オープン・ボート 13

スティーヴン・クレイン著

VI

「もしも俺がおぼれるとして――おぼれて死ぬかもしれないが――おぼれ死ぬとして、海を支配している七人の神様の名にかけて、俺はなぜこんな遠くまでやってきて、砂浜や木々をながめさせられているのだろうか?」

この暗く憂鬱な夜には、理不尽なほど不当であるとはいえ、本当に自分をおぼれさせようとするのが七人の神の真意なのだと思ったとしてもやむをえまい。懸命に努力し生きてきた者をおぼれさせるのは、たしかに理不尽きわまりない不当な行為だ。これは自然の摂理にそむく犯罪だと、彼は感じた。装飾した帆を持つ数多くのガレー船が出現して以来、これまでも他に大勢の人間が海でおぼれてはいるのだが、とはいえ――

自然というやつは、俺が溺死したとしても、たいしたことはないとみなし、俺みたいな人間を消したところで世界の完全性がそこなわれるわけではない感じているのだと思うと、彼はまず石でも拾って神殿に投げつけたいと思ったが、そういう石ころも神殿も周囲に存在していないので、くやしくて歯ぎしりしたいほどだった。母なる自然というものが目に見える形で近くに存在していれば、彼はそいつに向かって罵詈雑言の限りをつくしたことだろう。

自分の感情を吐露する目に見える対象がないのであれば、それを象徴するものに向かって膝まづき、両手をあわせ、「おっしゃるとおりです。でも、俺はまだ死にたくないんですよ」と命ごいすらしたかもしれない。

冬の夜、高い位置で冷たく光っている星は、自然が自分に向かって語りかける言葉だと、彼は感じた。そうして自分のおかれている絶望的な状況に思いいたるのだった。

ボートに乗った男たちは、こうした問題を実際に口に出して論じたりはしなかったが、疑いもなく、それぞれが黙ったまま自分の心に問うていた。疲れきった様子を示していたが、それを別にすれば彼らはめったに感情をあらわさなかった。会話はボートの操船に関することだけだった。

感情が音楽で示されるように、不思議なことに、ある詩がふいに記者の脳裏によみがえった。その詩を忘れていたことすら忘れていたが、いきなり心に浮かんできた。

外人部隊の兵士が一人、アルジェで倒れて死にかけていた。看護してくれる女はいないし、涙を流してくれる女もいなかった。だが、戦友の一人がそばに立っている。兵士はその手を握り、こういった。「自分は二度と祖国を、母国を見ることはないんだろうな」と。

彼は子供の頃、この外人部隊の兵士がアルジェで死にかけているという詩*1はよく知っていた。が、そこに描かれていることが重要だと思ったこともなかった。食事のときに、おおぜいの学友がその兵士の苦しみについて説明してくれたが、逆に彼はまったく関心がなくなってしまった。外人部隊の兵士がアルジェで重傷を負って死にかけているという出来事が自分の身に起きるとは思えなかったし、それが悲しいことだとも感じなかった。鉛筆の芯が折れたほども共感しなかった。

だが、不思議なことに、いまになって、それが人間として、生きている人間の問題としてよみがえってきた。その話はもはや、暖炉で暖をとりながらお茶を飲んでいる詩人が頭の中でつむいだ絵空事ではなくて、現実として、――過酷で悲しく、美しくもある現実として感じられたのだった。


脚注
*1:イギリスの社会改革家で著作家のキャロラインE.S.ノートン(1808年~1877年)による『ビンゲン・オン・ザ・ライン』という詩集に収録された詩の一節。
この兵士はドイツのビンゲン・アム・ラインの出身で、アルジェリアでの戦闘に外人部隊として参加し、瀕死の重傷を負ったとされる。

オープン・ボート 12

スティーヴン・クレイン

記者は漕ぎながら、足元で眠っている男二人を見おろした。料理長の腕は機関士の肩にまわされていた。服はやぶけ、疲れ切った顔をしていて、海に迷いこんだ二人の赤ん坊といった風だった。昔話にあった森に迷いこみ抱きあって死んでいたという赤ん坊を、奇怪な姿で再現したみたいな感じだ。

そのうち、彼はほとんど意識もなく漕いでいたに違いない。というのも、いきなり、うなるような波の音が聞こえたと思ったら、波がしらが音をたててボートに崩れ落ちたのだ。救命帯をまきつけた料理人が浮いて流されなかったのが不思議なくらいだった。料理長はそのまま眠っていたが、機関士は上体を起こし、目をぱちくりさせ、新たな寒さに震えていた。

「すまん、ビリー」と、記者は申し訳なさそうにいった。

「いいってことよ、坊や」というと、機関士はまた横になって眠った。

そのうち、船長もうとうとしているように思えた。大海原で、自分ひとりが漂流しているみたいだと、記者は思った。波の上を吹きすさぶ風の声は、なんともみじめな感じをいだかせた。

ボートの後方で、ヒューっと長くつづく音がした。黒い海で、夜光虫の放つ光が溝のように青い炎の航跡となってきらめいている。巨大なナイフで刻んだようだった。

それから静寂があった。記者は口を開けて息をし、海をながめた。

とつぜん、また別の風を切る音が聞こえたと思うと、さっきとは別の青みがかった光がさっと走った。今度はボートと並行に、オールを伸ばせば届きそうなくらいの近さだった。記者は巨大な影のようなひれが、透明感のある水しぶきをあげて海面を切り裂き、きらきら光る長い航跡を残していったのを見た。

彼は肩ごしに船長を見た。顔は隠れていたが、眠っているようだった。海の赤ん坊二人を見た。彼らも眠っているようだった。感情をわかちあう者が誰もいないので、記者は片側に少し体を寄せて海に向かって小さな声で毒づいた。

だが、そいつはボートの近くから離れなかった。船首や船尾にあらわれたかと思うと、右舷や左舷に出没し、その間隔も長かったり短かかったりしたが、きらきらと光る筋がさっと長く走り抜け、黒っぽいひれの風を切るヒューという音が聞こえた。そのスピードとパワーは感嘆すべきものだった。海面を、巨大な鋭い弾丸のように切り裂いていく。

じっと何かを待っているこいつの存在は、遊んでいるときに出会ってしまった人ほどの恐怖を彼には与えなかった。彼はただ海をぼんやり見つめ、低い声で毒づいただけだ。

とはいえ、本音では、こいつと一人で対峙するのは嫌だった。だれか仲間の一人が何かのはずみに目を覚まして、一緒に見守っていてほしかった。だが、船長は水がめにもたれかかって身動き一つしないし、機関士と料理長は舟底で爆睡しているのだった。

オープン・ボート 11

スティーヴン・クレイン

V

「パイだと」と、機関士と記者が怒ったようにいった。「そんな話するなよ、馬鹿野郎!」

「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えていたんだ。そしたら――」

海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。とうとう完全な闇が訪れ、南の海から射していた光が黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。

ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っていた。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足まで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力したが、ときどき波がボートにどっと入りこんだ。夜の、氷のように冷たい波だ。彼らはまたしても冷たい水でびしょぬれになった。彼らは一瞬、体をひねってうめき、また死んだように眠りこんだ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てていた。

機関士と記者の計画では、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。

機関士は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼んだ。「ちょっと交代してくれないか?」と静かにいった。

「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移った。二人は慎重に場所を入れ替わった。機関士は料理人に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。

海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。

記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」

船長はいつもの落ち着いた声で答えた。「そうだ。左舷から二点(22.5度)ほど離しておけ」

料理人は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけていた。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると、すぐに寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理人はストーブのように暖かかった。

オープン・ボート 10

スティーヴン・クレイン

低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。

「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」

「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」

 岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。

音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞った。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。

「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」

「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」

「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」

 そうこうしている間も、機関士はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関士が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前屈みになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。

「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」

忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる連中にときおり意識して声をかけていた。

「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」 その声は疲れていて低かった。

本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。漕ぎ手はといえば、ときどき波頭を抑えつけられるようなうなり音が聞こえる以外には、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。

料理長は頭を漕ぎ座に載せていたが、眼下の海水を興味もなく見つめていた。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」