スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (32)

ラフェールでのさんざんな記憶

その日のほとんどは、モイですごした。というのも、ぼくらはのんびりと物思いにふけったりするのが好きだったし、舟で一日に航海する距離をのばすのは好きではなく、朝早く出発するのもいやだった。おまけに、ここはゆっくりしていきなさいといわんばかりの土地だった。凝った狩猟服に身を包んだ人々が銃や獲物袋を抱えて城から出てくる。こういう快楽を追い求める上品な連中が朝から精を出している一方で、自分たちだけは残ってのんびりするということ自体が楽しかった。こうして気持ちにゆとりがあれば、だれもが貴族のような気分になれるし、侯爵のなかの公爵、さらに公爵を支配者する君主を演じることもできるわけだ。沈着冷静な態度は辛抱強さから生まれる。落ち着いた心というものは当惑させられたり驚かせられたりすることがなく、雷雨のさなかにも幸運や不運に一喜一憂せず、時計のように自分のペースでやっていくことになる。

その日は近場のラフェールまでにした。薄暗くなりかけていたし、舟をしまう前に小雨が降り出したからだ。ラフェールは平原にある軍事要塞化された町で、城壁が二重に張り巡らされている。最初の城壁と二番目の城壁の間には荒れ地と畑があった。道ばたには、あちこちに軍隊名で立ち入り禁止の札が立っていた。二列目の城門まで来ると、やっと町が姿を現した。窓に明かりがともっているとうれしくなるし、煮炊きの煙も漂ってきた。町には仏軍の秋の軍事演習に参加している予備兵がおおぜいいて、彼らはいかめしいコート姿で足早に歩いていた。室内で食事をしながら、窓に当たる雨音を聞いたりするのは、夜のすごし方としては最高だろう。

ラフェールには豪華な宿が一軒あると聞いていたので、シガレット号の相棒とぼくは互いにそうした幸運をわかちあえる喜びにわくわくしていた。どこもかしこもポプラだらけの田舎で雨宿りする家もない人々に雨が降り続く! その一方で、ぼくらはそんなところで夕食を食べられるのだ! そんなところで眠りにつくことができるのだ! ぼくらの胸は期待でふくらんだ。その宿屋には森の生き物の名前がついていた。アカシカだったか牡鹿か雌鹿だったか、もう忘れてしまった。だが、近づくにつれて、そこがとても大きく、とても居心地がよさそうに見えてきたのは覚えている。エントランスは明るかった。専用の照明があるわけではなく、建物のあちこちにある暖炉やろうそくの光が漏れてきて、それほど明るくなっているのだった。皿がカチャカチャいう音が聞こえた。長大なテーブルクロスが見えた。厨房は鍛冶場のように赤く燃えさかり、いろんな食べ物のにおいが漂っている。

厨房というものは宿屋の光り輝く最奥の心臓部であって、いろんな炉が燃えさかり、棚にはずらりと皿が並んでいる。そこへ、くたびれたゴム製の袋を抱え、ぼろぼろの服を着たゴミ拾いのような格好をした二人連れ、つまり、ぼくらが意気揚々と入っていくところを想像してみてほしい。ぼくはそういう輝かしい厨房が見られると思っていたのだが、白いコック帽の連中が大勢ひしめいていて、そのだれもが片手鍋から目を離してぼくらを振り返り、驚いているのだった。女将が誰かはすぐにわかった。彼女は部下に指図していたが、顔を紅潮させ、何かに怒っているようで、とにかくせわしない女性だった。ぼくは彼女に対して丁寧に――シガレット号の相棒によれば丁寧すぎるほどに――泊めていただけますかと聞いた。彼女は冷たい目で、ぼくらの頭からつま先までじっと見て品定めをした。

「宿なら町外れにあるでしょうよ」と、彼女はこたえた。「うちは忙しくて、あんたたちにかまってる暇はないの」

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (31)

実際のところ、オアーズ川自体に問題は何もなかった。このあたりの上流部では、海に向かって、まだとても速く流れていた。川が湾曲しているところも急流で音を立てて流れていた。この激流と闘っているうちに、ぼくは親指を痛めてしまい、その後はずっと片方の手を宙に浮かせたまま漕がなければならなかった。まだ小さな川なのに水車をまわすため取水されたりしていて、水量が減って浅くなったところもあった。ぼくらは舟から足を出して砂まじりの川底を蹴って進まなければならなかった。それでも川はポプラの間を軽やかに流れ、緑の渓谷を作りあげていた。いい女に、よき本、そしてタバコ。その次に来るのが川で、これほど気持ちのよいものはない。この川が命を奪おうとしたことについては、ぼくは許した。結局、その責任の一端は木をなぎ倒した暴風のせいだし、ぼく自身がへまをしたためでもあり、川に責任があるとすれば三番目になるが、悪意があったわけではなく、海へそそぐという川本来の役目を果たそうとしただけにすぎない。何度も迂回し蛇行して海へ向かっているので、海へそそぐのも簡単ではない。地理学者たちはこの川を正確に再現した地図を描くのは断念したようだった。というのも、この川がクネクネと曲がっているのを正確に描いた地図を見つけることができなかったからだ。実際のところ、どんな地図よりもすごいことになっていた。何時間か急流を下った後で、ぼくの記憶が確かなら三時間ほど漕ぎすすんで集落のあるところまで来たので、ここはどこですかと聞いたところ、その場所はオリニーから四キロ(二マイル半)と離れていなかったのだ。(スコットランドのことわざのように)激流を楽しんで漕ぎ下ったこと自体を誇りに思うのでなければ、まったく動かずじっとしていた場合とほとんど同じことなのだった。

ポプラの生い茂った四角い牧草地で昼食をとった。ぼくらの周囲では木々の葉が風に舞い、ざわざわと音を立てていた。川の流れは相変わらず速くて、のんびりしているぼくらをせかしているようだった。ぼくらは少しも気にしなかった。川はどこへ流れていくか知っているが、ぼくらはそうじゃない。急ぐ必要はなかったし、気持ちのよい場所を見つけたら一服して楽しんだ。この時間、パリ証券取引所では株式仲買人たちが二、三パーセントの値動きに声を張り上げているはずだ。だが、ぼくらは、そういうことは川の流れほどにも気にしなかったし、ビジネスの世界で貴重なその時間をタバコと胃の消化をつかさどる神にささげた。急いでしまうと人としての誠実さが失われてしまう。自分の心と友人の心が信頼できるのであれば、明日は今日にまさるとも劣らないよき日になる。また、その間に死んでしまったとしても、もう死んでしまったのであるから、それで問題は解決されている。

午後になると、ぼくらは舟を運河に運ばなければならなかった。川が運河と交差しているのだが、そこには橋がなく、川は導水用の管になっていて漕げなかった。川沿いの道にいたある紳士がぼくらの航海にひどく興味を持ってくれた。それで、ぼくは、シガレット号の相棒がホラを吹きまくるのを目撃するはめになった。相棒はノルウェー製のナイフを持っていたのだが、実際には行ったことのないノルウェーでの冒険譚をあれこれ語った。相棒はしまいにはとても熱くなっていたが、後で、このとき自分は悪魔にとりつかれていたのだと釈明した。

モイは気持ちのいい小村で、城の周りに堀がめぐらしてあった。近隣の畑から麻のにおいが漂ってきていた。ゴールデンシープという宿では、最高のもてなしを受けた。ラウンジには、ラ・フェレを占拠したときのドイツの砲弾やニュルンベルグの人形、鉢にはいった金魚、あらゆる種類の小間物などが飾られていた。女将は太って地味な格好をした、近眼の、肝っ玉母さん風の人だったが、料理の腕は天才的で、自分でもそう思っているようだった。食事が運ばれるたびに彼女もやってきて、しばらく食事の様子を眺めているのだが、近眼なので目を細めて見ながら「おいしいでしょ?」と聞き、期待した「うまい」という返事が得られると厨房に姿を消した。この宿屋で食べたヤマウズラとキャベツというありふれたフランス料理は、ぼくの抱いていたイメージを一新した。それ以降、食事でこの料理を食べるたびに、ぼくはゴールデンシップで食べたものとの落差にがっかりすることになった。モイにある宿屋ゴールデンシープでの滞在は快適なものだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (30)

オアーズ川をモイまで下る

ぼくらがオアーズ川でカヌーを預けた例のカーニバル氏はとんでもない食わせ物だった。出発する朝、カヌーを置いたところに向かうぼくらを追いかけてくると、料金を安くしすぎたと後悔したらしく、ぼくを脇につれていき、なんだかんだと理由をつけて、あと五フラン払うよう請求した。ばかげた話だが、ともかく言われるままに金を支払った。もう親愛の情なんてものは消え失せて、それからはイギリス人特有の慇懃無礼な態度で、氏をまともに相手しないようにした。氏はすぐにやりすぎたと悟ったらしく態度をあらため、顔を伏せた。もっともらしい言い訳を考えつくことができたら、余分にせしめた金をこっちに返したくなったのではないかと思う。酒を飲まないかと誘ってきたものの、ぼくは彼に酒をおごられるなど、まっぴらだった。氏は哀れを誘うほどにしょんぼりしていた。ぼくは彼の横を無言で歩くか、言葉を交わすときは素っ気ない調子で応じた。そして上陸地点までやってくると、シガレット号に英語の隠語で顛末を説明した。

出発する時間については前日には正確に伝えていなかったのだが、橋の周辺には五十人ほどの人が集まっていたようだ。カーニバル氏は別にして、ぼくらは彼らにはできるだけ愛想よくした。別れの挨拶をかわし、川をよく知っている老紳士や英語のできる若い紳士と握手をしたが、彼のことは無視して声もかけなかった。哀れなカーニバル氏! さぞ恥ずかしい思いをしたことだろう。カヌーに関係する者として存在感を増した氏は、ぼくらの名前で指図したり、カヌーやそれに乗っているぼくらも自分の配下にあるかのように振る舞っていたのだが、いまではサーカスの花形のライオンたるぼくらに、こうしてあからさまに無視されているのだった! ぼくはこれほど意気消沈した人を見たことがない。彼は人混みに姿を消し、ぼくらの感情がやわらいだと判断すると、おずおずと前に出てきたものの、冷たい視線に出会うとあわてて引っこんだりしていた。彼がこれを教訓にしてくれればと期待するばかりだ。

カーニバル氏の姑息な手口はフランスでは珍しくないというのであれば、そんな話をここで披瀝するつもりはなかった。これは、ぼくらが今度の航海全体を通して体験した唯一の正直さを欠く行為というか狡猾な手段だったのだ。イギリスでは英国民は正直だと語られることが多い。だが、ささいな美点が大仰に表明されるような場合は用心したほうがよい。イギリス人が自分たちについて外国でどう語られているかを聞いたとしたら、あまりのひどさに、しばらくはそうした事実を解決しようと躍起になるだろうし、それが解決できたとしても当分は自分たちが正直だと自慢したりはしなくなるだろう。

オリニーの恩寵ともいうべき若い娘たちは出発のときには姿が見えなかった。二つ目の橋にさしかかると、そこにも黒山の見物人がいた! 歓声を受けて橋の下を通過するのは気持ちがよかった。若い男女が喝采しながら土手を追ってくる。川の流れは急だし、オールで漕いでもいたので、ぼくらはツバメのように一瞬にして通りすぎた。カヌーを追いかけて木々の茂った岸辺を駆けるのは大変だ。だが、娘達は自慢のかかとを見せるかのようにスカートの裾をつまみ上げ、息が切れるまでカヌーを追いかけてきた。最後まで残ったのは例の三人の娘と仲間の二人だった。もう無理となると、三人のうちの先頭の娘が木の切り株に飛び乗り、カヌーに向けて投げキッスをした。月の女神のダイアナというより、この場合は美の女神のビーナスというべきだろうが、彼女はそれをこの上なく優雅にやってのけた。「また来てね!」と彼女は叫んだ。他の者も皆それに唱和し、オリニーの山々に「また来てね」がこだました。しかし、川は急カーブを描いて曲がってしまい、ぼくらの周囲はまた緑の木々と流れる川だけになった。

「また来てね」だって? 人生という急流で「また来る」なんてことはないのだよ、お嬢さんたち。

商人は船乗りを導く星に従い、
農民は太陽を見て季節を知る。

そして、人は皆、運命という時計に自分の懐中時計をあわせなければならない。時間と空間を奔流のように流れる、人間を彼の抱く夢と一緒に一本の麦ワラのように押し流していく潮流がある。オリニーの曲がりくねった川のように、この人生の潮流には曲がり角が多い。快適な田園地帯をゆっくり流れ、また戻ってきたように見えたりするものの、同じ場所に戻ってきているわけではない。同じ牧草地を何時間も同じようにぐるぐるまわっているように思えたとしても、時間と時間の間をゆったりと流れ、多くの小さな支流が流れこみ、水は太陽に向かって蒸発している。同じような牧草地ではあっても、オアーズ川の同じ流れではない。このように、ぼくが変転する人生のうちに再びオリニーの娘たちのところに、君たちが死を待っている川のそばへと運んでいかれることがあるかもしれないが、そのときの老人はいま通りを歩いているぼくとは違っているだろうし、その老人がめぐりあう人妻や母親がはたしていまの君らと同じだとはいえないのではあるまいか?

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (29)

狩猟のことから、話はパリと地方の一般的な比較になった。プロレタリアを自称する亭主はパリをたたえてテーブルをたたいた。「パリって何だ? パリはフランスの精髄だ。パリジャンなんてものはいない。それは諸君であり、俺であり、パリ市民すべてなんだ。パリでは成功するチャンスは八十パーセントもある」 そして彼は労働者が犬小屋ほどしかない部屋で世界中に行き渡る物を作っている様子をいきいきと描写し「てなわけだ。すばらしいじゃないか」と叫んだ。

悲しそうな顔をした北部出身者がそれに異議をとなえ、農民の生活を賛美した。パリは男にとっても女にとってもよくない。「そもそも中央集権だし」と、彼はいいかけた。

が、宿の主人はすぐに反撃した。彼にとってはすべてが論理的で、すべてがすばらしいという。「まったく壮観だぜ! いろんなものがあるじゃないか!」 そしてテーブルをドンとたたき、皿がテーブルの上で舞った。

ぼくは二人をなだめようと、フランスにおける言論の自由はすばらしいと口にした。これはとんでもない失敗だった。皆、すぐにだまりこんだのだ。彼らは意味ありげに頭を揺らした。この主題が場違いなことは明らかだったが、悲しそうな顔をした北部出身者は自分の思想信条で迫害されたのだと、彼らはぼくに理解させた。「ちょっと聞いてみなよ」と、彼らはいった。「聞けばわかる」

「そうなんだ」と、彼はぼくがまだ何もいわないのに静かに答えた。「あんた方が考えているほど、フランスに言論の自由はないんじゃないかと思うよ」 そうして下を向き、その話はそれで終わりにしようと思っているらしかった。

ぼくらの好奇心はむしろ強くかきたてられた。このリンパ体質の外交販売員はどういう風に、あるいはなぜ、いつ迫害されたというのだろうか? ぼくらはすぐに、それは何か宗教的な理由のためだろうと推測し、主にポー*1の怪奇物語だとか、トリストラム・シャンディー*2に出てきた説教だとか、酔っ払った状態で記憶を探った。

翌朝、さらにこの問題を掘り下げる機会があった。というのも、ぼくらは出発する際にぼくらに共感する人々に見送られるのは苦手だったので早起きしたのだが、彼はぼくらよりもっと早く起きていたのだ。思想信条に殉教した者としての人格を保つためだとぼくは勝手に思ったのだが、彼は朝食に白ワインと生のタマネギを食していた。ぼくらは長いこと話をした。彼はその話題を避けようとしたものの、ぼくらは知りたかったことを知ることができた。しかし、このとき非常に興味深い状況が生じた。ぼくら二人のスコットランド人とこの一人のフランス人で半時間ほども話をしたのだが、それぞれが国籍によって異なる思いこみで議論していたのだった。話の最後になって、ぼくらは彼の異端信仰が宗教的なものではなく政治的なものだったことに気づき、彼がぼくらの思いこみが誤っているのではないかと疑うようになったのも議論の最後になってからだった。彼が政治的信念を話す言葉づかいや心構えは、ぼくらには宗教的な信念のように思えたし、逆に彼にとってもぼくらの言葉づかいは同様だった。

こうした誤解は、スコットランドとフランスという二つの国の特徴をよく示している。かつてナンティ・エワートが「ひどい宗教だ」と述べたように、政治がフランスの宗教なのだった。一方、スコットランドのぼくらは、賛美歌や誰もちゃんと翻訳できないヘブライ語のささいな相違点をめぐって言い争っていた。そして、こうした誤解は、異なる人種間だけでなく男女間においても、多くのはっきりと明確にならないことがある典型ということになるだろう。

迫害されたというぼくらの友人についていえば、彼はコミュニストか、それとはかなり異なるがパリ・コミューンの支持者といった程度にすぎなかった。そして、その結果として一つ以上の職を失っている。結婚もうまくいかなかったようだ。が、これについては、彼が仕事について情緒的な言い方をしたので、ぼくが勘違いしたのかもしれない。彼は穏健で親切な人物だったし、ぼくは彼がもっとよい職を得て、自分にふさわしい伴侶を得ていればよいがと願っている。

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脚注
*1: エドガー・アラン・ポー(1809年~1849年)は、一九世紀アメリカの短編作家。『アッシャー家の崩壊』のような恐怖小説やゴシック小説、『モルグ街の殺人』のような初の推理小説といわれる作品があり、ジューヌ・ヴェルヌに影響を与えた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』のようなSF小説の祖とされる作品もある。
異端審問については『落とし穴と振り子』という短編で取り上げている。


*2: トリストラム・シャンディーは、一九世紀英国の作家ローレンス・スターン(1713年~1768年)の未完の小説。ヨークシャーの地主である紳士トリストラム・シャンディーの自伝という体裁をとりながら、二〇世紀の「意識の流れ」の先取りともいえる荒唐無稽な断片が連続し、これを日本で最初に紹介したとされる夏目漱石によれば


(スターンが作家として後世に知られているのは)怪癖放縦にして病的神経質なる「トリストラム、シャンデー」にあり、「シャンデー」ほど人を馬鹿にしたる小説なく、「シャンデー」ほど道化たるはなく、「シャンデー」ほど人を泣かしめ人を笑はしめんとするはなし


 となる。
『我が輩は猫である』はこれに影響されているという人もいる。
(主牟田夏雄訳の三巻本が岩波文庫から出ています)

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (28)

オリニーで相席になった三人目は宿の女将の亭主だった。といっても、昼間は工場で働き、夕方に自分の家である宿に客としてやってくるので、厳密には宿屋の主人というわけではなかった。たえず興奮していて、ひどくやせた、頭のはげた男で、目鼻立ちははっきりしていて、よく動くいきいきした目をしていた。土曜日に、カモ猟でのちょっとした冒険について話をしているとき、彼は皿を割ってしまった。何かいうたびに必ずあごをしゃくってテーブル全体を見まわし、目に緑色の光をたたえて同意を求めるのだ。宿の女主人は部屋の出入口にいて食事の様子を監視しながら、「アンリ、そう興奮しないで」とか「アンリ、そんなにそうぞうしくしなくても話できるでしょ」といっていた。正直な男で、実際にそうすることはできなかった。つまらないことにも目を輝かせ、拳でテーブルをたたき、大きな声が雷鳴のようにひびきわたった。こんな爆弾のような男は見たことがない。悪魔がとりついていたのではなかろうか。彼にはお気に入りの表現が二つあった。状況によって「それは論理的だ」か「論理的じゃない」というのと、もう一つは、長い話を朗々と語りはじる前に横断幕を広げるようにちょっと虚勢をはって「俺はプロレタリアなんだ、諸君」という。実際に、彼は労働者そのものだった。パリの街で彼が銃を構えるなんてことがなければよいと切に思う! 人々にとってろくなことにはならないだろうからだ。

この二つの言いまわしは、彼の階級の長所と短所を、そして、ある程度はフランスの長所と短所を表している。自分が何者なのかを公言し、それを恥ずかしく思わないのはよいことだ。とはいえ、それを一晩に何度も口にするのはよい趣味とはいえない。同じことを公爵なんて立場の人がやったとしたらひんしゅくものだが、こういう時代に、労働者がそうすることは尊敬に値すると思う。その一方で、論理を信頼しすぎるのはほめられたことではない。とくに自己流の論理をふりかざすのは一般的にいっても間違っているからだ。言葉や学のある人を信頼するようになると、どこで終わりにすべきかがわからなくなってしまう。人間の心には公正な何ものかが存在していて、それはどんな三段論法より信頼できる。人間の目や共感や欲望は、論争では決して語られることのないものを知っている。根拠なんてものはブラックベリーほどにもたくさん存在し、げんこつを一発くらわせるのと同じように、どっちの側の正義にもなりうる。教義はそれが証明されることによって真偽が明らかになるのではなく、賢明に用いられている限りにおいて論理的であるにすぎない。有能な論争家が自分の根拠が正しいことを有能な将軍以上に証明することはない。フランスは一つか二つの立派な言葉に振りまわされているが、どんなにすばらしいものであっても、それは単なる言葉にすぎないと得心するには多少時間がかかるだろう。そのことに気づけば、論理というものはそれほどおもしろいものではないとわかるだろう。

ぼくらの会話はまず、その日の狩猟についての話からはじまった。村の狩猟者たち全員が村の共有地で勝手に鉄砲を撃ちまくれば、礼儀作法とかと優先権といった多くの問題が起きるのはいうまでもない。

「ここがその場所だ」と宿の主人が皿を振りまわして叫んだ。「ここがビート畑で、それから、俺はここにいて、前に進んだってわけ。で、諸君」 さらに説明が続く。大きな声で修飾語や言葉を重ねる。話し手は共感を求めて目をきらめかせ、聞き手は皆、騒ぎを起したくないので、うなづいてみせた。

北部から来た血色のよい男は自分の言い分を通した武勇伝をいくつか披露した。その相手の一人は侯爵だった。

「侯爵」と、私はいったのさ。「一歩でも動いたら、あなたを撃ちますよ。あなたは間違ったことをしたんです、侯爵」

すると、すぐに反応があった。侯爵は帽子に手でふれると、そのまま引き下がったのだ。

宿の主人はやんやと拍手喝采した。「よくやった」と彼はいった。「あんたはできることを全部やった。やつは自分が間違っていたのを認めたんだ」 さらに罵詈雑言が続く。宿の主人も侯爵なんてものが好きではなかったのだ。こんな調子だったが、ぼくらのプロレタリアたる宿の主人には正義感があった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (27)

相席になった人々

ぼくらは夕食に遅れてしまったが、同じテーブルをかこんだ人々は、スパークリングワインをふるまってくれた。「これがフランス流のもてなしなんだよ。一緒に食事したら友達だってわけ」と一人がいい、他の連中も喝采した。

相席になったのは三人だが、日曜の夜を一緒に過ごすにはちょっと変わった組み合わせだった。

三人のうち二人はぼくらと同じように宿の客で、どちらも北部の出だった。一人は血色がよく体も大きくて、豊かな黒髪とひげをたくわえた、恐れ知らずの、猟や釣りが好きなフランス人で、獲物がヒバリや小魚であってもつまらないとは思わず、どうだと自分の腕を自慢するような人だった。そんな巨体で健康そのもの、サムソンのように豊かな髪をした、バケツで流すように赤い血が勢いよく動脈を流れていそうな男がちっぽけな獲物を自慢するのは、鋼のハンマーを使ってクルミを割るような、ちぐはぐな印象を与えた。もう一人は物静かで、金髪、リンパ体質の悲しげな人で、どこかデンマーク人のように見えた。ガストン・ラフネストルがかつていったように「悲しきデンマーク人」といった風だ。

ガストンの名を出したので、もう亡くなってしまった、この最高の人物の話をしないわけにはいくまい。ぼくらは狩猟服を着たガストンをもう見ることはないし――彼は誰にとってっもガストンであって、下の名前を出すのは馬鹿にしているわけではなく、それだけ親しみを抱いているからなのだが――そのガストンの角笛の音色がフォンテーヌブローにこだまするのを再び聞くこともない。また彼の人なつっこい笑顔があらゆる人種の芸術家すべてに平和をもたらすことも、フランスでイギリス人に母国にいるように感じさせることもなくなってしまった。さらに羊が自分にまさるとも劣らない無垢な心の持ち主の動かす鉛筆の被写体になって、それを意識せずじっとしていることもないだろう。彼は芽を出しはじめて何か価値のあるものを花開かせようとした、まさにそのときに、あまりにも早く逝ってしまった。彼を知る者はだれも、彼の人生がむなしかったとは思うまい。ぼくは彼を知悉しているというわけでもないのだが、ずっと親愛の情を抱いていたし、人が彼をどれくらい理解しその価値を認めているかが、その人がどういう人物かを推し量る尺度にもなるとすら思っている。ぼくらと一緒にいるとき、彼はぼくらの人生によい影響を与えた。彼の笑い声はすがすがしく、彼の顔を見るだけで気が晴れた。心ではどんなに悲しんでいたとしても、彼はいつも元気で明るく落ち着いていて、災難があっても春のにわか雨ぐらいにしか思っていなかった。だが今となっては、彼が苦しく貧しいときにキノコを採ったりしていたフォンテーヌブローの森のそばで、彼の母親は一人で暮らしているのだった。

彼の絵には英仏海峡をこえたものも多い。ある卑劣なアメリカ人は絵を盗んだだけでなく、英国硬貨二ペンスしか持たず英語もろくにできない彼をロンドンに置き去りにしたのだ。この文章を読んだ人で、このすばらしい人物の署名のある羊の絵を持っている人がいれば、その人には、あなたの部屋には最も親切で最も勇敢だった者の一人があなたの部屋を飾るのに手を貸しているんですよと教えてあげたい。イギリスの国立美術館にはもっとすぐれた絵があるかもしれないが、何世代もの画家たちのうち、これほど善良な心を持った画家はいなかった。聖書の詩編によれば、人類の王たる神から見て、聖人の死はかけがえのないものであるし、またかけがえのないものでなければならなかった。というのも、発作で死んでしまうと、母親は悲しみのうちに一人残され、周囲の人々に平和をもたらし安穏を求めていた者がシーザーや十二使徒のように土に埋められてしまうのは大きな損失だからだ。

フォンテーヌブローのオークの森には、何か欠けているものがある。バルビゾンでデザートが供されるとき、誰もが今は亡き彼の姿を求めて、つい扉に目がいってしまうのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (26)

 

夕方、ぼくらは手紙を出すために、またカヌーに乗った。すずしくて快適だった。サーカスの見世物になっている動物を見るように、ぼくらについてくる何人かの腕白小僧をのぞいて、この細長い村に人影は見えなかった。大気はすみきっていて、村のどこからでも、山々や木々の梢が見えた。教会の鐘がまた別の儀式のために鳴っていた。

ふいに、さっきの三人の娘たちが四人目の妹と一緒に街道沿いの店の前に立っているのが目に入ってきた。ぼくらはついさきほどまで彼女たちと意気投合していたのは確かだ。とはいえ、こういう場合、オリニーではどうするのがエチケットなのだろう? 田舎道だったら、もちろん声をかけるわけだが、ここでは人目もあるし噂もたちやすいだろう。会釈するくらいならかまわないだろうか? シガレット号の相棒にどうするか聞いた。

「ま、あれ見ろよ」と彼はいった。

ぼくは見た。四人の娘は同じ場所にいたが、四人ともぼくらに背中を向けて体を硬くし、話しかけてくれるなというのがありありだった。慎み深く、娘たちはそろってまわれ右をしたのだ。ぼくらの姿が見えている間、彼女たちはずっとそうしていたが、くすくす笑っているのも聞こえたし、初対面の四人目の娘は肩ごしにこっちを見ながら、口を開けて笑っていた。こうしたことはすべて慎み深いといえるのだろうか、それともこの地方独特の挑発なのだろうか?

宿屋に戻る途中、白亜の崖や頂上に生えている樹木の上、金色に輝く夕方の空に何かが浮かんでいるのが見えた。凧にしては高すぎるし、非常に大きくて、安定しすぎてもいる。暗くなっていたが、星であるはずはなかった。というのも、星がインクほどにも黒く、クルミほどにもでこぼこしていたとしても、こんな状況で日光をあびれば、ぼくらには光の点のように輝いて見えるはずだ。村のあちこちで人々が空を見上げていたし、子供たちは通りを駆けていたが、その通りは山の上へと一直線に続いていた。そこにも駆けている人影がぱらぱらと見えた。正体は気球だった。後で知ったのだが、夕方の五時半にサンカンタンを出発したものらしかった。大人のほとんどは冷静にそれを受けとめていた。だが、ぼくらはイギリス人だし、すぐに必死で丘を駆け上った。ぼくら自身も旅行者の端くれなので、同じ旅行者たちが空から舞い降りてくるところを見たかった。

しかし、丘の頂上に近づく頃には、見るべきものは終わっていた。金色の空は色あせかけていたし、気球の姿は消えていた。どこへ? ぼくは自問した。はるかかなたの天まで昇っていってしまっただろうか? それとも、坂道が続いている青みがかった起伏のある景色のどこかに着陸しているのだろうか? 上空は寒いらしいし、気球を操縦していた人たちは今頃はどこかの農場の暖炉で体を温めているのかもしれない。秋の日はつるべ落しで、すぐに暗くなった。道路沿いの木々や、牧草地を通って戻っている見物人たちの姿が、地平線に沈みかけた赤い夕陽をバックに黒い影となっていた。登ってきた坂の方が明るいので、ぼくらはそのまま引き返して丘を降りた。木の生い茂る渓谷のはるか上空にメロン色の満月があり、背後の白亜の崖は燃えさかる窯の炎のように赤くなっていた。

川沿いにあるオリニー・サント・ブノワットの村に灯りがともり、夕食のサラダが作られていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (25)

ぼくらがカヌーを一晩預けることになった人については、ここではカーニバルと呼ぶことにする。正確な名前をよく聞きとれなかったし、そう褒めている内容でもないので、その人にとってもその方がよいかもしれない。その日、ぼくらがぶらぶら歩いてその人の屋敷まで行ってみると、カヌーを食い入るように眺めている一団がいた。一人は川の知識が豊富な大男の紳士で、教え魔の人だった。黒いコートを着たとてもおしゃれな若い紳士もいて、英語が少ししゃべれたので、すぐにオックスフォードとケンブリッジのボート競走の話をしたがった。若くてきれいな十五から二十歳くらいの娘三人と、シャツ姿の老紳士もいた。老人には歯がなく、きつい訛りがあった。オリニーの典型的な人たちだったと思う。

シガレット号の相棒は馬車置き場で、索具の面倒な調整みたいなことをやっていた。それで、ぼくが一人でその人々の相手をするはめになった。すると、事実はどうあれ、ぼくは英雄に祭り上げられてしまった。航海で怖い目にあったことを話すと、娘たちはおおげさに体をふるわせた。そういう反応はもっと聞きたいということだろうと思ったので、さりげなく川に落ちた顛末を口にすると、ちょっとしたパニックを引き起こした。シェイクスピアのオセロさながらだ。ただし、妻のデスデモーナが三人もいて、共感を寄せている元老院議員たる父親もその背後に何人かいるという状態だ。ぼくらのカヌーがこれほどほめちぎられたことはなかった。しかもほめかたがとても洗練されていた。

「バイオリンみたい」と、娘の一人がうっとりしていった。
「ありがとうございます、お嬢さん」とぼくはいった。「棺桶みたいだっていった人もいたので、よけいにうれしいです」
「まあ! でも、ほんとにバイオリンみたい。仕上げもバイオリンみたいだし」と彼女はつづけた。
「バイオリンのようにピカピカだ」と、元老院議員の一人がつけ加える。
「あとは弦を張るだけ」と、別の男がいった。「で、ポロン、ポロンとね」とバイオリンの音色を口まねした。

これは洗練された、ちょっとした拍手喝采ということではないだろうか? フランス人はどこで、こんなすてきな会話の秘訣を覚えてくるの、ぼくにはわからない。秘訣といっても、心から喜ばせようという気持ちだけなのだろうか? フランスでは物事についてうまい表現を口にしたからといって、それで馬鹿にされることはない。ところが、ぼくらのイギリスときたら、本に書いてあるような言い方をすると、冷笑が返ってきてしまう。

シャツを着た老紳士は馬車置き場にそっと入り、シガレット号の相棒に、自分はあの三人の娘の父親で、子供がもう四人いると唐突にいった。フランス人にしては子だくさんだ。

「とてもお幸せですね」と、シガレット号の相棒が丁重に応じた。

老紳士は明らかに満足したらしく、またそっと出て行った。

ぼくらは皆、とても仲良くなった。娘たちは、翌日さしつかえなければ、ぼくらと一緒に出かけたいとさえいってくれた! 冗談ではなく、全員がぼくらが出発する時間を知りたがった。足場の悪いところでカヌーに乗りこむ際には、仲良くなったとはいえ、その様子を人に見られるのはあまり好ましいことではない。それで、昼までは出発しませんよといったが、内心では、遅くとも十時には出発しようと思っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (24)

オリニー・サント・ブノワット

休日

翌日は日曜で、教会の鐘は休む間もなく鳴っていた。僕の知る限り、この土地ほど信心深い人々が好きなときに礼拝式に出かけられる場所は他にない。明るい日射しを受けて鐘の音が陽気に響きわたり、男連中は犬を連れてビート畑や菜種畑での猟に出かけていった。

朝、露天商とその女房が、非常にゆっくりとした悲しい歌「おお、フランス、愛する祖国」を口ずさみながら通りを歩いて行った。すると、だれもが表に出てきた。ぼくらが泊まっている宿屋のおかみさんが男を呼びとめ、その歌が載っている小冊子を買おうとしたが、もう一冊も残っていなかった。その歌に惹かれたのは彼女一人ではなかったのだ。普仏戦争*1の後、ドイツに敗れたフランスの人々がもの悲しい愛国調の歌を好きになったのには、何か痛ましいものが感じられた。フォンテーヌブローの近くで行われた洗礼式で、だれかが「フランスの悲哀」という歌をうたっていたが、そのとき、ぼくはアルザスから来ていた森林労働者を見たことがある。その男はテーブルから立ち上がると、息子を脇へつれていった。そこはぼくの立っているところから近かったのだが、「聞くんだ、よく聞いておくんだぞ」と、彼は息子の肩に手をのせていった。「しっかりおぼえておくんだ」。それから少しして、彼はふいに庭に出て行った。暗闇でその男のすすり泣くのが聞こえた。

敗戦とアルザスやロレーヌ地方を失った屈辱は、この感受性の強い国民には耐えがたいものだった。ドイツに対してというより、国民には、皇帝ナポレオン三世に対する反感の方が根強く残っていた。愛国の歌がうたわれたからといって、いったい他のどの国で、それを聞いた者がみな通りに出てきたりするだろうか? とはいえ、試練は愛を強くするもので、ぼくら英国人もインドを失うまで、自分は英国人であると自覚することはあるまい。アメリカの独立はいまでも、ぼくにとって十字架となっている。嫌悪感を抱かずにジョージ・ワシントンのことを考えることはできないし、星条旗を見ると、ぼくらの帝国がなりえたはずの国家を思い浮かべ、祖国に対する懐旧の情がわき出てくるのだ。

ぼくがその露天商から買い求めた小冊子には、いろんなものが奇妙なくらいごちゃまぜになっていた。パリのミュージックホールの軽薄で下品なナンセンスがあるかと思えば、詩歌という感じではない牧歌的な作品もたくさん載っていて、フランスの下層階級が持っている自立の気概に満ちてもいた。きこりが自分の斧をいかに誇りに思っているかとか、庭師が自分の鋤を少しも恥ずかしいとは思っていないといった内容だ。うまく書けているわけではないが、こうした労働をうたった詩歌は、そこにこめられた感情が表現の弱さや冗長さをおぎなっている。一方、勇ましく愛国心にあふれた作品は涙をそそるものばかりで、どれもこれもめめしかった。ローマ時代のカウディウムの戦いが終わった故事にならい、その詩の作者は名高い古戦場を銃を逆さにして訪れた軍隊について、その勝利ではなく死を悼んで歌っていた。その小冊子には「フランスの徴集兵」と呼ばれる作品もあった。これは文字になったもののうちではとびきりの厭戦歌かもしれない。こんな精神状態では、戦うなんて、とてもできないだろう。こんな歌がいよいよ戦闘だという朝に流たりしたら、どんなに勇敢な徴集兵でも青ざめてしまうし、連隊全体がその調子にあわせて戦闘を放棄してしまうことだろう。

スコットランドの作家で政治家でソルトーンのフレッチャーがその国の歌謡が持つ影響について述べたことが正しければ、フランスはひどいことになってしまったといえるだろう。しかし、物事というのはみずからそれを癒やしていくもので、健全な心を持ち勇気ある国民は、自国の災難について、めそめそ泣いてばかりいることにやがて飽きてしまう。ポール・デルレードがすでに多くの勇ましい軍の詩をいくつか書いている。そこには、トランペットを吹き鳴らし、人の心に訴えるようなものはあまりない。彼の作品は叙情的な高揚感に欠けるし、激しい動きもないが、荘重かつ高潔で、冷静な精神につらぬかれていて、兵士たちを奮い立たせるはずのものだ。デルレードには、どこか、この人は信頼できると思わせるものがある。もし彼の詩が、自分たちの将来を信じることができるほどにフランスの同胞を鼓舞できるのであれば、それはそれで幸せなことではあるだろう。さらにいうと、彼の詩は「フランスの徴集兵」や他の悲哀をかこつだけの作品に対する解毒剤にもなっている。

[脚注]
*1: 普仏戦争(1870年~1871年)- ビスマルク率いるプロシア(現ドイツ)とナポレオン三世のフランスとの戦争。フランスは一方的に敗れ、多額の賠償金を支払うとともにアルザスやロレーヌ地方の大半をドイツに割譲せざるをえなかった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (23)

 

ついには鐘の音もとだえ、それにつれて日も陰ってきた。楽しいひとときは終わり、オアーズ川の渓谷を影と沈黙がおおった。ぼくらは立派な舞台を見終えて仕事に戻る観客のように、意気軒昂にパドルをこいだ。このあたりでは、川は前にもまして危険になっていた。流れはさらに急になり、いきなり渦が出現し、しかもさらに激しくなっていた。ぼくらは苦労しながら下っていった。引っかかりそうな簗が設置してあったり、浅いところや杭がたくさん打ってあるところもあって、舟を陸に揚げて迂回しなければならなかったりした。だが、一番やっかいだったのは、最近の強風がもたらしたものだった。二、三百ヤード進むごとに、倒木が川をふさぎ、その巻き添えになった他の木がからみあっていたりした。

多くは木の先端の方に通れるすき間があって、葉の茂った小さな岬をまわっていくと、川の水が小枝を吸いこんで泡立っていたりした。倒木が対岸まで達しているところも多かったが、体を低くすればカヌーに乗ったままその下を通り抜けられたりもしたしし、カヌーを木の幹の上に引き上げて超えざるをえないところもあった。それもできないほど流れが急なところでは、上陸してカヌーを「かついで」運んだ。ずっとこういった調子で気が抜けなかった。

そうやってカヌーをまた川に浮かべたが、ぼくの方が相棒よりずっと先になったところがあり、太陽や急流や教会の鐘の音のおかげで気分もよく、意気揚々と進んでいった。すると川は急カーブを描いて湾曲し、獣が咆哮するような音がとどろいていた。石を投げれば届く距離に、また倒木があるのに気づいたぼくは、すぐさま背板を倒し、木の幹が水面から離れていて、枝もあまり茂らず、その下をくぐれそうなところを目指した。世界と一体になった高揚感に満たされているときには、なかなか冷静な判断というものは下せないもので、この時のぼくの決断は、自分が幸運の星の下に生まれてこなかったということを示す、非常に重要な判断になったかもしれなかった。胸のところが木に引っかかってしまったのだ。なんとか自由の身になろうともがいたが、流れが速くて、ぼくの手にはおえず、舟を川に奪いとられてしまった。アレトゥサ号はぐるりと向きを変えて横向きになって傾き、舟に乗ったぼくの体を吐き出してしまったのだ。木の下で枝にぶつかって元に戻ったカヌーは、そのまま勢いよく下流へと流されていった。

しがみついていた木に必死でよじ登ったものの、それまでにどれくらいの時間がかかったのか、よくわからない。かなり時間がかかったと思う。ぼくはがっくり意気消沈していたが、パドルは離さなかった。なんとか体を肩のところまで倒木の上に引き上げようとするのだが、流れはぼくの足をつかんで引きずりこもうとするし、ズボンのポケットにオアーズ川の水ぜんぶが入っているんじゃないかと思うくらい体が重かった。川の流れがどれほど強いかは、実際にやってみないとわからない。死がすぐそこに迫っていた。ついに最後の待ち伏せで死神自身が乗り出して獲物を引きずりこもうとしているのだ。それでも、ぼくはパドルだけは離さなかった。ようやくの思いで上半身を倒木の上に引き上げると、息も絶え絶えで、びしょぬれのまま動けなかった。おかしくもあったし、なんでこんなはめになったんだという怒りの感情が入りまじっていた。丘の上で畑仕事をしている農夫には、ちっぽけで哀れな男に見えたことだろう。とはいえ、ぼくの手にはパドルが握られている。ぼくが自分の墓を作るときには「彼はパドルを離さなかった」と刻みたいくらいだ。

シガレット号は少し前に通過していった。というのも、ぼくが世界との一体感に満たされて舞い上がっていなければ、倒木のずっと先に通れるところがあるのに気づいていたはずだった。相棒はぼくを引き出してやろうかといってくれたが、ぼくはもう肘のところまで上半身を引き上げていたので、こっちはいいから、それよりアレトゥサ号を追ってくれよと先に進んでもらった。流れはとても急だったので、追いついて回収しても、カヌーに乗ったまま、もう一隻を曳航して川をさかのぼるなんて無理な話だった。それで、ぼくは倒木の幹をはうようにして岸までたどりつくと、川辺の牧草地を歩いていった。とても寒くて、心臓まで痛かった。葦がなぜあんなに激しく揺れていたのか、ようやく自分なりにわかった。ぼく自身が葦よりも激しく震えていたのだ。ぼくが近づいていくと、シガレット号の相棒は「運動」でもしてるのかと思ったと冗談ぽくいったが、ぼくが本当に寒くて震えているのだと、やっとわかってくれた。ぼくはタオルで体をこすりまくり、ゴム製の防水袋から乾いた服を出して着こんだ。だが、それからの航海は、それまでとはまったく違う気分になった。乾いた服を着るのもこれが最後だというような落ち着かない気分になっていた。今回の悪戦苦闘でぼくは疲れきっていて、自覚していたのかわからないが、気持ちの上でも落ちこんでしまっていた。世界の破滅的な要素が、この緑の渓谷の川の流れで加速され、いどみかかってきたのだった。鐘の音はずっと美しい響いていたが、そこに牧羊神のかなでるうつろな響きも聞きとれる気がした。この川は底意地悪くぼくの足をつかんで引きずりこもうとしたのか? それなのに、これほどまでに美しいのか? 結局のところ、自然の穏やかさを表面だけ見て信じてしまうと、とんでもないことになるわけだ。

その後も川は曲がりくねりながら、ずっと続いていた。すっかり暗くなって、ぼくらがオリニー・サント・ブノワットに着いたときには、夜の鐘が鳴っていた。