オープン・ボート 16

スティーヴン・クレイン著

海では、押し寄せてきた大波の頂点がいきなり轟音をあげて崩れ落ち、長く続く白い砕け波がボートに襲いかかった。

「ようそろ。そのままいけ」と船長がいった。岸の方を眺めていた男たちは無言のまま視線を押し寄せてくる波の方に移し、そうして待った。ボートは波の前面でなめらかに持ち上がり、怒り狂った波の頂点で跳躍し、波の背後の長く続く斜面に着水した。海水が入ってきたが、料理長がくみ出した。

だが、また次の波がやってくる。沸騰したような白濁した波頭がボートに激突し、ボートはでんぐり返し状態で翻弄された。四方八方から海水がどっと流れこんできた。記者はそのとき舷側を両手でつかんでいたが、そこから海水が入ってくると、濡れたくなくて反射的に指を離した。

小さなボートは水の重みで沈みかけ、旋回しながら海中に引きづりこまれそうになった。

「海水(ビルジ)をくみ出すんだ、料理長くん! 急げ」と船長がいった。

「はい、船長」と、料理長がいった。

「いいか、お前ら、勝負は次の波だぞ」と、機関士がいった。「ボートからできるだけ遠くへ跳ぶんだ」

その三つ目の波がやってきた。巨大で、荒々しく 情け容赦ないやつだ。ボートが波に飲みこまれた。と同時に、彼らは海へ跳びこんだ。船底に救命帯の切れ端が残っていたので、記者はそれを左手でひっつかんで胸に当てて跳びこんだ。

一月の海は氷のように冷たかった。フロリダ沖だからそこまで冷たくはあるまいと高をくくっていたが、予想したより冷たかった。ぼうっとした頭で、なぜかこのことは記憶しておくべき重要な事実に思えた。海水の冷たさは悲しいほどだった。悲劇的だ。この事実と自分の置かれた状況とを考えあわせて彼は当惑したが、泣いてもおかしくない理由があるようにも感じられた。このときの海水はそれほど冷たかった。

海面まで浮上すると、潮騒の他はほとんど気にならなかった。それから、海上に浮かんだまま、他の連中を探した。機関士は先頭をきって泳いでいた。力強く、泳ぎも達者だった。少し離れたところに、救命帯のコルクを巻きつけた料理長の白い大きな背中が浮いていた。後方では、船長が負傷していない方の手で転覆したボートの竜骨につかまっていた。

岸の方へはなかなか進めなかった。波に翻弄されながら、記者はそのことについて考えた。

理由を探りたい誘惑にもかられたが、どうやら岸までたどりつくまで長い勝負になりそうだとわかったので、あせらないよう肩の力を抜いて泳いだ。跳びこむときにつかんだ救命帯の切れ端を体の下側に巻きつけ、ときどき手押しのそりにでも乗ったように波の斜面を滑り落ちていった。

オープン・ボート 15

スティーヴン・クレイン著

VII

記者がまた目を開けたときには、夜が明けかけており、海も空も灰色がかっていた。それから海面が深紅と金色に彩られた。とうとう夜が明けたのだ。空は真っ青で、波の一つ一つに朝日が反射し輝いていた。

遠くの砂浜には、黒っぽい小さな家がたくさんあって、その上に白い風車が高くそびえていた。人の姿はない。浜辺には犬も自転車も見えない。家々は見捨てられた村のようだった。

ボートの男たちは海岸をじっと目で探り、相談しあった。

「そうだな」と、船長がいった。「助けが来ないのなら、このまま波に乗って陸に向かったほうがいいかもしれんな。こんなところに長くいたら、いざというとき何かする体力も残ってないだろうし」 他の者はその意見を無言で受け入れた。ボートは陸を目ざした。あの高い風車の塔には誰も登っていないのだろうか、誰も海を見ていないのだろうかと、記者は思った。この塔は、アリの窮状に背を向けて立っている巨人という格好だった。記者には、苦闘しているちっぽけな人間どもにはそっぽを向いて平然としている自然、――ただ風が吹き荒れている自然というものを、いくぶんか人間の目に見える形で示しているように思えた。自然は残酷だとは思えなかった。といって慈悲深いわけでもなく、誠実でもないし賢明でもなく、そういうものではなくて、自然は無関心、彼らにまったく関心がないだけなのだ。こういう状況におかれた人間は、おそらくは宇宙が自分の境遇に無関心であることに強い印象を受けるあまり、人生において自分がおかしたたくさんのあやまちを思い起こし、いたたまれない思いで、もう一度チャンスがあればと願うのだ。この死に瀕した瞬間に自分の無知をさとり、物事の白黒なんてものはばからしいほど明白に思われて、もしもう一度やり直す機会が与えられたら、自分の言動を悔い改め、人に紹介されたり一緒にお茶を飲んだりするときにはもっとうまく明るくふるまおうと思ったりするのだろう。

「いいか、君たち」と船長がいった。「ボートはまちがいなく沈むだろう。私たちにできるのは、ボートが沈むのを遅らせることだけだ。沈んだら、ボートを離れて浜辺に向かうんだ。ボートが本当に沈んでしまうまでは、あわてて海に飛びこんだりするんじゃないぞ」

機関士が二本のオールを手にして、肩ごしに打ち寄せる波を見た。

「船長」と、彼はいった。「ボートの向きを変えて、沖に向けておいたほうがよいと思いますよ。そうしておいて、バックで陸の方へ進むんです」

「いいだろう、ビリー」と船長がいった。「船尾から行こう」 機関士はボートの向きを変えた。船尾に座っていた料理長と記者は、人気のない無関心な浜辺を見るには肩ごしに振り返らなければならなくなった。

巨大な波がボートを高く持ち上げた。岸に打ち寄せる一面の白波が斜面を駆け上がっていくのが見えた。「岸のすぐ近くまで沈まないで行くのは無理だろうな」と船長がいった。大波から目を離すことができるたびに、岸の方を凝視する。そうやって、じっと見つめている間、その目にはその者の本性があらわれるものだ。記者は他の連中を観察していたが、彼らはおそれてはいなかった。が、そのまなざしにこめられた真意までは読みとれなかった。

記者自身はといえば、とても疲れていたので、事実に基づいて物事の本質を把握することはできなかった。無理にでもそのことを考えようとしたが、このとき、彼の心は筋肉に支配されていて、筋肉はそんなことはどうでもいいといっていた。おぼれたりしたら、はずかしいだろうなと、ふと思っただけだった。

あわてふためいた言葉もなければ、蒼白な顔もなく、はっきりした動揺もなかった。男たちはただ浜辺を見つめていた。「いいか、飛びこんだら、できるだけボートから離れるようにしろよ」と船長がいった。

オープン・ボート 14

スティーヴン・クレイン著

 記者には今はもう兵士がはっきりと見えてきた。足をのばして砂の上に横たわり、じっと動かない。命が消えていくのを阻止しようとでもするかのように、青白い左腕を胸に載せているが、指の間から血が流れ出ていた。はるか遠くアルジェリアの地で、角ばった形をした市街地が、日没まぎわの淡い空を背景に低く見えている。記者はオールを動かしながら、兵士の唇の動きがだんだん遅くなるのを夢を見るように思い浮かべていたが、かつてないほど深く、完璧なまでに兵士の感情を理解できたことに心を動かされた。アルジェで横たわり死にかけている外人部隊の兵士に心からの共感をおぼえた。

 ボートを追ってじっと待っていたサメは、なかなか状況が進展しないので明らかに退屈したようだ。海面を切り裂く水音も聞こえなくなったし、夜光虫の長い航跡も消えていた。北方の光はまだかすかに見えていたが、ボートとの距離がせばまっていないのは明白だった。ドーンと岸に打ち寄せる波の音が、ときどき記者の耳に響く。そのたびに、ボートを沖に向けて必死に漕いだ。南の方では、誰かが明らかに浜辺でかがり火を焚いていた。とても低く遠くにあって直接それを目で見ることはできなかったが、その火が岸辺の崖に反射した光の揺らめきで、ボートから見わけることはできた。風が強くなり、ときどき、怒って背を丸めた山猫のように波が盛り上がっては激しく泡だった。

 船長は船首にいたが、上体を起こし、水がめに体をもたせかけた。「なんとも長い夜だな」と記者にいい、岸の方に目を向けた。「救援隊は時間がかかってるようだな」

「サメが周囲をうろついているの、見えました?」

「ああ、見た。でかいやつだったな、たしかに」

「船長が目をさましていらっしゃるとわかっていたら――」

 それから、記者は舟底に寝ている機関士に声をかけた。

「ビリー!」 ゆっくり動く気配があった。「ビリー、交代してくれるかい」

「了解」と、機関士がいった。

 舟底にたっぷりたまった冷たい海水につかって料理長の救命帯に体を寄せると、記者はすぐに歯をガチガチいわせながら眠りに落ちた。この眠りはとても心地よかったので、極度の疲労状態の最終段階といった調子の声で自分の名前を呼ばれたとき、眠っていたのはほんの一瞬だったような気がした。

「よう、代わってくれ」

「わかったよ、ビリー」

 北方の光はなぜか消えていたが、すっかり目をさましていた船長が方角を教えてくれた。

 その夜遅く、彼らはボートをさらに沖に出し、船長は船尾の料理長に、オール一本でボートをたえず沖に向けておくよう指示した。打ち寄せる波の音が聞こえるほど岸に近づいたら、料理長が大声で知らせることになった。この計画のおかげで機関士と記者は二人そろって少し休憩することができた。「若い連中の体力を回復させてやろうや」と船長がいってくれたので、機関士と記者は舟底で丸くなった。体を振るわせながら言葉を交わしたりもしたが、二人ともやがて死んだように眠りに落ちた。さっきのと同じか別のやつなのかはともかく、またサメが出現したことも知らなかった。

 ボートが波を乗りこえるたびに、水しぶきが舷側を超えて流れこみ、そのたびにずぶ濡れになったが、眠りをさますほどではなかった。不気味な風や海水もミイラに対して効果がないように影響はまるでなかった。

「おい」と、料理長が遠慮しいしいいった。「また陸にかなり近づいちまった。どっちか、また漕いで沖出ししてくれないか」 記者は上体を起こし、巻波がくずれ落ちる音を聞いた。

 漕いでいると、船長が彼にウイスキーと水をくれたので、寒さを感じなくなった。「もし私が上陸できて、誰かがオールの写真を見せでもしたら――」

やがてまた短い会話がかわされた。

「ビリー、ビリー、交代してくれるかい?」

「わかったよ」と、機関士が答えた。

オープン・ボート 13

スティーヴン・クレイン著

VI

「もしも俺がおぼれるとして――おぼれて死ぬかもしれないが――おぼれ死ぬとして、海を支配している七人の神様の名にかけて、俺はなぜこんな遠くまでやってきて、砂浜や木々をながめさせられているのだろうか?」

この暗く憂鬱な夜には、理不尽なほど不当であるとはいえ、本当に自分をおぼれさせようとするのが七人の神の真意なのだと思ったとしてもやむをえまい。懸命に努力し生きてきた者をおぼれさせるのは、たしかに理不尽きわまりない不当な行為だ。これは自然の摂理にそむく犯罪だと、彼は感じた。装飾した帆を持つ数多くのガレー船が出現して以来、これまでも他に大勢の人間が海でおぼれてはいるのだが、とはいえ――

自然というやつは、俺が溺死したとしても、たいしたことはないとみなし、俺みたいな人間を消したところで世界の完全性がそこなわれるわけではない感じているのだと思うと、彼はまず石でも拾って神殿に投げつけたいと思ったが、そういう石ころも神殿も周囲に存在していないので、くやしくて歯ぎしりしたいほどだった。母なる自然というものが目に見える形で近くに存在していれば、彼はそいつに向かって罵詈雑言の限りをつくしたことだろう。

自分の感情を吐露する目に見える対象がないのであれば、それを象徴するものに向かって膝まづき、両手をあわせ、「おっしゃるとおりです。でも、俺はまだ死にたくないんですよ」と命ごいすらしたかもしれない。

冬の夜、高い位置で冷たく光っている星は、自然が自分に向かって語りかける言葉だと、彼は感じた。そうして自分のおかれている絶望的な状況に思いいたるのだった。

ボートに乗った男たちは、こうした問題を実際に口に出して論じたりはしなかったが、疑いもなく、それぞれが黙ったまま自分の心に問うていた。疲れきった様子を示していたが、それを別にすれば彼らはめったに感情をあらわさなかった。会話はボートの操船に関することだけだった。

感情が音楽で示されるように、不思議なことに、ある詩がふいに記者の脳裏によみがえった。その詩を忘れていたことすら忘れていたが、いきなり心に浮かんできた。

外人部隊の兵士が一人、アルジェで倒れて死にかけていた。看護してくれる女はいないし、涙を流してくれる女もいなかった。だが、戦友の一人がそばに立っている。兵士はその手を握り、こういった。「自分は二度と祖国を、母国を見ることはないんだろうな」と。

彼は子供の頃、この外人部隊の兵士がアルジェで死にかけているという詩*1はよく知っていた。が、そこに描かれていることが重要だと思ったこともなかった。食事のときに、おおぜいの学友がその兵士の苦しみについて説明してくれたが、逆に彼はまったく関心がなくなってしまった。外人部隊の兵士がアルジェで重傷を負って死にかけているという出来事が自分の身に起きるとは思えなかったし、それが悲しいことだとも感じなかった。鉛筆の芯が折れたほども共感しなかった。

だが、不思議なことに、いまになって、それが人間として、生きている人間の問題としてよみがえってきた。その話はもはや、暖炉で暖をとりながらお茶を飲んでいる詩人が頭の中でつむいだ絵空事ではなくて、現実として、――過酷で悲しく、美しくもある現実として感じられたのだった。


脚注
*1:イギリスの社会改革家で著作家のキャロラインE.S.ノートン(1808年~1877年)による『ビンゲン・オン・ザ・ライン』という詩集に収録された詩の一節。
この兵士はドイツのビンゲン・アム・ラインの出身で、アルジェリアでの戦闘に外人部隊として参加し、瀕死の重傷を負ったとされる。

オープン・ボート 12

スティーヴン・クレイン

記者は漕ぎながら、足元で眠っている男二人を見おろした。料理長の腕は機関士の肩にまわされていた。服はやぶけ、疲れ切った顔をしていて、海に迷いこんだ二人の赤ん坊といった風だった。昔話にあった森に迷いこみ抱きあって死んでいたという赤ん坊を、奇怪な姿で再現したみたいな感じだ。

そのうち、彼はほとんど意識もなく漕いでいたに違いない。というのも、いきなり、うなるような波の音が聞こえたと思ったら、波がしらが音をたててボートに崩れ落ちたのだ。救命帯をまきつけた料理人が浮いて流されなかったのが不思議なくらいだった。料理長はそのまま眠っていたが、機関士は上体を起こし、目をぱちくりさせ、新たな寒さに震えていた。

「すまん、ビリー」と、記者は申し訳なさそうにいった。

「いいってことよ、坊や」というと、機関士はまた横になって眠った。

そのうち、船長もうとうとしているように思えた。大海原で、自分ひとりが漂流しているみたいだと、記者は思った。波の上を吹きすさぶ風の声は、なんともみじめな感じをいだかせた。

ボートの後方で、ヒューっと長くつづく音がした。黒い海で、夜光虫の放つ光が溝のように青い炎の航跡となってきらめいている。巨大なナイフで刻んだようだった。

それから静寂があった。記者は口を開けて息をし、海をながめた。

とつぜん、また別の風を切る音が聞こえたと思うと、さっきとは別の青みがかった光がさっと走った。今度はボートと並行に、オールを伸ばせば届きそうなくらいの近さだった。記者は巨大な影のようなひれが、透明感のある水しぶきをあげて海面を切り裂き、きらきら光る長い航跡を残していったのを見た。

彼は肩ごしに船長を見た。顔は隠れていたが、眠っているようだった。海の赤ん坊二人を見た。彼らも眠っているようだった。感情をわかちあう者が誰もいないので、記者は片側に少し体を寄せて海に向かって小さな声で毒づいた。

だが、そいつはボートの近くから離れなかった。船首や船尾にあらわれたかと思うと、右舷や左舷に出没し、その間隔も長かったり短かかったりしたが、きらきらと光る筋がさっと長く走り抜け、黒っぽいひれの風を切るヒューという音が聞こえた。そのスピードとパワーは感嘆すべきものだった。海面を、巨大な鋭い弾丸のように切り裂いていく。

じっと何かを待っているこいつの存在は、遊んでいるときに出会ってしまった人ほどの恐怖を彼には与えなかった。彼はただ海をぼんやり見つめ、低い声で毒づいただけだ。

とはいえ、本音では、こいつと一人で対峙するのは嫌だった。だれか仲間の一人が何かのはずみに目を覚まして、一緒に見守っていてほしかった。だが、船長は水がめにもたれかかって身動き一つしないし、機関士と料理長は舟底で爆睡しているのだった。

オープン・ボート 11

スティーヴン・クレイン

V

「パイだと」と、機関士と記者が怒ったようにいった。「そんな話するなよ、馬鹿野郎!」

「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えていたんだ。そしたら――」

海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。とうとう完全な闇が訪れ、南の海から射していた光が黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。

ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っていた。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足まで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力したが、ときどき波がボートにどっと入りこんだ。夜の、氷のように冷たい波だ。彼らはまたしても冷たい水でびしょぬれになった。彼らは一瞬、体をひねってうめき、また死んだように眠りこんだ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てていた。

機関士と記者の計画では、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。

機関士は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼んだ。「ちょっと交代してくれないか?」と静かにいった。

「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移った。二人は慎重に場所を入れ替わった。機関士は料理人に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。

海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。

記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」

船長はいつもの落ち着いた声で答えた。「そうだ。左舷から二点(22.5度)ほど離しておけ」

料理人は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけていた。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると、すぐに寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理人はストーブのように暖かかった。

オープン・ボート 10

スティーヴン・クレイン

低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。

「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」

「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」

 岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。

音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞った。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。

「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」

「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」

「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」

 そうこうしている間も、機関士はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関士が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前屈みになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。

「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」

忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる連中にときおり意識して声をかけていた。

「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」 その声は疲れていて低かった。

本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。漕ぎ手はといえば、ときどき波頭を抑えつけられるようなうなり音が聞こえる以外には、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。

料理長は頭を漕ぎ座に載せていたが、眼下の海水を興味もなく見つめていた。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」

オープン・ボート 9

スティーヴン・クレイン

砂浜は遠く離れていて、海面より低く見えた。小さな黒い人影を見分けるには、目をこらして探さなければならなかった。船長が棒きれが浮いているのを見つけたので、そこまでボートを漕ぎよせた。ボートにはなぜかバスタオルが一枚あった。それを棒きれに結びつけて、船長が振った。ボートを漕いでいると振り返って見ることもままならないので、聞いて確かめるしかない。

「あいつ、どうしてる?」

「立ったまま動かない。こっちを見てるんじゃないか……また動いた。家の方に向かってる……また立ち止まった」

「こっちに手でも振ってるかい?」

「いや、もうやってない」

「見ろよ、べつの男がやってきた」

「走ってるぜ」

「よく見ててくれよ」

「なぜか自転車に乗ってる。別の男と話をしてるな。二人ともこっちに手を振ってる。見ろよ!」

「何かビーチにやってきた」

「何だ、ありゃ?」

「ボートみたいだ」

「そう、たしかにボートだ」

「いや、車輪がついてるぜ」

「そうだな。救命ボートじゃない……馬車に乗せて引いてるんだ」

「救命ボートだよ、きっと」

「いや、えーと、あれは、あれは乗合馬車だ」

「救命ボートだよ」

「ちがう。乗合馬車だって。はっきり見える。ほら、あそこにある大きなホテルのどれかの馬車なんだ」

「畜生め、そうだな。馬車だ。乗合馬車で何をしようってんだろう? 救助隊のメンバーでも集めてるのか」

「そうだよ。見ろよ! 小さな黒い旗を振ってるやつがいる。乗合馬車のステップに立ってる。もう二人やってきた。ほら、みんな集まって話をしてるぜ。旗を持ってたやつを見てみろよ。もう旗を振ったりはしていないだろ」

「あれは旗じゃないんじゃないか? やつの上着だ。間違いない、あいつの上着だよ」

「そうだな。上着だ。上着を脱いで顔のまわりで振りまわしてる。振ってるのが見えるだろ」

「そうだな。あそこは海難救助の詰め所じゃなかったんだ。ただの避寒地のリゾートホテルの乗合馬車で、おぼれかかってる俺たちを乗客がたまたま見つけたってところか」

「あのくそったれ野郎、上着で何をしようとしてるんだ? 何か合図でも送ってるつもりか」

「北へ行けっていってるみたいだ。そっちに海難救助の詰め所があるに違いない」

「そうじゃない! あいつは俺たちが釣りをしてるって思ってるんだ。ただ合図してるだけさ。見えるだろう、ほら、ウィリー」

「うーん、あれが何かの合図だったらいいんだが。お前はどう思う?」

「意味なんてないんじゃないか。あいつ、ただ遊んでるだけだ」

「そうだな、もういちど陸に近づけとか、沖に出て待てとか、北とか南へ行けとか伝えようとしてるんだったら、そこには何か理由があるはずだ。だけど、よく見ていると、ぼうっと突っ立って上着を腰のあたりで車輪みたいに振りまわしてるだけの大馬鹿野郎だ」

「人が集まってきてる」

「大勢やってきたな。見ろよ! あれこそボートじゃないか?」

「どこ? ほんとだ、見えた。いや、あれはボートじゃない」

「あの野郎、まだ上着を振りまわしてやがる」

「俺たちが感心して眺めてるとでも思ってるんだろう。いいかげん、やめりゃいいのに。意味なんかないんだし」

「かもしれんが、俺には北へ行けっていってるようにも思えるんだがな。そっちの方に海難救助の詰め所があるんだ」

「おいおい、飽きもせずまだ振ってぜ」

「どんだけ長く振ってられんだよ。俺たちを見つけてからずっと振ってるんだぜ、あいつ。馬鹿じゃねえか。なぜボートを出してくれないんだ、あいつら。ちょっと大きな漁船でここまで来てくれさえすれば一件落着なのに、なんでそうしないんだろ」

「あ、もう大丈夫だ」

「やつら、すぐにボートを出して、ここまで来てくれるさ。今、俺たちのことをじっと見てるからな」

オープン・ボート 8

スティーヴン・クレイン著

そのとき迫ってきた波は、さらにおそろしかった。こういう波はいつだって、小さなボートに襲いかかって泡立つ海に引きづりこもうとする。波が迫ってくるときは、その前から長いうなりのような音がした。海になれていなければ、ボートがこれほど急激に盛り上がってくる波を駆け上がっていけるとは、とうてい思えない。岸までは、まだかなりの距離があった。機関士はこういう磯波にはなれていた。「いいか」と、彼は早口でいった。「このままだとボートはあと三分と持たない。といって岸まで泳ぐには遠すぎる。またボートを沖に戻しませんか、船長?」

「そうだな! そうしよう!」と船長がいった。

機関士は目にもとまらぬ早さでオールを操り、次々に打ち寄せる波間でうまくボートの向きを変え、なんとか沖に引き返した。ボートが水深のある沖まで戻る間、ボートでは沈黙が続いた。やっと一人が暗い調子で口を開いた。「やれやれ。ともかく、これで陸の連中には俺たちが見えたはずだ」

カモメたちは風を受けて斜めに上昇し、灰色の荒涼とした東の方角へと飛んでいった。南東ではスコールが起きていたが、出火した建物から立ち上るどす黒い煙のような雲やレンガ色をした赤い雲でそれとわかった。

「救助隊の連中をどう思う? なんともいかしたやつらじゃないか?」

「俺たちを見てないってのは、どう考えてもおかしいよな」

「たぶん遊びで海に出てるとでも思ってるんだろう! 釣りをしてるとか、とんでもない馬鹿だとでも思ってるだろうよ」

午後は長かった。潮流が変わり、ボートを南に押し流そうとした。が、風と波の方は北へ追いやろうとしていた。前方はるかに海岸線をはさんで海と空が接していた。岸辺には小さな点のようなものがいくつかあったが、それは街の存在を示しているようだった。

「セントオーガスティンかな?」

船長は頭を振った。「モスキート湾に近すぎるよ」

そこで、機関士が漕いだ。それから記者が交代して漕ぎ、また機関士が漕いだ。うんざりするような重労働だった。人間の背中には、分厚い解剖学の本に書いてあるよりもっと多くの痛点があるようだ。背中の広さは限られているが、いたるところで無数の筋肉のせめぎあいやもみあいが生じ、よじれたりからみあったり、なぐさめあったりしている。

「ボートを漕ぐのが好きだったことあるかい、ビリー?」と、記者がきいた。

「いいや」と機関士が答えた。「くそおもしろくもねえよ」

漕ぎ手を交代してボートの舟底で休むときには、極度の疲労感から、指の一本がぴくぴく動くのをのぞけば、すべてのことがどうでもよくなってしまう。舟底では、冷たい海水が揺れ動きながらパシャパシャはねている。そこに横になるのだ。漕ぎ座を枕がわりに頭をもたせかけると、そのすぐ横では波が渦をまいていた。海水がどっとボートに流れ込み、一度ならずびしょ濡れになった。だが、そんなことは気にもならなかった。ボートが転覆してしまえば、巨大な柔らかいマットのような海に投げ出されるのは確実だったからだ。

「見ろ! 岸辺に男がいるぜ!」

「どこだ?」

「あそこだ! 見えるだろ、やつが見えるだろ?」

「見えた。歩いてるな」

「お、立ち止まった。見ろよ! こっちを見てる!」

「俺たちに手を振ってるぜ!」

「たしかに! 間違いない!」

「やった、もう大丈夫だ! もう大丈夫だ! 三十分もあれば、救助のボートがここまでやって来るな」

「あいつ、まだ動いてる。走りだした。あそこの家まで駆けてくつもりなんだ」

オープン・ボート 7

IV

「料理長君」と、船長がいった。「君のいう避難所には、人のいる気配がないようだが」

「そうですね」とコックが答えた。「妙ですね、俺たちのことが見えてないなんて!」

 ボートに乗った男たちの眼前には、低い海岸が広がっていた。上が植物で黒っぽくなった低い砂丘のようだった。波の打ち寄せる轟音がはっきり聞こえたし、ときどき海岸に打ち上がる白い唇のような波頭も見えた。空を背景に、小さな家が一軒、黒い影となって見えていた。南の方には、細い灰色の灯台も見えていた。

潮流に加えて風や波がボートを北に押し流していた。「おかしいな、誰も見てないなんて」と、男たちはつぶやきあった。

ボートに乗っていると、波の音はそれほど明瞭ではなかったが、雷鳴のように力強いものだった。ボートが大きなうねりで持ち上げられると、ボートに座っている男たちにも轟音がはっきり聞こえた。

「こりゃきっと転覆するな」と、誰もが口をそろえた。

公正という点では、ボートのある場所からは、どの方向にも、二十マイル以内に海難救助の詰め所はなかったという事実をここで述べておくべきだろう。が、ボートの男たちはその事実を知らなかったので、国の海難救助に携わっている人々の視力について、口を極めて悪口をいいあった。しかめっ面をしてボートに座り、四人は罵詈雑言の限りをつくした。

「俺たちが見えないって、おかしいだろ」

少し前までの助かったという安心感は完全に消え失せていた。心も辛辣になり、やつらは無能なんだとか、何も見えちゃいないんだ、ひどい臆病者なんだなどと、自分たちがまだ発見されていない理由を次から次に数えあげた。人がたくさん住んでいそうな海岸で、人影がまったく見られないというのは、なんともつらいことだった。

「どうやら」と船長が、やっと口を開いた。「自力でなんとかするしかないようだな。こんなところに浮かんだままで救助を待っていたら、ボートが転覆したときに陸まで泳いでいく体力も奪われてしまう」

それを受けて、オールを手にしていた機関士がボートをまっすく陸に向けた。ふいに全身の筋肉が緊張した。考えるべきことがあるのだった。

「全員が上陸しなかったとしても」と、船長がいった。「全員が上陸できるとはかぎらないが、もし私ができなかったとして、私の最後を誰に連絡すればいいか、君らは知ってるかね?」

彼らは万一のときに必要となる連絡先の住所や伝言について教えあった。彼らには強い怒りがあった。それを言葉で表現すると、おそらく、こういうことだ――万一、自分がおぼれることがあったら、もし俺がおぼれたりしたら――おぼれてしまったら、海を支配している七人の怒れる神の名にかけて、なぜこんなにも長く漂流したあげくに砂浜や木々を見せられているのか? 苦労してここまでやってきて、どうやら助かりそうだとなったところで無慈悲にもその望みを絶つためにここまで生き延びさせたってことなのか? それはおかしい。運命という名の年とった愚かな女神にこんなことしかできないのであれば、人間の運命をもてあそぶ力を剥奪すべきだ。自分が何をしようとしているかも知らない老いたメンドリにすぎないのか。運命の女神が俺をおぼれさせると決めたというのなら、どうして船が沈没したときに殺してくれなかったんだ。そうすれば、こんなきつい目にあわなくてもすんだのに。すべてが……不条理だ。だが、いや、運命の女神だって俺をおぼれさせることなんかできはしない。俺をおぼれ死んだりさせたりはしない。こんなに苦労させられた後で、死ぬなんてありえない」 そうして、天にむかって拳を振り上げたい衝動にもかられた。「俺をおぼれさせてみろ。そしたら、俺がお前を何と呼んでやるか聞きやがれ!」