スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (38)

オアーズ川を下る: コンピエーニュまで

晴れの日が少なくて雨天と晴天の区別がつきにくいスコットランドのハイランド地方はともかくとして、どんなにがまん強い人でも、道中ずっと雨に濡れ続けていれば、しまいにはうんざりするものだ。ノアイヨンを出た日のぼくらがそうだった。このときの航海のことは他に何もおぼえていない。どこまでも土手と岸辺の柳と雨が続き、パンプレの小さな宿屋で昼食をとるまでずっと、雨は情け容赦なくたたきつけた。このあたりでは川と運河はすぐ近くを流れていた。ぼくらはびしょぬれになっていたので、女将が暖をとれるように暖炉の薪に火をつけてくれた。ぼくらは座って体から湯気を立ち上らせながら、ついてないとぐちをこぼしあった。亭主は獲物袋を手に狩りに出かけていった。女将の方は部屋の反対側の隅にいて、ぼくらを眺めている。ぼくらは珍客だったのだろう。ぼくと相棒はラフェールでの災難についてぐちを述べては、ラフェールであったようなことはこれからも起きるだろうと予測した。シガレット号の相棒の方がぼくより自信に満ちていたので、宿の交渉などは彼が担当したほうがうまくいった。何も気づかない風に、なれなれしい様子で話をするので、女将がうさんくさいゴム製のバッグを気にすることもなかった。ぼくらの会話は、ラフェールのことから予備兵の話になった。

「予備兵って」と、彼はいった。「せっかくの秋の休日に、それで駆り出されるのはきついよな」

「カヌーの旅も同じようなもんだろ」と、ぼくは異議をとなえる。

「あんたたち、好きでこんな旅をしてるの?」と女将が聞いたが、皮肉のように聞こえたとは気づいていなかった。

もう十分だ。目からうろこが落ちるとは、このことだ。こんど雨が降ったら、汽車でカヌーを運んでしまおう。

すると、天気の方でもぼくらの気持ちを察したらしく、それからは雨が降ることもなかった。午後になると晴れ間も出てきた。空には巨大な雲がまだ浮かんでいたが、いまではそれがちぎれて、あちこちに真っ青な空が見えている。そして、すばらしいバラ色と金色に輝く夕陽や、星々で埋めつくされた夜が訪れ、それからのひと月ほどは天気がくずれることもなかった。同時に、川からの眺めもよくなって田園風景が見えるようになった。土手は前ほど高くなくなり、柳の木も川岸からは見えなくなって、川沿いにずっと気持ちのよい丘陵地帯が続き、空に稜線をきざんでいた。

やがて運河で最後の水門になり、荷船が次々にオアーズ川に入ってきた。これでまた道中がにぎやかになった。前に一緒だったことのあるコンデの『デオ・グラシアス』号や『エイモンの四人の息子』号と一緒に、ぼくらはにぎやかに川を下っていった。ぼくらは川をこぎ下りながら、積んだ丸太の間にいる操舵手や、川沿いの道を進みながら馬にどなっている御者たちと冗談をいいあったりした。子供たちも舷側にやってきて、ぼくらがこぎ下るのをみつめている。それまで、こういう船の厨房から立ち上る煙をなつかしいとは思わなかったのだが、またこうして煙を眺める機会ができると、なんだか元気がわいてきた。

合流部をすぎてまもなく、もっと大きな別の出会いがあった。はるばる遠くから流れてきてシャンパーニュを出たばかりのエーヌ川と合流したのだ。ここでオアーズ川の青春時代が終わり、他の川と合流して結婚し、水量もぐっと増して大河の様相を帯びてくる。さまざまな堰堤も作られていた。川は風景に溶けこんで穏やかに流れていった。木々や街並みが鏡のように川面に映った。川幅も広く、カヌーを軽々と運んでいく。渦をかわすために必死にこぐ必要がなくなったが、それはつまり何もすることがないということでもあった。頭で対策を考えたり汗をかいたりすることもなく、ただ左右片舷ずつ順にこいでいくだけだ。天候はまったく穏やかで、紳士のように堂々と海に向かって流れていった。

日が沈むまでに、コンピエーニュまで進んだ。川沿いにあって、印象的な街並みだった。橋の上では連隊が太鼓にあわせて行進していた。岸壁にはぶらぶらしている人々がいて、釣りをしたり、所在なく流れを見つめたりしていた。そこへぼくらが二隻のカヌーでやってきたものだから、彼らはぼくらを指さして互いに何か言ったりした。ぼくらは川に浮かんでいる洗濯場に舟をつけて上陸した。そこでは、洗濯女たちが服をたたいて洗っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (37)

 

午後、ホテルの外に座っていると、うめいているようにも聞こえるオルガンの甘く荘厳な響きが聞こえてきて、教会から呼び出しを受けたような気がした。ぼくは観劇は大好きだし、芝居の一幕か二幕を見るのもいやではなかったが、そのときに実際に見た儀式がどういう性質のものだったのかについては、いまでもよくわからない。教会に入ってみると、四、五人の司祭と数多くの聖歌隊の少年たちが祭壇の前でミゼレーレ(神よ、われを憐れみたまえ)*1を歌っていた。何かの集会というわけではなさそうだったが、数人の老婦人が椅子にすわり、年老いた男たちは床にひざまずいていた。しばらくすると、黒い服に白いベールをつけた少女たちが、火をともしたローソクを手に、二人ずつ祭壇の背後からぞろぞろと歩いて登場し、そのまま会衆席の方へと降りてきた。最初の四人は聖母マリアと幼児のキリスト像の卓を運んでいる。司祭と聖歌隊も立ち上がり、アベマリアを唱えながら、その後に従った。彼らはこの順序で大聖堂の周囲をまわり、柱にもたれていたイギリス人、つまりぼくの前を二度通過した。一番偉いように思えた司祭は奇妙な老人で、ずっとうつむいていた。口をもごもごさせて祈りを唱えていたものの、薄暗がりでこっちを見上げた顔は祈りに集中している風にも見えなかった。ちゃんと歌っていた他の二人はがっしりした四十男で、いかめしい軍人のようにも見えたし、押しが強そうで、食べすぎたときのような目をしていた。彼らは元気よくアベマリアを軍歌のように輪唱した。少女たちはひかえめで、きまじめな表情を浮かべていた。ゆっくり通路を上がってきながら、彼女たちは一人一人、余所者であるぼくをちらちら見ていった。少女の一団を率いていた大柄な修道女は不満げな様子でこっちをにらんでいる。聖歌隊の少年たちについては最初から最後まで悪ガキといった感じで、ふざけたしぐさをしたりして、この儀式を台なしにしていた。

何の儀式かわからなかったものの、行われていた儀式の精神については、ほとんど理解したと思う。実際にミゼレーレを聞けばわかると思うが、これは無神論者の作曲したものだろう。暗く落ちこむのが善であるのなら、ミゼレーレはまさにそれにふさわしい音楽だし、大聖堂もそれにふさわしい。そこまでは、ぼくもカトリック教徒と同意見だ、――というか、カトリックというのは普遍的という意味だが、この言葉を使うのは奇妙な気がしないでもない。とはいえ、一体全体、さっきの聖歌隊の連中は何なのだろう? 司祭たちは祈っているふりをしながら、なぜ礼拝に来ている信徒たちを盗み見たりするのだろう? 少女たちに強引な指導を与えていた太った修道女は、なぜ列を乱した少女の肘をつかんで揺さぶったりしたのだろう? つばをはいたり、鼻をすすったり、鍵を忘れたりと、聖歌やオルガンの音色でやっと静まった心をまたかき乱すような、いろんなごたごたはどういうことなのだろう? どんな芝居小屋でもよいが、教会の人たちもそういうところを見学してみれば、細部まできちんと詰めておくことで全体が成り立つという意味がわかるのではなかろうか。感情をいかに高めていくかについても、端役にいたるまでしっかりと訓練し、椅子なんかも所定の場所にちゃんと並べておくといったことが必要なのだ、と。

それ以外に、ひとつ、ぼくを悩ませたことがある。ぼくは野外で結構な運動をしているので、神よ、われを憐れみたまえという悲哀感に満ちたミゼレーレを聞かされても耐えられるが、年老いた人たちにはどうだろうか。年齢を重ねた人々は自分の人生における荒波のほとんどをくぐり抜けてきているのだし、人生における悲劇的な出来事についても自分なりの見解を持っていて、そういう人々にふさわしい種類の音楽ではないし崇高というわけでもない。年老いた人々は一般に自分自身のためにミゼレーレを歌うことができるが、そういう人たちでも多くは、自己憐憫の歌よりは、神をたたえる歌の方が好きだと思う。老人にとって最も宗教的な行為は、おそらく自分自身の体験を思い出すことではなかろうか。どれほど多くの友人が死んだか、どれほど多くの希望が失われたか、どれほど多く滑ったり転んだりしたか、そしてどれほど多くの光り輝く日々や喜びに神の導きがあったかということで、こうしたことすべてに、とても説得力のある教訓が確実に含まれているのではあるまいか。

つまり、結局のところ、ぼくはこの荘厳な儀式に心を打たれたのではあった。ぼくらの欧州紀行の全体を示すささやかな絵地図には、これはぼくの頭の中で描いたもので、ときどき思い出して楽しんだりするのだが、その空想の地図では、ノアイヨン大聖堂はいびつなぐらい大きな位置を占めていて、一つの県ほどの大きさでなければならない。ぼくは今も司祭たちがすぐ近くにいるみたいに顔を思い出すことができるし、アベマリアや「われらのために祈りたまえ」などの歌が教会から響いてくるのが聞こえたりもする。ノアイヨンでの他の出来事はすべて、こうしたすばらしい記憶のために消し去られ、ぼくはこの場所について、これ以上書くつもりはない。この町は茶色の屋根の積み重なったところにすぎなくて、人々は静かに当たり前の暮らしをしている。ところが、太陽が低くなると教会の影がさし、五つの鐘の音があたり一帯に鳴り響き、オルガンの演奏が開始されることを告げるのだ。仮にぼくがカトリック教徒になるようなことがあれば、オアーズ河畔にあるノアイヨン教会の司祭になることを条件にしたいくらいだ。

 

脚注
*1: ミゼレーレ - 聖書の詩編51に基づく宗教曲。ルネサンス音楽のポリフォニー(多声音楽)で、厳密には複数の版がある。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (36)

ノアイヨン大聖堂

ノアイヨンは川から一マイルほど離れた、木々の生い茂る丘に囲まれた狭い土地にあり、町全体に瓦屋根の家々が密集し、その先に二つの高い塔を持つ大聖堂がそびえていた。町に入ると、瓦屋根はごちゃごちゃ重なりあって坂を登っていたが、そうした家々は、群を抜いて高くそびえている荘厳な大聖堂の膝にまでも達していなかった。大聖堂はすべてを圧倒して屹立していた。町役場のそばの商店街を抜け、この町を支配しているといった大聖堂に近づいていくにつれて、人通りもまばらになり落ち着いた感じになった。この大建築物に向いている壁には窓がなかったり、窓があっても閉ざされており、聖堂へと続く白い道には草が茂っていた。「ここは聖なる地、靴を脱ぎたまえ」というわけだ。とはいえ、オテル・デュ・ノルドという宿は、この教会の近くで看板を掲げていた。ぼくらの寝室の窓からは午前中ずっと目の前にすばらしい東面が見えていた*1。ぼくは大聖堂の東面、つまり礼拝堂の正面を、これほど共感を持って眺めたことはなかった。三つの広いテラスが伸びて地面に達しているので、昔の立派な軍艦の船尾楼のように見えた。内側がえぐられている控え壁に置かれている花瓶は船尾灯のようだった。地面には起伏があり、大西洋を航海する船が大洋のうねりでゆるやかに船首を下げるように、塔は家々の屋根の勾配の上に見えていた。次のうねりを乗り切れば百フィート先まで進んでいてもおかしくない感じだった。ふいに窓が開いて老提督が三角帽をかぶった頭をのぞかせて天測を行ってもおかしくなかった。そういう老提督たちはもはや航海してはいない。古い軍艦はすべて解体され、絵画の中でだけ命脈を保っているだけだ。この教会は軍艦などより古くから存在していたし、現在も教会として存続しており、オアーズ川からもその偉容が望まれた。大聖堂と川の二つが、この近郊ではおそらく最古のものであり、どちらも古いすばらしい時代を経ているのだった。

教会で聖具を保管する係の人がぼくらを塔の一つの最上階に連れていって、天井から吊してある五つの鐘を見せてくれた。高所から眺めると、町全体が屋根と庭園の寄せ木細工でできた舗道のようだった。古い城壁もはっきり確認したどることができた。係の人は、平原のずっと向こう、二つの雲にはさまれた明るい空のところにクーシ城が見えていると教えてくれた。

立派な教会というものは見飽きることがない。山岳風景を見ているようで、ぼくは好きだ。大聖堂の建築をめざしたときほど、人間が幸福な意欲に満ちあふれたときはないだろう。一瞥しただけでは一つの巨大な像のようにも思えるが、じっくり眺めていると、森のように、細部にわたって興味深いものがひそんでいる。尖塔の高さは単に三角法で決定できるものではない。実際に測定してみれば意外に小さかったりもするのだろうが、それにあこがれている者の目には何とも高く見えるものなのだ! エレガントでバランスのとれた細部が集合し、それぞれが互いにバランスを保ちながら拡大していき、全体として一つのまとまったものになっているため、均衡ということを超越した、何か別の、もっと堂々とした存在になっている。大聖堂で説教するために人がどれほど声を張り上げなければならないか、ぼくにはわからない。が、何を説いても、大聖堂に見合うものにはならないのではないだろうか? ぼくはこれまでさまざまな説教を聞いてきたが、こうした大聖堂に見合うほど意味のあるものを聞いたことはない。「教会自体が説教者そのものであり、昼も夜も説教をしている」のだった。過去における人間の芸術や願望について教えるだけでなく、聞き手の心に激しい共感をもたらすものでもあって、あらゆる立派な説教者のように、聞く者自身が教えを説くようになる――そうして、人はすべて最後の段階では、自分自身が自分の神性について処方するしかないのだ、と。


脚注
*1: 教会の東面 - 礼拝堂の正面を指すが、実際に向いている方向が東とは限らない。キリスト教の聖地はエルサレムであり、ヨーロッパにおいては常に東にあるためとされる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (35)

オアーズ川の黄金の谷をめぐる

ラフェールをすぎると、川は開けた牧草地を縫って流れていた。緑豊かな、畜産の盛んなところで、黄金の谷と呼ばれている。川幅が広く流れは急だが、安定した絶え間ない流れが緑の沃野を作りあげている。牛や馬や小さくユーモラスなロバたちが一緒になって草を食べていたり、群れで川岸までやってきて水を飲んだりしている。こういう家畜がいると風景が違って見える。とくに驚いたりするとそうだが、それぞれがバラバラに駆け出したり右往左往したりするのだ。柵などないまったくない大平原を放浪する民族と共にさまよっている家畜の群れといった感じだろうか。両岸から遠くはなれて丘陵が見え、川はクーシーやサンゴバンの木々が生い茂る堤と接して流れていたりした。

ラフェールでは砲撃訓練が行われていたが、まもなく上空でも雲のせめぎあいがはじまった。巨大な二つの雲塊がぶつかり、ぼくらの頭上で一斉砲火しあう。一方、見渡す限りの地平線に日射しが差しこみ、澄み切った空気を通して、くっきりと丘陵が見えている。銃声や砲声がひびくたびに、黄金の谷の家畜の群れ全体が驚いていた。牛や馬は頭を上げて右往左往し、方向が決まると一目散に走り出すのだが、まず馬が突っ走り、それをロバが追い、その後に牛が続いた。草原でのこの集団の蹄の音は、川の上にいるぼくらのところまで聞こえてきた。騎馬隊が突進するときのような音だ。そんなこんなで、耳に聞こえる限りでは、ぼくらを楽しませるために戦闘訓練が行われているようだった。

しばらくすると銃声や砲声も聞こえなくなった。陽光をあびた雨上がりの草原がきらきら輝き、大気にはまた木々や草の息吹が感じられるようになり、川はその間も変わらず快調に流れてぼくらを運んでくれるのだった。ショニーの近くは工場地帯になっていた。そこから先は川の土手が急に高くなって、周囲の牧歌的風景は消え、土壁のような土手と柳の木しか見えなくなった。ときどき村を通過したり、フェリーとすれ違ったりした。また土手で遊んでいる子供がいて、ぼくらが川の湾曲部を曲がってしまうまでじっと見つめていたりした。しばらくはあの子供の夢に、カヌーを漕いでいるぼくらの姿が出てきたりするのではなかろうか。

晴れ間と雨降りが朝と夜のように交互に繰り返され、そうした変化のため時間は実際より長く感じられた。雨がひどくなるとジャージの下の体まで濡れてくるのがわかったが、そうした冷たさがいつまでも続くので、ぼくはがまんできなくなった。ノアイヨンに着いたら絶対にマッキントッシュの雨具を買うぞと心に決めた。濡れること自体はどうということもないのが、冷たいしずくで体のあちこちがひやっとするたびに、ぼくは狂ったようにパドルで水をかいた。シガレット号の相棒はぼくのこうした反応をとてもおもしろがっていた。土手や柳以外に見物するものができたというわけだ。

川は直線のところでは泥棒が一目散に逃げるようにまっすぐ走り、湾曲部では渦を巻いて流れた。柳の枝は風にそよぎ、その根元の土は朝から晩までずっと流れている川に削られ、崩れていく。オアーズ川は何世紀もの間、こうやって黄金の谷を形成してきたのだが、考えを変えたとでもいうように、流れる方向を変化させたりもしているのだった。余計なことを考えずただ重力に従っているだけとはいえ、川というものは、なんと多くの役割を果たしていることだろう!