スナーク号の航海(31) - ジャック・ロンドン著

ハンセン病の接触による伝染性は想像されているほどではない。ぼくは妻同伴でこの居住地に一週間滞在したが、感染するという不安はまったくなかった。ぼくらは長手袋もはめなかったし、患者から離れていようともしなかった。逆に、何も考えず自由に一緒にいたし、ここを去るときには、顔と名前で病歴もわかるようになっていた。単に清潔にしていれば、予防措置としては十分のようだ。医師や監督官など患者以外の者が患者と別れて自分の家に戻るときに、消毒用の石鹸で顔と手を洗い、上着を着替えるだけだ。

とはいえ、ハンセン病患者は不潔だという声も根強い。この病気についてほとんど知られていないため、ハンセン病患者の隔離措置が厳守されている。過去にはハンセン病患者は恐ろしいものとされ、ぞっとするような治療が行われたが、そういったものは不要であるし残酷でもある。ハンセン病をめぐって人口に膾炙した誤解のいくつかを一掃するため、ぼくはハンセン病患者と患者以外の者との関係について、自分がモロカイ島で観察したことを述べておきたい。到着した朝、チャーミアンとぼくはカラウパパ・ライフル・クラブの大会に参加した。そしてそこで、この疾病にまつわる苦痛と、それが緩和されていく民主主義的兆候を目撃することになった。このクラブは、マクベイ氏が寄付したカップをめぐる賞品つきの大会を開始したばかりだった。マクベイ氏や研修医のグッドヒュー医師、ホールマン医師もクラブの会員だった(両医師とも奥さんと一緒に居住地に住んでいる)。射撃用ブースでぼくらのまわりにいる者は、全員が患者だ。患者も患者以外の者も同じ銃を使用し、限られた空間で肩を並べていた。患者の多くはハワイの原住民だった。ベンチでぼくの隣に座っているのはノルウェー人だった。真正面の砂の上に立っているのは南北戦争で南部連合国軍側で戦ったアメリカ人で、いまはもう退役していた。彼は六十五歳だが、腕はまだ鈍っていなかった。大柄なハワイの警察官、患者、カーキ色の軍服姿の連中が射撃をした。ポルトガル人もいれば中国人もいた。居住地で働いている患者以外の現地人もまじっていた。午後、チャーミアンとぼくはパリの二千フィートある崖に登って居住地を眺めたのだが、監督官や医師も、病人も病人じゃないのも入り混じって野球の試合に興じていた。

中世のヨーロッパでは、ハンセン病はおそろしい病気とされ、患者はひどく誤解された扱いを受けた。当時、ハンセン病患者は法的にも政治的にも死んだものとみなされた。患者は葬式行列で教会へと連れていかれ、そこで礼拝をつかさどる聖職者が患者のために模擬葬儀を挙行するのだ。読経のあとで土をすくって患者の胸に落とす。生きたまま死者となるのだ。この厳しい処置の大半は不要なものであったが、それによって一つのことがわかる。ハンセン病は十字軍の兵士たちが帰還してくるまで、ヨーロッパでは知られていなかった。そしてそこから少しずつ広がって、ある時点で一気に拡大したのだ。これは明らかに接触で罹患する病だった。接触伝染病だ。と同時に、隔離すれば根絶できるということも明らかだった。当時のハンセン病患者の扱いはひどく、醜悪なものであったが、隔離効果が知られるようになり、それを手段として用いることでハンセン病は撲滅されるようになった。

ハワイ諸島では現在、こうした隔離政策によりハンセン病は減少している。が、モロカイ島に患者を隔離することは、イエロージャーナリズムが扇情的に書きまくっているような、恐ろしい悪夢なのではない。そもそも、ハンセン病患者は家族から無慈悲に引き裂かれてはいないのだ。病気が疑われた者は、衛生局からホノルルのカリヒにある施設に来るよう呼ばれる。料金や経費はすべて支払われる。まず衛生局の細菌学の専門家による顕微鏡検査を受ける。ハンセン菌が見つかると、患者は五名の検査医からなる審査会による審査を受ける。ここでハンセン病と判明すれば、病名が告げられ、衛生局が正式に確認し、患者はモロカイ島に送られる。状況に応じて徹底した検査が行われるが、患者には、自分を担当する医師を選ぶ権利がある。ハンセン病と宣告された後でも、すぐにモロカイ島に送り込まれるわけではない。何週間か何カ月かの猶予が与えられ、カリヒに滞在している間に、自分の商売などすべてを清算したり話をつけたりすることになる。モロカイ島では、親戚や商売の代理人などの面会も認められるが、患者の家で食べたり寝たりすることは認められない。そのため、訪問者用の「清潔」な住宅が確保されている。

衛生局のピンカム局長とカリヒを訪れたとき、ぼくは罹患した疑いのある人に対する徹底した検査について説明を受けた。このときの疑いのある人は七十歳になるハワイの原住民で、三十四年間、ホノルルで印刷会社の印刷工として働いていた。専門家がハンセン病だと診断したが、審査会は判断に迷っていて、その日に全員がカリヒに集合して別の検査をしたというわけだった。

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モロカイ島、七月四日朝、パウを着た騎手

スナーク号の航海(30) - ジャック・ロンドン著

第7章

モロカイ島のハンセン病患者

 スナーク号がモロカイ島の風上側の沿岸をホノルルに向かって帆走していたとき、ぼくは海図を見て、低く横たわった半島とその向こうに見えている高さが二千フィートから四千フィートはありそうな一連の断崖を指さして、こう言った。「あそこが地獄だ。地球上で最も呪われた地だ」と。その一カ月後に自分自身が地上で最も呪われたその地の海岸に立ち、八百人ものハンセン病患者と一緒になってってはしゃいでいると知ったら衝撃を受けたはずだ。楽しむのは不謹慎だ、というのは間違っている。とはいえ、自分にとって、あの人たちの中に自分がいるというのは、少し前までだったら考えられなかったことだ。それまでと今とでは、感じ方がまったく違っているし、実際に楽しかったのだ。

たとえば、独立記念日の七月四日の午後、ハンセン病患者たちは皆、競技場に集まっていた。ぼくはレースの様子を写真に撮るため、監督官や医者たちから離れていた。面白いレースだった。ひいきをめぐって対抗心がめらめらとわいてくるのだ。三頭の馬が入場した。それぞれ中国人、ハワイの原住民とポルトガルの少年が乗っていた。三人の騎手はハンセン病患者だった。ジャッジも観客も同様だ。レースはトラックを二周する。中国人とハワイの原住民がまず抜け出した。二人は首の差だ。ポルトガルの少年は二百フィートも後方に置いていかれている。一周しても、ほぼそのままだ。二週目の半分あたりで、中国人の騎手が一馬身ほど原住民の騎手より前に出た。同時に、ポルトガルの少年も差を詰めてきた。が、追いつけそうにはなかった。観客の応援に熱が入る。ハンセン病患者たちは誰もが競馬が大好きなのだ。ポルトガルの少年が追い上げる。ぼくも声を張り上げた。ホームストレッチにさしかかった。ポルトガルの少年がハワイの原住民を抜いた。雷鳴のようなひづめの音、三頭の馬の競り合い、ムチをふるう騎手。観客は一人残らず声を張り上げ叫んでいる。差はじりじり縮まってくる。ポルトガルの少年が追いつき、追いこした。そう、追いこして、中国人を頭一つリードして勝ったのだ。ぼくはハンセン病患者の中に飛びこんだ。彼らは歓声をあげ、帽子を投げ飛ばし、つかれたようにおどりまわった。ぼくも同じだ。帽子を振りまわし、有頂天になって叫んでいた。「なんてこった、あの子が勝ったぜ! あの子が勝ったんだぜ!」

客観的に分析してみよう。ぼくはいわゆる「モロカイの恐怖」なるものの一つを確かに目撃していたのだ。そしてそれは、世間に広まっているような状況が本当であるとすれば、ぼくの行為は屈託がないというか、無邪気すぎて、恥ずかしいことでもあっただろう。それを否定はしない。次の競技はロバのレースだった。こいつも、とても面白かった。ビリだったロバが優勝したのだ。話を複雑にしているのは、騎手は自分の持ち馬ならぬ持ちロバに乗っているわけではないということだ。どういうことかというと、騎手たちは互いに別の騎手のロバに乗っていて、他人のロバに乗りながら、他の騎手が乗っている自分のロバと競争するのだ。当然のことながら、ロバを所有している者たちは、レース用に提供するロバについては、とても遅いのを選んだり、極端に御しがたいのを参加させたりするのだ。あるロバは騎手がかかとで腹をけると脚をすぼめてる座りこむよう訓練されていた。その場でぐるぐるまわろうとするロバもいれば、コースを外れたがるロバもいる。柵ごしに頭を外に突き出して足をとめてしまうのもいた。参加したロバ全頭がそんな具合だった。トラックを半周したところで、一頭のロバが騎手に抵抗しはじめた。残りのロバすべてに追いこされても、まだもめていた。結局、そのロバは騎手を振り落とし、なんと一着になった。千人ほどのハンセン病患者全員が腹をかかえて笑っ。ぼくと同じ場所にいた者たちは誰もがそれを楽しんでいたのだ。

というような出来事はすべて、巷間うわさされているモロカイ島の恐怖なるものが存在しないことを述べるための前振りだ。この居住地については、センセーショナルにあおりたがる連中、事実を見ようとしない扇動主義者たちがて繰り返し書きたてている。むろん、ハンセン病はハンセン病であるし、おそろしい病気ではある。だが、モロカイ島について書かれた話は誇張されすぎていて、ハンセン病患者たちも、治療に身をささげている人たちも、正しく扱われてはいないのだ。具体的な例を述べよう。ある新聞記者がいた。この居住区に足を踏み入れたこともないのに、監督官のマクベイについて、自分の目で見てきたように、こう描写した。草ぶきの小屋で床についたマクベイを飢えたハンセン病患者たちが取り囲み、夜ごと、飯をくれと責め立てている、と。この身の毛のよだつような記事は全米に報道され、それを読んで憤然として抗議し改善を求める多くの社説が書かれたものだ。ところで、今ぼくはこのマクベイ氏の草ぶきの小屋なるところに五日間寝泊まりしているのだが、まず小屋は草ぶきではなく木造家屋だし、だいたいこの居住地のどこにも草ぶきの家などないのだ。ハンセン病患者の声は聞こえているが、それは飯をくれというより、合唱のようにリズムに乗っていて、バイオリンやギター、ウクレレ、バンジョーのような弦楽器の伴奏もついている。他にもハンセン病患者のブラスバンドや二つある合唱団の歌声など、いろんな音が聞こえてくる。五人のすばらしい歌声も聞こえたが、記事や本に書かれているのとは違って、その歌声は、ホノルルへの出張から戻ったマクベイ氏のために、患者のグリークラブが歌っているセレナーデなのだ。

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モロカイ島、七月四日朝 全員ハンセン病患者だ

スナーク号の航海 (29) - ジャック・ロンドン著

波に乗ったり波と闘ったりすることでぼくが学んだ方法の一つは、抵抗しないということだ。なぐりかかってくる相手は、こちらからよけてしまうに限る。顔面をひっぱたこうとする波があれば、その下にもぐりこんでしまえばいい。足から先に海に飛びこみ、波には頭上を通過させるのだ。決して身構えたりしない。リラックスしよう。体を引きちぎられようとしたら、一歩譲ればいい。引き波につかまって、海の底で沖に持っていかれようとしたら、それに逆らってはいけない。逆らったところで、引き波の方が強いに決まってるのだから、おぼれてしまう。逆らわず、流れにそって泳いでいけば、体にかかる力が弱くなったように感じられる。そうやって流れに乗っていれば体を押さえつけられることもないし、海面に向かって少しずつ浮上していくこともできる。そうやって海面に出てしまえば、おぼれる心配はなくなるわけだ。

波乗りをおぼえたければ泳ぎが達者でなければならないし、海にもぐるのにもなれていなければならない。それができたとして、あと必要になるのは頑丈さと常識だけだ。大波のパワーは想像を絶する。めちゃくちゃにかきまわされるし、人間とボードは何百フィートも引き離されてしまう。サーファーは自分の身は自分で守らなければならない。救助に駆けつけてくれるサーファーがどんなに大勢いたとしても、それには頼れない。フォードやフリースがいてくれるという安心感のためか、大波にもまれたら、まず自分で泳いで脱出しなければならないということを、ぼくはつい忘れてしまった。そのときのことを思い出してみると、大波がやってきて、この二人はそれに乗ってずっと遠くまで行ってしまったのだ。彼らが戻ってくるまでの間、ぼくは何十回となくおぼれかけた。

サーフィンではサーフボードに乗って波の前面をすべりおりることになるが、そのためにはまず自分から滑りださなければならない。ボードとサーファーは、波が追いついてくるまで、陸に向かってかなりの速さで自分から進んでいかなければならない。波がやってくるのが見えたら、ボードに乗って向きを変えて波に尻を向け、全力で海岸にむかって漕ぐ。いわゆる風車みたいに腕をぐるぐるまわして漕ぐのだ。波の直前でスパートする。ボードに十分なスピードがついていれば、波がそれを加速してくれて、四分の一マイルもの長さの滑走が始まることになる。

沖ではじめて大波に乗れたときのことは決して忘れない。波が来るのが見えた。向きを変え、必死でパドリングした。腕がちぎれるかと思えるほどだ。ボードのスピードはどんどん増していく。自分の背後で何が起きているのか、わからない。風車みたいに漕いでいるときに振り返ったりはできないのだ。波が盛り上がり、シューシューという音や波がくずれる音が聞こえた。ボードが持ち上がり、放り投げられるように突進した。はじめのうちは何が起きたのか、さっぱりわからなかった。目を開けても何も見えない。白い波しぶきに埋もれていたのだ。だが、そんなことは気にならなかった。波をとらえたときの至福ともいえる喜びだけを感じていた。三十秒ほどで、物が見えるようになり、息もできるようになった。ボードの鼻先三フィートほどが空中に突き出しているのが見えた。体重を前にかけるようにしてボードの先端を下げた。そのとき、ぼくは荒々しく動いている波のど真ん中で静止していたのだった。海岸が見えた。ビーチの海水浴客たちもはっきり見えた。とはいえ、その波で四分の一マイルもサーフィンできたわけではない。ボードが波に突き刺さらないよう重心を後ろに移動させようとしたのだが、体重を戻しすぎて波の背面に落っこちてしまったのだ。

サーフィンをはじめて二日目だったし、自分がとても誇らしかった。四時間もサーフィンをして、終わったときには、明日もまた来よう、ボードに立って見せるぞと思っていた。だが、その思いは先延ばしになってしまった。翌日にはベッドに寝ていたのだ。病気ではない。どうにも動けなくて寝たきりだったのだ。ハワイの海のすばらしさを語ろうとして、ハワイの素晴らしい太陽のことを言いそびれてしまった。熱帯の太陽である。六月初旬なので、頭上に太陽がある。狡猾で二枚舌なやつだ。ぼくは人生で初めて、自分が日焼けしたことに気がつかなかった。両腕、両肩、背中は以前にも何度も日焼けしていて、いわば免疫はできていた。だが、下半身はそうじゃなかった。そして、サーフィンに熱中していた四時間というもの、足裏をハワイの太陽にまともにさらしてしまっていたのだ。裏側が太陽にさらされていたことは、サーフィンを終えてビーチに戻るまで気がつかなかった。日焼けすると、はじめのうちは熱を感じるだけだが、それがひどくなると水ぶくれができてくる。それに、皮膚にしわがよると関節も曲がらなくなる。それが翌日ずっと寝ていた理由だ。歩けなかったのだ。今日こうして原稿をベッドで書いているのはそのためだ。こうやってサーフィンができない状態におかれるより、サーフィンしてる方がずっと楽だ。明日になれば、そう、明日になれば、またあのすばらしい海に入って、フォードやフリースと一緒にサーフボードの上に立ってみせるさ。明日がだめなら、その翌日か、またその翌日に。ぼくは一つだけ決心した。自分が足に翼をつけて海の上を飛ぶようにサーフィンできるようになるまで、日焼けして皮のむけたマーキュリーになるまで、スナーク号でホノルルを出帆することはない、と。

スナーク号の航海(28) - ジャック・ロンドン著

ぼくは知識を前にすると、いつも謙虚になる。フォードには知識があった。彼はぼくにボードの正しい乗り方の手本を見せてくれた。それから、いい波が来るまで待ち、いまだというときに、ぼくを押し出してくれた。波に乗って宙を飛んでいるように感じるのは、すばらしい瞬間だった。そう、ぼくは百五十フィート(約三十メートル)も突っ走って浜辺にまで達したのだ。ボードを持って、フォードのところに戻る。このサーフボードは大きくて、厚さ数インチ、重さは七十五ポンド(三十四キロ)もあった。彼はいろいろ教えてくれた。彼自身は誰にも教わっていなかった。数週間かけて自分で苦労しながら学んだことを、ぼくに一時間足らずで教えてくれたのだ。ぼくの代わりに練習してくれていたようなものだ。そして、この半時間ほどの間に、ぼくも波に乗ることができるようになった。何度も何度もやってみたが、フォードはそのたびに褒めてくれ、助言してくれた。たとえば、ボードのもっと前の方に乗れ、ただし、あまり前すぎないようにしろ、といったことだ。だが、ぼくはそれよりずっと前の方まで行ってしまった。というのは、陸に近づいたとき、ボードが海底に突き刺さって急停止してしまってトンボ返りしたのだが、と同時に自分の体も投げ出されてしまった。ぼくの体は木くずのように宙に舞い、あわれにも崩れ落ちてくる波の下敷きになってしまったのだ。フォードがいなかったら、脳天をたたきわられていただろう。こういう危険も、このスポーツの一部なんだと、フォードは言った。ワイキキを去るまでに彼自身もそういう目に会うかもしれないし、そうなれば、スリルを追い求めている彼の思いも満たされることになる。

人殺しは自殺より悪いと、ぼくは固く信じているのだが、相手が女性の場合は特にそうだ。ぼくはあやうく人を殺しかけたが、フォードが救ってくれた。「自分の足を舵だと思ってみろよ」と、彼は言った。「両足をよせて、それで方向を決めるんだ」 数分後、ぼくは砕け波に突っこんでいった。そのまま波に乗ってビーチの方へ接近していくと、いきなり真正面に、仰向けになって浮かんでいる女性が出現した。乗っている波をどうやって止めろというのか? その女性はじっと動かなかった。サーフボードの重さは七十五ポンドあるし、ぼくの体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)だ。両方を合計した重量の物体が時速十五マイルで突進していくのだ。ボードとぼくはミサイルのように突っこんでいく。この気の毒な女性の柔らかい肉体に加わる衝撃の大きさを計算するのは物理学にまかせるしかない。そのとき、ぼくは保護者たるフォードの「足で舵を切れ」という言葉を思い出した。足で向きを変えてみようと思った。両足を踏ん張って全力で向きを変えようとした。ボードは波の頂点で横向きになると同時に切り立った崖のように垂直にもなった。いろんなことが同時に起きた。波はぼくをひっくり返すと、軽くポンポンとたたくようにして行ってしまったが、その軽くたたかれただけで、ぼくはボードからはじき落とされ、波でもみくちゃになり、海に引きづりこまれて海底に激突し、何度も横転した。やっとのことで海面に顔を突き出して息をし、なんとか歩けるようになったのだが、目の前にその女性が立っていた。ぼくは自分がヒーローになったような気がした。彼女の命を救ったのだ。すると、彼女はぼくを見てげらげら笑った。恐怖にかられたヒステリックな笑いというのではなかった。自分が危機一髪だったなどとは、夢にも思っていないのだ。ともかく、彼女を救ったのは自分ではなくフォードだし、ヒーローのような気になる必要はないと、ぼくは自分で自分をなぐさめた。それに、なによりも足でボードをあやつれるというのに感激した。ぼくはさらに練習し、自分でコースを選び、泳いでいる人を避けながら進めるようになっていった。くずれる波の下ではなくて、波の上に乗り続けることができるようになったのだ。

「明日」と、フォードが言った。「もっと大きな波が立つところに連れてってやるよ」

ぼくは彼が指さした沖に目をやった。さっきまで乗っていた波がさざ波にしかみえないような、水けむりをあげている大波が見えた。この最高のスポーツをやる資格が自分にもあると思っていなかったら、どう返事をしていたのかわからないが、ぼくはさりげなくこう答えた。「いいぜ、明日、挑戦してみよう」

ワイキキビーチに押し寄せる波は、ハワイ諸島すべての岸辺を洗っている波と同じだ。とくに水泳には最高だ。寒さで歯をがちがちいわせることもなく、一日中でも泳いでいられるほど暖かいし、適度な冷たさもある。太陽や星々の下で、つまり、昼でも夜でも、真冬でも真夏でも、暖かすぎず冷たすぎず、常に一定のちょうどいい温度なのだ。すばらしい太古の海そのものであり、けがれもなく水晶のように澄みきっている。こういう海だということを思えば、カナカの人々が水泳競技で優秀なのも当然だ。

翌朝、やってきたフォードと一緒に、ぼくはこのすばらしい海に飛びこんだ。サーフボードにまたがるか、その上に腹ばいになり、カナカの年少の子たちが遊んでいるサーフィンの幼稚園を抜けて、さらに沖へと漕ぎだした。まもなく、大きな波しぶきがあがっている沖に出た。次々と押し寄せる波と格闘し、沖に向けて漕いでいくだけでも一苦労だ。波のパワーは強烈だし、それに負けないためには自分をよく知っている必要がある。つまり、押しつぶそうとする波との闘いで、相手のスキをつく狡猾さも必要になるということだ ── つまり、冷酷で無慈悲なパワーと知性との闘いでもある。少しだがコツはつかめた。波が頭上におおいかぶさってくる瞬間、エメラルド色の波の膜を通して日光が見える。そこで、頭を下げてボードを全力でつかむ。と、波の一撃がくる。浜辺にいる見物人には、ぼくが消えたように見えるだろう。実際には、ボードとぼくは巻き波のなかをくぐって反対側の波の谷間に出るのだ。体の弱い人や気が小さな人には、ちょっと勧められない。波は重くて、押し寄せてくる波の衝撃は砂あらしに巻きこまれたようだ。ときには次々と間をおかずに襲ってくる半ダースもの大波に四苦八苦することもある。じっとおとなしく陸にいたらよかったなと思えたり、新たに陸にとどまっているべき理由が身にしみてわかることにもなる。

沖で水しぶきとともに波が襲ってくるところで、第三の男、フリースがぼくらに加わった。一つの波をやりすごして海面に出て、頭をふって海水を振り払い、次にどんな波が来るかと前方に目を凝らすと、フリースが波に乗り、ボード上に立ったのが見えた。この若者はさりげなくバランスをとっていたが、たくましく日焼けしていた。ぼくらは彼の乗った波をやりすごした。フォードが彼に声をかけた。彼は乗っていた波から降りて、ボードが波にのみこまれないようにして、ぼくらの方に漕いできた。フォードと一緒になって、ぼくに手本を示してくれた。ぼくがとくにフリースから学んだことの一つは、たまにやってくる例外的に大きな波への対処の仕方だ。そういう波は本当に強烈なので、ボードの上にいてぶつかったら無事ではすまない。だが、フリースはぼくに手本を示してくれた。そういう波が自分の方にやってくるのが見えたときはいつでも、ボードの後ろから海中にすべりおり、両手を頭上にあげてボードをつかむのだ。こういう波ではよくあることだが、波は手からボードをもぎとってサーファーをぶんなぐろうとする。ところが、こうしておくと、波の一撃と自分の頭の間には一フィートの水のクッションができる。波をやりすごしたら、ボードによじのぼってまた漕ぐのだ。ぼくは、ボードが当たってひどいケガをした人を何人も知っている。

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波に乗る

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沖でのサーフィン