ジョン・マクレガー著
現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第5回)
帆を揚げて進んでいくと、だんだん川幅が広くなり、川の水も塩からくなってきた。ぼくはこの界隈の地形についてはよく知っていた。以前、ケント号という小さなかわいいヨットに犬を一匹乗せ、海図に方位磁石とヤカン一個を積んで、テムズ川の河口付近を二週間ほど航海したことがあったのだ。
蒸気船のアレクサンドラ号がやってきた。階段状になったアメリカ式の高いデッキには大勢の人々がいて、この小さなカヌーに歓声をあげてくれた。ぼくらの航海が新聞に掲載されていたのだ。もうここまで来ると、両岸は遠くかすんだ青色になり、川というよりは海という感じになってきた。ノールまで来ると、イルカの大群に遭遇した。悪さをするわけではなく、すばしっこく動きまわる愉快な連中だ。これまでイルカがこれほど近くに寄ってきたことはなかった。カヌーがあまりにも小さいので、シャイで利口なイルカたちにとっても、それほど警戒すべき相手とは見えないのだろう。カヌーは波を乗りこえるたびに揺れたし、イルカたちはパドルが届きそうなところまで何度も近寄ってきたが、追い払ったりはしなかった。連中に尾で一撃されれば、こっちの方がすぐにひっくり返ってしまうからだ。
サウスエンドまで快適なセーリングだった。それから豪雨になったので帆をおろし、シューバーイネスまでパドルを漕いだ。砲兵隊の野営地に数日滞在する予定にしていた。第一回の射撃競技のために全国各地から集結しているのだった。
英国陸軍砲兵隊は、ぼくらのようなこのイベントの志願兵を丁重に遇してくれた。将校の四分の一が砲兵隊の全国会議に出かけていて留守だったので、余計な気を使わずにすんだ。とはいえ、この野営地は低湿地に作られていて、あちこちぬかるんでいた。ヨークシャーやサマセットやアバディーンなどからやって来た、六十八ポンド砲を扱う頑健で背の高い男たちも、ぬかるみで苦労していた。彼らは分厚いブーツをはき、ユーモアもあった。小雨が降り続くなか、キャンプファイアを取り囲んで歌をうたったりした。翌日は標的に向けて砲撃した。彼らは正真正銘の志願兵だった。
風がちょっとした嵐くらいに強くなってきたので、荒れた海域でカヌーの耐航性を徹底的にためしてみる絶好の機会のように思えた。ひっくりかえって岸に打ち上げられでもしたらカヌーは損傷するだろうし、ぼくも泳いだ上に服も着替えなければならなくなるだろう。
このロブ・ロイ・カヌーの浮力には、あらためて驚かされた。安定性が失われることもなかった。波と波の合間に、マストを立てて帆を揚げることもできた。この実験ではカヌーに荷物を積まなかったので、びしょ濡れになってもまるで気にならなかった。あらゆることを試し、あれこれやってみて、これなら大丈夫だと確信が持てた。
翌朝早く、出発した。向かい風だったので、サウスエンドまで大荒れの海でパドルを漕いた。着いてから服を乾かしたが、乾くまで水浴びを楽しんだ。水温はぬるかった。そこでカヌーを汽車に積みこみ、サウスエンドの埠頭からは列車の旅となったのだった。
テムズ川では、新しいのや古いの、豪華なものなど、いろんな種類の船を目撃することができるが、ぼくらのカヌーは驚くほど人々の興味と好奇心をかき立てた。その理由については特定できない。海に出ていく船としてはあまりに小さいことに驚く人々もいたし、パドルの漕ぎ方が従来の方法とは違っているので、それにびっくりする人もいた。帆を揚げていると、多くの人が面白がってくれた。ロブ・ロイ・カヌーの優美な形が気に入ったという人もいれば、ヒマラヤスギを張ったデッキや小粋な旗に感心する人もいた。多くの人は船長たるぼくの服装をじっと見つめ、「どこへ行くんだい?」と聞き、その後でもまだ、こっちをじっと見つめていたりしていた。ぼくもたいてい「本当のところ、自分でもよくわからないんですよ」と答えたりした。