スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (42)

ぼくらが強い関心を持っていた一つは、食べることだった。ぼくは食事に重きをおきすぎたかもしれない。料理のことをあれこれ考えていると、口のなかによだれがたまってきたのを覚えている。そうして夜になるずっと前から、それを食べたくてたまらなくなり、そうした食欲を抑えることが悩みの種になった。ぼくらはときどき並んで漕いだりもしたが、そうやって川を下っていきながら食事の話で互いを刺激しあった。ケーキとシェリー酒なんかは故国ではありきたりすぎるのだが、オアーズ川近辺では手に入らないので、そのことばかり考えながら何マイルも漕ぎ下ったりしたし、ヴェルブリーに近づいたころに、シガレット号の相棒が「牡蠣のパテにちょっと甘い白ワイン」なんてのを口にしたものだから、頭の中はそれを食べたいという思いばかりになったりした。

人生を楽しむうえで飲み食いがいかに重要かということを、誰もきちんと認識していなさすぎるのではないだろうか。ぼくらは食欲旺盛だったので、どんなひどい食事にも我慢できたし、パンと水だけの食事でもうれしかった。何も読むものがなればガイドブックの時刻表でも嬉々として読みふけっている活字中毒の人たちと同じだ。しかし、食べるということは、それだけにとどまらない。食事が大事だという人は、たぶん恋愛が大事だという人より多いだろうから、一般論として食べ物は景色などよりずっと関心をそそるものだと思う。ウォルト・ホイットマンだったらこう言うだろう──だからといって人間としての価値が減るとでもいうのかね? 物質主義を突き詰めていけば、自分の存在自体を恥ずかしいと思うようになる。人間の素晴らしさという点では、料理の隠し味にオリーブが使用されていると見極めることは、決して夕景の空の色に美を感じることに劣るものではない。

カヌーを漕いで川下りすること自体はむずかしくない。適切な傾きを保ってパドルを右、左と交互に川に突っこみ、スプレースカートの膝まわりにたまった水を捨て、水面にきらめく陽光から目を細めて守り、コンデのデオ・グラシアス号やエイモンの四人の息子号などの係留されているロープの下をくぐったりするのだが──それにはたいした技術は必要なくて、川に浮かんでいるときは筋肉が機械的に作業をやってくれるので、その間は脳のほうはお休みしている。ぼくらは周辺の景色をざっと見て把握し、半ば寝ぼけた状態で、岸辺の作業着姿の釣り人や洗濯をしている女たちを目でとらえたりした。ときどき、教会の尖塔や飛び跳ねる魚、あるいはパドルにからみついた川草を引っ張って投げ捨てたりするときに、寝ぼけ状態を脱したりした。とはいえ、それでも完全に目がさめるわけではなかった。無意識の状態から目をさましはするが、体全体が覚醒して反応するというのではない。神経の中枢、ぼくらが自我と呼ぶものは、巨大な政府の一省庁のように、そうしたことに煩わされず休んでいて、知性の大きな車輪はフライホイールのように、何も役に立つ仕事はせず、頭の中でゆっくりまわっている。ぼくは漕ぐ回数を数えつつ、何百になったかを忘れたりしながら、半時間も漕ぎ進んだことがある。獣でもこれだけ無意識の状態になることはあるまいと思うほどだ。なんとも気持ちのよいひとときだった! 無心に漕ぎ進むことで、心が寛大になってくる! この境地に達すれば、人のあら探しをすることもなく、人生において可能な神格化とでもいうか、いわば愚かさの頂点に達してしまい、威厳を感じさせる樹木のように長く生きた気がしてくる。

この没我の状態について、強さと呼んではいけないのであれば、ぼくは深さと呼びたいが、これには現実に奇妙な形而上学が伴っていた。精神が否応なく、哲学者が自我と非我、自己と客体と呼ぶものに向いてしまうのだ。この放心状態では自我が少なくなり、ふだん思っているよりも非我が多くなる。ぼくの心は、自分以外の誰かがカヌーを漕いでいるのを眺めている。自分以外の者が足を踏ん張っていて、自分の体についても、カヌーや川や川の土手以上に自分の心と親密な関係を持っているようには思えないのだった。それだけではない。ぼくの心の中にある何か、自分の脳の一部、自分の正しい部分の一部がぼくから抜け出て、それ自身のため、あるいはカヌーを漕いでいるぼくではない他者のために働いているのだ。ぼくは自分自身の内部で、隅っこの方に縮こまっている。ぼくは自分の頭蓋骨の中で孤立している。勝手に考えが浮かんでくるが、それはぼく自身の考えではなく、明らかに誰か他者の考えだったし、ぼくはそれを風景の一部のようにみなしている。要するに、ぼくは実際の生活に支障がでない範囲で、ちょっと解脱したような状態になっている感じだった。解脱というものがこういう状態なのであれば、ぼくは仏教徒を心から称賛したい。目から鼻に抜けるような利口さではなく、金儲けにもつながらないとはいえ、心穏やかで高貴であり、邪念がなく、物事に右往左往しない、なんとも気持ちのよい状態である。べろべろに酔ってはいるが精神はしらふで、その状態を楽しんでいるとでも説明しようか。屋外で仕事をする人々は日々の多くをこうした没我の状態ですごしているに違いない。彼らの落着きと忍耐力はそれで説明がつく。こういう風に、何も特別なことをしなくても至福の状態になれるのだから、ドラッグに金を使ったりする人の気が知れない。

こういう心の状態が今回の航海での大きな収穫だったし、それがすべてでもあった。ありきたりの言葉による表現とはかけ離れているので、ぼくの、この楽しく自己満足した状態を読者に共感してもらうのはむずかしいかもしれない。太陽光線の中で浮かんでいるほこりのように、いろんな考えが浮かんでは消え、たえず形を変えていく雲を通して、土手沿いの木々や教会の尖塔がときどき確固とした物のように立ち上がって注意を引いたり、水面に浮かぶボートとパドルのたてるリズミカルな音が眠りを誘う子守歌になったりした。デッキについた泥ですら、ときには耐えられなくなったり、逆に気にならなくなったり、考えを集中させる対象になったりした──その間も、川は常に流れていて、川岸も変化していき、ぼくはパドルを漕ぐ数をかぞえ、何百回だったか忘れたりしながら、フランスで最も幸福な動物になっているのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (41)

時間の移り変わり

それからの航海では、こうした霧は、ある意味で、晴れることはなかった。ぼくのノートにも霧が濃く立ちこめている。オアーズ川が田舎を流れる小さな川だったときは民家の近くを通っていたし、川沿いに住む土地の人々とおしゃべりすることもできた。しかし、今では川幅も広くなり、川岸に住む人々も遠くからぼくらを眺めているだけになった。立派な幹線道路と、集落を縫うように続いている田舎道の違いのようなものだ。このあたりまで来ると宿も市街地になるし、地元の人々から質問攻めにあうこともなくなった。いわば文明化された社会までやってきたわけだが、こういうところでは行きかう人々と挨拶することはない。田舎では人と出会うためにいろんなことをやったが、都会では他人と距離を保ち、人の足を踏んづけでもしない限り声をかけることもない。都会では、ぼくらはもう妙な渡り鳥のような存在ではなく、違う村からはるばる旅をしてきたのだと想像されることもなくなった。たとえば、リラダンにやってきた日の午後には、何十隻というプレジャーボートが走りまわっていて、ぼくらのくたびれた帆を別にすれば、本物の旅をしてきた者とちょっと近場で遊んでいるだけの者とを区別するものは何もない。実際に、あるボートに乗った連中はぼくを近所の誰かと思いこんでいたりした。これほどの屈辱は他にないのでは? とはいえ、旅というものはすべて、そうやって終わりを迎えるのだ。オアーズ川の上流域では、魚以外に川を航行している者などいないので、ぼくらのようなカヌーに乗った人間は、地元の者のふりをして人目を避けることはできない。すぐに風変わりな見慣れないよそ者だとばれてしまうし、逆に相手も好奇心にかられたりするので親しくなったりもした。この世界はそうした相手との相互関係で出来上がっているようなところがあり、そうした絆をどこまでもさかのぼっていけるわけではないが、ぼくらの前からずっと続いていることなので、こうした状態に決着がつくということもないのだ。自分が相手に興味を持てば、それに比例して相手もこっちに興味を持ってくれる。ぼくらが一種の奇妙な放浪者でいる限り、じろじろ見つめられたり、ほら吹きやサーカスの一団のように、ぼくらの後ろから地元の人がぞろぞろついてきたりして、それがぼくらにとって面白かったりもした。ところが、ぼくらが一般の人々と区別がつかなくなってしまうと、ぼくらが出会う人々も同じように魔法が解けてしまい、ぼくらへの関心を失ってしまう。平凡な人間にとって世の中が退屈な理由は山ほどあるが、これはその理由の一つである。

冒険航海に出た最初のころは決まって何かすべきことがあり、それに急かされるように行動していた。にわか雨が降ってくるだけで、そうした気持ちが復活し、脳が刺激されて退屈することはなかった。だが、ここまでやって来ると、川はもはや急流ではなくなったし、海に向かって滑るように、しかし、ゆっくりと流れていて、天気は相変わらず好天続きで、ぼくらは野外で激しい運動をした後の満足感にひたっているときのような、ある種の倦怠を感じ始めていた。一度ならず、こんな風な感覚にとらわれたことがあるし、そういう状態になるのも嫌いではなかったが、スリル満点でオアーズ川を漕ぎ下っていたときの快感はもうなかった。虚脱感が頂点に達したような感じだ。

ぼくらは何かを読んだりすることもなくなった。新しい新聞を見つけると、連載小説の一回分を読んで楽しむこともあったが、三回を超えると、もう耐えられなくなり、その二回目には失望していた。話の筋が見えてくると、ぼくにとって、その価値がすべて失われてしまうのだ。一つの場面だけ、あるいは連載の場合は一つの場面の半分だけが、その前後の脈絡もわからないまま夢の一部のように、ぼくの興味を引いたりした。小説全体の筋がわからないほど、その小説が好きになった。これは示唆に富んでいる。すでに述べたように、ぼくらはたいていの場合、何も読まずにすごした。夕食をすませると寝るまでの短い間は何も読まず地図を眺めてすごした。ぼくはずっと地図が見るのが好きだったし、地図上で極上の旅を想像して楽しむことができる。地名はそれだけで訪れてみたい気になるし、海岸線や川の輪郭には心を奪われてしまうものがある。そして、それまで耳にしていた場所を地図で見つけると、その歴史に新しい意味が見えてくる。とはいえ、航海もこのころになると、無関心なまま地図をめくっていくだけだ。どんな場所か、気にすることはなくなった。ぼくらは子供がオモチャのガラガラに耳をすますように、地図をじっと見つめ、町や村の名前を目にしてはいるが、すぐに忘れてしまう。ぼくらは地図の情報自体に思いを寄せているのではなかった。無我の境地、というか虚脱状態だろうか。ぼくらが地図を熱心に眺めているときに誰かがその地図を持ち去ったとしても、ぼくらは同じ熱心さでテーブルをそのまま眺めていたかもしれない。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (40)

ぼくはこの機械仕掛けの人形の動きがとても気に入ったので、鐘が鳴るときは見逃さないよう注意していた。シガレット号の相棒はそんなぼくを小ばかにしていたが、やつ自身もかなり気になっているようだった。オモチャの人形を建物の上で冬の厳しさにさらしているのは、あまりほめられたことではない。ニュルンベルク製の時計の前に、人形用のガラスケースでも置いたらどうだろう。とくに子供たちが眠りにつき、大人も布団にもぐりこんで高いびきをかいている夜間に、こうしたお菓子のジンジャーブレッドでできたような人形たちがウインクしたり、星や天をめぐる月に向かって鐘を鳴らしたするのは場違いな気がしないだろうか? 雨水を吐き出す部分の彫刻が猿のような頭を傾けていたり、磔刑場に向かうキリストの苦難を描いた古いドイツの版画の百人隊長のように国王が軍馬に乗ったりしているのはともかく、オモチャの人形たちは、朝になって子供たちが家の外でまた遊ぶようになるまで、綿にくるんで箱にしまっておくべきだ。

コンピエーニュの郵便局には、ぼくら宛の手紙がたくさん届いていた。郵便物について問い合わせると、このときばかりはとても丁寧な対応で手渡してくれた。

ぼくらの旅は、ある意味、コンピエーニュでこうした手紙を受け取った時点で終わったといえるのかもしれない。旅の途上という魔法がとけてしまったからだ。その瞬間から、なかば帰国したも同然だった。

旅に出るときは手紙を書いたりするものではない。書くのが大変ということもあるが、手紙を受けとってしまうと、休暇を楽しんでいる気分がだいなしになってしまう。

「自分の国と自分自身から離れてみよう」 そういう気持ちで、しばらくの間、それまでとは異なる新しい条件の別の生活に飛びこんでみたいのだ。その間、友人たちとは連絡を絶ち、自分の好きなものとも関係を持たず、出発するときには自分の心は自宅の机の中に置いてくるか、旅行カバンに詰めて終着点まで先に送っておく。友人からの手紙は、旅が終わってから、それにふさわしい気持ちで楽しみながら読むことになる。だが、これだけのお金をかけて、はるばるカヌーを漕いできたのは外国を旅するためだったのだが、手紙はずっと追いかけてきて、まだ自分の国にいるような気分になってしまう。手紙の主たちはぼくの足にひもをつけていて、ぼくは自分がひもでつながれた小鳥だと感じてしまう。手紙はヨーロッパ中を追いかけてきて、自分が放り出して逃げてきた、あれこれの小さな悩み事を思い出させてしまう。人生という闘いに「待った」がないのはよくわかっているが、一週間の休暇すら許されないのだろうか?

出発した日、ぼくらは六時には起きた。ホテルの人間はぼくらにほとんど注意を払わなかったので請求書にも書き忘れがありはしないかと期待したが、しっかり細かいところまで記載されていた。事務的に処理する職員に対し値切りもせずに支払いをすませると、ぼくらは誰の注意を引くこともなく、ゴム製のバッグを抱えてホテルを出た。気にかけてくれる人は誰もいなかった。小さな村で一番に早起きするのは無理だが、コンピエーニュほどの規模の町になると、朝はのんびりしたもので、町の人々がまだガウンとスリッパ姿でくつろいでいる間に、ぼくらは起床し立ち去ったのである。通りには玄関前を掃除している人しかいなかった。公会堂の上にいる人形の紳士たちの他に、正装している者は誰もいなかった。人形たちは露にぬれ、金箔もきれいになって光っていて、世の中というものを知りつくした、プロ意識による責任感に満ちていた。ぼくらが通りかかると、六時半の鐘が打ち鳴らされた。彼らなりの別れの挨拶だと感じた。日曜日の正午でさえも、こんなに上手に鐘は鳴らされなかった。

川に浮かんでいる洗濯台で衣服を洗っていた、早起きで──夜も最後まで仕事をしている──洗濯女たちを別にすれば、見送りは誰もいなかった。彼女たちはとてもにぎやかに、いつもの朝をすごしていた。腕をぐいっと川の中に差しこみ、水の冷たさも平気なようだった。自分だったら、こんなに朝早くから冷たい水で仕事するのは嫌だなと思った。とはいえ、ぼくが自分の生活を彼女たちと交換したいとは思わないように、彼女たちも自分の生活をぼくらの生活を交換したいとは夢にも思っていない風だった。彼女たちは洗濯台の扉のところに集まって、ぼくらが陽光を浴び川霧に包まれてカヌーを漕いでいくのを眺めていた。そして、ぼくらが橋を通過するまで、背後から大声で声援を送ってくれた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (39)

コンピエーニュにて

ぼくらはコンピエーニュの大きくて活気のあるホテルに泊まったので、だれもぼくらの存在を気にしたりはしなかった。

ここでは予備兵や(ドイツ風にいうと)軍国主義的な風潮が蔓延していた。町外れにある宿営地の円錐形の白いテント群は、聖書に描かれている挿絵のようにも見えた。どのカフェにも壁には剣帯が飾られていたし、通りでは一日中、軍楽隊の音楽が鳴り響いていた。イギリス人としては、気分が高揚せざるを得なかった。というのも、太鼓の後からついていく男たちが小柄で、歩き方もしょぼくれていたのだ。それぞれが自分勝手に体を傾け、好きなように体をゆらしている。長身ぞろいの高地出身者の連隊が音楽隊の後にきちんと整列し、まるで自然現象のように厳粛かつ整然と歩いていくような様子はどこにもなかった。この行進を目にした者は、先頭を歩いて行く楽隊長や、鼓手が身につけたトラの皮、笛奏者のゆれている格子柄の服、連隊全体が歩調をそろえている、ちょっと伸びたり縮んだりしているリズム――そして管楽器が鳴りやんだときの太鼓の音、甲高い管楽器がそれぞれ気分を高揚させて鳴り響く様子を、決してわすれることはできまい。

フランスの学校にいた一人の少女から聞いた話では、その娘は、英国の軍隊の行進する様子についてフランスの生徒に説明しはじめたところ、だんだん思い出が生き生きとよみがえってきて、自分がそんな兵隊さんのいる国の女であることが非常に誇らしくなってきて、それなのに自分がいま別の国にいるということが何か申し訳ないような気持ちにもなって、言葉につまって泣き出したことがあるそうだ。ぼくはその娘のことを忘れたことがない。彼女のために銅像くらい立ててやってもいいのではないかとすら思っている。彼女を若いレディと呼ぶのは上品ぶっていて、逆に彼女を侮辱することにもなるだろう。ただ、これだけは保証していいと思う。彼女が英雄的な活躍をした将軍と結婚することはないかもしれないし、彼女の人生から直接に国にとっての成果が得られることもないかもしれないが、彼女のような人は母国にとって無駄に生きたことにはならないだろう。

フランスの兵士たちは閲兵式ではぱっとしなかったが、しかし行進では、狐狩りにでかけるみたいに嬉々として注意を怠らず、熱心に取り組んでいた。いつだったかシャイー通りの、バス・ブローとレーヌ・ブランシェの間で、一個中隊がフォンテーヌブローの森を通過するのを目撃したことがあった。一人だけ集団の少し先を歩いていて、大声で勇ましい行進曲をうたっていた。残りの者は足並みをそろえ、リズムに合わせてマスケット銃を振りまわしている。馬上の若い将校はその歌詞に吹き出さないよう苦心していた。これほど陽気でおおらかな行進は他では見られないだろう。ウサギ狩りごっこに熱中する男子生徒でも、これほど熱心にはならないだろうし、これほど元気よく行進している連中を疲れさせることもできないだろう。

コンピエーニュで一番よかったのは公会堂だ。ぼくは公会堂に魅せられてしまった。ゴシック建築の持つ不安定さをよく示していて、いたるところに小塔や彫刻を施した雨樋があり、数多くの建築上の工夫が盛りこまれて飾りつけられている。壁のくぼみには金箔がほどこされ、絵が描かれているものもあった。中央の巨大な四角いパネルは金箔の地に黒の浮き彫りで、片手を腰にあて、頭をうしろに引いて馬を御しているルイ十二世が描かれていた。彼の仕草すべてに王族らしい矜持があふれ、あぶみにかけた足先は傲慢な感じで枠からはみだし、眼光は鋭く、誇り高い目をしていた。馬はひれ伏す農奴をうれしそうに踏みつけ、トランペットの音に鼻孔をふくらませているようにも見える。国民の父と呼ばれた善王ルイ十二世は、そうやって公会堂の前でいつまでも馬に乗った姿でいるのだった。

国王の頭上にある、中央の高い小塔には時計の文字盤が見えていた。それよりずっと高いところに、三体の小さな機械じかけの、それぞれハンマーを手にした人形が立っていて、コンピエーニュの市民のために毎正時と十五分おきに時間を告げるのだ。中央の人物は金箔の胸当てをつけ、他の二人は金色の裾広がりの短い半ズボンをはき、三人とも騎士のような、つばの広い優美な帽子をかぶっている。次の十五分が迫ると、彼らは頭を回転させて互いに見つめ合い、それから下にある三つの小さい鐘に三つのハンマーが振り下ろされる。時間になると、塔の内部から、深く朗々とした音で時間が告げられ、金ぴかの紳士たちはひと仕事を終えて一服するのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (38)

オアーズ川を下る: コンピエーニュまで

晴れの日が少なくて雨天と晴天の区別がつきにくいスコットランドのハイランド地方はともかくとして、どんなにがまん強い人でも、道中ずっと雨に濡れ続けていれば、しまいにはうんざりするものだ。ノアイヨンを出た日のぼくらがそうだった。このときの航海のことは他に何もおぼえていない。どこまでも土手と岸辺の柳と雨が続き、パンプレの小さな宿屋で昼食をとるまでずっと、雨は情け容赦なくたたきつけた。このあたりでは川と運河はすぐ近くを流れていた。ぼくらはびしょぬれになっていたので、女将が暖をとれるように暖炉の薪に火をつけてくれた。ぼくらは座って体から湯気を立ち上らせながら、ついてないとぐちをこぼしあった。亭主は獲物袋を手に狩りに出かけていった。女将の方は部屋の反対側の隅にいて、ぼくらを眺めている。ぼくらは珍客だったのだろう。ぼくと相棒はラフェールでの災難についてぐちを述べては、ラフェールであったようなことはこれからも起きるだろうと予測した。シガレット号の相棒の方がぼくより自信に満ちていたので、宿の交渉などは彼が担当したほうがうまくいった。何も気づかない風に、なれなれしい様子で話をするので、女将がうさんくさいゴム製のバッグを気にすることもなかった。ぼくらの会話は、ラフェールのことから予備兵の話になった。

「予備兵って」と、彼はいった。「せっかくの秋の休日に、それで駆り出されるのはきついよな」

「カヌーの旅も同じようなもんだろ」と、ぼくは異議をとなえる。

「あんたたち、好きでこんな旅をしてるの?」と女将が聞いたが、皮肉のように聞こえたとは気づいていなかった。

もう十分だ。目からうろこが落ちるとは、このことだ。こんど雨が降ったら、汽車でカヌーを運んでしまおう。

すると、天気の方でもぼくらの気持ちを察したらしく、それからは雨が降ることもなかった。午後になると晴れ間も出てきた。空には巨大な雲がまだ浮かんでいたが、いまではそれがちぎれて、あちこちに真っ青な空が見えている。そして、すばらしいバラ色と金色に輝く夕陽や、星々で埋めつくされた夜が訪れ、それからのひと月ほどは天気がくずれることもなかった。同時に、川からの眺めもよくなって田園風景が見えるようになった。土手は前ほど高くなくなり、柳の木も川岸からは見えなくなって、川沿いにずっと気持ちのよい丘陵地帯が続き、空に稜線をきざんでいた。

やがて運河で最後の水門になり、荷船が次々にオアーズ川に入ってきた。これでまた道中がにぎやかになった。前に一緒だったことのあるコンデの『デオ・グラシアス』号や『エイモンの四人の息子』号と一緒に、ぼくらはにぎやかに川を下っていった。ぼくらは川をこぎ下りながら、積んだ丸太の間にいる操舵手や、川沿いの道を進みながら馬にどなっている御者たちと冗談をいいあったりした。子供たちも舷側にやってきて、ぼくらがこぎ下るのをみつめている。それまで、こういう船の厨房から立ち上る煙をなつかしいとは思わなかったのだが、またこうして煙を眺める機会ができると、なんだか元気がわいてきた。

合流部をすぎてまもなく、もっと大きな別の出会いがあった。はるばる遠くから流れてきてシャンパーニュを出たばかりのエーヌ川と合流したのだ。ここでオアーズ川の青春時代が終わり、他の川と合流して結婚し、水量もぐっと増して大河の様相を帯びてくる。さまざまな堰堤も作られていた。川は風景に溶けこんで穏やかに流れていった。木々や街並みが鏡のように川面に映った。川幅も広く、カヌーを軽々と運んでいく。渦をかわすために必死にこぐ必要がなくなったが、それはつまり何もすることがないということでもあった。頭で対策を考えたり汗をかいたりすることもなく、ただ左右片舷ずつ順にこいでいくだけだ。天候はまったく穏やかで、紳士のように堂々と海に向かって流れていった。

日が沈むまでに、コンピエーニュまで進んだ。川沿いにあって、印象的な街並みだった。橋の上では連隊が太鼓にあわせて行進していた。岸壁にはぶらぶらしている人々がいて、釣りをしたり、所在なく流れを見つめたりしていた。そこへぼくらが二隻のカヌーでやってきたものだから、彼らはぼくらを指さして互いに何か言ったりした。ぼくらは川に浮かんでいる洗濯場に舟をつけて上陸した。そこでは、洗濯女たちが服をたたいて洗っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (37)

 

午後、ホテルの外に座っていると、うめいているようにも聞こえるオルガンの甘く荘厳な響きが聞こえてきて、教会から呼び出しを受けたような気がした。ぼくは観劇は大好きだし、芝居の一幕か二幕を見るのもいやではなかったが、そのときに実際に見た儀式がどういう性質のものだったのかについては、いまでもよくわからない。教会に入ってみると、四、五人の司祭と数多くの聖歌隊の少年たちが祭壇の前でミゼレーレ(神よ、われを憐れみたまえ)*1を歌っていた。何かの集会というわけではなさそうだったが、数人の老婦人が椅子にすわり、年老いた男たちは床にひざまずいていた。しばらくすると、黒い服に白いベールをつけた少女たちが、火をともしたローソクを手に、二人ずつ祭壇の背後からぞろぞろと歩いて登場し、そのまま会衆席の方へと降りてきた。最初の四人は聖母マリアと幼児のキリスト像の卓を運んでいる。司祭と聖歌隊も立ち上がり、アベマリアを唱えながら、その後に従った。彼らはこの順序で大聖堂の周囲をまわり、柱にもたれていたイギリス人、つまりぼくの前を二度通過した。一番偉いように思えた司祭は奇妙な老人で、ずっとうつむいていた。口をもごもごさせて祈りを唱えていたものの、薄暗がりでこっちを見上げた顔は祈りに集中している風にも見えなかった。ちゃんと歌っていた他の二人はがっしりした四十男で、いかめしい軍人のようにも見えたし、押しが強そうで、食べすぎたときのような目をしていた。彼らは元気よくアベマリアを軍歌のように輪唱した。少女たちはひかえめで、きまじめな表情を浮かべていた。ゆっくり通路を上がってきながら、彼女たちは一人一人、余所者であるぼくをちらちら見ていった。少女の一団を率いていた大柄な修道女は不満げな様子でこっちをにらんでいる。聖歌隊の少年たちについては最初から最後まで悪ガキといった感じで、ふざけたしぐさをしたりして、この儀式を台なしにしていた。

何の儀式かわからなかったものの、行われていた儀式の精神については、ほとんど理解したと思う。実際にミゼレーレを聞けばわかると思うが、これは無神論者の作曲したものだろう。暗く落ちこむのが善であるのなら、ミゼレーレはまさにそれにふさわしい音楽だし、大聖堂もそれにふさわしい。そこまでは、ぼくもカトリック教徒と同意見だ、――というか、カトリックというのは普遍的という意味だが、この言葉を使うのは奇妙な気がしないでもない。とはいえ、一体全体、さっきの聖歌隊の連中は何なのだろう? 司祭たちは祈っているふりをしながら、なぜ礼拝に来ている信徒たちを盗み見たりするのだろう? 少女たちに強引な指導を与えていた太った修道女は、なぜ列を乱した少女の肘をつかんで揺さぶったりしたのだろう? つばをはいたり、鼻をすすったり、鍵を忘れたりと、聖歌やオルガンの音色でやっと静まった心をまたかき乱すような、いろんなごたごたはどういうことなのだろう? どんな芝居小屋でもよいが、教会の人たちもそういうところを見学してみれば、細部まできちんと詰めておくことで全体が成り立つという意味がわかるのではなかろうか。感情をいかに高めていくかについても、端役にいたるまでしっかりと訓練し、椅子なんかも所定の場所にちゃんと並べておくといったことが必要なのだ、と。

それ以外に、ひとつ、ぼくを悩ませたことがある。ぼくは野外で結構な運動をしているので、神よ、われを憐れみたまえという悲哀感に満ちたミゼレーレを聞かされても耐えられるが、年老いた人たちにはどうだろうか。年齢を重ねた人々は自分の人生における荒波のほとんどをくぐり抜けてきているのだし、人生における悲劇的な出来事についても自分なりの見解を持っていて、そういう人々にふさわしい種類の音楽ではないし崇高というわけでもない。年老いた人々は一般に自分自身のためにミゼレーレを歌うことができるが、そういう人たちでも多くは、自己憐憫の歌よりは、神をたたえる歌の方が好きだと思う。老人にとって最も宗教的な行為は、おそらく自分自身の体験を思い出すことではなかろうか。どれほど多くの友人が死んだか、どれほど多くの希望が失われたか、どれほど多く滑ったり転んだりしたか、そしてどれほど多くの光り輝く日々や喜びに神の導きがあったかということで、こうしたことすべてに、とても説得力のある教訓が確実に含まれているのではあるまいか。

つまり、結局のところ、ぼくはこの荘厳な儀式に心を打たれたのではあった。ぼくらの欧州紀行の全体を示すささやかな絵地図には、これはぼくの頭の中で描いたもので、ときどき思い出して楽しんだりするのだが、その空想の地図では、ノアイヨン大聖堂はいびつなぐらい大きな位置を占めていて、一つの県ほどの大きさでなければならない。ぼくは今も司祭たちがすぐ近くにいるみたいに顔を思い出すことができるし、アベマリアや「われらのために祈りたまえ」などの歌が教会から響いてくるのが聞こえたりもする。ノアイヨンでの他の出来事はすべて、こうしたすばらしい記憶のために消し去られ、ぼくはこの場所について、これ以上書くつもりはない。この町は茶色の屋根の積み重なったところにすぎなくて、人々は静かに当たり前の暮らしをしている。ところが、太陽が低くなると教会の影がさし、五つの鐘の音があたり一帯に鳴り響き、オルガンの演奏が開始されることを告げるのだ。仮にぼくがカトリック教徒になるようなことがあれば、オアーズ河畔にあるノアイヨン教会の司祭になることを条件にしたいくらいだ。

 

脚注
*1: ミゼレーレ - 聖書の詩編51に基づく宗教曲。ルネサンス音楽のポリフォニー(多声音楽)で、厳密には複数の版がある。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (36)

ノアイヨン大聖堂

ノアイヨンは川から一マイルほど離れた、木々の生い茂る丘に囲まれた狭い土地にあり、町全体に瓦屋根の家々が密集し、その先に二つの高い塔を持つ大聖堂がそびえていた。町に入ると、瓦屋根はごちゃごちゃ重なりあって坂を登っていたが、そうした家々は、群を抜いて高くそびえている荘厳な大聖堂の膝にまでも達していなかった。大聖堂はすべてを圧倒して屹立していた。町役場のそばの商店街を抜け、この町を支配しているといった大聖堂に近づいていくにつれて、人通りもまばらになり落ち着いた感じになった。この大建築物に向いている壁には窓がなかったり、窓があっても閉ざされており、聖堂へと続く白い道には草が茂っていた。「ここは聖なる地、靴を脱ぎたまえ」というわけだ。とはいえ、オテル・デュ・ノルドという宿は、この教会の近くで看板を掲げていた。ぼくらの寝室の窓からは午前中ずっと目の前にすばらしい東面が見えていた*1。ぼくは大聖堂の東面、つまり礼拝堂の正面を、これほど共感を持って眺めたことはなかった。三つの広いテラスが伸びて地面に達しているので、昔の立派な軍艦の船尾楼のように見えた。内側がえぐられている控え壁に置かれている花瓶は船尾灯のようだった。地面には起伏があり、大西洋を航海する船が大洋のうねりでゆるやかに船首を下げるように、塔は家々の屋根の勾配の上に見えていた。次のうねりを乗り切れば百フィート先まで進んでいてもおかしくない感じだった。ふいに窓が開いて老提督が三角帽をかぶった頭をのぞかせて天測を行ってもおかしくなかった。そういう老提督たちはもはや航海してはいない。古い軍艦はすべて解体され、絵画の中でだけ命脈を保っているだけだ。この教会は軍艦などより古くから存在していたし、現在も教会として存続しており、オアーズ川からもその偉容が望まれた。大聖堂と川の二つが、この近郊ではおそらく最古のものであり、どちらも古いすばらしい時代を経ているのだった。

教会で聖具を保管する係の人がぼくらを塔の一つの最上階に連れていって、天井から吊してある五つの鐘を見せてくれた。高所から眺めると、町全体が屋根と庭園の寄せ木細工でできた舗道のようだった。古い城壁もはっきり確認したどることができた。係の人は、平原のずっと向こう、二つの雲にはさまれた明るい空のところにクーシ城が見えていると教えてくれた。

立派な教会というものは見飽きることがない。山岳風景を見ているようで、ぼくは好きだ。大聖堂の建築をめざしたときほど、人間が幸福な意欲に満ちあふれたときはないだろう。一瞥しただけでは一つの巨大な像のようにも思えるが、じっくり眺めていると、森のように、細部にわたって興味深いものがひそんでいる。尖塔の高さは単に三角法で決定できるものではない。実際に測定してみれば意外に小さかったりもするのだろうが、それにあこがれている者の目には何とも高く見えるものなのだ! エレガントでバランスのとれた細部が集合し、それぞれが互いにバランスを保ちながら拡大していき、全体として一つのまとまったものになっているため、均衡ということを超越した、何か別の、もっと堂々とした存在になっている。大聖堂で説教するために人がどれほど声を張り上げなければならないか、ぼくにはわからない。が、何を説いても、大聖堂に見合うものにはならないのではないだろうか? ぼくはこれまでさまざまな説教を聞いてきたが、こうした大聖堂に見合うほど意味のあるものを聞いたことはない。「教会自体が説教者そのものであり、昼も夜も説教をしている」のだった。過去における人間の芸術や願望について教えるだけでなく、聞き手の心に激しい共感をもたらすものでもあって、あらゆる立派な説教者のように、聞く者自身が教えを説くようになる――そうして、人はすべて最後の段階では、自分自身が自分の神性について処方するしかないのだ、と。


脚注
*1: 教会の東面 - 礼拝堂の正面を指すが、実際に向いている方向が東とは限らない。キリスト教の聖地はエルサレムであり、ヨーロッパにおいては常に東にあるためとされる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (35)

オアーズ川の黄金の谷をめぐる

ラフェールをすぎると、川は開けた牧草地を縫って流れていた。緑豊かな、畜産の盛んなところで、黄金の谷と呼ばれている。川幅が広く流れは急だが、安定した絶え間ない流れが緑の沃野を作りあげている。牛や馬や小さくユーモラスなロバたちが一緒になって草を食べていたり、群れで川岸までやってきて水を飲んだりしている。こういう家畜がいると風景が違って見える。とくに驚いたりするとそうだが、それぞれがバラバラに駆け出したり右往左往したりするのだ。柵などないまったくない大平原を放浪する民族と共にさまよっている家畜の群れといった感じだろうか。両岸から遠くはなれて丘陵が見え、川はクーシーやサンゴバンの木々が生い茂る堤と接して流れていたりした。

ラフェールでは砲撃訓練が行われていたが、まもなく上空でも雲のせめぎあいがはじまった。巨大な二つの雲塊がぶつかり、ぼくらの頭上で一斉砲火しあう。一方、見渡す限りの地平線に日射しが差しこみ、澄み切った空気を通して、くっきりと丘陵が見えている。銃声や砲声がひびくたびに、黄金の谷の家畜の群れ全体が驚いていた。牛や馬は頭を上げて右往左往し、方向が決まると一目散に走り出すのだが、まず馬が突っ走り、それをロバが追い、その後に牛が続いた。草原でのこの集団の蹄の音は、川の上にいるぼくらのところまで聞こえてきた。騎馬隊が突進するときのような音だ。そんなこんなで、耳に聞こえる限りでは、ぼくらを楽しませるために戦闘訓練が行われているようだった。

しばらくすると銃声や砲声も聞こえなくなった。陽光をあびた雨上がりの草原がきらきら輝き、大気にはまた木々や草の息吹が感じられるようになり、川はその間も変わらず快調に流れてぼくらを運んでくれるのだった。ショニーの近くは工場地帯になっていた。そこから先は川の土手が急に高くなって、周囲の牧歌的風景は消え、土壁のような土手と柳の木しか見えなくなった。ときどき村を通過したり、フェリーとすれ違ったりした。また土手で遊んでいる子供がいて、ぼくらが川の湾曲部を曲がってしまうまでじっと見つめていたりした。しばらくはあの子供の夢に、カヌーを漕いでいるぼくらの姿が出てきたりするのではなかろうか。

晴れ間と雨降りが朝と夜のように交互に繰り返され、そうした変化のため時間は実際より長く感じられた。雨がひどくなるとジャージの下の体まで濡れてくるのがわかったが、そうした冷たさがいつまでも続くので、ぼくはがまんできなくなった。ノアイヨンに着いたら絶対にマッキントッシュの雨具を買うぞと心に決めた。濡れること自体はどうということもないのが、冷たいしずくで体のあちこちがひやっとするたびに、ぼくは狂ったようにパドルで水をかいた。シガレット号の相棒はぼくのこうした反応をとてもおもしろがっていた。土手や柳以外に見物するものができたというわけだ。

川は直線のところでは泥棒が一目散に逃げるようにまっすぐ走り、湾曲部では渦を巻いて流れた。柳の枝は風にそよぎ、その根元の土は朝から晩までずっと流れている川に削られ、崩れていく。オアーズ川は何世紀もの間、こうやって黄金の谷を形成してきたのだが、考えを変えたとでもいうように、流れる方向を変化させたりもしているのだった。余計なことを考えずただ重力に従っているだけとはいえ、川というものは、なんと多くの役割を果たしていることだろう!

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (34)

この町のどこにも他に宿屋はないようだった。町の人に道をたずねると教えてはくれるのだが、たずねていくと、そこはぼくらが侮辱された例の宿屋なのだった。ラフェール中を右往左往したが駄目で、悲しくなってしまった。シガレット号の相棒はすでにポプラの木の下で野宿すると決意し、パンでも食おうぜといった。だが、向こうの方に、城門の脇に明かりのともっている家があった。「バザン、旅館」と看板がかかっている。「マルタの十字架」という名の宿だ。ぼくらはここに泊まれることになった。

この宿は酒を飲んだりタバコを吸ったりしている予備兵で騒々しかった。だから、太鼓やラッパが鳴り響いて、誰もが帽子をとって兵舎に戻っていったときには、本当にほっとした。

バザンという宿の主人は長身で少し太っていた。話し方はおだやかで、繊細な、おとなしそうな顔をしていた。一緒にワインを飲まないかと誘ったが、主人はこの日は予備兵たちとずっと乾杯しつづけていたので、もう結構ですと答えた。自分も働きながら宿屋を営んでいるといっても、あのオリニーの自己主張の激しい旅館経営者とはまったく違うタイプの人だった。この主人もパリを愛していた。若い頃はそこで装飾画家として働いていたのだ。パリには独学する機会もあると彼は述べた。労働者階級の結婚式の参列者たちがルーブル美術館を訪れるところを描写したゾラの『居酒屋』を読んだことがある人は、一種の解毒剤として、このバザンのいうことも聞いておいたほうがよいだろう。彼は若い頃にこの美術館を楽しんだ。「あそこでは奇跡的な作品が見られるんです」と、彼はいった。「それがよい仕事につながるんですよね。心に響くというか、触発されるものがあるんです」 彼にラフェールでの暮らしはどうだと聞いてみると、「私は結婚していて」と彼は答えた。「子供もたくさんいるんです。でも正直にいうと、これは人生というものではありませんね。朝から晩まで、いい人たちだけど何も知らない大勢の人たちのお世話をしているだけですから」

夜がふけるにつれて天気が回復し、雲間から月が姿を見せた。ぼくらは戸口に座り、バザンと静かに語りあっていた。道の向かいにある詰め所では、夜になって野戦砲隊がガチャガチャ音を立てて戻ってきたり、マント姿の騎兵が巡回に出たりして、そのたびに衛兵が整列するのだった。しばらくしてバザン夫人が家から出てきた。一日の仕事で疲れているようだった。彼女は夫に寄り添い、頭を彼の胸に預けた。夫は妻に腕をまわし、肩をやさしくたたいた。バザンのいうように、彼は確かに結婚しているのだった。夫婦であっても、こんな風に自分は結婚しているといえる人は決して多くはないのだ!

バザン夫妻がぼくらのためにどんなにつくしてくれたか、彼ら自身は気がついていなかった。ぼくらはローソク代や飲食費にベッド代は請求されたが、この夫との心地よい会話の代金は含まれていなかったし、彼らのすばらしい結婚生活を垣間見させてくれたことも料金に含まれていなかった。さらに請求されなかったことがもう一つある。彼らはぼくらに礼儀正しく接してくれたが、それがぼくらを本当に元気づけたということだ。ぼくらは思いやりを欲していた。侮辱されたという思いはまだ心に強く残っていたし、夫妻のぼくらに対する扱いは、ぼくらの社会的地位を回復してくれたように思えたのだった。

人生で自分に与えられたことに対して、ぼくら自身がきちんと報いているかといえば、そういうことはほとんどない! ぼくらは財布を取り出していろいろなものに支払をしているが、こういうもてなしの心に報酬を支払うことはないからだ。だが、感謝する心というものは、受けたもてなしに負けないくらいよいものを相手に与えていると、ぼくは思いたい。おそらく、バザン夫妻はぼくが彼らにどれほど好意を持っていたか、わかっていただろう。ぼくがぼくなりのやり方で感謝したことで、彼らもいくぶんかは癒やされたのではないだろうか?

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (33)

 

中に入って服を着替え、ワインを頼むことができれば、行き違いは解決されるだろうと感じていた。それで「泊まれないんだったら、食事だけでもしようか」といって、バッグを下ろそうとした。

そのとき女将の顔に、けいれんの発作のようなものが浮かんだ! 彼女はぼくらに向かって突進してくると、足で床をドンドンと踏みならした。

「出ておいき――出口はそっち!」と彼女は叫んだ。「さあ出ておいき、ドアから出るのよ!」

何がどうなったのかわからなかったが、次の瞬間には、ぼくらは雨の降っている暗い屋外に放り出され、門前払いをくらった物乞いのように入口の前で悪態をついているのだった。ベルギーの親切なボート乗りたちははどこへ行ったのだろう? あの判事やおいしいワインはどこに消えてしまったのだろう? オリニーの娘たちはどこにいるのだろう? 明るい厨房から夜の闇に放り出されると、本当に真っ暗に感じられたが、それはぼくらの暗澹たる思いによるのだったろうか? 宿を断られたのは、これが最初ではなかった。こんな屈辱をまた受けたときにどうすべきか、ぼくは何度も何度も頭の中で対策を練っていた。とはいえ、計画を立てるだけなら簡単だ。だが、はらわたが煮えくりかえっているときに、どうやればうまく実行できるというのだろう? 誰か実際にやってみて、どうなったか教えてくれないか。

放浪者や規範意識について語るのは大いに結構だ。(ぼく自身が実際に体験したように)六時間も警察で監視されたり、にべもなく宿泊を断られたりすると、そうしたテーマについて一連の講義を受けたように、物の見方が変わるはずだ。上流社会にいて、世間というものすべてが自分に頭を下げてくれている限り、この社会の取り決めは非常にうまくいっているように思える。だが、いったん自分が車輪の下敷きにされてしまうと、こんな社会なんか悪魔に食われちまえと願いたい気になってくる。正論を唱えている立派な人々にそうした生活を二週間もさせてみて、それでも彼らに多少なりとも立派な規範意識が残っているとすれば、それは賞賛に値する。

ぼく自身についていえば、牡鹿だか牝鹿だか、そんな名前の宿から追い出されたとき、ぼくは近くにダイアナ神殿があればすぐにでも放火したいくらいだった*1。人間の社会なんか認めないぞと叫びたいほどだったが、それに見合う犯罪など他になかった。シガレット号の相棒も豹変した。「また行商人と思われたのさ」と、彼はいった。「くそったれが。実際に自分が行商人だったらどんな気持ちがするだろうな!」 彼は女将の体の関節一つ一つが病気にかかるよう念力をこめて文句をたれた。シェークスピア作の人間不信にこりかたまったアテネのタイモンですら、この相棒に比べれば博愛主義者だった。彼は罵詈雑言を口にしたかと思うと、いきなりそれをやめて、今度は貧しき者たちに同情してめそめそ泣き出した。「神よ」と、彼は誓った――そうして、ぼくはこの祈りはかなえられたと信じているのだが――これから私は決して行商人にそっけなくしたりはしません」 これがあの沈着冷静なシガレット号の相棒なのだろうか? これが、この男が彼なのだった。あまりの変わりように、まったく信じられない!

その間も、ぼくらのために天も涙を流しているように雨が降り続き、夜の闇が増すにつれて家々の窓は明るさを強めていった。ぼくらはラフェールの通りをとぼとぼと歩いた。店があり、人々が豊かな夕食をかこんでいる住宅があった。馬小屋も見た。たくさんの飼い葉や清潔なワラを与えられた荷馬車を引く老いた馬がいた。あちこちに予備役の姿があった。この雨で彼らも夜間の勤めをなげき、故郷を恋しがっているだろうとは思ったが、彼らも皆、このラフェールの兵舎には自分の居場所があるのだった。が、ぼくらには何があるというのだろう?

 

脚注
*1: ダイアナ神殿 - トルコのアルテミス神殿のこと。ダイアナはローマの呼び方。アレキサンダー大王時代に全盛だったとされるこの神殿は放火などで何度も破壊されたが、その都度再建され、世界の七不思議として知られている。
スティーヴンソンによるこの航海の少し前にイギリスの探検隊が神殿跡を発掘し世界的に話題になっていた(さらにその数年後にシュリーマンのトロイ遺跡の発見があり、一大考古学ブームが訪れることになる)。