スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (25)

ぼくらがカヌーを一晩預けることになった人については、ここではカーニバルと呼ぶことにする。正確な名前をよく聞きとれなかったし、そう褒めている内容でもないので、その人にとってもその方がよいかもしれない。その日、ぼくらがぶらぶら歩いてその人の屋敷まで行ってみると、カヌーを食い入るように眺めている一団がいた。一人は川の知識が豊富な大男の紳士で、教え魔の人だった。黒いコートを着たとてもおしゃれな若い紳士もいて、英語が少ししゃべれたので、すぐにオックスフォードとケンブリッジのボート競走の話をしたがった。若くてきれいな十五から二十歳くらいの娘三人と、シャツ姿の老紳士もいた。老人には歯がなく、きつい訛りがあった。オリニーの典型的な人たちだったと思う。

シガレット号の相棒は馬車置き場で、索具の面倒な調整みたいなことをやっていた。それで、ぼくが一人でその人々の相手をするはめになった。すると、事実はどうあれ、ぼくは英雄に祭り上げられてしまった。航海で怖い目にあったことを話すと、娘たちはおおげさに体をふるわせた。そういう反応はもっと聞きたいということだろうと思ったので、さりげなく川に落ちた顛末を口にすると、ちょっとしたパニックを引き起こした。シェイクスピアのオセロさながらだ。ただし、妻のデスデモーナが三人もいて、共感を寄せている元老院議員たる父親もその背後に何人かいるという状態だ。ぼくらのカヌーがこれほどほめちぎられたことはなかった。しかもほめかたがとても洗練されていた。

「バイオリンみたい」と、娘の一人がうっとりしていった。
「ありがとうございます、お嬢さん」とぼくはいった。「棺桶みたいだっていった人もいたので、よけいにうれしいです」
「まあ! でも、ほんとにバイオリンみたい。仕上げもバイオリンみたいだし」と彼女はつづけた。
「バイオリンのようにピカピカだ」と、元老院議員の一人がつけ加える。
「あとは弦を張るだけ」と、別の男がいった。「で、ポロン、ポロンとね」とバイオリンの音色を口まねした。

これは洗練された、ちょっとした拍手喝采ということではないだろうか? フランス人はどこで、こんなすてきな会話の秘訣を覚えてくるの、ぼくにはわからない。秘訣といっても、心から喜ばせようという気持ちだけなのだろうか? フランスでは物事についてうまい表現を口にしたからといって、それで馬鹿にされることはない。ところが、ぼくらのイギリスときたら、本に書いてあるような言い方をすると、冷笑が返ってきてしまう。

シャツを着た老紳士は馬車置き場にそっと入り、シガレット号の相棒に、自分はあの三人の娘の父親で、子供がもう四人いると唐突にいった。フランス人にしては子だくさんだ。

「とてもお幸せですね」と、シガレット号の相棒が丁重に応じた。

老紳士は明らかに満足したらしく、またそっと出て行った。

ぼくらは皆、とても仲良くなった。娘たちは、翌日さしつかえなければ、ぼくらと一緒に出かけたいとさえいってくれた! 冗談ではなく、全員がぼくらが出発する時間を知りたがった。足場の悪いところでカヌーに乗りこむ際には、仲良くなったとはいえ、その様子を人に見られるのはあまり好ましいことではない。それで、昼までは出発しませんよといったが、内心では、遅くとも十時には出発しようと思っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (24)

オリニー・サント・ブノワット

休日

翌日は日曜で、教会の鐘は休む間もなく鳴っていた。僕の知る限り、この土地ほど信心深い人々が好きなときに礼拝式に出かけられる場所は他にない。明るい日射しを受けて鐘の音が陽気に響きわたり、男連中は犬を連れてビート畑や菜種畑での猟に出かけていった。

朝、露天商とその女房が、非常にゆっくりとした悲しい歌「おお、フランス、愛する祖国」を口ずさみながら通りを歩いて行った。すると、だれもが表に出てきた。ぼくらが泊まっている宿屋のおかみさんが男を呼びとめ、その歌が載っている小冊子を買おうとしたが、もう一冊も残っていなかった。その歌に惹かれたのは彼女一人ではなかったのだ。普仏戦争*1の後、ドイツに敗れたフランスの人々がもの悲しい愛国調の歌を好きになったのには、何か痛ましいものが感じられた。フォンテーヌブローの近くで行われた洗礼式で、だれかが「フランスの悲哀」という歌をうたっていたが、そのとき、ぼくはアルザスから来ていた森林労働者を見たことがある。その男はテーブルから立ち上がると、息子を脇へつれていった。そこはぼくの立っているところから近かったのだが、「聞くんだ、よく聞いておくんだぞ」と、彼は息子の肩に手をのせていった。「しっかりおぼえておくんだ」。それから少しして、彼はふいに庭に出て行った。暗闇でその男のすすり泣くのが聞こえた。

敗戦とアルザスやロレーヌ地方を失った屈辱は、この感受性の強い国民には耐えがたいものだった。ドイツに対してというより、国民には、皇帝ナポレオン三世に対する反感の方が根強く残っていた。愛国の歌がうたわれたからといって、いったい他のどの国で、それを聞いた者がみな通りに出てきたりするだろうか? とはいえ、試練は愛を強くするもので、ぼくら英国人もインドを失うまで、自分は英国人であると自覚することはあるまい。アメリカの独立はいまでも、ぼくにとって十字架となっている。嫌悪感を抱かずにジョージ・ワシントンのことを考えることはできないし、星条旗を見ると、ぼくらの帝国がなりえたはずの国家を思い浮かべ、祖国に対する懐旧の情がわき出てくるのだ。

ぼくがその露天商から買い求めた小冊子には、いろんなものが奇妙なくらいごちゃまぜになっていた。パリのミュージックホールの軽薄で下品なナンセンスがあるかと思えば、詩歌という感じではない牧歌的な作品もたくさん載っていて、フランスの下層階級が持っている自立の気概に満ちてもいた。きこりが自分の斧をいかに誇りに思っているかとか、庭師が自分の鋤を少しも恥ずかしいとは思っていないといった内容だ。うまく書けているわけではないが、こうした労働をうたった詩歌は、そこにこめられた感情が表現の弱さや冗長さをおぎなっている。一方、勇ましく愛国心にあふれた作品は涙をそそるものばかりで、どれもこれもめめしかった。ローマ時代のカウディウムの戦いが終わった故事にならい、その詩の作者は名高い古戦場を銃を逆さにして訪れた軍隊について、その勝利ではなく死を悼んで歌っていた。その小冊子には「フランスの徴集兵」と呼ばれる作品もあった。これは文字になったもののうちではとびきりの厭戦歌かもしれない。こんな精神状態では、戦うなんて、とてもできないだろう。こんな歌がいよいよ戦闘だという朝に流たりしたら、どんなに勇敢な徴集兵でも青ざめてしまうし、連隊全体がその調子にあわせて戦闘を放棄してしまうことだろう。

スコットランドの作家で政治家でソルトーンのフレッチャーがその国の歌謡が持つ影響について述べたことが正しければ、フランスはひどいことになってしまったといえるだろう。しかし、物事というのはみずからそれを癒やしていくもので、健全な心を持ち勇気ある国民は、自国の災難について、めそめそ泣いてばかりいることにやがて飽きてしまう。ポール・デルレードがすでに多くの勇ましい軍の詩をいくつか書いている。そこには、トランペットを吹き鳴らし、人の心に訴えるようなものはあまりない。彼の作品は叙情的な高揚感に欠けるし、激しい動きもないが、荘重かつ高潔で、冷静な精神につらぬかれていて、兵士たちを奮い立たせるはずのものだ。デルレードには、どこか、この人は信頼できると思わせるものがある。もし彼の詩が、自分たちの将来を信じることができるほどにフランスの同胞を鼓舞できるのであれば、それはそれで幸せなことではあるだろう。さらにいうと、彼の詩は「フランスの徴集兵」や他の悲哀をかこつだけの作品に対する解毒剤にもなっている。

[脚注]
*1: 普仏戦争(1870年~1871年)- ビスマルク率いるプロシア(現ドイツ)とナポレオン三世のフランスとの戦争。フランスは一方的に敗れ、多額の賠償金を支払うとともにアルザスやロレーヌ地方の大半をドイツに割譲せざるをえなかった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (23)

 

ついには鐘の音もとだえ、それにつれて日も陰ってきた。楽しいひとときは終わり、オアーズ川の渓谷を影と沈黙がおおった。ぼくらは立派な舞台を見終えて仕事に戻る観客のように、意気軒昂にパドルをこいだ。このあたりでは、川は前にもまして危険になっていた。流れはさらに急になり、いきなり渦が出現し、しかもさらに激しくなっていた。ぼくらは苦労しながら下っていった。引っかかりそうな簗が設置してあったり、浅いところや杭がたくさん打ってあるところもあって、舟を陸に揚げて迂回しなければならなかったりした。だが、一番やっかいだったのは、最近の強風がもたらしたものだった。二、三百ヤード進むごとに、倒木が川をふさぎ、その巻き添えになった他の木がからみあっていたりした。

多くは木の先端の方に通れるすき間があって、葉の茂った小さな岬をまわっていくと、川の水が小枝を吸いこんで泡立っていたりした。倒木が対岸まで達しているところも多かったが、体を低くすればカヌーに乗ったままその下を通り抜けられたりもしたしし、カヌーを木の幹の上に引き上げて超えざるをえないところもあった。それもできないほど流れが急なところでは、上陸してカヌーを「かついで」運んだ。ずっとこういった調子で気が抜けなかった。

そうやってカヌーをまた川に浮かべたが、ぼくの方が相棒よりずっと先になったところがあり、太陽や急流や教会の鐘の音のおかげで気分もよく、意気揚々と進んでいった。すると川は急カーブを描いて湾曲し、獣が咆哮するような音がとどろいていた。石を投げれば届く距離に、また倒木があるのに気づいたぼくは、すぐさま背板を倒し、木の幹が水面から離れていて、枝もあまり茂らず、その下をくぐれそうなところを目指した。世界と一体になった高揚感に満たされているときには、なかなか冷静な判断というものは下せないもので、この時のぼくの決断は、自分が幸運の星の下に生まれてこなかったということを示す、非常に重要な判断になったかもしれなかった。胸のところが木に引っかかってしまったのだ。なんとか自由の身になろうともがいたが、流れが速くて、ぼくの手にはおえず、舟を川に奪いとられてしまった。アレトゥサ号はぐるりと向きを変えて横向きになって傾き、舟に乗ったぼくの体を吐き出してしまったのだ。木の下で枝にぶつかって元に戻ったカヌーは、そのまま勢いよく下流へと流されていった。

しがみついていた木に必死でよじ登ったものの、それまでにどれくらいの時間がかかったのか、よくわからない。かなり時間がかかったと思う。ぼくはがっくり意気消沈していたが、パドルは離さなかった。なんとか体を肩のところまで倒木の上に引き上げようとするのだが、流れはぼくの足をつかんで引きずりこもうとするし、ズボンのポケットにオアーズ川の水ぜんぶが入っているんじゃないかと思うくらい体が重かった。川の流れがどれほど強いかは、実際にやってみないとわからない。死がすぐそこに迫っていた。ついに最後の待ち伏せで死神自身が乗り出して獲物を引きずりこもうとしているのだ。それでも、ぼくはパドルだけは離さなかった。ようやくの思いで上半身を倒木の上に引き上げると、息も絶え絶えで、びしょぬれのまま動けなかった。おかしくもあったし、なんでこんなはめになったんだという怒りの感情が入りまじっていた。丘の上で畑仕事をしている農夫には、ちっぽけで哀れな男に見えたことだろう。とはいえ、ぼくの手にはパドルが握られている。ぼくが自分の墓を作るときには「彼はパドルを離さなかった」と刻みたいくらいだ。

シガレット号は少し前に通過していった。というのも、ぼくが世界との一体感に満たされて舞い上がっていなければ、倒木のずっと先に通れるところがあるのに気づいていたはずだった。相棒はぼくを引き出してやろうかといってくれたが、ぼくはもう肘のところまで上半身を引き上げていたので、こっちはいいから、それよりアレトゥサ号を追ってくれよと先に進んでもらった。流れはとても急だったので、追いついて回収しても、カヌーに乗ったまま、もう一隻を曳航して川をさかのぼるなんて無理な話だった。それで、ぼくは倒木の幹をはうようにして岸までたどりつくと、川辺の牧草地を歩いていった。とても寒くて、心臓まで痛かった。葦がなぜあんなに激しく揺れていたのか、ようやく自分なりにわかった。ぼく自身が葦よりも激しく震えていたのだ。ぼくが近づいていくと、シガレット号の相棒は「運動」でもしてるのかと思ったと冗談ぽくいったが、ぼくが本当に寒くて震えているのだと、やっとわかってくれた。ぼくはタオルで体をこすりまくり、ゴム製の防水袋から乾いた服を出して着こんだ。だが、それからの航海は、それまでとはまったく違う気分になった。乾いた服を着るのもこれが最後だというような落ち着かない気分になっていた。今回の悪戦苦闘でぼくは疲れきっていて、自覚していたのかわからないが、気持ちの上でも落ちこんでしまっていた。世界の破滅的な要素が、この緑の渓谷の川の流れで加速され、いどみかかってきたのだった。鐘の音はずっと美しい響いていたが、そこに牧羊神のかなでるうつろな響きも聞きとれる気がした。この川は底意地悪くぼくの足をつかんで引きずりこもうとしたのか? それなのに、これほどまでに美しいのか? 結局のところ、自然の穏やかさを表面だけ見て信じてしまうと、とんでもないことになるわけだ。

その後も川は曲がりくねりながら、ずっと続いていた。すっかり暗くなって、ぼくらがオリニー・サント・ブノワットに着いたときには、夜の鐘が鳴っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (22)

 

カヌーは川に浮かぶ木の葉のようだった。流れにとらえられ、ゆさぶられて、半人半馬のケンタウルスに巧みに運ばれる妖精のように押し流されていく。方向を維持するため。パドルを必死にこがなければならない。川は海へ向かって大急ぎで流れていた! 水の一滴一滴が、驚いた群衆の中の人間のように、あわてふためいて流れていた。だが、こんなにも多くの群衆が一つの心で動ていくということがあるだろうか? 見えるものすべてが、飛びはねながら通りすぎていく。目と急流との競争だ。一瞬も気をゆるめることができず、ぼくらの体はよく調律された楽器のように震えた。けだるさなど吹き飛び、血流はとんでもないスピードで動脈から静脈へと、末端に至るまで全身を駆けめぐり、心臓に戻っては出ていく循環は、七十年も毎日コツコツ働いているそれではなく、休日に旅をするような心躍るものだった。葦は警告するように頭を振っていたが、びくびくしたように揺れることで、この川が強いこと、冷たいこと、しかもそれと同じほどにも残酷であり、柳の木にできている渦には死が待ち伏せていることを告げていた。だが、葦はその場から動くことはできない。じっと立っている者は、常に臆病な助言ばかりしたがる。ぼくらは逆に大声で歓声をあげたいくらいだった。この躍動している美しい川が本当に死を招く罠だというのなら、死という年老いた灰色のならず者は、ぼくらに裏をかかれたのだ。実際の一分間に、ぼくはその三倍も生きていた。パドルを一かきするごとに、川の湾曲部をまわるごとに、ぼくは死に対して生の充実という得点をあげていた。人生でこれほど心が高揚したことはない。

死という個人のささやかな戦いについては、こうした光に照らして考えることができると思う。自分が旅に出ていて、いずれ強盗に襲われるとわかっているとする。誰だって宿では最高のものを食べたり飲んだりするのではなかろうか。ただ泥棒に盗られるより、そうした無駄づかいした分だけ得をしたと思いたいからだ。無駄に散財するのと違って、自分の金を失うリスクもなく、利益が出るものに投資にする場合には特にそうだ。充実した生の一瞬一瞬が、特に健康によいというのであれば、すべてを奪っていく者である死に対して得点を重ねることになる。死に襲われて運ばれていくときに、手元の金は少ないかもしれないが、日々の充実という食べ物をたらふく食べて満腹になっているわけだ。急流には死がつきもので、毎年そうした罠にとらわれてしまう者も多いだろう。だが、死がぼくらの勘定を清算しようとするときには、ぼくはオアーズ川の上流での、こうした充実した時間を思い出し、納得して受け入れることができると思う。

午後にかけて、あふれんばかりの日光を浴び、ペースも落ち着いてきた。ぼくらは気持ちの高揚や充実感をこれ以上おさえることはできなかった。カヌーはぼくらには小さすぎた。ぼくらはカヌーを降り、岸辺で思いきり体を伸ばした。草の上で手足を伸ばし、たばこを吸った。神々しいほどの香りだ。世界はすばらしい。それがその日最後のよき瞬間だったが、その後も、ぼくはずっと満足感にひたっていた。

谷の片側は丘になっていて、白亜質の頂上が高くそびえ、土地を耕している農民が一人、同じリズムで姿を見せてはまた消えたりしていた。姿が見えるたびに、彼は空を背景にちょっと立ちどまった。(シガレット号の相棒によれば)その様子はまったく、うっかり野生の花を傷つけてしまったスコットランドの国民詩人バーンズのようだった。川を別にすれば、あの農民は、ぼくらの目に映っている唯一の生物だった。

谷のもう一方の側には、赤い屋根の家々と鐘楼が一つ、木々の間に見えていた。そして、見事な鐘の音によって、その日の午後は音楽的になった。鐘つきのかなでる鐘の音には、何かとても甘い叙情があって、鐘の音がこれほど明瞭に、また旋律豊かに歌うのを聞いたことがない。シェークスピアの芝居『十二夜』の舞台となっているイリリアで糸をつむぐ乙女や娘たちが「おいでよ、死」と歌うのもこんな風だったのだろう。鐘の音はどこか騒々しく金属的で、なにかしら不穏な調子に聞こえたりして、聞いて楽しいというよりも苦痛を感じる方が多いと思う。だが、このとき聞いた鐘の音は高く低く遠くまで響き、流行歌のように耳になじみ、しんみりさせたりもしたが、常に適度に調音されていて、滝の轟音や春にミヤマガラスが鳴き交わすときのように、静かでのどかな田園風景にしっくり溶けこんでいた。ぼくはこの鐘を鳴らしている人の祝福を受けたいと思った。この人は物静かな好々爺で、自分も瞑想しつつ、鐘をならすロープを揺らしているのだろう。神父や鐘を相続した人々、あるいはフランスでそういうことに関わっている人達すべてを、こうした午後の喜びのために古い鐘を残しておいたことについて祝福したいくらいだ。集会を開いて募金をつのり、自分たちの名前を繰り返し地方紙に載せ、新品の真鍮でできたバーミンガム製の代用品の鐘と取り替え、鐘を鳴らす人間も新しく雇って鐘を打ち鳴らさせ、この谷を畏怖と混乱の響きで満たすこともできたはずなのだから。