現代語訳『海のロマンス』53 :練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第53回)
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アホウドリを釣る

一、彼らはおそれ、彼らはおどろき、
  彼らはうらみ、彼らはののしった。
  生暖かい鳥の首をキューキューと、
  こともなげに俺が絞めたとき。

二、何という無残なしうち?!
  おそろしい悪魔の心!!
  手前が鳥を殺した故に、
  海が時化(しけ)たらどうするつもりだ?

三、見ろやい、祟(たた)りがもう現れた、この外道(げどう)め、
  無辜(むこ)の鳥を殺した報いは、
  マストにうなる強い風となったわ。
  と、震えながら彼らは吠えた*1

*1: イギリスの作家、コウルリッジの幻想的で怪奇な長編物語詩『老水夫行』に、アホウドリを殺したために船が呪われて……という、ほぼ同じような一節がある。

バタバタと甲板を駆ける靴の音がしたと思ったら、「釣った、アホウドリを釣った」という、浮世離れしたユーモアに富んだ声が、人々の心のどこやらに必ずひそんでいる、子供のごとき好奇的欲求をけしかけるように、けたたましく甲板に響く。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 67:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第67回)eyecatch_2019

第十二章

カヌーで航海するときはいつも小さな旗を揚げているのだが、それは荷馬車で運ぶ時も同じだ。ゆっくり歩いていく。目的地には少しずつ近づいてはいる。夕方になると、美しいボージェの山々から涼しい風が吹いてきて、旗も生き返ったようにひらめいた。トゥーア川が道をさえぎるように流れていて、そこを渡らなければならない。とはいえ、日照りが続いていて水が少ないので、渡渉は簡単だった。ぼくらの荷馬車の行列は、やがてタンというかわいらしい町に入った。御者はこのまま自分が定宿にしているホテルまで行こうと言った。ぼくとしては、その宿を見た瞬間に、この規模の町でこれが一番ということはないなと、すぐにわかった(何度も経験しているからね)。それで、ぼく自身が手綱(たづな)をとって引き返し、もう少しましな宿を探した。

見つけた宿の主人はぼくのカヌー旅の記事を読んでいたそうで、大歓迎してくれた。最高だったのは、なんでも自由にできるということだ。夕方、集まった地元の人々を楽しませるため、マグネシウムのランプを点灯してみせた。大勢の人が道路にあふれている。摘みたてのブドウを満載した大きな樽を載せた荷車を牛にひかせて家路に向かうところなのだ。花束を振りまわし、花の冠を高く掲げ、踊ったり、しわがれ声で歌ったりしている。朴訥(ぼくとつ)な感じではあるが、ブドウの豊作を祝っているのだ。国境を超えてフランス領に入って気がつくのは、フランス人は歌が下手だということだ。そういうのを聞かされると、すぐにドイツ人の上手な歌がなつかしくなるから不思議だ。このあたりの農民たちの言葉はまだドイツ語で、気質もドイツ的なのだが。

夜になると、火事を消す実験があるというので、それを見物しにいった。市場に大きなかがり火がたかれていた。新しい装置の発明者が前に出てくる。背中に水を入れた容器を背負っている。炭酸ガスで大気圧の六倍の圧力がかかっているらしい。細くなったホースの先端を火に向ける。かがり火は驚くほど短時間で消えた。大成功だ1。この発明家と町の頭のよい人たちは、その後で、ぼくのカヌーを見物しにきた。例によってスケッチブックを広げて楽しんでもらい、気持ちよく一日が終わった。この日のはじめは苦労の連続だったが、一日の最後ですべて逆転した。にぎやかな町ではあるものの、本屋は一軒しかなく、品揃(しなぞろ)えも貧弱だった。一人の神父と修道女二人が、そこで本を買っていた。活字がびっしり詰まった本より絵や図入りの本の方がよく売れているようだ。

原注1: この発明(消火器)はロンドンでもよく知られているし、非常に価値のあるものだと思う。

翌朝、新しい鉄道を利用してカヌーを丘陵地帯まで運ぶことができた。鉄道の係はカヌーを別便で送るように言った。つまり「貨物」専用の汽車に載せろというわけだ。このカヌーは自分にとって、いわば「女房」のようなもので、それと別々の汽車に乗るなんてできないと、ぼくの方も説を曲げなかった。彼らは額を寄せ、知恵をしぼり、五種類の書類に何やら書きこみ、二倍の料金を請求した。とはいえ、ぼくが払った費用は全部で九ペンスだった。まったく、フランス人は相も変わらず書類仕事が好きで、臨機応変ということを知らない。

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現代語訳『海のロマンス』52:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第52回)

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二、副直勤務

夜明けの当直の副直(サブワッチ)に立つ。十一月五日。

暗い海から涼しい風が吹き上がって、睡眠(ねむ)りたりない顔にいくぶんの爽快味を与える。うす暗い羅針盤(スタンダード・コンパス)のランプで、針路が南南西になっているのが照らし出される。

例の季節風(モンスーン)のため、したたか悩まされた練習船はついに十一月三日の午後四時に総帆(そうはん)をたたんで機走に移った。北緯八度四十分、西経百二十四度。

暑さはいくぶん減ったようだが、赤道無風帯(ドルドラム)に特有の威嚇的な空と、悪性な海の揺れ方はまだ直りそうもない。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 66:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第66回)
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日曜は散歩したり本を読んだり、のんびりとすごした。宿の気持ちのいい離れで、ミュルーズから釣りに来ていたイギリス人一家と一緒に食事をした。娘の一人が深い池に落ちておぼれかけた。叫び声が聞こえたので、すぐに駆けつけて引き上げた。

このイギリス人の英語には、ちょっと外国人風のアクセントがあった。もうフランスに六年もいるのだそうだ。とはいえ、故郷のランカシャーなまりは会話の随所に出ていた。彼は「マンチェスターの新聞で、ちょうどカヌーについての記事を読んでいたところなんだよ」と語った。その日の朝、子供たちは日曜学校に行き、それから汽車でここまで来たらしい。英国北部の、およそ上品とはいえない彼の所作と、「小さな紳士淑女」たる子供たちのお行儀のよさは対照的だった。その上品な子供の一人であるフィリバートは非常に利口で、一時間か二時間、ぼくの話の相手をしてくれた。仲良くなり、その子はイギリスやアメリカについて、ありとあらゆることを質問しまくった。挿絵の入った本を渡すと、大喜びでフランス語の本を父親に読んでやっていた。その本では、ナポレオンと元帥が、島流しにあったセントヘレナ島でキリスト教の信仰について語りあったりしている、ちょっとびっくりするような本なのだ。フランス語を解する者にとっては、読む価値のある本だ。

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現代語訳『海のロマンス』51:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第51回)

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無風帯(ドルドラム)

一、風神の横神破り──南西の季節風(モンスーン)

十一月二日、北緯八度五十二分、西経百二十四度二十一分。

昨日からなんど風向(かぜ)が変わって、何度「帆の開き(タック)」が変わったかわからぬ。しかも、風力(かぜ)といえば、子供の髪をそよがすほどの力もない。いよいよ船はソロリソロリと例の赤道無風帯(ドルドラム)へと忍びこむらしい。

暑い。苦しい。じっとしておっても身体の肉が溶けて流れ出すかと思うほどに、気味悪い脂汗(あぶらあせ)が毛穴をつんざいてスラスラとあふれ出る。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 64:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第64回)
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しばらくすると、運河はイル川に流れこんだ。この川はフランスのボージュを通ってライン川に続いている。長さはあるが、流れはひどく遅い。というか、いたるところによどみがあって、単なる水たまりが延々と連なっているみたいで、水面も煮汁のあくのような膜でおおわれていた。となると、この川に長居はしたくない。で、また運河に入り直した。そこで、一人の若者と知り合いになった。本を片手に散歩していたのだ。彼は偶然にもアメリカのカヌーの冒険の本を読んでいたようで、ぼくたちは話をしながら川と岸辺を並んで進んだ。ロックでは、手を貸してくれた。ぼくは、こうやって実際にカヌーで旅をしているのと、本で読む冒険に満ちた物語とはえらい違いだろうと言ったりした! 彼は自分の世界を広げようとしていた。外国を旅したい、特にイギリスを見てみたいと語っていた。それで連れだってレストランまで行き、彼にワインをおごった。料金は二ペンス半だった。若者と別れたときにはもう暗かったので、ぼくはカヌーを水門管理人の家に預けた。そこの息子がイルフュートの村まで連れて行ってくれた。近くに鉄道の駅もあるのだが、背後の丘にはブドウ園が広がり、なんとも牧歌的なところだった。暗闇のなかでも、最高の宿とされた家を見まちがうことはなかった。白い馬という名の宿で、泊まれますかときくと、「個室は無理だけど、三人の相部屋でよければ」という返事だった。

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現代語訳『海のロマンス』50:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第50回)

二カ月近く滞在したサンディエゴを出帆。いよいよ最大の難関の一つ、南米ホーン岬へ向かう航海がはじまります。

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さらば麗しきポイント・ローマ

沿岸風より貿易風帯へ ── 上 再び「痛快味」を感ず

さっそく最初の夜、当直に立つ。サンディエゴを出帆した十月十七日の夜である。南カリフォルニアの沿岸風は、都合よくも北から吹いている。

一年余も航海しなかったような気がする。なんとなく新しい心持(こころもち)で、ハッチの周囲(まわり)に集まった当直員の胸には、不思議なほどこんがらがった思いがそれからそれへと走馬灯のように伝わる。

船長の不祥事、三等航海士の客死(かくし)など、考えてみても嫌になるほど、暗い、いたましい、情けない回想は、軽い華やかな明るいカリフォルニアの大気の下でただ享楽と若き生の躍動にのみ生きている美しい人と共に遊んだ追憶と、何の躊躇(ちゅうちょ)することもなく同居している。

今朝、桟橋でホラハン奥さんに泣かれたときは、さすがに悲しかった。ポイントローマの下で「金色のベスト」を来た同胞に別離(わか)れたときも、さすがに悲しかった。しかし、それからわずか十時間とたたぬ現在(いま)では、「胸中なんの不安もなし」である。何らのわだかまりも何らの未練も何らの心残りもない……といったら、さすがに跳ねっ返りのアメリカ女も「ずいぶんだわね」とか「薄情な方ね」とかなんとか驚くであろうが……

船乗りのせわしない稼業では仕方がない。五十余日の悲しい回想も、楽しい追憶も、一切のことすべてがぼんやりとして、夢を見ていたような気がする。

すべての過去を、すべて夢のごとく忘れ去ったとき、人々の心には、ただ心細い前途が残った。さびしく長く苦しきものと想像する、青い海の旅が残った。

「いよいよ今日から四カ月の重禁固かなあ……」と、娑婆(しゃば)に未練を残す者。

白帆(しらほ)の翼高く展(か)け
われ行かんかな広き海洋(うみ)

と、非人情、無刺激な大自然の懐(ふところ)にいだかれて、新しい世界に飛び出したことを喜ぶ者。

強い北の順風を受けて、船は景気よく南へ南へと走るせいか、さかんに縦振動(ピッチング)をやる。横振動(ローリング)をやる。波に持ち上げられること(ヒービング)もある。五十余日のサンディエゴ停泊にすっかり気を許して、やれやれ安心と、どっしり尻をおろした神経中枢が突然グラグラと不意打ちをくらう。不意打ちをくった神経中枢は、これはというタイミングで、すべての意識と慣習と性格と心頼みとに、狼狽(ろうばい)と同士討ちを持ちこんでくる。さかんに酔っぱらって、さかんに苦しい「痛快味(つうかいみ)」を感じる。

しっかと甲板を直角に踏みしめたつもりでいるのは、ただ本人だけである。両足を踏ん張る直線運動が上下に働いているうちに、メタセンター*1を中心として、船の動揺(ローリング)が孤形運動をなしつつあることを知らぬとは、ずいぶん甘い、虫のいい話である。

*1: メタセンターは船が傾く前の浮力の作用線と、傾いた後の浮力の作用線の交点。
つまり、傾きの中心で、船の安定性の目安になる。

力強くおろした踵(かかと)が、揺れる甲板にスポッと斜めに当たるとき、腰から腹へかけて胃の腑(ふ)のあたりにはびこる底力(そこじから)が意気地なくスーッスーッと頭のてっぺんから蒸発していく。腰がふらつき、目がくらみ、こめかみがズキンズキンと痛む。いよいよ本物になりそうである。

「船暈学(せんうんがく)」、つまり船酔いに造詣(ぞうけい)が深い長谷川如是閑(なせがわにょぜかん)先生は「胸がムカムカして気持ちの悪いのは、周囲の動揺が神経中枢の統一作用を攪乱(かくらん)して、それを不安定な平衡状態に置くからだ」と言われた。

ところが、ぼくの眩暈(めまい)ときては、ずいぶんずうずうしい横着な種類(たち)で、いかに胸がむかつこうが、いかに統一作用が攪乱(かくらん)されようが、ないしは周囲の景色がケンケンで踊りを踊ろうが、食卓のごちそうは一通りは必ず平らげる。食卓に向かうときに限って神経中枢は巧みに統一され、動揺せる不安定な物象を超絶した立命の地が平然と出現するように思える。

こういう神経中枢の狼狽(ろうばい)と、前夜の夜更かしによる睡眠不足とがもたらす不自然なる神経系統の緊張から、さすがに海洋(うみ)に慣れたるぼくといえども、今度という今度は「頭ズキズキ」「胸ムカムカ」となった。船乗りとして恥ずかしい次第である。

こういう気分に襲われたのを「大成丸語」では、「痛快を感じる」という。悲痛壮快なる情緒の攪乱(かくらん)が立て続けに頭痛として沸き起こるからだという。ところが、始末におえないのは、この「痛快味」がマストの上でタールや塗料を塗っているときに、ヤッコラサと奇襲してくることである。尾籠(びろう)な話だが、あるときはメイン・マストのバックステイに飯粒のまじったタールが塗りつけられてあったり、百尺(約三十メートトル)の空から麦飯やみそ汁の雨がときならず降ってきたりしたという笑い話が残っている。

下、軽い誇り(プライド)

練習船(ふね)は北を中心として、あるいは偏東(へんとう)し、あるいは偏西(へんさい)して、常に風向きの不安定な沿岸風の領域から、ようやく真摯(しんし)にして恒性(こうせい)を有する北東貿易風帯に入って、非常(ひど)く左右へ揺れながらも盛んに南へ南へと走る。北極星(ポールスター)の高度は緯度の低下と共にズンズンと少なくなり、一種の心細さののち、まだ見ぬ南の世界へ、十字星(ザザンクロス)の王土へ、想像に生きる髪の黒い、眼の大きな人の国へと近づくのが嬉しいようにも感じる。

本船は二、三日前から風力四ほどの貿易風を左舷後方(コーター)に受けて、一歩ずつ、一浬(かいり)ずつ赤道に近づいていく。

十月二十六日(土)の航海日誌(ログブック)には「午後五時四十分、本船右舷船首三点八浬(マイル)の距離に「右舷一杯開き」にて北西に向かう三本マストのバークを認める」とある。

この数行のラインをログブックに記(しる)した本人が、かくいうぼくであるのは、実に嬉しくもまた欣(よろこ)ばしく、軽い誇り(プライド)を抱(いだ)かせる。

四時から薄暮当直(イブニングワッチ)に立ったぼくは、さらに五時――六時の時間帯に重要な見張り(ルックアウト)の役を務めた。

太陽(ひ)はこの頃は五時半に没し去って、出没方位角(アンプリチュード)はほとんどゼロで、水平視差(ホリゾンタル・パララックス)は今やその最大値に達する。

巻雲がクリーム色の西空高く広がり、水平線は黄昏(トワイライト)の初期の色彩(いろ)で最も明らかに最もたるみなく一線を描いている。この明るい夕陽(ゆうひ)の放射弧(ほうしゃこ)は、強い屈折(レフラクション)によりて広がった雲の下縁(かえん)を、あるいはピンク色に、あるいは茜色(あかねいろ)に、あるいは紫蘇(しそ)色に、美しき色とりどりの染めている。

この美しい天然のパノラマを現半径五浬の円弧として眺めるべき中心の位置に、今ぼくは見張り(ルックアウト)として立っているのである。

見渡せば、この色の黒い小さな一人の男が、船の規則の命じるままに、浮世(うきよ)の約束の一部を遂行せんがために、しょんぼりと船首楼(せんしゅろう)にたたずんでいるのだが、それとはまったく没交渉(ぼつこうしょう)に、折衝(せっしょう)も反応もなく、美しい天然の絵は、ますますその絢爛(けんらん)の美を増している。意地悪く、また面当(つらあ)てに、「ブレース」と「修業日誌」の生活から超越できない人間をなぶるのかと気をまわしたくなるほどに、天然の絵はますますその絢爛(けんらん)の美を増してくる。

その昔、お釈迦様はカピラ城から亡命する時、家族一切の羈絆(きはん)を脱し、浮世(うきよ)一切の約束を破り、世界一切の不安定現象を超絶して、首尾よく涅槃(ねはん)の醇境(じゅんきょう)に到達したという。

しかし、それは四千年前の簡易生活のときだから、そんな生やさしいことで済む。現今(いま)では、そうは行かぬ。そんなに抜けやすい粗末な羈絆(きはん)でもなく、そんなに破りやすい迂闊(うかつ)な約束でもなく、そんなに超絶しやすい腑抜(ふぬ)けの象(かたち)でもない。

執拗(しつよう)な浮世(うきよ)の羈絆(きはん)や約束にたたられたが最後、クモに見込まれてクモの巣にからみとられたハエのごとく、騒(さわ)ごうが、もだえようが、悟(さと)ろうが、とうてい涅槃(ねはん)の彼岸(ひがん)には到達できそうもない。

遠い昔のことはいざ知らず、現に非人情を標榜(ひょうぼう)し、無刺激を希(こいねが)い、唯一無二(ゆいいいつむに)の別世界に生息していると思っているぼくが、わが感興のわくがままに、わが情操の歌うがままに、自分の目に映っている自然の映画(フィルム)を心のゆくまで眺めて鑑賞することすらできないという情けない境遇にあるのである。

四時から五時までは「見張り(ルックアウト)という浮世の約束に縛(しば)られ、船の規則に叱(しか)られている。

とうてい八時の「寝床(ボンク)の涅槃(ねはん)」に入るまでは、この約束と規則からは抜けられまいと懸念(けねん)したぼくは、船首から左へ左へと、紺青(こんじょう)の海とねずみ色の空とを画(かく)する、水平線の円弧の上を軽く滑らす。何のことはない。眉間(みけん)を中心として、その先端にマスも重みも何(なんに)もない無形の振子(ベンジュラム)をつけた単弦運動(シンプルハーモニックモーション)である。

左舷の方には異状はない。

さては今日もこんなものだろう……と何(なん)の気なしに今度は右舷の方へとすべらす。スラスラと滑っていった例の振子(ペンジュラム)が右舷船首三点のあたりに行ったとき、チラッとかすかに、極めてかすかに滑り去る視線を脅(おびや)かす者があった。極めて細かい逆まつげが角膜の前に挟まったような気がする。

覚(おぼ)えず、おやっと口走ったぼくは、ドンドンと勢いに乗じて惰力(だりょく)で滑り去る視線を、ヤッコラサと引き戻す。気をつけて丁寧(ていねい)に引き戻した視線によって、そこに蒼(あお)い海にボンヤリと霞(かす)んで、三本マストのバーク型の帆船が見いだされる。

幸いに、外(ほか)には誰も気づかないようである。船の上で、見張りに立つ間(ま)に、他船を見つけた者はまさに感謝状がもらえるほどの殊勲者である。

サンディエゴ出帆後の最初の「殊勲者」がすなわち自分であると気づいたとき、「軽い誇り」が心にわき、自(おの)ずからなる微笑(ほほえみ)が浮かんでくる。

「右舷三点に帆船が見えます……」

誇り(プライド)と欣喜(よろこび)に胸を躍らせ、心臓は肋骨(ろっこつ)を蹴(け)る。

士官は急いで双眼鏡(めがね)をとり、右舷の甲板は当番非番の学生で一杯になる。かかる船内の騒動を尻目(しりめ)にかけて、わざと知らぬ気に船首楼(フォクスル)を闊歩(かっぽ)するときの得意!!

 

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ヨーロッパをカヌーで旅する 64:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第64回)
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翌朝、例によってカヌーを鉄道の駅舎まで運び、トランクや手荷物と一緒にカウンターに置いた。駅員たちは、カヌーを汽車に載せることを拒否した。カヌーを汽車で運ぶのを断られたのは、これが初めてだ。あの手この手で説得を試みたものの駄目だった。フランスで汽車へのカヌー積みこみの申請したのはこれが最初だ。これが前例となってしまっては、今後に尾を引いてしまう。

これまで他の七、八か国ではすべて受け入れてもらったんですよとも言ってみたが、このときばかりは、フランスの鉄道は頑としてカヌーを荷物としては受け入れようとはしなかった。後日談になるが、その後(つまり、この原稿を執筆している時点では)、フランスを旅した他のカヌーイストによれば、現在はフランスでもカヌーの運搬は受け入れられているようだ。

汽車で運ぼうとしたのは数マイルほどだ。それができれば、運河で遭遇するであろう五十ほどのロック(水位調整のための水門)を通過するのに必要な手間がはぶけるので、単調できつい運河でのロック通過に要する日数を二日は短縮できるはずだった。だが、カヌーを汽車で運べないとなると、また運河に戻すしかない。ま、運河のロックが不可避なのであれば、こっちの忍耐力をきたえる筋トレだと思って身体を目いっぱい使うしかあるまい。

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現代語訳『海のロマンス』 49:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第49回)
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さらば、うるわしきポイントローマ

サンディエゴ出帆

十月十七日。悲しき別離(わかれ)の日はついに来た。
いざや別離(わか)れん、心に深く、また会うときの喜こびを胸に描いて。
捨てよ、リキュールの瓶! 離(はな)せよ、膝(ひざ)に乗せた乙女を!! ブレース*1引けと、風はささやく。
海洋(うみ)の妖女(ようじょ)マザーカレーは、
シーチャイルドの来たるを待つ*2

*1: ブレース - 帆船の横帆で帆桁(ヤード)につけたロープ。これで帆の向きを調整する。
*2: マザーカレー - カリフォルニア州のヨセミテ公園を訪れる観光客を相手にしたキャンプ型リゾート施設の当時の女主人の通称(本名はジェニー・エッタ・フォスター)。シーチャイルドは文字通り、海の子、つまり、自分たちを指す。

さらば別離(わか)れん、わが享楽の民よ、「アンクルサム」の子孫よ、「カテドラル(大聖堂)の児(こ)」ミス・ヘレンよ、「カリフォルニアの母」ホラハン夫人よ。

サンディエゴ停泊は五十余日におよび、いろいろと多くの印象と感興と啓示(ヒント)と憧憬とを与えられた船乗りであった。異国(とつくに)の船人(ふなびと)に向かってわけ隔てのないその抱擁は、強い親しみを示しただけ、楽しみと安らぎとが思う存分に享受せられただけ、握手と接吻と抱擁とが華やかな享楽的な色彩の強く輝いた大気の中に与えられただけ、それだけ、十月十七日の別離は悲しく、心惜(くちお)しく、恨(うら)めしく感じる。

船は早朝に錨地を離れ、サンタフィー桟橋に横付けにして、忙しく清水(みず)を積みこむ。

練習船を見送りに来た日米両国の人々は、電車で、または自動車を連ねて、黒山のように桟橋に集まる。こんなに多くの外国人から見送られたことは練習船の記録(レコード)にかつてない、と士官の一人は感嘆する。

黒絹(くろぎぬ)に身を包んだホラハン夫人は、手紙と書籍と花束とをたずさえて、悲し気に来船する。ヘレンとアールからは悲しい手紙が来る。

いよいよ出港用意のラッパが鳴って、見送り人は否応なしに下船させられる。ホラハン夫人は美しい眼に一杯の涙をためて、きっともう一度来いという。その時に汝(なんじ)の指揮する船の上で再会しようという。いよいよ最後のかたい握手をかわしたとき、夫人は口ごもりながら小声で “Good bye, Be blessed by God.”(さようなら、神のご加護がありますように) と言った。急に胸に迫って、変な気持ちとなる。

舫(もや)い綱(づな)(ホーサー)を外し、二千四百トンの大船が徐々に桟橋を離れたとき、「ボンボヤージュ」という太い男らしい紳士の声と、「グットバイ」という甲高い淑女の泣き声とが混じりあった別辞(フェアウェル)が桟橋に一杯になった群衆から発せられる。船はようやく加速度を増して、桟橋の人混みはようやく小さく、ヒラヒラと舞う白いハンケチも風に吹かれる紙片のように見えるようになったとき、最後の悲しい別辞(わかれ)が遠く大波のように、豆のごとくかすむ群衆から流れ出た。船は汽船や工場で鳴らす別辞(わかれ)の汽笛に応えて、三発の長笛(ホイッスル)を吹く。

ノース島を左にまわって、区画整理されたサンディエゴの町を縦に見渡すとき、ゴールドン・ウェストという小さな蒸気船がついてくるのに気がつく。在留日本人が、悲しい別離を遠くローマランドの下で惜しもうと特に艇をしたてて追ってきたのである。

例の「シャム公使」が赤いネクタイをつけ、一人で艇の屋根の上で騒いでいる。練習船の船足が速くなって、ようやくローマランドに近づくに従い、l「シャム公使」以下五十人余の同胞の顔はようやく暗く悲しい感情が激しい言葉となってほとばしりでる。

「おーい、今度来るときは天洋*3の船長となって来いよ」とか、「日本への土産に……かまうもんか……そこの砲台の写真を撮っていけ……」とか、乱暴なことをいう。

*3: 天洋丸(13,454トン)は、大成丸と相前後して進水した大型貨客船で、日本の船として初めて一万トンを超えた。エンジンには最新のタービン機関を採用していた。

やがて艇は三回の「万歳」を唱えて、名残惜し気に艇首をめぐらせて帰っていった。かくして五十余日の長い碇泊の間に、最も複雑な交渉と、最も有人情の生活と、最も軌範的な折衝とを続けてきた二百の「海の民」は、再び四カ月一万二千海里(マイル)の非人情な無刺激な旅にのぼった。マザーカレーの静かな広い懐(ふところ)にいだかれるべく……

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ヨーロッパをカヌーで旅する 63 :マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第63回)
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うれしい驚きだったが、この運河には、はっきりした流れがあった。右手の方に一時間ほど、距離にして二マイルくらい漕いでみた。水路の幅はわずか十二フィート(約3.6メートル)そこそこだったが、水は透明だし水深もあったので楽といえば楽だった。数マイル進んだところに、跳ね橋があった。この橋の高さは水面から一フィートもない。機械式になっていて、橋の跳ね上げ操作のために係の男がやってきた。どうやって通過させようか思案している様子だった。ぼくはカヌーを降りて橋を超えた。彼が橋の下を通してカヌーを押し出してくれたので、橋の反対側でまた乗りこんだ。この橋の下をくぐった舟は、疑いもなくぼくのカヌーが最初だろう。とはいえ、これまでドナウ川では何度か非常に低い橋をくぐったことはある。なかには、水面から二インチもないところもあった。そういうときはカヌーを引っ張り上げて橋を超えてきた。橋がそんなに低いのなら洪水のときはどうするのだろうと疑問に思うかもしれない。なに、増水した水は橋を乗りこえて流れていくだけだ。状況によっては、水位の上昇に応じて橋の踏み板を取り外してしまうこともある。そういうときに徒歩で旅行している者が川を渡ろうとやってきたとしても、肝心の橋がなくなっているので立往生してしまうことになる。

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