スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (36)

ノアイヨン大聖堂

ノアイヨンは川から一マイルほど離れた、木々の生い茂る丘に囲まれた狭い土地にあり、町全体に瓦屋根の家々が密集し、その先に二つの高い塔を持つ大聖堂がそびえていた。町に入ると、瓦屋根はごちゃごちゃ重なりあって坂を登っていたが、そうした家々は、群を抜いて高くそびえている荘厳な大聖堂の膝にまでも達していなかった。大聖堂はすべてを圧倒して屹立していた。町役場のそばの商店街を抜け、この町を支配しているといった大聖堂に近づいていくにつれて、人通りもまばらになり落ち着いた感じになった。この大建築物に向いている壁には窓がなかったり、窓があっても閉ざされており、聖堂へと続く白い道には草が茂っていた。「ここは聖なる地、靴を脱ぎたまえ」というわけだ。とはいえ、オテル・デュ・ノルドという宿は、この教会の近くで看板を掲げていた。ぼくらの寝室の窓からは午前中ずっと目の前にすばらしい東面が見えていた*1。ぼくは大聖堂の東面、つまり礼拝堂の正面を、これほど共感を持って眺めたことはなかった。三つの広いテラスが伸びて地面に達しているので、昔の立派な軍艦の船尾楼のように見えた。内側がえぐられている控え壁に置かれている花瓶は船尾灯のようだった。地面には起伏があり、大西洋を航海する船が大洋のうねりでゆるやかに船首を下げるように、塔は家々の屋根の勾配の上に見えていた。次のうねりを乗り切れば百フィート先まで進んでいてもおかしくない感じだった。ふいに窓が開いて老提督が三角帽をかぶった頭をのぞかせて天測を行ってもおかしくなかった。そういう老提督たちはもはや航海してはいない。古い軍艦はすべて解体され、絵画の中でだけ命脈を保っているだけだ。この教会は軍艦などより古くから存在していたし、現在も教会として存続しており、オアーズ川からもその偉容が望まれた。大聖堂と川の二つが、この近郊ではおそらく最古のものであり、どちらも古いすばらしい時代を経ているのだった。

教会で聖具を保管する係の人がぼくらを塔の一つの最上階に連れていって、天井から吊してある五つの鐘を見せてくれた。高所から眺めると、町全体が屋根と庭園の寄せ木細工でできた舗道のようだった。古い城壁もはっきり確認したどることができた。係の人は、平原のずっと向こう、二つの雲にはさまれた明るい空のところにクーシ城が見えていると教えてくれた。

立派な教会というものは見飽きることがない。山岳風景を見ているようで、ぼくは好きだ。大聖堂の建築をめざしたときほど、人間が幸福な意欲に満ちあふれたときはないだろう。一瞥しただけでは一つの巨大な像のようにも思えるが、じっくり眺めていると、森のように、細部にわたって興味深いものがひそんでいる。尖塔の高さは単に三角法で決定できるものではない。実際に測定してみれば意外に小さかったりもするのだろうが、それにあこがれている者の目には何とも高く見えるものなのだ! エレガントでバランスのとれた細部が集合し、それぞれが互いにバランスを保ちながら拡大していき、全体として一つのまとまったものになっているため、均衡ということを超越した、何か別の、もっと堂々とした存在になっている。大聖堂で説教するために人がどれほど声を張り上げなければならないか、ぼくにはわからない。が、何を説いても、大聖堂に見合うものにはならないのではないだろうか? ぼくはこれまでさまざまな説教を聞いてきたが、こうした大聖堂に見合うほど意味のあるものを聞いたことはない。「教会自体が説教者そのものであり、昼も夜も説教をしている」のだった。過去における人間の芸術や願望について教えるだけでなく、聞き手の心に激しい共感をもたらすものでもあって、あらゆる立派な説教者のように、聞く者自身が教えを説くようになる――そうして、人はすべて最後の段階では、自分自身が自分の神性について処方するしかないのだ、と。


脚注
*1: 教会の東面 - 礼拝堂の正面を指すが、実際に向いている方向が東とは限らない。キリスト教の聖地はエルサレムであり、ヨーロッパにおいては常に東にあるためとされる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (35)

オアーズ川の黄金の谷をめぐる

ラフェールをすぎると、川は開けた牧草地を縫って流れていた。緑豊かな、畜産の盛んなところで、黄金の谷と呼ばれている。川幅が広く流れは急だが、安定した絶え間ない流れが緑の沃野を作りあげている。牛や馬や小さくユーモラスなロバたちが一緒になって草を食べていたり、群れで川岸までやってきて水を飲んだりしている。こういう家畜がいると風景が違って見える。とくに驚いたりするとそうだが、それぞれがバラバラに駆け出したり右往左往したりするのだ。柵などないまったくない大平原を放浪する民族と共にさまよっている家畜の群れといった感じだろうか。両岸から遠くはなれて丘陵が見え、川はクーシーやサンゴバンの木々が生い茂る堤と接して流れていたりした。

ラフェールでは砲撃訓練が行われていたが、まもなく上空でも雲のせめぎあいがはじまった。巨大な二つの雲塊がぶつかり、ぼくらの頭上で一斉砲火しあう。一方、見渡す限りの地平線に日射しが差しこみ、澄み切った空気を通して、くっきりと丘陵が見えている。銃声や砲声がひびくたびに、黄金の谷の家畜の群れ全体が驚いていた。牛や馬は頭を上げて右往左往し、方向が決まると一目散に走り出すのだが、まず馬が突っ走り、それをロバが追い、その後に牛が続いた。草原でのこの集団の蹄の音は、川の上にいるぼくらのところまで聞こえてきた。騎馬隊が突進するときのような音だ。そんなこんなで、耳に聞こえる限りでは、ぼくらを楽しませるために戦闘訓練が行われているようだった。

しばらくすると銃声や砲声も聞こえなくなった。陽光をあびた雨上がりの草原がきらきら輝き、大気にはまた木々や草の息吹が感じられるようになり、川はその間も変わらず快調に流れてぼくらを運んでくれるのだった。ショニーの近くは工場地帯になっていた。そこから先は川の土手が急に高くなって、周囲の牧歌的風景は消え、土壁のような土手と柳の木しか見えなくなった。ときどき村を通過したり、フェリーとすれ違ったりした。また土手で遊んでいる子供がいて、ぼくらが川の湾曲部を曲がってしまうまでじっと見つめていたりした。しばらくはあの子供の夢に、カヌーを漕いでいるぼくらの姿が出てきたりするのではなかろうか。

晴れ間と雨降りが朝と夜のように交互に繰り返され、そうした変化のため時間は実際より長く感じられた。雨がひどくなるとジャージの下の体まで濡れてくるのがわかったが、そうした冷たさがいつまでも続くので、ぼくはがまんできなくなった。ノアイヨンに着いたら絶対にマッキントッシュの雨具を買うぞと心に決めた。濡れること自体はどうということもないのが、冷たいしずくで体のあちこちがひやっとするたびに、ぼくは狂ったようにパドルで水をかいた。シガレット号の相棒はぼくのこうした反応をとてもおもしろがっていた。土手や柳以外に見物するものができたというわけだ。

川は直線のところでは泥棒が一目散に逃げるようにまっすぐ走り、湾曲部では渦を巻いて流れた。柳の枝は風にそよぎ、その根元の土は朝から晩までずっと流れている川に削られ、崩れていく。オアーズ川は何世紀もの間、こうやって黄金の谷を形成してきたのだが、考えを変えたとでもいうように、流れる方向を変化させたりもしているのだった。余計なことを考えずただ重力に従っているだけとはいえ、川というものは、なんと多くの役割を果たしていることだろう!

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (34)

この町のどこにも他に宿屋はないようだった。町の人に道をたずねると教えてはくれるのだが、たずねていくと、そこはぼくらが侮辱された例の宿屋なのだった。ラフェール中を右往左往したが駄目で、悲しくなってしまった。シガレット号の相棒はすでにポプラの木の下で野宿すると決意し、パンでも食おうぜといった。だが、向こうの方に、城門の脇に明かりのともっている家があった。「バザン、旅館」と看板がかかっている。「マルタの十字架」という名の宿だ。ぼくらはここに泊まれることになった。

この宿は酒を飲んだりタバコを吸ったりしている予備兵で騒々しかった。だから、太鼓やラッパが鳴り響いて、誰もが帽子をとって兵舎に戻っていったときには、本当にほっとした。

バザンという宿の主人は長身で少し太っていた。話し方はおだやかで、繊細な、おとなしそうな顔をしていた。一緒にワインを飲まないかと誘ったが、主人はこの日は予備兵たちとずっと乾杯しつづけていたので、もう結構ですと答えた。自分も働きながら宿屋を営んでいるといっても、あのオリニーの自己主張の激しい旅館経営者とはまったく違うタイプの人だった。この主人もパリを愛していた。若い頃はそこで装飾画家として働いていたのだ。パリには独学する機会もあると彼は述べた。労働者階級の結婚式の参列者たちがルーブル美術館を訪れるところを描写したゾラの『居酒屋』を読んだことがある人は、一種の解毒剤として、このバザンのいうことも聞いておいたほうがよいだろう。彼は若い頃にこの美術館を楽しんだ。「あそこでは奇跡的な作品が見られるんです」と、彼はいった。「それがよい仕事につながるんですよね。心に響くというか、触発されるものがあるんです」 彼にラフェールでの暮らしはどうだと聞いてみると、「私は結婚していて」と彼は答えた。「子供もたくさんいるんです。でも正直にいうと、これは人生というものではありませんね。朝から晩まで、いい人たちだけど何も知らない大勢の人たちのお世話をしているだけですから」

夜がふけるにつれて天気が回復し、雲間から月が姿を見せた。ぼくらは戸口に座り、バザンと静かに語りあっていた。道の向かいにある詰め所では、夜になって野戦砲隊がガチャガチャ音を立てて戻ってきたり、マント姿の騎兵が巡回に出たりして、そのたびに衛兵が整列するのだった。しばらくしてバザン夫人が家から出てきた。一日の仕事で疲れているようだった。彼女は夫に寄り添い、頭を彼の胸に預けた。夫は妻に腕をまわし、肩をやさしくたたいた。バザンのいうように、彼は確かに結婚しているのだった。夫婦であっても、こんな風に自分は結婚しているといえる人は決して多くはないのだ!

バザン夫妻がぼくらのためにどんなにつくしてくれたか、彼ら自身は気がついていなかった。ぼくらはローソク代や飲食費にベッド代は請求されたが、この夫との心地よい会話の代金は含まれていなかったし、彼らのすばらしい結婚生活を垣間見させてくれたことも料金に含まれていなかった。さらに請求されなかったことがもう一つある。彼らはぼくらに礼儀正しく接してくれたが、それがぼくらを本当に元気づけたということだ。ぼくらは思いやりを欲していた。侮辱されたという思いはまだ心に強く残っていたし、夫妻のぼくらに対する扱いは、ぼくらの社会的地位を回復してくれたように思えたのだった。

人生で自分に与えられたことに対して、ぼくら自身がきちんと報いているかといえば、そういうことはほとんどない! ぼくらは財布を取り出していろいろなものに支払をしているが、こういうもてなしの心に報酬を支払うことはないからだ。だが、感謝する心というものは、受けたもてなしに負けないくらいよいものを相手に与えていると、ぼくは思いたい。おそらく、バザン夫妻はぼくが彼らにどれほど好意を持っていたか、わかっていただろう。ぼくがぼくなりのやり方で感謝したことで、彼らもいくぶんかは癒やされたのではないだろうか?

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (33)

 

中に入って服を着替え、ワインを頼むことができれば、行き違いは解決されるだろうと感じていた。それで「泊まれないんだったら、食事だけでもしようか」といって、バッグを下ろそうとした。

そのとき女将の顔に、けいれんの発作のようなものが浮かんだ! 彼女はぼくらに向かって突進してくると、足で床をドンドンと踏みならした。

「出ておいき――出口はそっち!」と彼女は叫んだ。「さあ出ておいき、ドアから出るのよ!」

何がどうなったのかわからなかったが、次の瞬間には、ぼくらは雨の降っている暗い屋外に放り出され、門前払いをくらった物乞いのように入口の前で悪態をついているのだった。ベルギーの親切なボート乗りたちははどこへ行ったのだろう? あの判事やおいしいワインはどこに消えてしまったのだろう? オリニーの娘たちはどこにいるのだろう? 明るい厨房から夜の闇に放り出されると、本当に真っ暗に感じられたが、それはぼくらの暗澹たる思いによるのだったろうか? 宿を断られたのは、これが最初ではなかった。こんな屈辱をまた受けたときにどうすべきか、ぼくは何度も何度も頭の中で対策を練っていた。とはいえ、計画を立てるだけなら簡単だ。だが、はらわたが煮えくりかえっているときに、どうやればうまく実行できるというのだろう? 誰か実際にやってみて、どうなったか教えてくれないか。

放浪者や規範意識について語るのは大いに結構だ。(ぼく自身が実際に体験したように)六時間も警察で監視されたり、にべもなく宿泊を断られたりすると、そうしたテーマについて一連の講義を受けたように、物の見方が変わるはずだ。上流社会にいて、世間というものすべてが自分に頭を下げてくれている限り、この社会の取り決めは非常にうまくいっているように思える。だが、いったん自分が車輪の下敷きにされてしまうと、こんな社会なんか悪魔に食われちまえと願いたい気になってくる。正論を唱えている立派な人々にそうした生活を二週間もさせてみて、それでも彼らに多少なりとも立派な規範意識が残っているとすれば、それは賞賛に値する。

ぼく自身についていえば、牡鹿だか牝鹿だか、そんな名前の宿から追い出されたとき、ぼくは近くにダイアナ神殿があればすぐにでも放火したいくらいだった*1。人間の社会なんか認めないぞと叫びたいほどだったが、それに見合う犯罪など他になかった。シガレット号の相棒も豹変した。「また行商人と思われたのさ」と、彼はいった。「くそったれが。実際に自分が行商人だったらどんな気持ちがするだろうな!」 彼は女将の体の関節一つ一つが病気にかかるよう念力をこめて文句をたれた。シェークスピア作の人間不信にこりかたまったアテネのタイモンですら、この相棒に比べれば博愛主義者だった。彼は罵詈雑言を口にしたかと思うと、いきなりそれをやめて、今度は貧しき者たちに同情してめそめそ泣き出した。「神よ」と、彼は誓った――そうして、ぼくはこの祈りはかなえられたと信じているのだが――これから私は決して行商人にそっけなくしたりはしません」 これがあの沈着冷静なシガレット号の相棒なのだろうか? これが、この男が彼なのだった。あまりの変わりように、まったく信じられない!

その間も、ぼくらのために天も涙を流しているように雨が降り続き、夜の闇が増すにつれて家々の窓は明るさを強めていった。ぼくらはラフェールの通りをとぼとぼと歩いた。店があり、人々が豊かな夕食をかこんでいる住宅があった。馬小屋も見た。たくさんの飼い葉や清潔なワラを与えられた荷馬車を引く老いた馬がいた。あちこちに予備役の姿があった。この雨で彼らも夜間の勤めをなげき、故郷を恋しがっているだろうとは思ったが、彼らも皆、このラフェールの兵舎には自分の居場所があるのだった。が、ぼくらには何があるというのだろう?

 

脚注
*1: ダイアナ神殿 - トルコのアルテミス神殿のこと。ダイアナはローマの呼び方。アレキサンダー大王時代に全盛だったとされるこの神殿は放火などで何度も破壊されたが、その都度再建され、世界の七不思議として知られている。
スティーヴンソンによるこの航海の少し前にイギリスの探検隊が神殿跡を発掘し世界的に話題になっていた(さらにその数年後にシュリーマンのトロイ遺跡の発見があり、一大考古学ブームが訪れることになる)。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (32)

ラフェールでのさんざんな記憶

その日のほとんどは、モイですごした。というのも、ぼくらはのんびりと物思いにふけったりするのが好きだったし、舟で一日に航海する距離をのばすのは好きではなく、朝早く出発するのもいやだった。おまけに、ここはゆっくりしていきなさいといわんばかりの土地だった。凝った狩猟服に身を包んだ人々が銃や獲物袋を抱えて城から出てくる。こういう快楽を追い求める上品な連中が朝から精を出している一方で、自分たちだけは残ってのんびりするということ自体が楽しかった。こうして気持ちにゆとりがあれば、だれもが貴族のような気分になれるし、侯爵のなかの公爵、さらに公爵を支配者する君主を演じることもできるわけだ。沈着冷静な態度は辛抱強さから生まれる。落ち着いた心というものは当惑させられたり驚かせられたりすることがなく、雷雨のさなかにも幸運や不運に一喜一憂せず、時計のように自分のペースでやっていくことになる。

その日は近場のラフェールまでにした。薄暗くなりかけていたし、舟をしまう前に小雨が降り出したからだ。ラフェールは平原にある軍事要塞化された町で、城壁が二重に張り巡らされている。最初の城壁と二番目の城壁の間には荒れ地と畑があった。道ばたには、あちこちに軍隊名で立ち入り禁止の札が立っていた。二列目の城門まで来ると、やっと町が姿を現した。窓に明かりがともっているとうれしくなるし、煮炊きの煙も漂ってきた。町には仏軍の秋の軍事演習に参加している予備兵がおおぜいいて、彼らはいかめしいコート姿で足早に歩いていた。室内で食事をしながら、窓に当たる雨音を聞いたりするのは、夜のすごし方としては最高だろう。

ラフェールには豪華な宿が一軒あると聞いていたので、シガレット号の相棒とぼくは互いにそうした幸運をわかちあえる喜びにわくわくしていた。どこもかしこもポプラだらけの田舎で雨宿りする家もない人々に雨が降り続く! その一方で、ぼくらはそんなところで夕食を食べられるのだ! そんなところで眠りにつくことができるのだ! ぼくらの胸は期待でふくらんだ。その宿屋には森の生き物の名前がついていた。アカシカだったか牡鹿か雌鹿だったか、もう忘れてしまった。だが、近づくにつれて、そこがとても大きく、とても居心地がよさそうに見えてきたのは覚えている。エントランスは明るかった。専用の照明があるわけではなく、建物のあちこちにある暖炉やろうそくの光が漏れてきて、それほど明るくなっているのだった。皿がカチャカチャいう音が聞こえた。長大なテーブルクロスが見えた。厨房は鍛冶場のように赤く燃えさかり、いろんな食べ物のにおいが漂っている。

厨房というものは宿屋の光り輝く最奥の心臓部であって、いろんな炉が燃えさかり、棚にはずらりと皿が並んでいる。そこへ、くたびれたゴム製の袋を抱え、ぼろぼろの服を着たゴミ拾いのような格好をした二人連れ、つまり、ぼくらが意気揚々と入っていくところを想像してみてほしい。ぼくはそういう輝かしい厨房が見られると思っていたのだが、白いコック帽の連中が大勢ひしめいていて、そのだれもが片手鍋から目を離してぼくらを振り返り、驚いているのだった。女将が誰かはすぐにわかった。彼女は部下に指図していたが、顔を紅潮させ、何かに怒っているようで、とにかくせわしない女性だった。ぼくは彼女に対して丁寧に――シガレット号の相棒によれば丁寧すぎるほどに――泊めていただけますかと聞いた。彼女は冷たい目で、ぼくらの頭からつま先までじっと見て品定めをした。

「宿なら町外れにあるでしょうよ」と、彼女はこたえた。「うちは忙しくて、あんたたちにかまってる暇はないの」

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (31)

実際のところ、オアーズ川自体に問題は何もなかった。このあたりの上流部では、海に向かって、まだとても速く流れていた。川が湾曲しているところも急流で音を立てて流れていた。この激流と闘っているうちに、ぼくは親指を痛めてしまい、その後はずっと片方の手を宙に浮かせたまま漕がなければならなかった。まだ小さな川なのに水車をまわすため取水されたりしていて、水量が減って浅くなったところもあった。ぼくらは舟から足を出して砂まじりの川底を蹴って進まなければならなかった。それでも川はポプラの間を軽やかに流れ、緑の渓谷を作りあげていた。いい女に、よき本、そしてタバコ。その次に来るのが川で、これほど気持ちのよいものはない。この川が命を奪おうとしたことについては、ぼくは許した。結局、その責任の一端は木をなぎ倒した暴風のせいだし、ぼく自身がへまをしたためでもあり、川に責任があるとすれば三番目になるが、悪意があったわけではなく、海へそそぐという川本来の役目を果たそうとしただけにすぎない。何度も迂回し蛇行して海へ向かっているので、海へそそぐのも簡単ではない。地理学者たちはこの川を正確に再現した地図を描くのは断念したようだった。というのも、この川がクネクネと曲がっているのを正確に描いた地図を見つけることができなかったからだ。実際のところ、どんな地図よりもすごいことになっていた。何時間か急流を下った後で、ぼくの記憶が確かなら三時間ほど漕ぎすすんで集落のあるところまで来たので、ここはどこですかと聞いたところ、その場所はオリニーから四キロ(二マイル半)と離れていなかったのだ。(スコットランドのことわざのように)激流を楽しんで漕ぎ下ったこと自体を誇りに思うのでなければ、まったく動かずじっとしていた場合とほとんど同じことなのだった。

ポプラの生い茂った四角い牧草地で昼食をとった。ぼくらの周囲では木々の葉が風に舞い、ざわざわと音を立てていた。川の流れは相変わらず速くて、のんびりしているぼくらをせかしているようだった。ぼくらは少しも気にしなかった。川はどこへ流れていくか知っているが、ぼくらはそうじゃない。急ぐ必要はなかったし、気持ちのよい場所を見つけたら一服して楽しんだ。この時間、パリ証券取引所では株式仲買人たちが二、三パーセントの値動きに声を張り上げているはずだ。だが、ぼくらは、そういうことは川の流れほどにも気にしなかったし、ビジネスの世界で貴重なその時間をタバコと胃の消化をつかさどる神にささげた。急いでしまうと人としての誠実さが失われてしまう。自分の心と友人の心が信頼できるのであれば、明日は今日にまさるとも劣らないよき日になる。また、その間に死んでしまったとしても、もう死んでしまったのであるから、それで問題は解決されている。

午後になると、ぼくらは舟を運河に運ばなければならなかった。川が運河と交差しているのだが、そこには橋がなく、川は導水用の管になっていて漕げなかった。川沿いの道にいたある紳士がぼくらの航海にひどく興味を持ってくれた。それで、ぼくは、シガレット号の相棒がホラを吹きまくるのを目撃するはめになった。相棒はノルウェー製のナイフを持っていたのだが、実際には行ったことのないノルウェーでの冒険譚をあれこれ語った。相棒はしまいにはとても熱くなっていたが、後で、このとき自分は悪魔にとりつかれていたのだと釈明した。

モイは気持ちのいい小村で、城の周りに堀がめぐらしてあった。近隣の畑から麻のにおいが漂ってきていた。ゴールデンシープという宿では、最高のもてなしを受けた。ラウンジには、ラ・フェレを占拠したときのドイツの砲弾やニュルンベルグの人形、鉢にはいった金魚、あらゆる種類の小間物などが飾られていた。女将は太って地味な格好をした、近眼の、肝っ玉母さん風の人だったが、料理の腕は天才的で、自分でもそう思っているようだった。食事が運ばれるたびに彼女もやってきて、しばらく食事の様子を眺めているのだが、近眼なので目を細めて見ながら「おいしいでしょ?」と聞き、期待した「うまい」という返事が得られると厨房に姿を消した。この宿屋で食べたヤマウズラとキャベツというありふれたフランス料理は、ぼくの抱いていたイメージを一新した。それ以降、食事でこの料理を食べるたびに、ぼくはゴールデンシップで食べたものとの落差にがっかりすることになった。モイにある宿屋ゴールデンシープでの滞在は快適なものだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (30)

オアーズ川をモイまで下る

ぼくらがオアーズ川でカヌーを預けた例のカーニバル氏はとんでもない食わせ物だった。出発する朝、カヌーを置いたところに向かうぼくらを追いかけてくると、料金を安くしすぎたと後悔したらしく、ぼくを脇につれていき、なんだかんだと理由をつけて、あと五フラン払うよう請求した。ばかげた話だが、ともかく言われるままに金を支払った。もう親愛の情なんてものは消え失せて、それからはイギリス人特有の慇懃無礼な態度で、氏をまともに相手しないようにした。氏はすぐにやりすぎたと悟ったらしく態度をあらため、顔を伏せた。もっともらしい言い訳を考えつくことができたら、余分にせしめた金をこっちに返したくなったのではないかと思う。酒を飲まないかと誘ってきたものの、ぼくは彼に酒をおごられるなど、まっぴらだった。氏は哀れを誘うほどにしょんぼりしていた。ぼくは彼の横を無言で歩くか、言葉を交わすときは素っ気ない調子で応じた。そして上陸地点までやってくると、シガレット号に英語の隠語で顛末を説明した。

出発する時間については前日には正確に伝えていなかったのだが、橋の周辺には五十人ほどの人が集まっていたようだ。カーニバル氏は別にして、ぼくらは彼らにはできるだけ愛想よくした。別れの挨拶をかわし、川をよく知っている老紳士や英語のできる若い紳士と握手をしたが、彼のことは無視して声もかけなかった。哀れなカーニバル氏! さぞ恥ずかしい思いをしたことだろう。カヌーに関係する者として存在感を増した氏は、ぼくらの名前で指図したり、カヌーやそれに乗っているぼくらも自分の配下にあるかのように振る舞っていたのだが、いまではサーカスの花形のライオンたるぼくらに、こうしてあからさまに無視されているのだった! ぼくはこれほど意気消沈した人を見たことがない。彼は人混みに姿を消し、ぼくらの感情がやわらいだと判断すると、おずおずと前に出てきたものの、冷たい視線に出会うとあわてて引っこんだりしていた。彼がこれを教訓にしてくれればと期待するばかりだ。

カーニバル氏の姑息な手口はフランスでは珍しくないというのであれば、そんな話をここで披瀝するつもりはなかった。これは、ぼくらが今度の航海全体を通して体験した唯一の正直さを欠く行為というか狡猾な手段だったのだ。イギリスでは英国民は正直だと語られることが多い。だが、ささいな美点が大仰に表明されるような場合は用心したほうがよい。イギリス人が自分たちについて外国でどう語られているかを聞いたとしたら、あまりのひどさに、しばらくはそうした事実を解決しようと躍起になるだろうし、それが解決できたとしても当分は自分たちが正直だと自慢したりはしなくなるだろう。

オリニーの恩寵ともいうべき若い娘たちは出発のときには姿が見えなかった。二つ目の橋にさしかかると、そこにも黒山の見物人がいた! 歓声を受けて橋の下を通過するのは気持ちがよかった。若い男女が喝采しながら土手を追ってくる。川の流れは急だし、オールで漕いでもいたので、ぼくらはツバメのように一瞬にして通りすぎた。カヌーを追いかけて木々の茂った岸辺を駆けるのは大変だ。だが、娘達は自慢のかかとを見せるかのようにスカートの裾をつまみ上げ、息が切れるまでカヌーを追いかけてきた。最後まで残ったのは例の三人の娘と仲間の二人だった。もう無理となると、三人のうちの先頭の娘が木の切り株に飛び乗り、カヌーに向けて投げキッスをした。月の女神のダイアナというより、この場合は美の女神のビーナスというべきだろうが、彼女はそれをこの上なく優雅にやってのけた。「また来てね!」と彼女は叫んだ。他の者も皆それに唱和し、オリニーの山々に「また来てね」がこだました。しかし、川は急カーブを描いて曲がってしまい、ぼくらの周囲はまた緑の木々と流れる川だけになった。

「また来てね」だって? 人生という急流で「また来る」なんてことはないのだよ、お嬢さんたち。

商人は船乗りを導く星に従い、
農民は太陽を見て季節を知る。

そして、人は皆、運命という時計に自分の懐中時計をあわせなければならない。時間と空間を奔流のように流れる、人間を彼の抱く夢と一緒に一本の麦ワラのように押し流していく潮流がある。オリニーの曲がりくねった川のように、この人生の潮流には曲がり角が多い。快適な田園地帯をゆっくり流れ、また戻ってきたように見えたりするものの、同じ場所に戻ってきているわけではない。同じ牧草地を何時間も同じようにぐるぐるまわっているように思えたとしても、時間と時間の間をゆったりと流れ、多くの小さな支流が流れこみ、水は太陽に向かって蒸発している。同じような牧草地ではあっても、オアーズ川の同じ流れではない。このように、ぼくが変転する人生のうちに再びオリニーの娘たちのところに、君たちが死を待っている川のそばへと運んでいかれることがあるかもしれないが、そのときの老人はいま通りを歩いているぼくとは違っているだろうし、その老人がめぐりあう人妻や母親がはたしていまの君らと同じだとはいえないのではあるまいか?

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (29)

狩猟のことから、話はパリと地方の一般的な比較になった。プロレタリアを自称する亭主はパリをたたえてテーブルをたたいた。「パリって何だ? パリはフランスの精髄だ。パリジャンなんてものはいない。それは諸君であり、俺であり、パリ市民すべてなんだ。パリでは成功するチャンスは八十パーセントもある」 そして彼は労働者が犬小屋ほどしかない部屋で世界中に行き渡る物を作っている様子をいきいきと描写し「てなわけだ。すばらしいじゃないか」と叫んだ。

悲しそうな顔をした北部出身者がそれに異議をとなえ、農民の生活を賛美した。パリは男にとっても女にとってもよくない。「そもそも中央集権だし」と、彼はいいかけた。

が、宿の主人はすぐに反撃した。彼にとってはすべてが論理的で、すべてがすばらしいという。「まったく壮観だぜ! いろんなものがあるじゃないか!」 そしてテーブルをドンとたたき、皿がテーブルの上で舞った。

ぼくは二人をなだめようと、フランスにおける言論の自由はすばらしいと口にした。これはとんでもない失敗だった。皆、すぐにだまりこんだのだ。彼らは意味ありげに頭を揺らした。この主題が場違いなことは明らかだったが、悲しそうな顔をした北部出身者は自分の思想信条で迫害されたのだと、彼らはぼくに理解させた。「ちょっと聞いてみなよ」と、彼らはいった。「聞けばわかる」

「そうなんだ」と、彼はぼくがまだ何もいわないのに静かに答えた。「あんた方が考えているほど、フランスに言論の自由はないんじゃないかと思うよ」 そうして下を向き、その話はそれで終わりにしようと思っているらしかった。

ぼくらの好奇心はむしろ強くかきたてられた。このリンパ体質の外交販売員はどういう風に、あるいはなぜ、いつ迫害されたというのだろうか? ぼくらはすぐに、それは何か宗教的な理由のためだろうと推測し、主にポー*1の怪奇物語だとか、トリストラム・シャンディー*2に出てきた説教だとか、酔っ払った状態で記憶を探った。

翌朝、さらにこの問題を掘り下げる機会があった。というのも、ぼくらは出発する際にぼくらに共感する人々に見送られるのは苦手だったので早起きしたのだが、彼はぼくらよりもっと早く起きていたのだ。思想信条に殉教した者としての人格を保つためだとぼくは勝手に思ったのだが、彼は朝食に白ワインと生のタマネギを食していた。ぼくらは長いこと話をした。彼はその話題を避けようとしたものの、ぼくらは知りたかったことを知ることができた。しかし、このとき非常に興味深い状況が生じた。ぼくら二人のスコットランド人とこの一人のフランス人で半時間ほども話をしたのだが、それぞれが国籍によって異なる思いこみで議論していたのだった。話の最後になって、ぼくらは彼の異端信仰が宗教的なものではなく政治的なものだったことに気づき、彼がぼくらの思いこみが誤っているのではないかと疑うようになったのも議論の最後になってからだった。彼が政治的信念を話す言葉づかいや心構えは、ぼくらには宗教的な信念のように思えたし、逆に彼にとってもぼくらの言葉づかいは同様だった。

こうした誤解は、スコットランドとフランスという二つの国の特徴をよく示している。かつてナンティ・エワートが「ひどい宗教だ」と述べたように、政治がフランスの宗教なのだった。一方、スコットランドのぼくらは、賛美歌や誰もちゃんと翻訳できないヘブライ語のささいな相違点をめぐって言い争っていた。そして、こうした誤解は、異なる人種間だけでなく男女間においても、多くのはっきりと明確にならないことがある典型ということになるだろう。

迫害されたというぼくらの友人についていえば、彼はコミュニストか、それとはかなり異なるがパリ・コミューンの支持者といった程度にすぎなかった。そして、その結果として一つ以上の職を失っている。結婚もうまくいかなかったようだ。が、これについては、彼が仕事について情緒的な言い方をしたので、ぼくが勘違いしたのかもしれない。彼は穏健で親切な人物だったし、ぼくは彼がもっとよい職を得て、自分にふさわしい伴侶を得ていればよいがと願っている。

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脚注
*1: エドガー・アラン・ポー(1809年~1849年)は、一九世紀アメリカの短編作家。『アッシャー家の崩壊』のような恐怖小説やゴシック小説、『モルグ街の殺人』のような初の推理小説といわれる作品があり、ジューヌ・ヴェルヌに影響を与えた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』のようなSF小説の祖とされる作品もある。
異端審問については『落とし穴と振り子』という短編で取り上げている。


*2: トリストラム・シャンディーは、一九世紀英国の作家ローレンス・スターン(1713年~1768年)の未完の小説。ヨークシャーの地主である紳士トリストラム・シャンディーの自伝という体裁をとりながら、二〇世紀の「意識の流れ」の先取りともいえる荒唐無稽な断片が連続し、これを日本で最初に紹介したとされる夏目漱石によれば


(スターンが作家として後世に知られているのは)怪癖放縦にして病的神経質なる「トリストラム、シャンデー」にあり、「シャンデー」ほど人を馬鹿にしたる小説なく、「シャンデー」ほど道化たるはなく、「シャンデー」ほど人を泣かしめ人を笑はしめんとするはなし


 となる。
『我が輩は猫である』はこれに影響されているという人もいる。
(主牟田夏雄訳の三巻本が岩波文庫から出ています)

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (28)

オリニーで相席になった三人目は宿の女将の亭主だった。といっても、昼間は工場で働き、夕方に自分の家である宿に客としてやってくるので、厳密には宿屋の主人というわけではなかった。たえず興奮していて、ひどくやせた、頭のはげた男で、目鼻立ちははっきりしていて、よく動くいきいきした目をしていた。土曜日に、カモ猟でのちょっとした冒険について話をしているとき、彼は皿を割ってしまった。何かいうたびに必ずあごをしゃくってテーブル全体を見まわし、目に緑色の光をたたえて同意を求めるのだ。宿の女主人は部屋の出入口にいて食事の様子を監視しながら、「アンリ、そう興奮しないで」とか「アンリ、そんなにそうぞうしくしなくても話できるでしょ」といっていた。正直な男で、実際にそうすることはできなかった。つまらないことにも目を輝かせ、拳でテーブルをたたき、大きな声が雷鳴のようにひびきわたった。こんな爆弾のような男は見たことがない。悪魔がとりついていたのではなかろうか。彼にはお気に入りの表現が二つあった。状況によって「それは論理的だ」か「論理的じゃない」というのと、もう一つは、長い話を朗々と語りはじる前に横断幕を広げるようにちょっと虚勢をはって「俺はプロレタリアなんだ、諸君」という。実際に、彼は労働者そのものだった。パリの街で彼が銃を構えるなんてことがなければよいと切に思う! 人々にとってろくなことにはならないだろうからだ。

この二つの言いまわしは、彼の階級の長所と短所を、そして、ある程度はフランスの長所と短所を表している。自分が何者なのかを公言し、それを恥ずかしく思わないのはよいことだ。とはいえ、それを一晩に何度も口にするのはよい趣味とはいえない。同じことを公爵なんて立場の人がやったとしたらひんしゅくものだが、こういう時代に、労働者がそうすることは尊敬に値すると思う。その一方で、論理を信頼しすぎるのはほめられたことではない。とくに自己流の論理をふりかざすのは一般的にいっても間違っているからだ。言葉や学のある人を信頼するようになると、どこで終わりにすべきかがわからなくなってしまう。人間の心には公正な何ものかが存在していて、それはどんな三段論法より信頼できる。人間の目や共感や欲望は、論争では決して語られることのないものを知っている。根拠なんてものはブラックベリーほどにもたくさん存在し、げんこつを一発くらわせるのと同じように、どっちの側の正義にもなりうる。教義はそれが証明されることによって真偽が明らかになるのではなく、賢明に用いられている限りにおいて論理的であるにすぎない。有能な論争家が自分の根拠が正しいことを有能な将軍以上に証明することはない。フランスは一つか二つの立派な言葉に振りまわされているが、どんなにすばらしいものであっても、それは単なる言葉にすぎないと得心するには多少時間がかかるだろう。そのことに気づけば、論理というものはそれほどおもしろいものではないとわかるだろう。

ぼくらの会話はまず、その日の狩猟についての話からはじまった。村の狩猟者たち全員が村の共有地で勝手に鉄砲を撃ちまくれば、礼儀作法とかと優先権といった多くの問題が起きるのはいうまでもない。

「ここがその場所だ」と宿の主人が皿を振りまわして叫んだ。「ここがビート畑で、それから、俺はここにいて、前に進んだってわけ。で、諸君」 さらに説明が続く。大きな声で修飾語や言葉を重ねる。話し手は共感を求めて目をきらめかせ、聞き手は皆、騒ぎを起したくないので、うなづいてみせた。

北部から来た血色のよい男は自分の言い分を通した武勇伝をいくつか披露した。その相手の一人は侯爵だった。

「侯爵」と、私はいったのさ。「一歩でも動いたら、あなたを撃ちますよ。あなたは間違ったことをしたんです、侯爵」

すると、すぐに反応があった。侯爵は帽子に手でふれると、そのまま引き下がったのだ。

宿の主人はやんやと拍手喝采した。「よくやった」と彼はいった。「あんたはできることを全部やった。やつは自分が間違っていたのを認めたんだ」 さらに罵詈雑言が続く。宿の主人も侯爵なんてものが好きではなかったのだ。こんな調子だったが、ぼくらのプロレタリアたる宿の主人には正義感があった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (27)

相席になった人々

ぼくらは夕食に遅れてしまったが、同じテーブルをかこんだ人々は、スパークリングワインをふるまってくれた。「これがフランス流のもてなしなんだよ。一緒に食事したら友達だってわけ」と一人がいい、他の連中も喝采した。

相席になったのは三人だが、日曜の夜を一緒に過ごすにはちょっと変わった組み合わせだった。

三人のうち二人はぼくらと同じように宿の客で、どちらも北部の出だった。一人は血色がよく体も大きくて、豊かな黒髪とひげをたくわえた、恐れ知らずの、猟や釣りが好きなフランス人で、獲物がヒバリや小魚であってもつまらないとは思わず、どうだと自分の腕を自慢するような人だった。そんな巨体で健康そのもの、サムソンのように豊かな髪をした、バケツで流すように赤い血が勢いよく動脈を流れていそうな男がちっぽけな獲物を自慢するのは、鋼のハンマーを使ってクルミを割るような、ちぐはぐな印象を与えた。もう一人は物静かで、金髪、リンパ体質の悲しげな人で、どこかデンマーク人のように見えた。ガストン・ラフネストルがかつていったように「悲しきデンマーク人」といった風だ。

ガストンの名を出したので、もう亡くなってしまった、この最高の人物の話をしないわけにはいくまい。ぼくらは狩猟服を着たガストンをもう見ることはないし――彼は誰にとってっもガストンであって、下の名前を出すのは馬鹿にしているわけではなく、それだけ親しみを抱いているからなのだが――そのガストンの角笛の音色がフォンテーヌブローにこだまするのを再び聞くこともない。また彼の人なつっこい笑顔があらゆる人種の芸術家すべてに平和をもたらすことも、フランスでイギリス人に母国にいるように感じさせることもなくなってしまった。さらに羊が自分にまさるとも劣らない無垢な心の持ち主の動かす鉛筆の被写体になって、それを意識せずじっとしていることもないだろう。彼は芽を出しはじめて何か価値のあるものを花開かせようとした、まさにそのときに、あまりにも早く逝ってしまった。彼を知る者はだれも、彼の人生がむなしかったとは思うまい。ぼくは彼を知悉しているというわけでもないのだが、ずっと親愛の情を抱いていたし、人が彼をどれくらい理解しその価値を認めているかが、その人がどういう人物かを推し量る尺度にもなるとすら思っている。ぼくらと一緒にいるとき、彼はぼくらの人生によい影響を与えた。彼の笑い声はすがすがしく、彼の顔を見るだけで気が晴れた。心ではどんなに悲しんでいたとしても、彼はいつも元気で明るく落ち着いていて、災難があっても春のにわか雨ぐらいにしか思っていなかった。だが今となっては、彼が苦しく貧しいときにキノコを採ったりしていたフォンテーヌブローの森のそばで、彼の母親は一人で暮らしているのだった。

彼の絵には英仏海峡をこえたものも多い。ある卑劣なアメリカ人は絵を盗んだだけでなく、英国硬貨二ペンスしか持たず英語もろくにできない彼をロンドンに置き去りにしたのだ。この文章を読んだ人で、このすばらしい人物の署名のある羊の絵を持っている人がいれば、その人には、あなたの部屋には最も親切で最も勇敢だった者の一人があなたの部屋を飾るのに手を貸しているんですよと教えてあげたい。イギリスの国立美術館にはもっとすぐれた絵があるかもしれないが、何世代もの画家たちのうち、これほど善良な心を持った画家はいなかった。聖書の詩編によれば、人類の王たる神から見て、聖人の死はかけがえのないものであるし、またかけがえのないものでなければならなかった。というのも、発作で死んでしまうと、母親は悲しみのうちに一人残され、周囲の人々に平和をもたらし安穏を求めていた者がシーザーや十二使徒のように土に埋められてしまうのは大きな損失だからだ。

フォンテーヌブローのオークの森には、何か欠けているものがある。バルビゾンでデザートが供されるとき、誰もが今は亡き彼の姿を求めて、つい扉に目がいってしまうのだった。