スナーク号の航海 (35) - ジャック・ロンドン著

ハンセン病には弱い接触感染性があるが、どうやって伝染するのだろうか? あるオーストリアの医師は自分と助手たちにハンセン菌を植えつけてみた。が、失敗した。だが、断定するにはいたらない。有名なハワイの殺人者の例があるからだ。こいつはハンセン菌を植えつけることに同意したため死刑判決が終身刑に減刑されている。菌を植えつけてまもなく症状が出て、ハンセン病者としてモロカイ島で死んだ。とはいえ、これで結論がでたわけではない。というのも、植菌された当時、彼の家族の何人かがこの病気でモロカイ島に収容されていたためだ。この家族から感染した可能性もあり、この殺人犯は、正式に植菌された頃にはすでに罹患していて潜伏期間だったとも考えられるのだ。患者の体を清めるためモロカイ島に行ったダミエン神父という教会の偉人のケースもある。神父がどうやって罹患したのかについては諸説あるが、本当のところは誰にもわからない。本人も知らなかった。だが、彼が島を訪れるたびに、現在も居住地に住んでいるある女性がたずねてきていたことは確かだ。その女性は長くそこに住んでいて、五度結婚しているが、夫はいずれの場合もハンセン病患者で、彼らの子も産んでいた。そして、その女性は現在にいたるまで病気になってはいないのだ。

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モロカイ島。ダミエン神父の墓。

ハンセン病の謎はまだ解明されていない。この病気についての知識が深まれば治癒する可能性も大きくなる。ハンセン病の感染性は弱いため、有効な血清が発見されれば、この病気は地球上から消えることになるだろう。そうなれば、この病気との闘いは長くはかからず急展開を見せるだろう。とはいえ、その一方で、どうすれば血清やそれ以外の思いもよらない治療法が発見されるのだろうか。それが急務の問題なのだ。現在、インドだけで、隔離されていないハンセン病患者が五十万人いると推定されている。図書館や大学など、カーネギーやロックフェラーの寄付金の恩恵を受けている研究は多いが、そうした寄付金はどこに行っているのだろうか。たとえばモロカイ島のハンセン病患者の居住地には届いているのだろうか。まったくわからない。居住地の住民は運命に翻弄されている。彼らはこの不可解な自然の法則の身代わりとされ、ほかの人々がこのおぞましい病気にかからないよう隔離されいるのだが、なぜ彼らがこの病気にかかったのか、どうようにしてかかったのかについては皆目わからないのだ。単に患者のためだけでなく、将来の世代のために、ハンセン病治療や血清研究のため、あるいは医学界がハンセン菌を根絶させることができるような思いもよらない発見のために、そうした寄付金はハンセン病治療のまともで科学的な研究にも投入されてもらいたいものだ。お金を寄付したり思いやりで手を差し伸べるのにふさわしい場所というものがあるのだ。

スナーク号の航海 (34) - ジャック・ロンドン著

ひとつ確かなのは、居住地の患者は、ここ以外の場所で隠れて生活している患者よりはるかに恵まれているということだ。そういう患者は他人と交わることもなく、病気が露見しないか、少しずつ確実に悪くなっているのではないかと不安を抱えて生きている。ハンセン病の進行は一定していない。この病気になると体がむしばまれるが、潜伏期間はさまざまだ。五年や十年、四十年も症状が悪化せず、元気に生活できることもある。とはいえ、まれに最初の兆候で死に至る場合もある。腕のいい外科医が必要だが、隠れている患者には医者も呼びようがない。たとえば、最初の兆候として足の甲に穿孔性潰瘍ができる場合がある。それが骨にまで達すると壊死が起きる。患者が隠れていれば手術を受けられない。壊死は足の骨まで広がってしまい、短時間に壊疽や他の合併症で死亡することもある。一方、そんな患者がモロカイ島にいたとすれば、外科医が足の手術を行って潰瘍を切除し、骨を消毒し、病気の進行を完全にとめてしまう。手術後ひと月もすれば、患者は馬にも乗れるようになるし、徒競走したり波打ち際で泳いだり、マウンテンアップルを探して谷間の急な坂も歩けるようになる。すでに述べたように、この病気は潜伏しているときは五年、十年あるいは四十年も症状が出ないこともあるのだ。

かつてハンセン病の恐怖とされていたものは、手術で消毒をしなかった時代、グッドヒュー博士やホルマン博士のような医師たちがこの居住地に住みこむようになるより前にまでさかのぼることになる。ゴッドヒュー博士はこの地で先駆的な役割を果たした外科医で、彼の気高い功績はいくら賞賛しても賞賛しすぎることはない。ある日の午前、ぼくは手術室で彼の執刀する三件の手術に立ち会ったのだが、そのうちの二人は新しくつれてこられた男性で、ぼくと同じ蒸気船で到着したのだ。いずれの場合も、病気にやられたのは一か所だけだった。一人はくるぶしにかなり進行した潰瘍ができ、もう一人は脇の下に似たような進行した症状が出ていた。二人とも居住地外にいたので治療を受けておらず、かなり進行していた。どちらの患者の場合も、グッドヒュー博士はすぐに症状の進行を完全にとめ、この二人は四週間もすると元気になり、病気にかかる前のように丈夫になった。この二人が君やぼくと違う唯一の点は、彼らの病気は潜伏し、将来のいつか再発する可能性があるということだけだ。

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モロカイ島。ダミエン神父の教会。

ハンセン病は人類の歴史と同じくらい古い。文字による最古の記録にも出てくる。そして、病気の解明ということになると、現在でもなお当時と比べてあまり進歩していない。昔からとくに接触伝染性があることはよく知られていて、患者は隔離すべきとされてきた。昔と今との違いは、患者はもっと厳格に隔離され、人間らしく扱われて治療されているということだ。しかし、ハンセン病自体はやはり大変な病気だし、まだ解明されていないことも多い。あらゆる国の医師や専門家の報告を読むと、この病気の不可解な特徴が明らかになってくる。こうしたハンセン病の専門家たちは病気のどの段階についても、わからない、という点で口をそろえている。かつては軽々しく独断的に一般化されていたこともあるが、現在ではもう一般化して言われることはない。実施されたすべての調査から引き出しうる唯一可能な一般化は、ハンセン病は接触伝染性があるということだけだ。だが、この伝染性は弱いということは、ほとんど知られていない。ハンセン菌そのものは専門家により分離されている。ハンセン病か否かは細菌検査で判定できる。だが、この病原菌が患者でない人間の体にどうやって入りこむのかは、まだわかっていない。潜伏している期間の長さもわかっていない。あらゆる種類の動物にハンセン菌を植菌しようとした試みも失敗つづきだ。

この病気と闘うための血清を発見しようという努力も成功していない。専門家のあらゆる努力にもかかららず、まだ手がかりも治療法も見つかっていない。ときどき原因が解明され治療法が見つかったと希望の炎が燃えさかることもあるが、そのたびに失敗という闇に吹き消されてしまう。ある医者は、ハンセン病の原因は長期にわたって魚を食べたためだと主張し、自説を大々的にふりかざしたが、それも、インドの高地の医師が、自分の地域の住民にもハンセン病にかかっている者がいるのだが、それはなぜか、と問うまでだった。インド高地に住む住人は先祖代々魚を食べたことがなかったからだ。患者を一種の油や薬物で治療し、治癒したと発表した人もいたが、五年後、十年後、四十年後に再発した。治癒したという主張は、この潜伏した状態を治癒したと勘違いしていたことになる。確かなのは、本当に治ったという事例はまだない、ということだ。

スナーク号の航海 (33) - ジャック・ロンドン著

この原稿を書いている時点で、ホノルルに知っている靴磨きが一人いる。アフリカ系アメリカ人だ。マクベイ氏がぼくに語ってくれたところによれば、まだ細菌検査が行われるようになるずっと前に、彼はハンセン病患者としてモロカイ島に送られてきたのだった。彼は病室でも血気盛んで、悪さばかりしていた。長い間、そういうちょっとしたいたずらが繰り返されていたのだが、ある日、彼は検査でハンセン病ではないと宣告されたのだ。

「なんとまあ!」 マクベイ氏は笑いだした。「ということは、君を厄介払いできるってことだ! 次の蒸気船で島を出してやろう。君は自由の身だ!」

しかし、この黒人は行きたがらなかった。すぐにハンセン病の末期段階にある老婦人と結婚し、衛生局に、病気の妻を介護するため引き続き滞在する許可を与えてくれるよう嘆願した。自分ほど妻の世話をやける者は他にいない、と泣きついたのだ。だが、衛生局の連中にとって、彼の魂胆はお見通しというわけで、彼は蒸気船に乗せられて自由の身となった。しかし、彼はモロカイ島に舞い戻った。モロカイ島の風下側に上陸すると、夜にまぎれてパリに入りこみ、居住地にある自宅にもぐりこんだのだ。彼は逮捕され、裁判で不法侵入のかどで有罪を宣告され、少額だが罰金も科せられ、蒸気船で退去させられた。こんど不法侵入したら罰金百ドルに加えて、ホノルルの刑務所行きだと警告された。というわけで、このたびマクベイ氏がホノルルにやってくると、この靴磨きは氏の靴を磨きながらこう言った。

「ねえ、旦那。オレにはあの楽しかった家がなくなっちまいましたよ。ああ、なつかしいなあ」 それから内緒話でもするように声を潜めて、こう言った。「ねえ、旦那。また戻れませんかね? 戻れるように手配してもらえませんか?」

彼はモロカイ島に九年も住んでいたのだが、それ以前もそれ以後も、島での暮らしほど楽しい時はなかったのだ。

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モロカイ島のカラウパパ村。背後のパリの断崖は標高二千フィートから四千フィート。

ハンセン病自体に対する不安については、ハンセン病患者も患者以外の人々も、居住地ではそういう気配は見せなかった。ハンセン病に対する激しい恐怖は、ハンセン病患者を見たことがない人々や、この病気について何も知らない人々の心の中にあるのだ。ワイキキのホテルで、ぼくが居住地を訪問する料金の支払をしていると、ある女性が心底驚いていた。話をすると、彼女は生まれも育ちもホノルルで、ハンセン病患者を自分の目で見たことがないのだ。アメリカ本土にいたぼくは、そうじゃない。米本土ではハンセン病患者の隔離はゆるくて、ぼくは大都市の通りで何度も患者を見たことがある。

ハンセン病は恐ろしいもので、それから逃れることはできないが、この病気や伝染性について、ぼくには多少なりとも知識があった。ハワイに滞在する残りの日々をどうすごそうかと考えていて、結核療養所を訪問するよりはモロカイ島ですごしてみようかと思ったのだ。米本土の都会や田舎の貧しい人々のための病院や外国の似たような施設では、モロカイ島で目撃するような光景を目にすることができるが、もっとひどい状態だ。残りの人生をモロカイ島で暮らすか、ロンドンのイーストエンドや、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤード*で暮らすかを選択しなければならないとしたら、ぼくはちゅうちょせずモロカイ島を選ぶだろう。イーストエンドやイーストサイドのような堕落と貧困に満ちた土地で五年もすごすくらいなら、モロカイ島で一年をすごすほうがいい。

モロカイ島では、人々は楽しそうだ。そこで目撃した七月四日の祝日の様子を、ぼくは決して忘れない。朝六時、「身の毛もよだつ」人々が外に出てくる。着飾って(自分の所有する)馬やラバ、ロバにまたがり、居住地中を跳ねまわるのだ。二組のブラスバンドも出ていた。三、四十人ものパウを着た者たちもいた。すべてハワイ人の女性で、民族衣装を着こなしている。馬に乗るのもうまく、二、三馬ずつだったり集団だったりで駆けまわっている。午後、チャーミアンとぼくは審判席に立ち、乗馬の技術やパウを着た衣装に賞を贈呈した。周囲にいるのはすべてハンセン病患者で、頭や首や肩に花冠や花のリースをつけて楽しそうだ。丘の上や草原には派手に着飾った男女が見え隠れし、飾り立てた馬を走らせたり、着飾った騎手たちが歌ったり笑ったりしている。ぼくは審判台に立ち、こうした様子をすべて目撃したが、そのとき思い出したのはハバナのハンセン病の病院だ。そこには二百人ほどのハンセン病患者や囚人がいて、四方を壁に囲まれた場所で死ぬまで閉じこめられているのだ。ぼくは何千という土地を知っているが、ずっと住む場所を選ぶとなったら、モロカイ島にするだろう。夕方、ぼくらは患者の集会所の一つに行った。集まった聴衆を前にして、合唱団のコンテストがあった。夜になり、最後はダンスになった。ぼくはホノルルのスラム街に住むハワイ人を見たことがあるのだが、再検査のため居住地から連れてこられた患者たちが口をそろえて「モロカイ島に戻りたい!」と叫ぶ理由がよくわかる。

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モロカイ島のダミエンロード

 

[訳注*]
ロンドンのイーストエンド、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤードには、現在と異なり、一部にスラム化した集落が集中し、犯罪や貧困の温床/代名詞とされていた。

ジャック・ロンドンの意図は、実態が知られず恐怖ばかりが先走り、先入観に満ちた扇情的な報道で世間からは地獄のように思われているハンセン病患者の隔離された居住地に実際に住んでみて、ありのままを伝えようというところにある。

現在では、ハンセン病をめぐる状況も大きく変化し、隔離政策についても問題のあることが知られているが、後出しじゃんけんのように現代の基準で断罪したりはせず、執筆当時の著者の意図を尊重し、できるだけ忠実に訳出している。

 

スナーク号の航海(32) - ジャック・ロンドン著

モロカイ島では、宣告されたハンセン病患者は再検査を受ける権利があり、患者はそのために継続的にホノルルに戻っている。ぼくがモロカイ島に渡るときに乗った蒸気船には、そうやって戻った患者が二人乗っていた。どちらも若い女性で、一人は自分の所有する財産を整理するためにホノルルに行っていて、もう一人は病気の母親に会うためだった。二人ともカリヒに一カ月滞在していた。

モロカイ島の居住地は新鮮な北東貿易風が吹き抜ける島の風上側にあるため、気候はホノルルよりずっと快適だ。景色もすばらしい。一方には青い海があり、他方にはパリの断崖がそびえていて、そこここに美しい渓谷がある。いたるところ緑の牧場が広がり、患者たちが所有する何百頭もの馬が放牧されている。馬車や荷馬車、二輪の軽量馬車を持つ患者もいる。カラウパパの小さな港には何艘かの漁船と小型蒸気船が係留されている。どれも患者が所有し操船している。むろん、海上にも境界が決められていて、船で行ける範囲は限定されているが、それ以外に制限はない。獲れた魚は衛生局に売り、代金は自分の稼ぎになる。ぼくが滞在していた間、一晩の稼ぎは四千ポンドだった。

漁をする者がいるように、農業をする者もいる。あらゆる事業が行われている。生っ粋のハワイ人の患者は塗装業の親方だ。八人を雇い、衛生局から建物の塗装を請け負っている。カラウパパ・ライフル・クラブに入会していて、ぼくも会ったことがあるが、ぼくなんかよりずっと立派な身なりをしていた。同じような境遇の男がもう一人いて、こっちは大工の棟梁だ。衛生局が運営している店の他にも民間の小さな店があり、商売っ気のある者が経営している。監督補佐のワイアマン氏は立派な教育を受けた有能な人物だが、生っ粋のハワイっ子で患者でもある。バートレット氏はいまは店主をやっているが、この病気にかかる前はホノルルで商売をしていたアメリカ人だ。この人たちの稼ぎはすべて自分のものになる。働けない者は地域で面倒を見てくれる。食べ物や住むところ、衣服が与えられ、治療も受けられる。衛生局は農業経営も行っていた。地元向けの畜産や酪農で、働きたい者には全員、適正賃金の雇用が与えられる。とはいえ、隔離された地域で、労働を強制されているわけではない。子供や老人、肢体不自由者には住むところも病院も確保されている。

リー少佐はインターアイランド汽船会社の造船技師を長く務めたアメリカ人で、ぼくが会ったときは蒸気を使う新しいタイプのクリーニング屋で働いていた。機械の据え付けで忙しそうだった。その後も彼とはよく会ったが、ある日、ぼくにこう言った。
「おれたちがここでどうやって生きているのか、ちゃんと伝えてくれよ。頼むから、ありのまま書いてくれよな。あんたは、みんながおぞましい腐った地獄と思いこんでいるところに足を踏み入れちまったんだ。おれたちだって誤解されたままでいるのはいやだし、感情を持った人間なんだ。ここでどう暮らしているのか、本当のことを世の中の連中に伝えてくれ」

ぼくがこの居住地で会った連中は、男も女も、口をそろえて同じような感情を吐露した。これまで事実に反する嘘をまじえて誇張して伝えられていることに憤慨しているのは、患者自身だった。

彼らが病気にかかっているのは事実だが、ハンセン病患者たちは自分の置かれた境遇で生活を楽しんでいる。居住地は二つの村に別れ、多くの田舎風の家や海沿いの家に、ほぼ千人が暮らしている。教会は六つあり、キリスト教青年会の建物や集会場もあれば、演奏会場や競技場、野球場、射撃場、スポーツジムもある。多くのグリークラブが活動し、吹奏楽団も二つある。

「ここではみんな満足しているので」と、ピンカム氏がぼくに言った。「ショットガンでも追い払うことはできないでしょうな」

そのことは、後でぼく自身が確認した。この年の一月、病気の再検査のためホノルルに行くことになった十一名の患者が、それを拒否してひどく抵抗したのだ。彼らは行くのを嫌がった。検査で菌陰性化がわかれば自由にどこでも行けるようになるのだが、自由になりたくないのかと聞かれると、全員が「モロカイ島に戻りたい」と答えたのだ。

かつてハンセン菌が発見される前、さまざまな、まったく異なる病気で苦しんでいる男女が小数ではあったがハンセン病と判断されて、モロカイ島に送られてきた。それから何年も経て、細菌学者が、彼らはもはやハンセン病にかかっていないし、そもそもその病気ではなかったと宣言したとき、彼らは逆に狼狽した。モロカイ島から外に出されるのを嫌がり、衛生局から仕事をもらって、そのまま居住地にとどまったのだ。現在、看守を務めているのはそのうちの一人である。ハンセン病ではないと宣言された彼は、島外に送られないように、有給で看守の仕事を引き受けたのだった。

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モロカイ島、患者の漁師たちと船着き場