大海原で、自分ひとりが漂流しているみたいだと、記者は思った。波の上を吹きすさぶ風の声は、なんともみじめな感じをいだかせた。

ボートの後方で、ヒューっと長くつづく音がした。黒い海で、夜光虫の放つ光が溝のように青い炎の航跡となってきらめいている。巨大なナイフで刻んだようだった。

それから静寂があった。記者は口を開けて息をし、海をながめた。

とつぜん、また別の風を切る音が聞こえたと思うと、さっきとは別の青みがかった光がさっと走った。今度はボートと並行に、オールを伸ばせば届きそうなくらいの近さだった。記者は巨大な影のようなひれが、透明感のある水しぶきをあげて海面を切り裂き、きらきら光る長い航跡を残していったのを見た。

彼は肩ごしに船長を見た。顔は隠れていたが、眠っているようだった。海の赤ん坊二人を見た。彼らも眠っているようだった。感情をわかちあう者が誰もいないので、記者は片側に少し体を寄せて海に向かって小さな声で毒づいた。

だが、そいつはボートの近くから離れなかった。船首や船尾にあらわれたかと思うと、右舷や左舷に出没し、その間隔も長かったり短かかったりしたが、きらきらと光る筋がさっと長く走り抜け、黒っぽいひれの風を切るヒューという音が聞こえた。そのスピードとパワーは感嘆すべきものだった。海面を、巨大な鋭い弾丸のように切り裂いていく。

じっと何かを待っているこいつの存在は、遊んでいるときに出会ってしまった人ほどの恐怖を彼には与えなかった。彼はただ海をぼんやり見つめ、低い声で毒づいただけだ。

とはいえ、本音では、こいつと一人で対峙するのは嫌だった。だれか仲間の一人が何かのはずみに目を覚まして、一緒に見守っていてほしかった。だが、船長は水がめにもたれかかって身動き一つしないし、機関士と料理長は舟底で爆睡しているのだった。

オープン・ボート 11

スティーヴン・クレイン

V

「パイだと」と、機関士と記者が怒ったようにいった。「そんな話するなよ、馬鹿野郎!」

「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えていたんだ。そしたら――」

海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。とうとう完全な闇が訪れ、南の海から射していた光が黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。

ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っていた。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足まで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力したが、ときどき波がボートにどっと入りこんだ。夜の、氷のように冷たい波だ。彼らはまたしても冷たい水でびしょぬれになった。彼らは一瞬、体をひねってうめき、また死んだように眠りこんだ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てていた。

機関士と記者の計画では、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。

機関士は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼んだ。「ちょっと交代してくれないか?」と静かにいった。

「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移った。二人は慎重に場所を入れ替わった。機関士は料理人に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。

海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。

記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」

船長はいつもの落ち着いた声で答えた。「そうだ。左舷から二点(22.5度)ほど離しておけ」

料理人は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけていた。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると、すぐに寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理人はストーブのように暖かかった。

オープン・ボート 10

スティーヴン・クレイン

低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。

「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」

「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」

 岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。

音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞った。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。

「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」

「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」

「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」

 そうこうしている間も、機関士はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関士が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前屈みになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。

「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」

忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる連中にときおり意識して声をかけていた。

「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」 その声は疲れていて低かった。

本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。漕ぎ手はといえば、ときどき波頭を抑えつけられるようなうなり音が聞こえる以外には、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。

料理長は頭を漕ぎ座に載せていたが、眼下の海水を興味もなく見つめていた。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」

オープン・ボート 9

スティーヴン・クレイン

砂浜は遠く離れていて、海面より低く見えた。小さな黒い人影を見分けるには、目をこらして探さなければならなかった。船長が棒きれが浮いているのを見つけたので、そこまでボートを漕ぎよせた。ボートにはなぜかバスタオルが一枚あった。それを棒きれに結びつけて、船長が振った。ボートを漕いでいると振り返って見ることもままならないので、聞いて確かめるしかない。

「あいつ、どうしてる?」

「立ったまま動かない。こっちを見てるんじゃないか……また動いた。家の方に向かってる……また立ち止まった」

「こっちに手でも振ってるかい?」

「いや、もうやってない」

「見ろよ、べつの男がやってきた」

「走ってるぜ」

「よく見ててくれよ」

「なぜか自転車に乗ってる。別の男と話をしてるな。二人ともこっちに手を振ってる。見ろよ!」

「何かビーチにやってきた」

「何だ、ありゃ?」

「ボートみたいだ」

「そう、たしかにボートだ」

「いや、車輪がついてるぜ」

「そうだな。救命ボートじゃない……馬車に乗せて引いてるんだ」

「救命ボートだよ、きっと」

「いや、えーと、あれは、あれは乗合馬車だ」

「救命ボートだよ」

「ちがう。乗合馬車だって。はっきり見える。ほら、あそこにある大きなホテルのどれかの馬車なんだ」

「畜生め、そうだな。馬車だ。乗合馬車で何をしようってんだろう? 救助隊のメンバーでも集めてるのか」

「そうだよ。見ろよ! 小さな黒い旗を振ってるやつがいる。乗合馬車のステップに立ってる。もう二人やってきた。ほら、みんな集まって話をしてるぜ。旗を持ってたやつを見てみろよ。もう旗を振ったりはしていないだろ」

「あれは旗じゃないんじゃないか? やつの上着だ。間違いない、あいつの上着だよ」

「そうだな。上着だ。上着を脱いで顔のまわりで振りまわしてる。振ってるのが見えるだろ」

「そうだな。あそこは海難救助の詰め所じゃなかったんだ。ただの避寒地のリゾートホテルの乗合馬車で、おぼれかかってる俺たちを乗客がたまたま見つけたってところか」

「あのくそったれ野郎、上着で何をしようとしてるんだ? 何か合図でも送ってるつもりか」

「北へ行けっていってるみたいだ。そっちに海難救助の詰め所があるに違いない」

「そうじゃない! あいつは俺たちが釣りをしてるって思ってるんだ。ただ合図してるだけさ。見えるだろう、ほら、ウィリー」

「うーん、あれが何かの合図だったらいいんだが。お前はどう思う?」

「意味なんてないんじゃないか。あいつ、ただ遊んでるだけだ」

「そうだな、もういちど陸に近づけとか、沖に出て待てとか、北とか南へ行けとか伝えようとしてるんだったら、そこには何か理由があるはずだ。だけど、よく見ていると、ぼうっと突っ立って上着を腰のあたりで車輪みたいに振りまわしてるだけの大馬鹿野郎だ」

「人が集まってきてる」

「大勢やってきたな。見ろよ! あれこそボートじゃないか?」

「どこ? ほんとだ、見えた。いや、あれはボートじゃない」

「あの野郎、まだ上着を振りまわしてやがる」

「俺たちが感心して眺めてるとでも思ってるんだろう。いいかげん、やめりゃいいのに。意味なんかないんだし」

「かもしれんが、俺には北へ行けっていってるようにも思えるんだがな。そっちの方に海難救助の詰め所があるんだ」

「おいおい、飽きもせずまだ振ってぜ」

「どんだけ長く振ってられんだよ。俺たちを見つけてからずっと振ってるんだぜ、あいつ。馬鹿じゃねえか。なぜボートを出してくれないんだ、あいつら。ちょっと大きな漁船でここまで来てくれさえすれば一件落着なのに、なんでそうしないんだろ」

「あ、もう大丈夫だ」

「やつら、すぐにボートを出して、ここまで来てくれるさ。今、俺たちのことをじっと見てるからな」

オープン・ボート 8

スティーヴン・クレイン著

そのとき迫ってきた波は、さらにおそろしかった。こういう波はいつだって、小さなボートに襲いかかって泡立つ海に引きづりこもうとする。波が迫ってくるときは、その前から長いうなりのような音がした。海になれていなければ、ボートがこれほど急激に盛り上がってくる波を駆け上がっていけるとは、とうてい思えない。岸までは、まだかなりの距離があった。機関士はこういう磯波にはなれていた。「いいか」と、彼は早口でいった。「このままだとボートはあと三分と持たない。といって岸まで泳ぐには遠すぎる。またボートを沖に戻しませんか、船長?」

「そうだな! そうしよう!」と船長がいった。

機関士は目にもとまらぬ早さでオールを操り、次々に打ち寄せる波間でうまくボートの向きを変え、なんとか沖に引き返した。ボートが水深のある沖まで戻る間、ボートでは沈黙が続いた。やっと一人が暗い調子で口を開いた。「やれやれ。ともかく、これで陸の連中には俺たちが見えたはずだ」

カモメたちは風を受けて斜めに上昇し、灰色の荒涼とした東の方角へと飛んでいった。南東ではスコールが起きていたが、出火した建物から立ち上るどす黒い煙のような雲やレンガ色をした赤い雲でそれとわかった。

「救助隊の連中をどう思う? なんともいかしたやつらじゃないか?」

「俺たちを見てないってのは、どう考えてもおかしいよな」

「たぶん遊びで海に出てるとでも思ってるんだろう! 釣りをしてるとか、とんでもない馬鹿だとでも思ってるだろうよ」

午後は長かった。潮流が変わり、ボートを南に押し流そうとした。が、風と波の方は北へ追いやろうとしていた。前方はるかに海岸線をはさんで海と空が接していた。岸辺には小さな点のようなものがいくつかあったが、それは街の存在を示しているようだった。

「セントオーガスティンかな?」

船長は頭を振った。「モスキート湾に近すぎるよ」

そこで、機関士が漕いだ。それから記者が交代して漕ぎ、また機関士が漕いだ。うんざりするような重労働だった。人間の背中には、分厚い解剖学の本に書いてあるよりもっと多くの痛点があるようだ。背中の広さは限られているが、いたるところで無数の筋肉のせめぎあいやもみあいが生じ、よじれたりからみあったり、なぐさめあったりしている。

「ボートを漕ぐのが好きだったことあるかい、ビリー?」と、記者がきいた。

「いいや」と機関士が答えた。「くそおもしろくもねえよ」

漕ぎ手を交代してボートの舟底で休むときには、極度の疲労感から、指の一本がぴくぴく動くのをのぞけば、すべてのことがどうでもよくなってしまう。舟底では、冷たい海水が揺れ動きながらパシャパシャはねている。そこに横になるのだ。漕ぎ座を枕がわりに頭をもたせかけると、そのすぐ横では波が渦をまいていた。海水がどっとボートに流れ込み、一度ならずびしょ濡れになった。だが、そんなことは気にもならなかった。ボートが転覆してしまえば、巨大な柔らかいマットのような海に投げ出されるのは確実だったからだ。

「見ろ! 岸辺に男がいるぜ!」

「どこだ?」

「あそこだ! 見えるだろ、やつが見えるだろ?」

「見えた。歩いてるな」

「お、立ち止まった。見ろよ! こっちを見てる!」

「俺たちに手を振ってるぜ!」

「たしかに! 間違いない!」

「やった、もう大丈夫だ! もう大丈夫だ! 三十分もあれば、救助のボートがここまでやって来るな」

「あいつ、まだ動いてる。走りだした。あそこの家まで駆けてくつもりなんだ」

オープン・ボート 7

IV

「料理長君」と、船長がいった。「君のいう避難所には、人のいる気配がないようだが」

「そうですね」とコックが答えた。「妙ですね、俺たちのことが見えてないなんて!」

 ボートに乗った男たちの眼前には、低い海岸が広がっていた。上が植物で黒っぽくなった低い砂丘のようだった。波の打ち寄せる轟音がはっきり聞こえたし、ときどき海岸に打ち上がる白い唇のような波頭も見えた。空を背景に、小さな家が一軒、黒い影となって見えていた。南の方には、細い灰色の灯台も見えていた。

潮流に加えて風や波がボートを北に押し流していた。「おかしいな、誰も見てないなんて」と、男たちはつぶやきあった。

ボートに乗っていると、波の音はそれほど明瞭ではなかったが、雷鳴のように力強いものだった。ボートが大きなうねりで持ち上げられると、ボートに座っている男たちにも轟音がはっきり聞こえた。

「こりゃきっと転覆するな」と、誰もが口をそろえた。

公正という点では、ボートのある場所からは、どの方向にも、二十マイル以内に海難救助の詰め所はなかったという事実をここで述べておくべきだろう。が、ボートの男たちはその事実を知らなかったので、国の海難救助に携わっている人々の視力について、口を極めて悪口をいいあった。しかめっ面をしてボートに座り、四人は罵詈雑言の限りをつくした。

「俺たちが見えないって、おかしいだろ」

少し前までの助かったという安心感は完全に消え失せていた。心も辛辣になり、やつらは無能なんだとか、何も見えちゃいないんだ、ひどい臆病者なんだなどと、自分たちがまだ発見されていない理由を次から次に数えあげた。人がたくさん住んでいそうな海岸で、人影がまったく見られないというのは、なんともつらいことだった。

「どうやら」と船長が、やっと口を開いた。「自力でなんとかするしかないようだな。こんなところに浮かんだままで救助を待っていたら、ボートが転覆したときに陸まで泳いでいく体力も奪われてしまう」

それを受けて、オールを手にしていた機関士がボートをまっすく陸に向けた。ふいに全身の筋肉が緊張した。考えるべきことがあるのだった。

「全員が上陸しなかったとしても」と、船長がいった。「全員が上陸できるとはかぎらないが、もし私ができなかったとして、私の最後を誰に連絡すればいいか、君らは知ってるかね?」

彼らは万一のときに必要となる連絡先の住所や伝言について教えあった。彼らには強い怒りがあった。それを言葉で表現すると、おそらく、こういうことだ――万一、自分がおぼれることがあったら、もし俺がおぼれたりしたら――おぼれてしまったら、海を支配している七人の怒れる神の名にかけて、なぜこんなにも長く漂流したあげくに砂浜や木々を見せられているのか? 苦労してここまでやってきて、どうやら助かりそうだとなったところで無慈悲にもその望みを絶つためにここまで生き延びさせたってことなのか? それはおかしい。運命という名の年とった愚かな女神にこんなことしかできないのであれば、人間の運命をもてあそぶ力を剥奪すべきだ。自分が何をしようとしているかも知らない老いたメンドリにすぎないのか。運命の女神が俺をおぼれさせると決めたというのなら、どうして船が沈没したときに殺してくれなかったんだ。そうすれば、こんなきつい目にあわなくてもすんだのに。すべてが……不条理だ。だが、いや、運命の女神だって俺をおぼれさせることなんかできはしない。俺をおぼれ死んだりさせたりはしない。こんなに苦労させられた後で、死ぬなんてありえない」 そうして、天にむかって拳を振り上げたい衝動にもかられた。「俺をおぼれさせてみろ。そしたら、俺がお前を何と呼んでやるか聞きやがれ!」

オープン・ボート 6

スティーヴン・クレイン

こうした理由から、機関士も記者も、このときばかりは漕ぎたくなかった。記者は、正直にいうと、まともな人間で、こういうときにボートを漕ぐのが楽しいと思うようなやつがいるわけないと思った。気晴らしのレジャーではないのだ。ひどい罰を受けているみたいだったし、頭のいかれた天才であっても、これが筋肉に対する拷問ではなく、背中に対する罪悪でもないと断言することはないだろう。ボートを漕ぐのがこんなに楽しいとは思わなかったよ、と記者がボートに乗った連中につぶやくと、疲れ切った機関士がまったく同感だというように苦笑した。船が沈没する前、彼は船の機関室で昼も夜も当番を続けていたのだった。

「まだ無理はするなよ」と、船長がいった。「体力を残しておくんだ。波打ち際まできたら、必死でがんばらなきゃならなくなる――泳ぐ羽目になるだろうからな。のんびりいこう」

陸地が少しずつ海面から高くなってくるのがわかった。黒っぽい一本の線だったものが、黒い線や白い線、樹木や砂浜が見わけられるようになった。とうとう、岸辺に家が見えると船長がいった。「あれが避難所でしょう、きっと」とコックが応じた。「そのうち俺たちを見つけて、救助に来てくれますよ」

遠くに見えていた灯台が建物の背後にそびえていた。「もう灯台守が気づいてるはずだな、ちゃんと望遠鏡で見張っててくれれば」と船長がいった。「救助隊に連絡してくれるだろう」

陸地が徐々に、しかも美しく、登場してきた。また風が強くなった。風向は北東から南東に変化していた。そうして、ついに今まで聞こえなかった音がボートの男たちの耳に聞こえてきた。岸に打ち寄せる、低い雷鳴のような波の音だ。「まっすぐ灯台には向かっていけないだろう」と船長がいった。「ボートを少し北に向けてくれ、ビリー」

「少し北ですね、船長」と機関士が応じた。

小さなボートが船首をまた少し風下の方に向けると、漕ぎ手以外の者は、陸が大きく迫ってくるのを見守っていた。陸がだんだん大きくなってくるにつれて、無事に上陸できるかという疑念や不吉な予感めいたものも、彼らの心から消えていった。ボートを操船するのは相変わらずやっかいだったが、それでも、うれしい気持ちは隠しきれなかった。たぶん、あと一時間もすれば上陸しているはずだ。

男たちは自分の体重を使ってボートのバランスをとるのになれてきていた。今では暴れ馬に乗ってロデオをやってみせるサーカスの男たちのようだった。記者は全身びしょ濡れだと思っていたが、上着のポケットを探ってみると、葉巻が八本見つかった。半分は海水で濡れていたが、残りの四本は無事だ。探すと乾いたマッチも三本見つかった。ボートに乗った四人は、救助が近いことを確信し、目を輝かせて葉巻をくゆらせ、互いの長所や短所を判断しつつ、それぞれ水を一口飲んだ。

オープン・ボート 5

III

海の上で同じ船に乗りあわせた者たちに生じる微妙な連帯感を言葉で表すのはむずかしい。誰も同志だとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかったが、一緒にボートに乗るはめになってみると、そういう感情というものが実際に存在し、互いに親近感がわいてくるのだった。船長がいた。機関士がいて、船の料理長がいて、それに乗客の記者がいた。この四人は同志だが、普通の仲間よりもっと強いきずなで結ばれていた。負傷した船長は船首の水がめにもたれ、いつも低い声で穏やかに話した。しかし、船長にとって、このボートに乗り合わせた他の三人ほど命令をすぐに受け入れて機敏に動くクルーはいなかっただろう。そこには、安全という共通の目的のために何が最善かをただ認識するということを超えるものがあった。たとえば、司令塔たる船長の命令に従ってみると、たとえば、すべてを批判的に見ろと教えられてきた記者のような者であっても、遭難している状態とはいえ、これが自分の人生で最高の体験になるとわかった。だが、誰もそうだとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかった。

「帆があったらなあ」と、船長がいった。

「私のオーバーコートをオールの先端にかけてみようか、そうすれば、君ら二人も休めるんじゃないか」

それで、コックと記者はオールをマストのように立てて持ち、コートを広げた。機関士が舵をとった。すると、この新しい帆は小さなボートをうまく前に運んでくれた。機関士は、ボートが波に突っ込まないように、ときどき舵をすばやく動かして漕がなければならなかったが、それをのぞけば、この帆走はうまくいった。

一方、灯台は少しずつ大きくなってきた。いまでは塗られている色もだいたいわかるようになり、空を背景に小さな灰色の影のように見えていた。両手でオールを漕ぐ係は灯台に背を向けていたが、この小さな灰色の影の灯台を見ようと、たびたび振り返った。

やがて、波に頂点まで持ち上げられるたびに、ようやく揺れるボートから陸が見えるようになった。灯台は空を背景にした垂直な影だったが、陸地は水平線上に細くのびた黒い影みたいだった。たしかに紙よりも薄かった。

「ニュースミルナの沖あたりかな」と、コックが言った。彼はこの海岸沿いをスクーナーで何度も航海したことがあったのだ。「ところで、船長、海難救助の詰め所が廃止されたのは一年ぐらい前だったでしょうか?」

「そうなのか?」と、船長がいった。

風は徐々に落ちてきた。コックと記者はもう風を受けるためにオールを立てておく必要がなくなった。だが、波はあいかわらずボートに襲いかかってくる。小さなボートは進むこともできず、波に翻弄された。機関手と記者はまたオールを手にした。

船の沈没は、いきなり起きるものだ。避難訓練を受け、心身が健康なベストの状態で沈没が起きるのであれば、海での溺死者は減るはずだ。だが、このボートに乗っている四人は、救命ボートに乗り込む前の二日二晩というもの、ろくに寝ていなかったし、沈みかけた船の甲板上をはいつくばって登るという異常に興奮した状態にもあったので、腹一杯食べておこうという気にもならなかったのだ。

オープン・ボート 4

一方、機関手と記者はボートを漕ぎ続けていた。漕ぎに漕いだ。

彼らは同じシートに腰かけ、それぞれ一本のオールで漕いだ。やがて機関手が両手で二本のオールを左右に持って漕ぐようになった。それから記者が交代し、同じように両手で左右のオールを漕いだ。彼らは必至に漕いだ。細心の注意が必要なのは、船尾で休んでいる方が自分の番になって漕ごうとするときだ。小さなボートで席を移動するのは、卵をあたためているメンドリから卵を盗みとるよりむずかしい。まず、船尾で待機していた方が手を漕ぎ座にそってすべらせ、壊れやすい陶器でできているみたいに慎重に移動しなければならない。それから漕ぎ座にいた方が手を反対側にそってすべらせるのだ。すべてに細心の注意を払っわなければならなかった。二人が互いにすれ違うときには、ボートに乗っている全員が迫ってくる波を見張っていた。そして船長が「よく見ろ。さあ、いまだ!」と叫んだ。

茶色いカーペットみたいな海藻の塊が、ときどき島のように出現した。そうした海藻の塊は、明らかにどっちの方向にも動いていなかった。海藻の塊はほとんど静止していた。それで、ボートの男たちは自分たちが岸の方にゆっくり流されているとわかったのだった。

船首にいて後方に目を配っていた船長は、ボートが大きな波で高く持ち上げられると、モスキート湾の灯台*1が見えたといった。やがて、コックが俺も見たといった。そのとき、記者は漕いでいたのだが、自分もどうしても灯台を見てみたいと思った。とはいえ、はるか遠くの陸に背を向ける格好で座っていたし、波をうまくやりすごすのが最優先だったので、振り返って眺める機会はなかった。やっと、それまでより穏やかな波が来たので、波でボートが持ち上げられたとき、西方の水平線をちらっと眺めた。

「見えたかね?」と、船長がきいた。

「いいえ」と、記者がゆっくり答えた。「何も見えませんでした」

「もう一度、見てみなさい。こっちの方角だ」と、船長が指で示した。

別の波の頂点にきたとき、記者は指示された方向を眺めた。今度は、揺れ動く水平線の端に何か小さな動かないものが見えた。ピンのように尖っていた。こんな小さな灯台を見つけるのは、よほど注意していないと無理だ。

「あそこまで行けると思いますか、船長?」

「風が持ってくれて、ボートが水没しなけりゃね。他に手はないし」と、船長がいった。

小さなボートは高く盛り上がった波に持ち上げられては水しぶきに洗われ、海藻のないところでは動いていることすらよくわからなかったが、少しずつ進んでいた。ボートは大海原にもみくちゃにされながら、溺れかけた子供のように奇跡的に船首を上にあげて進んでいた。ときどき目の前いっぱいに広がった海水が、真っ白な煙が充満するようにボートに流れ込んできた。

「くみ出したまえ、料理長」と、船長は冷静な声でいった。

「承知しました、船長」と、元気のよい返事が返ってきた。

脚注
*1:モスキート湾の灯台 ─ フロリダ半島中部の大西洋に面した湾にある、米国でも有数の高さを誇る灯台(53m)。

 

『オープン・ボート』は、作者のスティーヴン・クレイン自身が経験した船の沈没と小型ボートでの漂流に基づくもので、この灯台も実在している。



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灯台は光が遠くまで届くよう岬などの高い場所に造られることが多いが、この地域は平地なので、灯台自体を高くしてある。


なお、モスキート湾付近にはモスキート沼やモスキート川があり、行政区画もモスキート郡となっていたことから、この付近では開拓者たちもさぞ蚊に悩まされたのだろうということがわかる。

現在、モスキート郡はオレンジ郡、モスキート川はハリファックス川、モスキート湾は、十六世紀のスペインの開拓者にちなんでポンス・デ・レオン湾と名称変更されている。

オープン・ボート 3

波の頂点でボートが跳ねると、風が無帽の男たちの髪をかき乱した。ボートがまた船尾から着水すると、水しぶきが乱れた髪をなでつけていった。盛り上がった波は丘のようで、その頂点にきたとき、一瞬だが、風が吹き乱れている広大な光かがやく大海原が見えた。このエメラルドや白や黄色の光に満ちた荒々しく自由奔放な海は、おそらく壮大で、おそらく輝かしくもあっただろう。

「いいぞ、陸に向かって風が吹いてる」とコックが言った。「そうじゃなかったら、どうなるんだろうな? 考えたくもねえけど」
「そうだな」と記者が言った。
 あれこれ作業で忙しい機関手は、無言でうなづき同意した。

 すると、船首にいた船長がユーモアと侮蔑、悲しみの入り混じった複雑な笑顔を見せ、「助かりそうだとでも思っているのかね、君たちは?」と言った。

すぐに三人は黙った。気まずく咳ばらいしたり口ごもったりした。こんな状況で何かしら希望的観測を述べるのは子供じみていて馬鹿げていると、彼らも感じたのだった。とはいえ、心の中では疑いもなく、なんとかなるんじゃないかと感じててもいるのだった。若者というのはそんなときは強情になるものだ。彼らは若くもあったし、あからさまに示された絶望には反抗したいという思いもあった。だから、船長に反論せず黙りこんだのだ。

「まあ、そうだな」と、船長はとりなすように言った。「なんとか陸には着けるだろうよ」

 だが、彼の声の調子には、条件つきだぞと思わせるものがあったので、機関手がそれを受けて「そうです! この風が続いてくれさえすれば!」と続けた。

 海水をくみ出していたコックは「そうそう! 波でひっくり返りさえしなけりゃな!」と言った。

中国製のネルの生地でできているようなカモメが、ボートの周囲を飛んでいた。洗濯ロープにかけられ強風で揺れるカーペットのように、茶色い海藻の塊が波とともに揺れ動いては巻き波になってくずれ落ちたりしていたが、カモメたちはその近くの海面に降りて浮いたりもしていた。海鳥の群れが平気な様子で浮かんでいるので、ボートに乗った連中には、それをうらやましがるものもいた。というのは、荒れ狂う海といえども、カモメにとっては、数千マイルも内陸の草原ライチョウの群れに対するようなものにすぎなかったからだ。カモメたちは何度も近くまで来て、黒いビーズ玉のような目でボートの連中を見つめた。鳥はまばたきをしないので、監視されているようで不気味だし、何かをたくらんでいるようにも見えたので、男たちは鳥に向かってどなったり、あっちに行けと叫んだりした。一羽のカモメが接近してきて、船長の頭の上に降りようとした。そのカモメは円を描かず、ボートに並行して飛びながら、ニワトリのように短く空中を斜めに移動した。物欲しそうな黒い目は船長の頭に向けられていた。「くそったれの畜生が」と、機関手が鳥に向かって叫んだ。「てめえの体はジャックナイフでできてるみたいじゃねえか」 コックと記者もその鳥をあしざまにののしった。当然のことながら船長も太く重いもやい綱の端でその鳥を追い払いたいと思っていたのだが、あえてそうしなかった。というのも、激しい動作をすると、自分たちを乗せたボートが転覆してしまいかねないからだった。船長は手を広げ、あっちに行けと穏やかに追い払った。カモメに狙われたことで弱気になっていた船長は、ともかく頭を守ることができてほっとしたように息を継いだ。その鳥を何か嫌な不吉なもののように感じていた他の男たちもほっと一息ついた。