現代語訳『海のロマンス』118:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第118回)

埠頭(はとば)の浮浪者

はじめて上陸する。四月十八日の午後である。

日に三度の食事をとるのさえ痛ましいほど苦痛であった過去二十五日間の熱帯航海を通じて、厳しい暑さと伝染病があるのではと物凄(ものすご)い連想をはせたリオの暑さはどこにもない。

昼はスコールに洗われて涼しく、夜は灯影に魅せられて賛嘆するのが、この頃のリオ港の光景である。ぼくらの端艇(ボート)が、めまぐるしく行き交う何百隻もの数知れぬガソリンボートの間を縫って左に右によけながらも、何度かはあった衝突の危険を避けてファローの上陸場に近づいたとき、今日の上陸でリオ市のいたるところにあふれることになるであろう「物見遊山(ものみゆさん)のお上りさんたち」となっている自分たちの姿を想像し、自(おの)ずから微笑が浮かんでくる。

ここの埠頭(はとば)にも、例のビーチコーマーやショワーハツガーがたくさんいる。この種の埠頭(はとば)の浮浪者(ごろつき)はケープタウンにもサンディエゴにもたくさんおった。なかでもサンディエゴには、静かに岸辺の太公望(たいこうぼう)を気どりながら、ひそかに物になりそうなムクドリを狙(ねら)っているような物騒(ぶっそう)な埠頭浮浪者(ショワーローファー)もあった。

なぜ一挙手一投足もゆるがせにせぬ謹厳な英国人が、こんな物騒(ぶっそう)な連中に向かって「海の岸をくしけずる人」とか「磯のほとりの抱擁者」とかいう妙な名前をつけたのか? その複雑なる心理作用の解析は英語辞書を作ったドクター・ジョンソンにでも尋(たず)ねなければわからぬとしても、ともかくもこのファローの埠頭(はとば)にかのサン・シモン*を連れてきたら、「ああ、かくのごとき多数の失業者を生み出したのはそもそも誰の罪ぞや」と嘆くかと思われるほど、数量からも精力からも侮(あなど)るべからざる数の埠頭浮浪者(はとばのごろつき)がいる。

* サン・シモン(1760年~1825年): フランスの貴族で社会思想家。
産業や商業と社会との関係に目を向けた社会主義的な発想の先駆となったサン=シモン主義は生前にはさほど認められなかったが、その死後、フランス皇帝ナポレオン三世が信奉し、第二帝政で産業重視政策をとるなどした。

ことにリオ港の埠頭浮浪者(ショワ-ローファー)に対してすこぶる不利な点は、彼らは殊勝(しゅしょう)にも、ともかく物静かで同情を受けてもおかしくない状態であるにもかかわらず、ただ一つ、彼らが集まる埠頭(はとば)のみは、我関せず路傍(ろぼう)の人だという風に、偉そうにその白い花崗石(みかげいし)の壮大で虹のようなアーチ式の欄干(らんかん)をそびやかしていることである。従って、浮浪者(ローファー)の苦心せる情けを誘うような効果は、この立派なる背景のために、たしかに一割くらいは減っているわけである。

これらの群衆の間を通り抜けると、そこは十一月十五日の広場(別名、革命公園)という、ちょっとしたプラザになっている。紀元一八八九年十一月十五日に宣言したブラジル共和国政府を記念するため、その功労者オソリオ将軍の乗馬像(エクストリアン)が中央に飾ってある。

リオ在住の同胞による練習船歓迎の事務所がこの公園近くのブラジル海軍大臣官房内にあって、親切にも市中を案内してくれるとのことであるが、肝心(かんじん)の町名を忘れた上に、周囲はスペイン語とかポルトガル語とかいう、名を聞いただけで落胆(がっかり)するようなすさまじい語学音痴ぞろいだから……とても……と、さすがのコスモポリタンもいささか気後れしているように見えた。

物見高(ものみだか)いのはあえて東京にも限らぬと見え、同じ鼻白(はなじら)んでもまだ歩いているうちは無難であったが、一度(ひとたび)首をかしげて立ち止まったとみたら、たちまち集まってきた例の浮浪者(ローファー)の人垣に取り囲まれてしまった。

しかし、いかに群衆に取り囲まれても、例のポルトガル語やブラジル語の方は船を出るときから絶望的な用意と決心と沈着とをもって、何だ――先進国ではあるまいし、笑われようが馬鹿にされようが驚くことではないと決意してきたから、チーチーパッパのやかましいほどの騒音(そうおん)をあびても泰然自若(たいぜんじじゃく)として動じなんだのは、自分ながらあっぱれだと思った。

すでに本船入港の新聞記事に、乗り組みの学生は「英語には熟達」しているが、他の外国語には通じないと書いてあったはずであるのに、わからない小坊主どもだと、うろたえ騒ぐやかましい群衆を見ていると、その中から新聞社の写真班とも見える一人の男が出てきて、あいまいなフランス語でパレブ・フランセ(フランス語が話せますか)?と来た。

「話せます(ウイ、ムシュー)」とやらかしたかったが、わずか二年間の在学期間に、しかも選択科目で速習しただけときては覚束(おぼつか)ないこと限りないから、いきなりノンノンと言いながら、むやみやたらと歩き出したら、とうとうアベニダホテルという白レンガ造りの広壮なる建物の前へ出た。

このホテルの通りこそ、リオ随一の大通りの白川大路(アベニューブランコ)であることがわかった。

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現代語訳『海のロマンス』117:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第117回)

雨のリオ

いつの間にか暖かい小雨が、泊地の湾の風光を霞(かすみ)の裏にこめて、音もなく粛々(しゅくしゅく)と降っている。

心地よく伸びた四肢を長々と湯舟の中に横たえながら、静かに落ち着いた悠遠(ゆうえん)の心を抱いて物憂(ものう)げに重い頭をもたげる目の前に、晴れやかな銀色の矢のような雨が青い船窓(スカッツル)を涼しく上下に貫いて降っている。

軽い雨脚(あまあし)が広々とした水郷の波にささやいて煙(けむ)るがごとき情趣を生じきたるとき、観る人の心は平安で悠久な夢幻境(むげんきょう)に誘いこまれるのである。

この平安なる心を抱いてこの優美なる景色美に対している。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』116:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第116回)

なんだかわけのわからない音楽

それはそれは実にやかましい。

細く割った竹を束ねたササラのように、すさんだ神経の末端まで、「しゃくにさわるという一念」が恨(うら)めしく行き渡るほどに、やかましい。

名実ともに美しい都リオの情景から得た好感情、好印象は、この騒音にたちまち徹底的に破壊せられてしまった。

本船と並んで正横の距離(ビーム・ディスタンス)約二ケーブル*(約三百六十メートル)のところに、ブラジル共和国秘蔵のド級戦艦サンパウロが尻も重たげにどっしりと停泊している。停泊している分はまだまだ辛抱できるが──などと言ったら、それこそ居候(いそうろう)の分際でとんでもない心得違いだと叱られるかもしらんが、その上甲板から騒然かつ乱雑に絞(しぼ)りだされる無作法な音響にはまったく参らざるをえない。実にやかましい。

* ケーブル: 長さの単位で一海里(1852m)の十分の一。

嘘だと思うなら、せめて一日でいいからリオの大成丸へ来て、サンパウロの二重砲塔(ダブルタレット)の脇から響いてくる、吠え狂う太鼓の音や、悲鳴のような笛の音や、絞(し)め殺されるラッパの音を、わずか三町(さんちょう)*の間隔で聞いてみるがよい。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』115:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第115回)

港口のいかめしい砲台の数々

商港にして軍港を兼ねるリオ港は、これはと思う岬や鼻(小さな突端部)や島には銃眼いかめしい砲台が築かれて、さすがは南米一とうぬぼれる大共和国の国都(こくと)の名に恥ないとうなづかせるほどには厳重でしっかりした装備が整えられている。

四月十六日午前九時、時速八マイルの全速で港口に臨んだ練習船は、右方の岬の先端に構えたる堡塁(ほうるい)の一つと挨拶を交わしながら、極東の新興帝国で戦勝した勢いのまま(大成丸の航海は日露戦争終結から五年後)、胸を張って船尾手すり(タフレイル)上に旭日旗をひるがえした。負けるものかと相手の堡塁(ほうるい)の方も黄色い菱形内に地球をはめた旗を自慢そうに上下した。

Flag of Brazilブラジルの国旗

ところが、堡塁(ほうるい)は港口のいたるところに設けてある様子で、素人のぼくにさえ怪しいとにらみうるところが、シュガーローフ(標高約四百メートルの巨大な奇岩。一般にはパンデアスカルと呼ばれる)の裏手にあるレミの近辺に一、二カ所、ボタファゴの出鼻に二、三カ所、ニトロイ一帯にも一、二カ所はありそうである。

港口に近い湾内の島という島には、この大砲の巣が心得側に跳梁(ちょうりょう)している。そのうちで、練習船の水路に近い大小二つの島は、同じ堡塁(ほうるい)のうちでも確かに毛色の違ったものであった。

港口に近いのはわずかに二町(約二百十八メートル)四方に足らぬ小さな岩礁を平らに切り潰(つぶ)した上に、切り石とコンクリートで亀甲形(タートルシェル)に築きあげた砲台があって、それが外洋に面する方は極めて巧みになめらかな曲率(カーヴァチュア)を持った斜面をなし、一方、内湾に向かった側にはこっそり守備兵が出入しうる通路がある。

何のことはない、一見すると征韓の役(せいかんのえき)に、わが水軍の将、九鬼、藤堂、加藤等を散々に悩ました韓師(かんすい)舜臣(しゅんしん)*の使用した亀甲船**とやらを、はるばる南米三界に回航してきたという図である。

* 舜臣(しゅんしん): 李舜臣(1545年~1598年)は李氏朝鮮の将軍で、文禄・慶長の役で日本軍と戦った。

** 亀甲船(きっこうせん): 舜臣が使用したとされる当時の軍艦の形式。

TurtleShip1795
この亀甲船に相当する堡塁(ほうるい)の屋根の上には、石弓ならぬ八インチの主砲が厳然と据えつけられ、その周囲に二ポンド、三ポンドの速射砲がそれぞれ射程距離や範囲が重ならないように、配置も一直線にならないように、互い違いの千鳥に散らせて配置され、意地悪くこれでも恐れ入らぬか……と威嚇(いかく)している。

しかし、例の地球の旗と、煙管(きせる)の雁首のように突き出している通風管(ベンチレーター)にもたれかかって、口あんぐりとこっちを見ている気が抜けたようなブラジル水兵に目を向けると、気の毒ながら、非力の貧乏神に粟田口(あわたぐち)義弘(よしひろ)の大業物(おおわざもの)*をかつがせたような観があって、せっかく恐縮しかけた恐怖の観念がムラムラと謀反を起こし、なんだ見かけ倒しの砲(ほう)がと、すっかり馬鹿にしてしまう。

* 粟田口(あわたぐち)は鎌倉時代の京都・粟田口周辺で活動した有名な刀工の一派の名称で、代表格は粟田口国吉。義弘は南北朝時代の名刀工、郷義弘。
江戸時代、日本刀はその切れ味に応じて最上大業物、大業物、良業物、業物……と格付けされた。

も一つ奥にある大きな長方形の堡砦(ほうさい)は、子供のとき戦争画で見た田庄台(でんしょうだい)*のような角張った建物で、砲台にして移民検疫所を兼ねているという。これらの砲台は主として水平線掃射用のいわゆる海堡(かいほう)なるもので、その威力もたいしたものではないが、独り入口の左側に屹立するバンダスカル(海抜千フィート余)の頂上には、有力なる射距離を有する陸軍砲があるとのことである。

* 田庄台(でんしょうだい): 日清戦争で日本軍が上陸した中国・山東半島北側の遼河平原にある地名。
当時、戦争画(錦絵)をさかんに描いた小林清親に『田庄台攻撃占領之図』がある。

ぼくらの船がこれらの大砲の巣の中を恐れ気もなく進み入って、はるか右舷船首に霞がかったミナス・ゲラエス、サンパウロという二艦のド級戦闘艦が見えてきたころ、待ちあぐねた水先案内船が来た。ところが、その船には例のブラジル軍艦旗がひるがえって、夢二式の想像に富んだ大きな潤んだ目と、中肉中背の気持ちよく整える体躯を持った一人の海軍士官が、流暢(りゅうちょう)な英語で船長に呼びかけて、さわやかに本船の錨地(びょうち)を教え、望みとあらば自分自身が水先案内をしようとすこぶる慇懃(いんぎん)に歓迎の第一声を吐露(とろ)する。

こうなると人間は勝手なもので、この士官がますますなつかしくありがたく、なんとなく立派な識見と裏表のないしっかりした性格の持ち主であるように思われて、その色白で鼻が高く、華麗(きゃしゃ)な顔立ちが流暢(りゅうちょう)な英語と相まって心にしみじみと映ってくる。

このブラジル艦隊の旗艦ミナス・ゲラエスから特派された好感のもてる士官の案内で、軍艦サンパウロと並んでフェリー埠頭の前面に碇泊(ていはく)し終わったのは十時半。

船長はさっそくお礼にブラジル旗艦(きかん)に出かけるやら、藤田代理行使の来船やら、港務官、検疫官の退船やら一時はなかなか大騒ぎであった。

ちなみに、リオでは水先案内という者が特別には配置されていないのだが、それほどに水深は深く(平均五十フィート)、水道は広く、港口は安全で、出入りは至極無難であるが、他に比類ないすばやい潮流(しお)があって、大いに船乗りを苦しめている。

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現代語訳『海のロマンス』114:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第114回)

南米の美都
世界三景の随一

日本に生まれて、まだ日本三景の一つさえ知らぬぼくが、不思議にも、幸か不幸か船乗りとなってネプチューン大王の寵児となりすました前世からの奇妙な因縁のためか、ここ南緯二十二度五十四分、西経四十三度十分という、故国にとって地球の真裏に当たる場所において、世界三大景の随一と呼ばれる、絵のごときリオ・デ・ジャネイロの水郷に親炙(しんしゃ)する機会に恵まれたのは、実(じつ)にありがたき幸せである。

実(げ)に、「リオはよいところ、南を受けてアンデスおろしがそよそよと」である。

思えば、銀灰色の s の雲*ゆるやかに北へ流れる空と、蒼茫(そうぼう)として暗い神秘的な深みを持った夜の海との間にあたって、あたかも迷い迷いてまだ浮かばれない人魂(ひとだま)のように明滅しているフリオ岬の閃光灯を右舷正横(アビーム)に望んだのは、四月十六日の真夜中(ミッドナイト)であった。

* sの雲: 雲の略称で s で示されるのは層雲 (St)と層積雲(Sc)。
どちらもどんよりして、入道雲(積乱雲)などとは異なり、雲の形が明確ではない。

赤いマークのついているところがフリオ岬。リオ・デ・ジャネイロの湾はその西(左)側(地図はクリックすると拡大します)。
練習船・大成丸は地図の右上方から海岸線に沿ってフリオ岬を過ぎてリオへと向かった。

船尾に立って、彗星のごとく長い光芒(こうぼう)を一直線に後ろに曳(ひ)くきれいな船脚(ウェイキ)を見つめていると、こういう場合にえてして湧いてくる正体の判明せぬ物の哀れさがしみじみと感ぜられて、理由(いわれ)のない涙がハラハラこぼれそうになった。

美しい泊(とまり)に対するいたずらな想像がその大部分を占める。

浮かれ気味の若やいだ心は、過去の痛ましい平凡で単調な航海生活を顧みて、あわれむ念と入り交じって、一種のいわれなき忙(せわ)しい気分となる。

今から四百余年前の一五〇二年の正月一日にも、これと同じような気分を持ったマドロスを乗せたギャレー船が、はじめてこの絵のごとき(ピクチャレスク)泊(ポート)を訪れたのである。

青い水が末広に、目も涼しく、満々と満ちわたれる様子を見た発見者のアメリゴ・ベスプッチ*は、これこそ幸(さち)多き富める川の口だろうと、すなわちリオ・デ・ジャネイロ(正月の川)と命名したという。

* アメリゴ・ベスプッチ(1454年~1512年)はイタリアの航海者。
新大陸を発見したのはコロンブスだが、その新大陸なるものがアジアとは別の大陸であることを確認したのがアメリゴ・ベスプッチで、アメリカ大陸という名称は彼の名前に由来する。
ちなみに、それ以前にも北欧からグリーンランドに渡った人々が存在していたし、そもそもコロンブスが誤ってインディアンと名づけた原住民自体が、はるか大昔の紀元前に、ベーリング海峡経由でユーラシアから北米大陸に移動していたわけで、新発見とはあくまで西欧社会にとっての「新発見」にすぎない。
見方や立場を変えれば同じ景色が違って見えるという好例でしょうか。

実(げ)に広大でつかみどころがないようでいて、どことなく静寂(しっとり)したところのある港である。

満々朗々とうち湛(たた)えた水が広々と空のはてまでつらなって、ひょうたん形(なり)に深くよどんだ湖水のような港である。

さらに言い換えれば、関八州(せきはっしゅう)*の天地にノアの大洪水が来て野をも丘をも浸しつくした後に、筑波や秩父を小さな島のように取り残した氾濫(はんらん)せる水が、青い秋空の下に碧玉(へきぎょく)を溶(と)いたように広く深く澄みわたったともたとえるべき港である。

* 関八州(せきはっしゅう): 江戸時代の関東八か国の総称。関は箱根の関所で、それから東の地方(相模 さがみ、武蔵 むさし、安房 あわ、上総 かずさ、下総 しもうさ、常陸 ひたち、上野 こうずけ、下野 しもつけ)を指す。

** 碧玉(へきぎょく): 石英(せきえい)の一種で、不純物が含まれているため不透明で色がついている。
この場面では青いものを指していると思われるが、緑や赤などさまざまな色がある。

この気晴らしのよい穏やかな港の景色に、立体的に「線(ライン)」と「色彩(しきさい)」と「感じ」とを加えて加工しようとして、イタリアのルネッサンス式の建築物や、毛槍(けやり)のように頭を振り乱しつつたちはだかった檳榔樹(ロイヤルパーム)や、弩級(どきゅう)型の戦艦(ドレッドノート)*や、外輪船(パドルホイール)タイプの渡船(フェリーボート)や、三角帆(ラティーンセイル)の漁船の舟歌や、船艦の軍楽(バンド)やらが調和して心地よく行き交っている。

* ド級型戦艦: 巨大口径の大砲と高速航行が可能な蒸気タービンを搭載した、当時の代表的な戦艦のタイプ。
ド級はドレッドノート型という意味で、弩級(どきゅう)とも書く。

左の方はパンデアスカールの丘に至るまで一面に、アメリカ物語のごとき市街が一帯の入江(バロア)に沿って連綿と続き、右の方は、対岸のニテロイとの間に遠くはるかにかすんで帆船のマストが林立する商港がほのかに見えるが、例の有名な白い花崗岩(かこうがん)、青い松樹(しょうじゅ)の世界の松島はとんと見当たらない。大小八百どころか、どこかに影を収めたか、これではただの八つもあるまいと疑われるほどに、島は厄介者にされて、ただ水のみ広く幅をきかしている。

しかし、いわゆる風と波とに送られて遠く湾の中央まで出てみたら、見えなんだ島も走馬灯のようにグルリグルリと旋転して、美しい姿を視界に現(あらわ)し来るかもしらんと自ら慰(なぐさ)めた。

南北十七マイル、周囲五十海里(マイル)のリオ・デ・ジャネイロ湾の狭いひょうたん形をした入口の左岸十五海里(マイル)ほどの海岸沿いに、わがリオ市の市街地ができあがっている。

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