ヨーロッパをカヌーで旅する 1: マクレガーの伝説の航海記

 ジョン・マクレガー(1825年~1892年)はスコットランド出身の冒険家、旅行作家、慈善活動家。
現代のカヤックの原型ともいえるロブ・ロイ・カヌーを設計・製作し、実際にヨーロッパやアメリカ、エジプトなどでそれを使って航海した。本書を含む彼の航海記(三冊)は当時の欧米で大評判となった。
イギリスのロイヤル・カヌー・クラブ(RCC)やアメリカン・カヌー協会(ACA)の創立者でもあり、現代のカヌー/カヤック(を利用した旅、カヌーツーリング)の生みの親ともいえる。
いわば釣りにおけるアイザック・ウォルトン(釣魚大全の著者)のような存在ともいえる。
『宝島』などで知られる若き日のスティーヴンソンも、マクレガーのカヌーを使った航海に触発され、カヌーでヨーロッパの川や運河を旅している。

ヨーロッパをカヌーで旅する

ジョン・マクレガー著
明瀬和弘訳

第一章

ある日のこと、ぼくは列車の事故で客車の座席の下に投げ出され、ちぎれた電信線にからまってしまった。そのためライフルで射撃しようとすると手が震えるようになった。遠く離れたところにいる雄牛の目を狙うのは無理になったが、ぼくはまた少年の頃のように喜々として水辺の生活に戻ろうと、寝床でカヌーを使った新しい航海を夢見たり、どういう舟にしようかと計画を練ったりしたのだった。

川を利用する内陸の旅で、手こぎボートが役に立たないのははっきりしている。なぜか。舟旅に絶好の川でも、自然の河川はオールで漕ぐには川幅が狭すぎたり、逆に広くて水深が浅すぎたりするのだ。まがりくねっていたり、岩や瀬があったり、水草や水没した木、水車用の堰(せき)や障害物も存在している。倒木や急流もあれば渦をまいているところもある。山間部を縫ってくねくねと流れている川には、必ずといっていいくらい滝があったもする。そういう場所は野性味たっぷりで、とても手こぎボートで近づけるようなところではない。また三角波で水浸しになったり、肉眼で見てもわからない水面下に隠れている岩で転覆することもある。

ところが、オールを使った手こぎボートを悩ますこうした状況そのものが、逆にカヌーに乗った旅人にとってはうれしい刺激になってくれるのだ。カヌーでは、漕ぎ手は後ろではなく前方を見ている。自分がたどるコースや両岸の景色もすべて目に見える。障害物があっても、パドルをひとかきすれば脇をすり抜けていくことができる。狭い場所でもこまかな位置の調整ができるし、アシや水草が生い茂っていたり木の枝や草があっても楽に通り抜けることができる。体を動かさず帆を張って進むこともできる。川底につかえたとしても、パドルで押しながら進めるし、あぶないところでは用心して舟を降りたっていい。浅瀬では舟を引きながら徒渉し、草原や生け垣、堤や障害物や壁があっても、乾いた土の上を引きずって進むことだって可能だ。ハシゴや階段では手で押し上げればよいし、高い山々や広い平原では、カヌーを荷車にのせて人が引いたり馬や牛に引かせたりして乗りこえることもできる。

こうしたことすべてに加えて、カヌーにはデッキをおおうカバーがついている*1ので、無甲板のボートよりはるかに耐航性がある。深くよどんだ場所でも水門でも水車用の水路でも、平気で乗り入れることができる。大海原の激しい磯波や川の急流でも、水はデッキの上を流れていき、カヌーの内側はいつも乾いている。

また、カヌーは座る位置が低く、体を移動させる必要がなく、パドルを失うこともない。手こぎボートよりも安全だ。何日も何週間も自力で長時間を漕いで移動し続けるということに関しては、背もたれにもたれることもできるので問題はない。パドルを膝に載せて肘掛け椅子に座っているようにくつろぐことができるし、そうやって流れや風に身をまかせながら周囲を見まわしたり、読書や食事をしたり、スケッチしたり、土手で眺めている人たちとおしゃべりしたりすることだってできてしまう。それでいて、とっさのときには両手ですぐにパドルを持って対応できるのだ。

最後に、帆を日よけや雨よけ代わりに用いてカヌー内部で足をのばして横になることもできる。夜はデッキをおおっているカバーの下で眠れる。ベッドの代わりとしても、偉大なウェリントン公*2も満足するくらいのスペースはある。しばらく水辺はいいやという気分になったときは、カヌーから離れて宿屋に泊まればよいし、そうすれば、馬のように「下を向いて食べる」こともない。また、カヌーを自宅に送り返したり売り払ったりして旅を続け、一等車の快適なクッションにもたれて世界を見てまわることだってできる。

とはいえ、こんな風にカヌー旅を礼賛していると、「それって、別の方法で旅をした上での話なのか? いろんな楽しみがあるだろう? 氷河や火山に登ったことはあるのか? 洞穴や地下墓地に入ったことはあるか? ノルウェーで幌のない馬車に乗ったり、アラブで馬でのんびり散歩したり、ロシアの平原を疾駆したりしたことはあるのか? ナイル川の船旅やトリニティ・カレッジでのボート競争、アメリカの蒸気船、エーゲ海の帆船、そり滑りやヨットでのセーリング、ラントン型*3の自転車――そういうのをやった上でそう言っているのか?」と疑問があびせられるのも当然だ。

そうした質問に対する答はイエスだ。実際に速かったり遅かったりするいろんな移動手段を十二分に楽しんだ上で、そう言っているんだ。ヨーロッパやアジアやアフリカ、アメリカでカヌーを使ってみて、やっぱりパドルを漕いで旅をするのが、すべてにおいて最高だとわかったわけさ。

カヌーの旅にはこんなふうな長所があるし、天気や健康にも恵まれていたので、これから話をさせてもらうカヌーの旅は、本当に楽しさに満ちていたんだよ。


訳注

 

*1:デッキをおおうカバー - カヌーとカヤックの違いについて、カナディアンカヌーに代表されるように上側に何もカバーがなくむきだしになっているのがカヌーで、カヤックは人間が入る部分を除く上側全面にカバーがついている。その両者をあわせて広い意味でカヌーと呼ぶことも多い。パドルもシングルパドルとダブルパドルの違いがあるが、連載にあわせて少しずつ説明を加えていく。

 

*2:ウェリントン公 - イギリスの公爵で、フランスとのナポレオン戦争における英雄。

 

*3:ラントン型自転車 - 前輪が小さく、大きな後輪が2個ついている三輪車。1863年にイギリスで発明されたが、それから数年後の明治維新の頃には早くも日本にも輸入されたという記録がある。

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スティーヴン・クレインの手記 4

航海士に手を貸す

書き忘れていたが、ぼくらはコモドア号と小舟をつないでいる細いロープを伸ばしていたので、ボートはずっと風下に押し流されていた。当然のことながら、なぜ連中がまだ船に残っているのか、ぼくらには不可解だった。すべての救命ボートが船を離れるのを見届けてから小舟に乗り移ったはずなのに。ボートを漕いでコモドア号に戻ろうとしたものの、ぼくらは近づくことさえできなかった。わずか三メートルの小舟に四人もの男が乗っているため、舷側に手を置いただけで水没しそうなほどだった。

船上の一等航海士が、自分たちの三番目の救命ボートは沈没したと叫んだ。人数分の筏(いかだ)のようなものを急ごしらえで作ったので曳航してほしいというのだった。

船長は「わかった」と返事をした。

筏はコモドア号の後方に浮かんでいた。「飛び乗れ」と船長が叫んだが、彼らはむずかしい顔をして、ためらっている。白人五人と黒人二人だ。薄暗い早朝の淡い光を受けて、幽霊がゆっくり動いているような感じがした。沈みかけたコモドア号に残っている七人の男たちは無言だった。航海士が船長に話しかけるのをのぞいて、会話がかわされることはなかった。死がそこにあった。だが、同様に、言葉ではいい表せない不屈の精神もたしかに存在していた。

ぼくの記憶では、四人の男たちが手すりをよじ登って立ちあがり、見渡す限り波が冷たい鋼のように輝いているのを見つめていた

「飛び降りろ」と、船長がまた叫んだ。

最初にその命令に従ったのは老機関長だった。彼は筏のそばに落ちた。船長は筏から離れないように、どうすればつかまっていられるかを指示した。機関長は、乗馬学校の生徒のように、すぐに素直にそれに従った。

航海士の決死のダイブ

一人の機関員が彼に続いた。それから、一等航海士が両手を頭上にかかげ、頭から海に突っこんだ。航海士は救命具を身につけていなかったし、この恐ろしい行為をするときに彼が両手で表現したことに、そし死に向かってダイブする際の彼の頭の動きに、ぼくは彼の心にある言葉では表させない怒りのようなものを感じた。

それから、今度の航海が終わったら、この手の仕事はやめるつもりだと語っていたトム・スミスが筏に飛び移り、ぼくらに顔を向けたのが見えた。残った三人はコモドア号の船上でぐずぐずしている。黙ったまま、顔だけぼくらの方に向けていた。一人は腕を組み、デッキハウスにもたれていた。両足を交差させ、左足のつま先は下を向いていた。彼らは立ったままぼくらを見つめていたが、コモドア号の甲板からも筏からも、ひと声も発せられなかった。重苦しい沈黙が続いた。

筏を曳航しようとしたが……

先頭の筏に乗った有色の機関員がぼくらにロープを投げてよこしたので、ぼくらは筏の列を曳航しながら小舟を漕ぎはじめた。むろん、こんなことは絶対に無理だとわかってはいた。ぼくらの乗ったボートの海面からの高さは十五センチたらずだったし、大海原で波が押し寄せてきているのだ。こんな状況では、タグボートでもこんな風に筏を曳航するのは容易ではないだろう。

だが、ともかくやってみた。どこまでも続けてみるつもりでいたのだが、深刻な事態が起きてしまった。ぼくはオールを握って漕いでいたので、後方の筏の方を向いていた。曳航のロープの調節は料理長がやっていた。と、ボートがいきなり後方に引かれはじめたのだ。先頭の筏に乗った黒人が、両手で曳航ロープをたぐり、どんどん自分の方に引きよせているのだった。

何か悪霊でも乗り移ったようだった。野生のトラのようでもあった。筏にしゃがんだ状態で、いまにもこっちに飛び移ろうとしている。筋肉という筋肉が盛り上がっていた。目はほとんど白目で、自分を見失い、心ここにあらずといった顔をしている。彼の手の重みがボートの舷側に加わった瞬間にボートは転覆するしかなかった。

コモドア号の沈没

料理長が曳航ロープから思わず手を放してしまった。ぼくらは小舟を漕いで、なんとか老機関長の乗った筏の曳航ロープをつかもうとした。その間ずっと、悲鳴もなければ不運を嘆く声もなく、ただただ沈黙だけがあったことを忘れないでほしい。そうこうしているうちに、コモドア号が沈んでいった。

コモドア号は急に風上側に傾き、それから後方に振れ戻すように動いて、そのまま直立しつつ海中に没した。すると、この恐ろしい大海原に開いた口に、筏がいきなり飲みこまれてしまった。三メートルの小舟に乗ったぼくらは声にならない声を発した――言葉でいい表せない出来事だった。

モスキート湾の灯台が、ピンの先端のように、水平線から突き出ていた。

甲板のないむきだしの小舟での三十時間の漂流は、うたがいもなく、ぼくのような若造にも何かしらを教えてくれたのだが、それについては、ここでは語らないことにする。エドワード・マーフィ船長とウイリアム・ヒギンズ機関士の立派な男らしさを伝えるために、ぼくとしては一度はその話をするつもりではいるのだが、ここで語る気にはならない。とりあえず、ボートが波打ち際で転覆したこと、やっとのことで海岸にたどりついたこと、押し寄せる波に翻弄されながらも船長は軍艦の指揮をとっているように明確に命令を発しつづけたことを述べれば十分だろう。

デイトナのジョン・キッチェル氏が服を脱ぎ捨てながら浜辺を駆け下りてきた。彼が馬車を止めて服を脱いだのだとしても、それが消防馬車の馬具だったとしても、ぼくには、あれ以上の早さで服を脱ぐことはできないように思えた。氏は海にとびこむと、料理長を引きづりあげた。それから船長の方へ向かったが、船長はぼくを先に助けるよう合図した。その後で、氏は、寄せては返す波の合間に露出する砂地で、ビリー・ヒギンズがうつぶせに倒れているのを見つけた。すでに死んでいた。

スティーヴン・クレインの手記 3

救命ボートを下ろす

機関室の熱と重労働に耐えきれず、ぼくはまた甲板に戻らざるをえなかった。船の前部に向かっていると、ボートを下ろすという話が聞こえてきた。厨房のそばで、航海士が一人の男と話をしていた。

「なんで救難信号を打ち上げないんだ?」と、見知らぬ男がいった。

すると、航海士はこう答えた。「何のために救難信号を出すんですか? 船は大丈夫ですよ」

ゴム引きのオーバーコートを着て戻ってくると、最初の救命ボートが下ろされようとしていた。最初のボートに真っ先に乗りこんだのが例の男で、他の男たちが彼にバカでかいスーツケースを手渡している。その驚きも冷めぬ間に、別のスーツケースがまた渡されるのを目撃したが、金持ちのこういう行動はおもしろくもあった。

救命具を着こんでふくれあがった男

ホテルとみまがうほどというのはいいすぎかもしれないが、例のスーツケースは、とんでもなく巨大だった。さらにその後も、オーバーコートのようなものまで渡されていた。

機関長が小さな窓に顔を寄せて眺めていたので、ぼくは彼に話かけた。

「あの人、どう思います?」

「小鳥みたいなやつだな」と、老機関長がいった。

そのとき、救命ボートから離れろという指示が聞こえた。救命ボートは甲板室の屋根に固定されていた。甲板室は頑丈だがすべりやすく、船が横ゆれするたびに、そこにいた連中は黒い海に頭から飛びこみそうになった。

甲板室の屋根にはヒギンズがいた。一等航海士と二人の有色の機関員も一緒だ。ぼくらはそのボートを下ろそうと骨を折ったが、ブロードウェイのケーブルカーほどの重さがあったと断言したいくらいだ。ボートは甲板にきつくネジどめされていたのかもしれない。このボートを動かせるのであれば、レンガ造りの校舎だって軽々と押し動かせただろう。一等航海士は風下側の吊り柱(ダビッド)から滑車一式をボートにとりつけた。下の甲板では船長が十分な人手を確保してボートを受けとる用意をしている。

それから、ぼくらは引くのをやめるよう命じられた。そうしたさなかに船の料理長がぼくのところにやってくると、「お前さん、どうするつもりだ?」ときいた。

ぼくが自分の計画していることを話をすると、彼は「そうか、じゃあ俺とおんなじゃねえか」といった。

失意の汽笛

いまはもうコモドア号の汽笛も弱々しくなっていた。失意と死の声があるとすれば、それはこの汽笛の音に示されている。音調も変化した。すでに海水がのどに詰まっているような感じだったが、夜の海でのこの叫び声は、船に水しぶきを舞い上がらせる風の音とともに、怒濤のように船首を乗りこえてきた波が白濁しながら甲板のいたるところで渦をまきつつ、ぼくら一人一人に対して、おそらくは臨終の歌をうたっているのだった。

そのとき、一等航海士が手を離すよう合図をした。救命ボートを浮かべようと能力と経験の限りをつくして努力していたぼくらを、彼は激しい怒りにかられたように叱咤した。とうとうボートが動き、海へ向かって滑り降りていった。

その後で船尾に向かうと、船長が立っていて、吊り具に腕を載せ、負傷していない片方の手で支索を持っているのが見えた。船長はぼくに五ガロン入りの水入れを持たせ、君はどうすると聞いた。自分が正しいと思うことをしますよと告げると、船長は料理長と同じ考えってわけかといい、船の前甲板で全長三メートルの小舟を下ろす用意をするようにと命じた。

全長三メートルの小舟

周囲でうろちょろしていた有色の機関員に船長が羽毛布団みたいに見える救命具を着こむよう命じたのをよく覚えている。ぼくは五ガロン入りの水入れを抱えて船の前方に行った。船長がやってきたので、小舟を下ろした。すると、連中はぼくを小舟に乗せ、一本のオールで押して船から離れさせた。

ぼくは彼らから水入れを受けとった。それから料理長が乗りこんできた。ぼくらは暗闇に座り、なぜこうなってしまったのか考えながら、とはいえ楽観的な希望を抱いてもいた。船長も小舟のところまでやってきて、沈んでいく船からは離れているんだぞと指示した。

船長自身はまだ乗りこまず、他の救命ボートが動き出すのを待っていた。そうして、やっと暗闇で声を発した。「大丈夫か、グレインズ?」

一等航海士は「大丈夫です、船長」と答えた。

「ボートを押し出せ」と船長が叫んだ。

船長が船の手すりを乗りこえてボートに乗り移ろうとした瞬間、黒い影が駆けてきて「船長、お供します」という声が聞こえた。

船長は「ビリーか、乗れ」と答えた。

船を最後に離れたのはヒギンズ

声の主は機関士のビリー・ヒギンズだった。ビリーがさっと飛び降りると、一瞬遅れて船長が続いた。その手には四十ヤード(約36メートル)ほどの測深線の一端が握られていた。その細いロープのもう一方の端は、母船の手すりにつながれていた。

小舟がまた風下に流されると、船長は「君たち、船が沈んでしまうまでは離れすぎないようにしておくからな」といった。

このなんともうれしい指示をぼくらは歓迎した。この細いロープのおかげで、ぼくらの乗った小舟は船首を風上に向けておくことができたし、巨大な波を乗りこえてボートが高く持ち上がるたびに、死につつあるコモドア号のゆれている灯火が見えた。

夜明けが近づき空が灰色がかってくると、全長三メートルの小舟が波で持ち上がるたびに、コモドア号の姿が少しずつくっきりと見えてくる。大量の空気が残っていて浮いていたのだが、ぼくらはあんなにあわてて脱出することはなかったなと笑いあった。「船が沈没しなかったら、俺たちの行動はとんだお笑いぐさだろうな」といいあったりもした。

だが、その後で、ぼくらはコモドア号の船上に人影を見た。しかも、こっちに向かって何か叫びだした。

スティーヴン・クレインの手記 2

眠れない

海に夜の闇がおとずれた。コモドア号の船尾には夜光虫による幅の広い青白い光の航跡がのびている。コモドア号のずんぐりした船首が黒く大きな波に突っこむたびに、船の一方の側で海水が渦をまき点滅しながら滝のように流れ落ちていく。聞こえるのは、リズミカルで力強いエンジン音だけだ。外国の紛争の片棒をかつぐ形の船に特派員として便乗した駆け出しの記者として、ぼくは出港してからずっと興奮状態にあったので、なかなか眠くならなかった。それで一等航海士の寝床で横になって体を休めた。船が傾くたびに隔壁ごしに衝撃が伝わってきたが、薄暗い中で船がゆれるたびに胃の上あたりに吐き気がもよおしてくる。これは楽しくもなければ何かの教訓になるようなことでもなかった。

料理長、行く末を案じる

料理長は厨房の長いすで眠っていた。太った堂々たる体躯をしていたが、チェッカーゲームのボード盤をうまくつかって、船が動いても体が長いすから落ちないようにしていた。ぼくが厨房に入っていくと彼は目を開け、周囲を見まわしながら、つらそうに「神様」とつぶやいた。「なんとも居心地が悪いんだよな。この船で何か起きるような気がしてしょうがないんだ。それが何なのか俺にはわからないが、このポンコツ船で何かが起きそうないやな予感がする」

「で、乗客の連中の方はどう?」と、ぼくはきいた。「誰かいなくなるとかあるかな、予言者先生?」

「そうだな」と料理長がいった。「ときどき、なんだか呪われてるような気がするんだ。それはともかく、なんとなくなんだが、あんたも俺もどっちもこの船から離れることになって、またどこかで、少し先のコニーアイランドとかそんなところで再会するような気もするんだな」

一人で十分

眠れないとわかったので、ぼくは操舵室に戻った。チャールストン出身のベテランの船乗りであるトム・スミスが舵を握っていた。暗かったのでトムの顔は見えなかったが、羅針盤を見ようと前かがみになるたびに、羅針盤が収納されている箱の薄暗い照明で、風雪に耐えてきた彼の姿が浮かび上がる。

「やあ、トム」とぼくはいった。「この航海はどう、うまくいくかな?」

彼はこう答えた。「やり通せるとは思うぜ。こんな航海は何度もやってるし、なんせ給料がいいからな。だが、無事に戻ったら、こんどで終わりにするよ」

ぼくは操舵室の隅に腰をおろし、うつらうつらしていた。やがて船長が職務を果たすためにやってきて、ぼくのそばに立った。と、機関長が階段を駆け上がってきて、あわてた様子で、船長にエンジンルームで問題が起きたと知らせた。機関長と船長はそっちへ向かった。

船長が戻ってきたとき、ぼくは同じ場所で眠りかけていた。船長は操舵室の真うしろにある小部屋の扉まで行き、キューバ人のリーダーに大声で呼びかけた。

「おい、君の仲間に手を貸してくれるよう頼んでくれないか。私はそっちの言葉ができないから説明できんのだ。仲間を連れて一緒に来てくれ」

機関室での共同作業

キューバ人のリーダーはぼくを見て、こういった。「機関室に行って手を貸してくれ。バケツでかい出すんだ」

機関室といえば、いわば灼熱地獄の釜のような光景が展開されているところだ。そもそも耐えられないほど熱いし、燃焼による薄暗い光にあやつられるように不可解で身の毛もよだつような影が壁をうごめいている。そこに大量の海水が流入し、泡立ちながら機械類の間をゆれ動き、大きな音を立ててぶつかりあい、がたがた鳴り、蒸気を立ちのぼらせていた。船底の一番奥にある奈落の底というわけだ。

その場所で、ぼくは若い機関士のビリー・ヒギンズと知りあった。彼はこの地獄のようなところに陣どり、バケツに水をくんでは男たちに手渡し、彼らは一列に並んで順送りして舷側から捨てていった。その後、指示に従って手順を変え、船の風上側にある、機関室に通じている小さなドアから排水するようになった。

船でパニックは起きなかった

その間も、排水ポンプが故障しているとか、機械に関する他の専門的なやりとりが頻繁になされたが、ぼくにはちんぷんかんぷんだった。とはいえ、機関室でいきなり大きな破壊が生じたということだけは理解できた。

このとき、乗客の間に扇動するような行為は一切なく、その後もコモドア号でパニックめいたものは発生しなかった。ヒギンズやぼくと一緒に作業をした連中は全員キューバ人だったが、彼らはキューバ人のリーダーの指示に従っていた。やがて、ぼくらは船倉の方に移るよう命じられた。またあの不快な機関室に入るのかと、ぼくらはためらったが、ヒギンズは率先してバケツをつかみ、昇降用階段を降りていった。

スティーヴン・クレインの手記 1

この手記は、スティーヴン・クレインが自分の乗った船が沈没したときの経験を記事にまとめたノンフィクションで、後にこれを下敷きにした短編『オープン・ボート』を執筆しました。

一連の手記とあわせて出版され、クレインの出世作となりました。

『オープン・ボート』は、アーネスト・ヘミングウェイが若い作家志望者に必読書として示した16作品の一つです。

先週まで連載していた『オープン・ボート』と読み比べると、作家が実体験をもとに手記をまとめ、さらにそれをどのように小説へと昇華していったかがわかる興味深い作品といえるでしょう。

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スティーヴン・クレイン自身の物語

明瀬和弘訳

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コモドア号はいかにして難破し、彼はいかに脱出したか
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恐怖にかられた黒人がボートを水浸しにする
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若い作家は、火災が起きたエンジンルームで部屋で息をつまらせながら苦闘する
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マーフィー船長とヒギンズの勇気
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救命筏の仲間を曳航しようと試みる――打ち寄せる波をかいくぐって浜へ向かう
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フロリダ州ジャクソンビル、一月六日     元旦の午後。コモドア号はジャクソンビルの埠頭に係留され、黒人の港湾作業員たちが列をなして箱詰めされた弾薬やライフルを大量に積み込んでいた。船のハッチは怪物の口のようにそれを飲みこんでいく。伝説の海洋生物に餌が与えられているようでもあった。白昼公然と行われており、埠頭で気分を高揚させたキューバ人たちは、祖国の、ぼくらには耳なれない愛国歌をうたいだした。

すべては公然と行われていた。コモドア号にはキューバ向けの武器や軍需物資が積まれていた。以前のように秘密裏にことを運ぶといった配慮はどこにもなかった。レミントンからキューバへ物資を運ぶのではなく、コモドア号はニューヨークまでオレンジを運ぶだけだという感じで、平然と荷を積み込んでいるのだった。さらに川の下流には、セントジョンで合衆国の利益を保護する二等辺三角形の形をした古い密輸監視艇のバウトウェル号が錨泊していたが、船上にあわただしさのようなものはなかった。

別れの挨拶

コモドア号の甲板では、二カ国語で別れの挨拶がかわされた。この船で出発しようという男たちの多くは南部の町に多くの友人がいたし、遠くはなれた北部の友人たちと別れていくぼくらの方は、この激しくも真剣な別れの光景を目にし、もの悲しさを感じていた。

とはいえ、税関はそう単純ではなさそうだった。船の航海士やキューバ人のリーダーたちは、夕闇が迫り、濃い霧を通してジャクソンビルの町の灯がちらほら見えるようになるまで拘束されていた。それから、別れの挨拶が盛んに飛びかうなかで、コモドア号はやっと離岸した。船首をはるか沖合に向けると、陸に残ったキューバ人たちは何度も喝采した。コモドア号はそれに答えて汽笛を三度、長く鳴らしたが、そのときも彼らの悲しみにぼくは胸をうたれた。ともかく、彼らは声をあげて泣いていた。

それから、やっと他国の反乱を扇動する者になったような気がしてくるようになった。そういう行為における危険が小さいとは、とても思えなかった。ジャクソンビルの町の灯が遠ざかっていき、船のエンジンのドンドンといういつもの音を聞きながら、ぼくらは物思いにふけった。

だが、遠ざかっていく陸地をながめている乗客の顔に激しい感情はなかったように思う。実際、厨房の下働きをしているボーイから船長にいたるまで、ぼくらは全員、穏やかに満ち足りた気分で上機嫌だった。しかし、ジャクソンビルから二海里と進まないうちに、性悪の霧のために水先案内人が判断を誤り、コモドア号は激しく座礁してしまった。この恥ずかしい状態で、ぼくらは夜が明けるのをじっと待たざるをえなかった。

ボウトウェル号からの助け

これは単に物理的な災難に遭遇しただけではなかった。他国の争いに口をはさむどころか、ぼくらは座礁した船の搭乗者にすぎないのだった。気持ちの上で一度ならず落ち込むことになった。

ジャクソンビルに連絡がいき、そこからさらに略奪監視船ボウトウェル号の船長に連絡が送られて、監視船のキルゴア船長はポンコツの三角の形をした船のエンジンを始動させ、全速力で助けに駆けつけてきた。ボウトウェル号がコモドア号を海底の泥から引っ張りだしてくれたので、ぼくらはまた河口へと向かった。略奪監視船は、コモドア号がキューバ軍の志願兵を川沿いで拾い上げないよう監視するため、コモドア号の半マイルほど後方をついてきた。

一月一日の早朝のことだ。美しく金色に輝く南からの陽光が川にふりそそいでいる。それが古びたボウトウェル号の上空で輝やき、真珠のような白い船体をきらりと光らせ、さらに船の索具を金の糸のようにきらきらさせた。

すれ違う船や陸上から、ポンコツのコモドア号に対して喝采が送られた。出港したときと同じような陽気な歓迎だった。メイポートで川の水先案内人が公海までの資格を持つ人に代わったのだが、コモドア号はまたしても座礁してしまった。ボウトウェル号は堂々と伴走していた。ぼくらの苦境を知るとまた支援してくれたが、コモドア号はこんどはエンジンを逆回転させて自力で脱出し、また外洋をめざした。

略奪監視船の船長はだんだん好奇心をそそられてきたようだった。コモドア号に挨拶し、「このまま海に出るのかね?」と聞いた。

コモドア号のマーフィー船長は「そうです」とこたえた。

それからコモドア号が彼に敬意を示して汽笛を鳴らすと、キルゴア船長は帽子をとり「諸君、楽しい航海を」といった。これが沿岸で受けた最後の言葉となった。

コモドア号が砂州を超えて巨大な巻き波が打ち寄せているところまでくると、楽しい雰囲気は船の乗組員から消えてしまった。

訳注

 

背景となる状況について

 

この海難事故が起きたのは1897年1月2日です。


当時、スペインからのキューバ独立の機運が高まっており、背後から支援していた米国とスペインとの間で、この海難事故の翌年に米西戦争が勃発します。

 

そうした戦争前夜の緊迫した状態で、スティーヴン・クレインはキューバ情勢を探る特派員として派遣され、コモドア号に乗船したのでした。

 

貨物の積載が大晦日までかかったコモドア号は、予定より遅れて1月1日に出港し、霧のため二度も座礁したことが原因で、翌2日午前7時に沈没しました。

 

脱出したスティーヴン・クレインたちが乗ったボートは、1月3日午前7時30分から午前10時ごろに陸に到着したとされています。

 

この手記は、スティーヴン・クレインが救助されてからわずか三日後の1月7日に、ニューヨーク・プレス紙に発表されました。

 

フィクションの短編小説『オープン・ボート』は、それから数週間後の二月中旬には書き上げられていたといわれています。発表されたのはスクリブナーズ・マガジンの同年6月号でした。

オープン・ボート 17

スティーヴン・クレイン著

だが、とうとう、それ以上はどうしても進めなくなった。その場所の潮流がどんな風に流れているのか泳ぐのをやめて調べたりはしなかったが、どうしても前に進まない。海岸は舞台の景色のように目の前にあった。細部にいたるまではっきり見えたし地形もよくわかった。

ずっと離れた左の方を料理長が追いこしていった。船長が料理長に声をかける。「仰向けになれ、料理長くん! そうしておいてオールを使んだ」

「了解」 料理長は仰向けになり、自分自身がカヌーになったように一本のパドルをうまく使って漕ぎだした。

船長が片手で竜骨につかまっていたボートも、やがて記者の左側を通過していった。ボートが上下左右にとんでもない動きをしていなければ、船長は自分の体を持ち上げて板塀の上からのぞきこんでいる男のように見えただろう。彼は、船長がまだボートにつかまっていられることに驚いた。

彼らは記者の先を進んでいった。機関士、料理長、船長の順にどんどん岸の方へ近づいていき、その後を追いかけるように水瓶が跳ねまわりながら流れていく。

記者はといえば、潮流という奇妙な新しい敵にずっととらえられていた。白い砂浜や緑の断崖、その上にある静まりかえった小さな家々のある海岸が絵画のように眼前に広がっていた。すぐそばにあるのに、フランスのブルターニュ地方やアルジェの風景画を画廊で眺めているような気分だった。

「自分はおぼれ死ぬのだろうか? そんなことがありうるだろうか? ありうるのか? 本当に起こりうるのか?」と思ったりした。人間は、自分自身の死を最後の自然現象とみなすほかないのだ。

とはいえ、その後で、ひとつの波が、死を招く小さな潮の流れから彼を引き出してくれた。彼はふいに自分がまた岸の方へと進むことができるとわかった。片手でボートの竜骨につかまっていた船長が海岸ではなく記者の方を見て、「ボートまで来い、ボートまで来るんだ!」と彼の名を呼んでいた。

船長やボートのところまで行こうと悪戦苦闘しつつも、人が本当に疲れきっているときには、溺死は実際にはむしろ心地よい救いとでもいうべきものであって、苦しみから解放され、やっと楽になれるのだと思ったりもしてした。だから、もうじき楽になれると、ほっとしてもいたのだが、それというのも、一時的にせよ苦痛があるのではないかという恐怖感があったからだ。負傷して苦しむのはごめんだった。

と、一人の男が浜辺を走っているのが見えた。驚くべき早さで服を脱ぎ捨てている。上着、ズボン、シャツなど、あらゆるものが魔法のように脱ぎ捨てられていく。

「ボートまで来い」と船長が呼んでいた。

「わかりました、船長」 泳いでいきながら、船長が竜骨から手を離してボートから遠ざかるのが見えた。その後で、記者はひとつの小さな驚異を体現することになった。大きな波が彼をとらえると、彼の体をものすごい速度でボートの方へ、それを飛びこえた向こう側へと軽々と放り投げたのだ。まるで体操競技のようだった。まさに海で起きた本当の奇跡だった。波打ちぎわで転覆しているボートは、泳いでいる人間にとってはオモチャどころではない凶器なのだから。

水深が腰くらいまでしかないところに到達した。一瞬も立っていられないほど体力を消耗していた。波が来るたびに何度も倒され、引き波にさらわれそうになる。

すると、男が走りながら服を脱ぎ、脱いでは駆けて、海に飛びこむのが見えた。彼は料理長を浜に引き上げ、それから船長に近づこうとしたが、船長は手を振って来なくていいと合図し、記者の方へ向かわせた。男は裸だった。冬の木のように裸だったが、その姿には後光が射して見えた。聖人のように光り輝いていた。男は記者の手をつかみ、力強く引き寄せ、引きずり、かかえ上げてくれた。身につけた習慣で彼は礼儀正しく「ありがとう」といった。だが、男はいきなり「あれは何だ!」と叫び、指さした。記者は「行ってやってくれ」と応じた。

浅瀬で機関士がうつぶせに倒れていた。その額は、寄せては返す波で規則的に水が引いたときにできる砂地にくっついたままだ。

記者は、その後のことは何も覚えていない。やっとのことで上陸すると地面に倒れてしまい、全身を砂にぶつけた。まるで屋根から落ちたようだったが、ドスンという衝撃も心地よいものだった。

海岸にはすぐに人々が集まってきた。男たちは毛布や服や気付けのウイスキーの瓶を手にし、女たちはコーヒーポットや薬などをかかえていた。海からやってきた男たちに対する陸の人々の対応は温かくて寛大だった。海水をしたたらせながらもじっと動かない一人は、砂浜の上の方へと運ばれていった。生還者の場合と少し異なり、死者に対する人々の対応は重苦しいものだった。

夜になると、月明かりの下で、白い波が寄せては返すのが見えた。浜辺にいる男たちに、風が大海原の声を届けてくる。彼らは風の声を通訳できるような気がした。

<完>

スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』は今回で終了です。

オープン・ボート 16

スティーヴン・クレイン著

海では、押し寄せてきた大波の頂点がいきなり轟音をあげて崩れ落ち、長く続く白い砕け波がボートに襲いかかった。

「ようそろ。そのままいけ」と船長がいった。岸の方を眺めていた男たちは無言のまま視線を押し寄せてくる波の方に移し、そうして待った。ボートは波の前面でなめらかに持ち上がり、怒り狂った波の頂点で跳躍し、波の背後の長く続く斜面に着水した。海水が入ってきたが、料理長がくみ出した。

だが、また次の波がやってくる。沸騰したような白濁した波頭がボートに激突し、ボートはでんぐり返し状態で翻弄された。四方八方から海水がどっと流れこんできた。記者はそのとき舷側を両手でつかんでいたが、そこから海水が入ってくると、濡れたくなくて反射的に指を離した。

小さなボートは水の重みで沈みかけ、旋回しながら海中に引きづりこまれそうになった。

「海水(ビルジ)をくみ出すんだ、料理長くん! 急げ」と船長がいった。

「はい、船長」と、料理長がいった。

「いいか、お前ら、勝負は次の波だぞ」と、機関士がいった。「ボートからできるだけ遠くへ跳ぶんだ」

その三つ目の波がやってきた。巨大で、荒々しく 情け容赦ないやつだ。ボートが波に飲みこまれた。と同時に、彼らは海へ跳びこんだ。船底に救命帯の切れ端が残っていたので、記者はそれを左手でひっつかんで胸に当てて跳びこんだ。

一月の海は氷のように冷たかった。フロリダ沖だからそこまで冷たくはあるまいと高をくくっていたが、予想したより冷たかった。ぼうっとした頭で、なぜかこのことは記憶しておくべき重要な事実に思えた。海水の冷たさは悲しいほどだった。悲劇的だ。この事実と自分の置かれた状況とを考えあわせて彼は当惑したが、泣いてもおかしくない理由があるようにも感じられた。このときの海水はそれほど冷たかった。

海面まで浮上すると、潮騒の他はほとんど気にならなかった。それから、海上に浮かんだまま、他の連中を探した。機関士は先頭をきって泳いでいた。力強く、泳ぎも達者だった。少し離れたところに、救命帯のコルクを巻きつけた料理長の白い大きな背中が浮いていた。後方では、船長が負傷していない方の手で転覆したボートの竜骨につかまっていた。

岸の方へはなかなか進めなかった。波に翻弄されながら、記者はそのことについて考えた。

理由を探りたい誘惑にもかられたが、どうやら岸までたどりつくまで長い勝負になりそうだとわかったので、あせらないよう肩の力を抜いて泳いだ。跳びこむときにつかんだ救命帯の切れ端を体の下側に巻きつけ、ときどき手押しのそりにでも乗ったように波の斜面を滑り落ちていった。

オープン・ボート 15

スティーヴン・クレイン著

VII

記者がまた目を開けたときには、夜が明けかけており、海も空も灰色がかっていた。それから海面が深紅と金色に彩られた。とうとう夜が明けたのだ。空は真っ青で、波の一つ一つに朝日が反射し輝いていた。

遠くの砂浜には、黒っぽい小さな家がたくさんあって、その上に白い風車が高くそびえていた。人の姿はない。浜辺には犬も自転車も見えない。家々は見捨てられた村のようだった。

ボートの男たちは海岸をじっと目で探り、相談しあった。

「そうだな」と、船長がいった。「助けが来ないのなら、このまま波に乗って陸に向かったほうがいいかもしれんな。こんなところに長くいたら、いざというとき何かする体力も残ってないだろうし」 他の者はその意見を無言で受け入れた。ボートは陸を目ざした。あの高い風車の塔には誰も登っていないのだろうか、誰も海を見ていないのだろうかと、記者は思った。この塔は、アリの窮状に背を向けて立っている巨人という格好だった。記者には、苦闘しているちっぽけな人間どもにはそっぽを向いて平然としている自然、――ただ風が吹き荒れている自然というものを、いくぶんか人間の目に見える形で示しているように思えた。自然は残酷だとは思えなかった。といって慈悲深いわけでもなく、誠実でもないし賢明でもなく、そういうものではなくて、自然は無関心、彼らにまったく関心がないだけなのだ。こういう状況におかれた人間は、おそらくは宇宙が自分の境遇に無関心であることに強い印象を受けるあまり、人生において自分がおかしたたくさんのあやまちを思い起こし、いたたまれない思いで、もう一度チャンスがあればと願うのだ。この死に瀕した瞬間に自分の無知をさとり、物事の白黒なんてものはばからしいほど明白に思われて、もしもう一度やり直す機会が与えられたら、自分の言動を悔い改め、人に紹介されたり一緒にお茶を飲んだりするときにはもっとうまく明るくふるまおうと思ったりするのだろう。

「いいか、君たち」と船長がいった。「ボートはまちがいなく沈むだろう。私たちにできるのは、ボートが沈むのを遅らせることだけだ。沈んだら、ボートを離れて浜辺に向かうんだ。ボートが本当に沈んでしまうまでは、あわてて海に飛びこんだりするんじゃないぞ」

機関士が二本のオールを手にして、肩ごしに打ち寄せる波を見た。

「船長」と、彼はいった。「ボートの向きを変えて、沖に向けておいたほうがよいと思いますよ。そうしておいて、バックで陸の方へ進むんです」

「いいだろう、ビリー」と船長がいった。「船尾から行こう」 機関士はボートの向きを変えた。船尾に座っていた料理長と記者は、人気のない無関心な浜辺を見るには肩ごしに振り返らなければならなくなった。

巨大な波がボートを高く持ち上げた。岸に打ち寄せる一面の白波が斜面を駆け上がっていくのが見えた。「岸のすぐ近くまで沈まないで行くのは無理だろうな」と船長がいった。大波から目を離すことができるたびに、岸の方を凝視する。そうやって、じっと見つめている間、その目にはその者の本性があらわれるものだ。記者は他の連中を観察していたが、彼らはおそれてはいなかった。が、そのまなざしにこめられた真意までは読みとれなかった。

記者自身はといえば、とても疲れていたので、事実に基づいて物事の本質を把握することはできなかった。無理にでもそのことを考えようとしたが、このとき、彼の心は筋肉に支配されていて、筋肉はそんなことはどうでもいいといっていた。おぼれたりしたら、はずかしいだろうなと、ふと思っただけだった。

あわてふためいた言葉もなければ、蒼白な顔もなく、はっきりした動揺もなかった。男たちはただ浜辺を見つめていた。「いいか、飛びこんだら、できるだけボートから離れるようにしろよ」と船長がいった。

オープン・ボート 14

スティーヴン・クレイン著

 記者には今はもう兵士がはっきりと見えてきた。足をのばして砂の上に横たわり、じっと動かない。命が消えていくのを阻止しようとでもするかのように、青白い左腕を胸に載せているが、指の間から血が流れ出ていた。はるか遠くアルジェリアの地で、角ばった形をした市街地が、日没まぎわの淡い空を背景に低く見えている。記者はオールを動かしながら、兵士の唇の動きがだんだん遅くなるのを夢を見るように思い浮かべていたが、かつてないほど深く、完璧なまでに兵士の感情を理解できたことに心を動かされた。アルジェで横たわり死にかけている外人部隊の兵士に心からの共感をおぼえた。

 ボートを追ってじっと待っていたサメは、なかなか状況が進展しないので明らかに退屈したようだ。海面を切り裂く水音も聞こえなくなったし、夜光虫の長い航跡も消えていた。北方の光はまだかすかに見えていたが、ボートとの距離がせばまっていないのは明白だった。ドーンと岸に打ち寄せる波の音が、ときどき記者の耳に響く。そのたびに、ボートを沖に向けて必死に漕いだ。南の方では、誰かが明らかに浜辺でかがり火を焚いていた。とても低く遠くにあって直接それを目で見ることはできなかったが、その火が岸辺の崖に反射した光の揺らめきで、ボートから見わけることはできた。風が強くなり、ときどき、怒って背を丸めた山猫のように波が盛り上がっては激しく泡だった。

 船長は船首にいたが、上体を起こし、水がめに体をもたせかけた。「なんとも長い夜だな」と記者にいい、岸の方に目を向けた。「救援隊は時間がかかってるようだな」

「サメが周囲をうろついているの、見えました?」

「ああ、見た。でかいやつだったな、たしかに」

「船長が目をさましていらっしゃるとわかっていたら――」

 それから、記者は舟底に寝ている機関士に声をかけた。

「ビリー!」 ゆっくり動く気配があった。「ビリー、交代してくれるかい」

「了解」と、機関士がいった。

 舟底にたっぷりたまった冷たい海水につかって料理長の救命帯に体を寄せると、記者はすぐに歯をガチガチいわせながら眠りに落ちた。この眠りはとても心地よかったので、極度の疲労状態の最終段階といった調子の声で自分の名前を呼ばれたとき、眠っていたのはほんの一瞬だったような気がした。

「よう、代わってくれ」

「わかったよ、ビリー」

 北方の光はなぜか消えていたが、すっかり目をさましていた船長が方角を教えてくれた。

 その夜遅く、彼らはボートをさらに沖に出し、船長は船尾の料理長に、オール一本でボートをたえず沖に向けておくよう指示した。打ち寄せる波の音が聞こえるほど岸に近づいたら、料理長が大声で知らせることになった。この計画のおかげで機関士と記者は二人そろって少し休憩することができた。「若い連中の体力を回復させてやろうや」と船長がいってくれたので、機関士と記者は舟底で丸くなった。体を振るわせながら言葉を交わしたりもしたが、二人ともやがて死んだように眠りに落ちた。さっきのと同じか別のやつなのかはともかく、またサメが出現したことも知らなかった。

 ボートが波を乗りこえるたびに、水しぶきが舷側を超えて流れこみ、そのたびにずぶ濡れになったが、眠りをさますほどではなかった。不気味な風や海水もミイラに対して効果がないように影響はまるでなかった。

「おい」と、料理長が遠慮しいしいいった。「また陸にかなり近づいちまった。どっちか、また漕いで沖出ししてくれないか」 記者は上体を起こし、巻波がくずれ落ちる音を聞いた。

 漕いでいると、船長が彼にウイスキーと水をくれたので、寒さを感じなくなった。「もし私が上陸できて、誰かがオールの写真を見せでもしたら――」

やがてまた短い会話がかわされた。

「ビリー、ビリー、交代してくれるかい?」

「わかったよ」と、機関士が答えた。

オープン・ボート 13

スティーヴン・クレイン著

VI

「もしも俺がおぼれるとして――おぼれて死ぬかもしれないが――おぼれ死ぬとして、海を支配している七人の神様の名にかけて、俺はなぜこんな遠くまでやってきて、砂浜や木々をながめさせられているのだろうか?」

この暗く憂鬱な夜には、理不尽なほど不当であるとはいえ、本当に自分をおぼれさせようとするのが七人の神の真意なのだと思ったとしてもやむをえまい。懸命に努力し生きてきた者をおぼれさせるのは、たしかに理不尽きわまりない不当な行為だ。これは自然の摂理にそむく犯罪だと、彼は感じた。装飾した帆を持つ数多くのガレー船が出現して以来、これまでも他に大勢の人間が海でおぼれてはいるのだが、とはいえ――

自然というやつは、俺が溺死したとしても、たいしたことはないとみなし、俺みたいな人間を消したところで世界の完全性がそこなわれるわけではない感じているのだと思うと、彼はまず石でも拾って神殿に投げつけたいと思ったが、そういう石ころも神殿も周囲に存在していないので、くやしくて歯ぎしりしたいほどだった。母なる自然というものが目に見える形で近くに存在していれば、彼はそいつに向かって罵詈雑言の限りをつくしたことだろう。

自分の感情を吐露する目に見える対象がないのであれば、それを象徴するものに向かって膝まづき、両手をあわせ、「おっしゃるとおりです。でも、俺はまだ死にたくないんですよ」と命ごいすらしたかもしれない。

冬の夜、高い位置で冷たく光っている星は、自然が自分に向かって語りかける言葉だと、彼は感じた。そうして自分のおかれている絶望的な状況に思いいたるのだった。

ボートに乗った男たちは、こうした問題を実際に口に出して論じたりはしなかったが、疑いもなく、それぞれが黙ったまま自分の心に問うていた。疲れきった様子を示していたが、それを別にすれば彼らはめったに感情をあらわさなかった。会話はボートの操船に関することだけだった。

感情が音楽で示されるように、不思議なことに、ある詩がふいに記者の脳裏によみがえった。その詩を忘れていたことすら忘れていたが、いきなり心に浮かんできた。

外人部隊の兵士が一人、アルジェで倒れて死にかけていた。看護してくれる女はいないし、涙を流してくれる女もいなかった。だが、戦友の一人がそばに立っている。兵士はその手を握り、こういった。「自分は二度と祖国を、母国を見ることはないんだろうな」と。

彼は子供の頃、この外人部隊の兵士がアルジェで死にかけているという詩*1はよく知っていた。が、そこに描かれていることが重要だと思ったこともなかった。食事のときに、おおぜいの学友がその兵士の苦しみについて説明してくれたが、逆に彼はまったく関心がなくなってしまった。外人部隊の兵士がアルジェで重傷を負って死にかけているという出来事が自分の身に起きるとは思えなかったし、それが悲しいことだとも感じなかった。鉛筆の芯が折れたほども共感しなかった。

だが、不思議なことに、いまになって、それが人間として、生きている人間の問題としてよみがえってきた。その話はもはや、暖炉で暖をとりながらお茶を飲んでいる詩人が頭の中でつむいだ絵空事ではなくて、現実として、――過酷で悲しく、美しくもある現実として感じられたのだった。


脚注
*1:イギリスの社会改革家で著作家のキャロラインE.S.ノートン(1808年~1877年)による『ビンゲン・オン・ザ・ライン』という詩集に収録された詩の一節。
この兵士はドイツのビンゲン・アム・ラインの出身で、アルジェリアでの戦闘に外人部隊として参加し、瀕死の重傷を負ったとされる。