スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (21)

増水したオアーズ運河

翌朝、九時前にエトルーで二隻のカヌーを小型の荷馬車に積みこんだ。ぼくらも馬車の後からついていったが、この気持ちのよい渓谷は、見渡す限りホップ畑やポプラの木々でおおわれていた。丘の斜面のあちこちに感じのよい村々が点在している。なかでもテュピニーという村では、非常に狭い通りにホップのツルがおおいかぶさり、マツボックリのような球花を垂らしていた、家々の壁ではブドウが実をつけていた。ぼくらが通ると、人々の興味がかきたてられたようだった。職工たちが窓からのぞいていたり、子供たちが二隻の「ボート」を見て興奮して叫んでいたりした。そして、荷馬車の御者と顔なじみのシャツ姿の歩行者たちが、運んでいる荷物の性質について冗談を言いあったりしている。

一度か二度、にわか雨があったが、ちょっと降っただけで、すぐにやんだ。空気は澄み、緑の平原には甘い香りがただよい、植物がよく育っていた。気候にまだ秋の気配はなかった。ヴァダンクールで、水車とは反対側の小さな芝生からカヌーを浮かべて出発すると、太陽がいきなり顔を出し、オアーズ運河の流れている渓谷の木々の緑がぱっと輝いた。

川は長雨で増水していた。ヴァダンクールからオリニーまでずっと早瀬が続き、一マイルごとに、一刻も早く海に流れこもうとでもするかのように速度を増した。濁流と化した川は、岸辺でなかば水没した柳の間で渦をまき、石だらけの岸辺に激しく打ち当たり、轟音を立てて流れていく。狭く樹木の生い茂った渓谷を、川は曲がりくねりながら流れていく。あるときは護岸の縁に迫り、丘の白い崖を削りとって流れ、木々の間に菜種畑が見えたりもした。またあるときは、家々の庭をかこんだ塀をめぐって流れ、扉ごしに屋内がのぞけたが、日光をあびて歩いている神父さんの姿がかいま見えたりもした。木々の枝葉が厚く重なって前方の視界をふさいでいたものの、とくに問題があるようには思えなかった。ニレの木やポプラの木が柳の茂みの背後からおおいかぶさり、その下を川はものすごい勢いで流れていく。青空のひとかけらを切り取ったようなカワセミが飛び去ったりもした。こうして景色はめまぐるしく変化していったが、慈悲深い太陽はたえず降りそそいでいて、急流の表面にも、動かない牧草地と同じように、影ができていた。踊るようにゆれる木の葉が金色に輝き、野山が目に飛び込んでくる。その間ずっと、川はよどんだりせず、岸辺では渓谷全体にわたって葦が揺れ続けていた。

葦が揺れている光景には何か神話のようなものがあってもよいと思う(あるかもしれないが、ぼくは知らない)。自然のなかで、これほど強い印章を与えるものはない。無言で恐怖を表現している。こうした岸辺のいたるところに、これほど多くの恐怖にかられた生物が逃げこんでいるのを見ると、おばかな人間の方にもその恐怖が伝染してくる。葦は、おそらくは、冷たいが別に不思議なことなどない、腰までの深さの流れに抗して立っているだけなのだろう。あるいは、川の流れの速度や奔流、または連続した奇跡というものに慣れるということがないのだろう。牧羊神はかつて葦の祖先で作ったパンフルートを使って音楽をかなでたが、それと同じように、いまもなお、川の力を借り、オアーズ川の渓谷全体で葦の子孫たちを使って同じように笛を吹き、甘く鋭い音楽をかなでることで、ぼくらに世界の美しさとおそろしさを同時に教えているのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (20)

同じことをイギリスでやってみれば、すぐに反駁されるだろう。とんでもない、自分の生活はひどいもので、あなたの方が恵まれてますよ、と。フランスのよいところは、だれもが自分は恵まれているとはっきり認めることだ。彼らは皆、自分の恵まれている点について承知していて、それを他人にも示すことに喜びを感じている。これは信条として確かによいことだ。自分の境遇をなげくことをいさぎよしとしない国民だが、ぼくに言わせれば、それも雄々しいと思う。ぼくは、イギリスで立派な立場で裕福でもある女性が、自分の子供について「貧乏人の子」と卑下するのを聞いたことがある。相手がウェストミンスター公で、自分のことを卑下したとしても、ぼくならそんな風にはとても言えない。フランス人はこうした独立の精神に富んでいる。おそらくそれは彼らが共和制と呼んでいる制度によるものだろう。というか、本当に貧しい人がとても少ないので、卑下して泣き言をいっても誰にも相手にされないからなのかもしれない。

荷船の夫婦は、ぼくが彼らの生活ぶりをほめるのを聞いて喜んでくれた。あなたが私たちの生活をうらやましいというのは、よくわかります、あなたは間違いなくお金持ちでしょうから、お城のような船を作って運河を旅することができますよ、と。そうして、ぼくを自分たちの住宅でもある荷船に招待してくれた。狭いところですがと謙遜しながら船室に招き入れたが、そういうところまで飾り立てるほどの金持ちではないということなのだろう。

「ここに暖炉がほしいんですよね、こっち側に」と、夫が説明した。「そうすれば、中央に机と本などすべてが置けるんです。そうなれば言うことなし――そうすれば、すっかりよくなるはずです」 それから、もうそうした改築を実際に行ったように彼は部屋を見まわした。想像の中で船室を美しく飾ったりするのは、これが初めてじゃないことは明らかだった。またお金ができたときには船室の中央に机が置かれることになるのだろう。

妻はカゴで三羽の小鳥を飼っていた。たいした鳥じゃない、と彼女は説明した。立派な鳥は高価だからだ。彼らは去年の冬にルーアンでオランダ産の小鳥を探したそうだ。(ルーアンだって? とぼくは思った。犬や小鳥を飼い、煮炊きをする煙突のついた住居でもあるこの船で、そんなところまで行ったのだろうか? そして、サンブル運河の緑の平原のときと同じように、セーヌ河畔の断崖や果樹園の間に船をとめて過ごしたのだろうか?) この夫婦は去年の冬はルーアンでオランダ産の鳥を探したそうだが――それは一羽十五フランもしたらしい――なんと、十五フランとは!

「こんな小さな鳥が、ですよ」と、夫はつけ加えた。

ぼくがずっと褒め続けていたので、この人のよい夫婦は卑下することはやめて、インドの皇帝と皇后のように、荷船や快適な生活について誇りをもって語り出した。こういうのをスコットランドでは聞いていて心地よいと言うが、聞いている方も、世の中も捨てたものじゃないという気になってくる。もし人の自慢話が、架空のものではなく実際にその人が持っているものについてであれば、それを聞いている側もどんなに元気づけられるかを知っていれば、人はもっと自由にもっと優雅に自慢するようになるのではないだろうか。

それから、夫婦はぼくらの航海についてあれこれ質問した。彼らはとても共感したようで、自分たちの荷船を捨てて、ぼくらと同行したいと言わんばかりだった。こうした運河を航行する船で暮らしている人々は、定住する気持ちもまだ固まりきっていない放浪の民だからだろう。とはいえ、定住したいという気持ちもあることは、かなりかわいらしい形で露呈した。妻の方がふいに眉をひそめたのだ。「でもね」と彼女は言いかけて口をつぐみ、それからまた、ぼくに独身かと聞いた。

「そうです」と、ぼくは言った。
「連れのお友達は?」

彼も結婚していなかった。

それが――幸いだった。彼女は、妻を家に残して夫だけが旅に出るというのにはがまんできなかったのだ。だが、妻帯者でなければ、ぼくらのやっていることは何も問題ないわけだった。

「世の中を見て歩くことほど」と、夫が言った。「価値のあることは他にないですよ。熊のように自分の生まれた村にしがみついている人は」と、さらに語を継ぐ。「何も見ていないんです。そうやって死を迎えるわけです。何も見ないまま、ね」

この運河に蒸気船でやってきたあるイギリス人のことを、妻が夫に思い出させた。

「イテネ号のモーンスさんかな」と、ぼくは口にしてみた。

「その人です」と、夫が同意した。「奥さんと家族、それに召使いも一緒でした。水門では必ず陸に上がって村の名前を聞いていました。船に乗っている者や水門の管理人にね。そうしてメモをとるんです。何でもかんでもメモってましたっけ! 私が思うに、賭けでもしてたんでしょうね」

ぼくらの航海については賭けだと説明すれば納得してもらえる。だが、メモをとるというのは、別の理由があるような気もした。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (19)

サンブル運河とオアーズ運河: 運河を航行する船

翌日、ぼくらは遅くなってから雨の中を出発した。判事は傘をさして水門の端まで見送ってくれた。スコットランド高地をのぞけば、めったにこうなることはないのだが、ぼくらは今は天候についてはおそろしく謙虚になっている。ちらっとでも青空が見えたり日が差したりすると、それだけで鼻歌を歌いたい気分になった。ぼくらにとって、豪雨でなければ、その日はほぼ晴天とみなされるのだ。

運河では次から次にやってくる荷船が長い列をなしていた。その多くは、タールで固めた上に白や緑の塗料を塗ってあり、こぎれいで整頓されていた。鉄製の手すりがついていたり植木鉢が花壇のように並べてあったりもしている。スコットランドのキャロン湖付近で育った子供と同じように、船の子供たちも雨が小降りになると甲板で遊びまわっていた。男たちは船べりごしに釣り糸を垂れ、傘をさして釣っている者もいた。女たちは洗い物をしていた。すべての船で雑種の犬が番犬として飼われていた。そうした犬はぼくらのカヌーを見ると吠えまくり、船上を端まで追ってきて、次の船にいる犬に知らせて交代するのだった。その日は漕いでいる間ずっと、通りに立ち並ぶ家のように続いている百隻からの荷船とすれ違ったはずだが、そのうちのどれ一つとして、ぼくらを楽しませないものはなかった。ちょっとした動物園のようだなと、シガレット号の相棒が言った。

こうした運河に並んでいる船でできた、ささやかな村のようなものは、なんとも奇妙な印象をもたらした。植木鉢や煙の出ている煙突、洗濯物や食事の様子など、その土地の景色として根づいているように思えるのだが、その先にある水門が開くと、次々に帆を揚げるか馬に引かれて、てんでにフランス各地に散っていくのだ。一時的に形成されていた集落は家ごとに切り離されて、また散っていく。今日サンブレ運河やオアーズ運河で一緒に遊んでいた子供たちは、それぞれの家族と共に散り散りになり、次はまたいつどこで出会うことになるのだろうか?

しばらく前から、こうした荷船がぼくと相棒の話題の中心を占めていて、ぼくらも年をとったらヨーロッパの運河に船を浮かべて生活しようというような話をしていた。とてものんびりした旅になるはずだ。蒸気船に引かれて駆け抜けるように進んだり、小さな分岐合流地点で引いてくれる馬が到着するまで何日も待ったりするのだ。ぼくらは膝まで届く白いひげをはやし、年齢を重ねた者に伴う威厳をたたえて甲板を行ったり来たりしていることだろう。どこの運河でも、ぼくらの船ほど白いものはなく、ぼくらの船ほど鮮やかなエメラルドの色をしているものがないというように、ぼくらは絶えずペンキを塗ったりして忙しくしているはずだ。船室には本やたばこ入れや、十一月の日没ほどにも赤く四月のスミレほどにも香り高いブルゴーニュ産のワインが置かれている。リコーダーのようなフラジオレットもあるずだ。シガレット号の相棒は星空の下でそれを手に陶然とするような音楽を奏したり、それを脇に置いて――昔ほどの美声ではなく、ところどころ声をふるわせながら、あるいは自然な装飾音と感じられるものを織り交ぜながら――豊かで厳粛な賛美歌を歌ったりする。

こうしたことはすべてぼくの想像だが、こうした理想の家の一つに乗って外国を旅してみたいと思った。船は次から次へと通るので、選ぶのに不自由はない。また、そうした船では、きまって犬がぼくのような放浪者に吠えかかってくる。とはいえ、やがて感じのよい老人とその妻がぼくの方を興味深そうに眺めているのが目に入った。それで彼らに挨拶をし、カヌーをそばに寄せた。まず彼らの犬について、猟犬のポインターのようですねといった話をした。それから奥さんが育てている花を褒め、彼らの送っている生活がうらやましいと言ってみた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (18)

広く知られていることだが、ロバの尻をたたいて急がせることほど無駄なことはない。ロバの尻をたたいて効果があるかというと、どんなにムチをふるったところで、鈍重なロバという生物がそれに応じて歩を早めることはないと、ぼくらは知っている。しかし、こういう皮をはがれたミイラという、なんとももの悲しい状態では、肉体のない皮は鼓手のバチさばきに応じて鳴り響き、ドンドンという太鼓の音の一つ一つが人の心に、さらには心の奥底にある狂気をゆさぶって、大きく言えば英雄的行為への意欲がかきたてられることになる。それには、生きているときに尻をひっぱたき、こき使ってきた人間に対するロバの復讐といった意味合いもあるのではないだろうか? ロバはこう言うかもしれない。昔から人間は山道や谷間の道でロバを叱咤し酷使したが、ロバとしてはそれに耐えるしかなかった。死んでしまって太鼓の皮になると、そうした田舎道ではほとんど聞こえなかった尻をたたく音が、軍隊の旅団の先頭に立ち、戦意を高揚させる音楽を奏でることになる。ロバの皮でできた太鼓をたたくたびに、人間は自分の仲間が戦闘でよろめき倒れていくのを見ることになるだろう、と。

太鼓の音がカフェを通り過ぎると、ぼくの連れもぼくも眠くなってきたので、ホテルに戻った。ホテルはすぐ近くだった。ぼくらはこのランドルシーという土地にはあまり関心がなかったが、ランドルシーの町の方はぼくらに無関心というわけではなかった。この土地の人々は朝から晩まで雨や風がやむたびに、ぼくらの二隻のボートを見にやってきていたそうだ。町の印象からすると多すぎる気もするが、何百人もの人々が石炭小屋に置いてあったぼくらのボートを熱心に見物していたらしい。ポンにいたとき行商人だったぼくらは、ランドルシーに着くと一晩で勇敢な若者に祭り上げられていた。

カフェを出ると、治安判事だという人物がホテルの前まで追いかけてきた。この役職はスコットランドでいう地方裁判所判事といったところらしい。氏は名刺を差し出し、いかにもフランス人らしく、スマートかつ優雅に食事に誘ってくれた。わが町ランドルシーの名誉のためですと、判事は言った。ぼくらが来たからといって町の名誉になるわけはないと知ってはいたが、これほど丁重な招待を断るのは不作法というものだろう。

判事の家は近くにあった。設備の整った独身者向けの住宅で、壁には古い真鍮の奇妙な暖房用のあんかがたくさんかけてあった。入念に彫刻細工が施されたものもあった。壁の装飾にするとは収集家らしい魅力にあふれた発想だ。これまでにどれほどの数の人が寝るときにこのあんかのお世話になったのだろうと思わずにはいられなかった。どんないたずらがなされ、キスがかわされたりしたのだろう。さらに、死の床でどれくらい無駄に使われてきたのだろう、と。こうしたあんかが口をきけるとすれば、どれほど滑稽で、どれほど不作法で、どれほど悲劇的な場面が繰り広げられたかを語ってくれるに違いない。

ワインはおいしかった。ワインを褒めると、判事は「まあまあですかね」と言った。イギリス人はいつになったら、こういう洗練されたもてなしができるようになるのだろうか。こうしたもてなしの心が日々の生活を豊かにし、なんでもない瞬間に彩りをそえるのだから、学ぶ価値がある。

その場所には判事の他にランドルシーの住人が二人いた。一人は忘れてしまったが何かの徴収官で、もう一人はこの土地の公証人会の会長だそうだ。だから、ぼくら五人は多かれ少なかれ法律に関係する立場だということになる*1。となれば話が専門的になっていくのは避けられない。ぼくの相棒は救貧法について偉そうに論じた。その少し後で、ぼく自身は私生児についてスコットランドの法律の話をするはめになった。自慢じゃないが、それについては知識がまるでないのだ。徴収官と公証人はどちらも既婚だったので、そんな話題をもちこんだことで独身の判事を非難した。フランス人もイギリス人も男は皆そうなのだが、判事はそれについて、いかにもうれしそうに自分のことじゃないよと言った。男という者はすべからく、気を許している仲間と一緒のときに、ちょっと女にだらしないと思われたがるというのは、なんとも不思議なことだ!

夜がふけるにつれて、ワインはますますうまく感じられてきたし、蒸留酒はワインよりもっとよかった。この人々は親切だったし、ぼくらのカヌーの旅全体を通しても最高の瞬間でもあった。結局のところ、判事の家に招待されるということは、それなりに公的なものではないだろうか? 加えて、フランスがなんとも偉大な国であるということに思いをいたせば、遠慮なく飲み食いさせてもらってもかまわないというものだ。ぼくらがホテルに戻ったのは、ランドルシーの町が眠りに落ちてからずいぶん経ってからで、城壁の番兵はすでに夜明けに備えている時刻だった。

脚注
*1: スティーヴンソンはエジンバラ大学で土木工学を学んだが、途中で専攻を法律に変えて弁護士となった。