ヨーロッパをカヌーで旅する 29:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第29回)


今日、新しい楽しみを発見した──飲み干したワインのボトルを川に放り投げ、プカプカ浮かんだり流されてぐるぐる回ったりする様子を、それと並走しながら観察し、川の自然な流れと自分が頭で考えて選択したカヌーのコースとを比較するのだ。やがてボトルが生き物のように感じられてきて、カヌーとボトルで競争したりもした。ボトルが川底の石に当たるたびに、人にみたてたコルク栓が水中に沈んだりするので同情心もわいてくる。カヌーに比べると浸水が激しいようで、川底にぶつかるたびに、ガラス特有のキンキンする甲高い音が聞こえてきて、やがて沈んだ。

川の近くには低木が生い茂っていた。それがもう数マイルも続いている。枝ごしに陸地が見通せる場所が一箇所あって、二十人ほどが干し草作りをしていた。男も女もいたが、川から離れたところで真面目に仕事をしているので、ぼくが接近しても誰も気がつかなかった。

ここでちょっといたずらをしてみようと思った。で、作業をしている人々が見える状態を維持しながら、カヌーを土手に近づけた。そうしておいて、いきなり大声を張り上げたのだ。

統治せよ、ブリタニア、
ブリタニアは大海原を支配する*1。

この詩で「奴隷(どれい)」のくだりになる前に、作業をしていた全員が石像のように固まってしまった。黙り込み、あぜんとし、前後左右や上の方をキョロキョロ見まわしたりしている。むろん、川の方には目を向けない。というのも、川に誰かがいるはずがない、と思い込んでいるのだ。これまで自分たちの平穏な日常を乱すために川から何者かがやってくるなんてことは一度もなかったからだ。そこで、ぼくは陽気な口笛を吹いた。そうしておいて、隠れるのをやめてカヌーの上に立ち上がり、できる限りわかりやすい英語で彼らに対して短い(が、華麗な)スピーチをし、次の瞬間にはまた姿を消した。

さらに進むと、道路を建設しているところがあった。ぼくはカヌーを木の下に引き上げておいて、「バラック」というか作業員用の食堂まで歩いていき、中に入った。三、四十人のドイツ人の作業員が座っていて、昼間からビールを飲んでいた。ぼくも一杯注文した。彼らの健康を祝し、金を払い、会釈して食堂を出たのだが、このフランネル生地の服を着た男がどこから来たのか知ろうと、連中は大挙してぼくの後をついてきた。ぼくはカヌーで出発したものの、川は建設工事のためにだめになっている。寸断され、迷路のようだ。ぼくは渡渉しながらカヌーを引っぱったり、漕いだり、抱えて運んだりと悪戦苦闘した。彼らは岸辺に並んでそれを眺めていた。

このあたりまで来ると、橋に頻繁に遭遇するようになったが、これは文明が悪い形で川に侵入してきたものだ。というのも、こうした橋のほとんどは高さが非常に低いので、マストを傾けるためにカヌーを片側に倒さないと通過できない。そうなると、カヌーは難破したような状態で自由に動けない。風があるため帆を下ろすことはできないし、それに加えて、川の流れも速いので、ぼくと彼女──カヌーは物ではなく相棒だ──は、橋の中央部のアーチにどんどん接近していく。橋脚の間に入ったとき、流れていくコース上に鋭い突起物があることに気づいた。脇に寄せてかわそうとすれば木製の堤防にぶつかってしまうだろう。とはいえ、突起物に激突すると穴があいてしまうし、堤防にぶつかる方が(両手で押して離れることができるので)まだましだ。

堤防にドシンと当たったカヌーは、ひっくり返ろうとした。転覆させないためには、すぐさまカヌーから飛び降りるしかなかった。無造作に突き出されていた橋の下の突起物は、鉄の杭の先っぽか柵のようなものだったろう。

というわけで、ここで、川旅で遭遇する多くの隠れた危険というものは、橋の周辺で起きるということを述べておきたい。水中に固定された木製または鉄製の棒や、橋の建設で残されて転がっている荒く鋭い岩などが川からきちんと除去されたりすることはないので、そうしたところを漕いで進んだりするのはむずかしい。

川には、もう一つ、別の種類の障害物も存在する。それは川に渡してある細いワイヤーロープだ。このワイヤーロープに取り付けた短いロープをたどって平底の渡し船が流れを横切る仕組みになっている。ロープの色は黒で、近くまでいかないと見えない。見えた時には、もうマストを倒そうとしても間に合わない。とはいえ、こういった危険はしっかり「見張り」をしていれば、回避するのがむずかしいわけではない。川旅を一、二週間も続けていれば、見張りは本能的かつ習慣としてできるようになる。

川旅には多くの利点があるが、その一つは、川では観察力が必要であるし、それが養われるということだ。

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訳注
*1: 統治せよ、ブリタニア(“Rule, Britannia”) - 仮装劇『アルフレッド大王』で歌われるジェームズ・トムソンによる詩の一節。


イギリスの愛国歌であり、ベートーベンが『ルール・ブリタニアによる五つの変奏曲』を、ワーグナーが『序曲 ルール・ブリタニア』を作曲するなど、ドイツ語圏でも知られている。


なお「奴隷」云々は、詩におけるこの呼びかけの後に、ブリトン人(イギリス人)は「奴隷とはならない」という表現が続くことから。

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現代語訳『海のロマンス』15:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第15回)



この歌のように、睡魔におそわれた小島通いの船頭が、今日の泊地の灯を待ちかねて舵柄(ヘルム)をとりながらまどろむ千年前ののどかな瀬戸の海や、頼りない船頭を乗せてどうやらこうやら泊地にたどりつく、扱いやすくて機敏な「よき小舟」などのイメージが色彩豊かにくっきりと自分の頭に思い浮かぶ。しかし、現今(いま)の船乗りはそんなのんきな所作はできない。

練習船では学生百二十五名を四分し、右舷一部、同二部、左舷一部、同二部と称し、この各部三十名の者がかわるがわる夕方の四時から翌日の朝の八時まで、四時間ごとに当直に立つことになっている*1

四時から八時までを薄暮当直(イブニングウォッチ)、八時から正午を初夜当直(ファーストウォッチ)、正午から四時を中夜当直(ミッドナイトウォッチ)と称し、最後の四時から八時までを黎明当直(モーニングウォッチ)といっている。

終始同じ当直に立っていると単調な船乗り生活(シーマンライフ)をいやが上にも単調にしてしまうので、毎日、モーニングウォッチ──ミッドナイトウォッチ──ファーストウォッチ──イブニングウォッチと、順繰りに交代している。しかも各当直には、それぞれ特徴がある。すなわち、モーニングウォッチの甲板(デッキ)洗い、イブニングウォッチの星の観測などであるが、最もふるっているのは、いわゆる中夜(ミッドナイトウォッチ)夜話(やわ)なるものである。

出帆してまもない頃の人々の夢は確かに故郷の野をさまよっているので、ミッドナイト夜話の話題も多くは故郷に関してである。昔の思い出である。

あるときはローマ、ギリシャの神話(ミソロジー)から、メーテルリンクの象徴主義(シンボリズム)に至るまでが論じられたりもする。冷たい雨が降りしきって甲板(デッキ)を濡らすときは、昔の帆船につきものの伝説や神秘的な話題、やがては到底信じられないような荒唐無稽の怪談に、時の経つのを忘れることもある。また、あるときは例の名物男たる水夫長をひっぱって来て、海上のアルプスと呼ばれるケーブホーンの星月夜のすごく寒い航海談や、ヤシの花から露がしたたり落ち、マンゴーの美果が口に甘いタヒチの楽園のこと、ポピーの紅が野の丘に広がっている春の夕景、重いマンドリンを抱き、しみじみとした歌を披露して金をもらうイタリアの門付(かどつ)けのことなど、どれほど若人(わこうど)の心を躍らせたことだろう。

要するに、中夜(ミッドナイト)の夜話は、帆船のロマンチックな雰囲気を最もよく表している部分だと思う。



脚注
*1: 四時間ごとに順番に当番に立つのは現代の帆船でも同様だが、当番はワッチと呼ぶことが多い。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 28:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第28回)



いつもならどこかの村か、少なくとも人家を一軒見つけて十分な食事をとるのだが、ドナウ川のこのあたりは人家がなく、食事は木陰の静かなよどみでのんびりしながらカヌーに乗ったまま持参した食料ですませるのがよさそうだった。この川で他の舟や船に遭遇することは稀だったが、そんな風にくつろいでいるとき、その稀な一隻と出会った。その舟には、少年が一人乗っていた。自作したらしいその舟は、三枚の板を鉄くぎで固定した、喫水の高い、なんとも不格好なものだった。彼が手本にした舟は流線形のロブ・ロイ・カヌーとは対極にあるものだったらしい。ポールが一本あり、スコップも持っていた。スコップをパドル代わりに使うのだ。ぼくは彼にパンを差し出して話をした。バターとチーズも提供した。彼はワインは受けとらず、濡れた上着からたばことマッチを取り出し、なれた仕草で火をつけた。馬やヨットやラクダなど互いにちょっと変わった流儀の一人旅をしている者同士でよくあるように、ぼくらはすぐに仲良くなった。話があい、談笑しあった。本が読めるとわかったので、ぼくは赤い縁どりのドイツ語で書かれた紙片を彼に手渡した。彼はすらすら読み、嬉しそうにポケットにしまった。ぼくに同行したいという思いで、彼はスコップを使って必死に漕いでついてきていたのだが、急流にさしかかると、ボートの性能の差はいかんともしがたく、残念ながらぼくは彼をはるか後方に置き去りにして進まざるをえなかった。そのときの悔しそうにつぶやく低い声と悲しそうな視線は忘れられないだろう。

この川には大小の魚の群れをなしていたが、釣り師はあまりいなかった。十日間で、釣りをしている人は十人もいただろうか。とはいえ、小さくてかわいいカワセミがせっせと魚を捕っていた。ぼくとカヌーがそいつの縄張りに侵入すると、抗議するように一声鳴いて飛び去った。その青く丸い背中が陽光を受けて輝いた。太陽が頭上にあるときは、ミツバチが羽音を立てていた。日が沈むと、ブヨがせわしなく飛びまわり、朝に生まれて夜に死ぬという、一日限りの複雑な踊りを舞っていた*1。

ドナウ川は岩礁によって流れが左右に分かれているところがある。どちらを通っても再び合流するまで数日はかかったりした。そういうところでは、川と岩場による奇妙な悪ふざけが見られたりもする。

まず左右の岸が三十メートルほど隆起した直線の岩場になり、それから、あちこちで崩れた崖になっていたり、隆起したり陥没したり、深い裂け目にかかる橋状になっていたりする。

巨大な歯のように尖った岩が水面のあちこちで斜めに突き出している。前方にノミで削ったようになめらかな垂直な壁があり、それが中央で川を分断している。そういう場所に差しかかると、川のどちら側を進めば出口が見つかるのか判断するのはまったく無理だ。で、間違えて行きどまりの方に入り込んだこともあった。

他にも、ドナウ川の川幅がハングルフォード付近のテムズ川くらいあったものが、いきなり六フィート(約1.8m)ほどに狭くなり、音を立てて流れ落ちているところがあった。そんな場所でも、ロブ・ロイ・カヌーに乗っていると、歓声を上げながら下っていけたりしたが、最大の難所というようなところでは、いきなり突っ込まず、まず上陸してコースを下見することにしていた──こういうとき一人きりというのは、なんと心細いことか!

それよりもっと厄介なのは、川が一ダースもの細流に枝分かれしていて、それぞれが小さな滝のように流れ落ちているところだ。通過できるのは一箇所しかないか、まったくないこともあった。こうした水路を見つると、調べて試してみて、失敗したり、成功したりしたが、それも一興で、楽しみがつきない。一マイル進むごとに面白いできごとが起きて、そうした最後にさっき述べた岩場が登場するわけだ。

そして今、ぼくら(つまり、ぼくとカヌー)は大平原にさしかかっている。川は蛇行し、無数の中洲や渦や「沈木」や水中に突き刺さった流木の間を縫って急な流れが続いている。この迷路のような川で最も重要な地点を、ぼくらは帆走しつつ、ものすごいスピードで突っ走っていった。が、いきなり川が枝分かれしていた。二つある水路のうち、一方は木が枝を伸ばしていて、マストが当たりそうだった。それで、ぼくはすぐさまもう一方の水路にカヌーを向けた。と、一人の男が立ち上がり、そっちはボートでは無理だと叫んだ。危機一髪だった。ぼくはすぐに帆を下ろしてマストを倒し、急流と強風のなかを必死に漕いで引き返し、通過可能だという水路に入った。それまで何時間も人影を見なかったのだが、この警告が耳に届いたのは幸運だった。



訳注
*1: ブヨ - 川辺では朝夕にブヨが発生する(羽化して成虫になる)のはよくある。しかし、成虫になってからの寿命が一日だけということはないので、この部分の記述はカゲロウなどと混同しているのかもしれない。

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現代語訳『海のロマンス』14:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第14回)


草の枕も結ばねば

「帆のかげに富貴ひそむ」とは、かのジョンブルが豪語している言葉であるが、自分はさらに「帆のかげにロマンスひそむ」と言いたい。

古い昔の匂いをかぎ、神秘の色を味わい、小説(ロマンス)や伝説(トラディション)が好きな者は、この二十世紀の実利優先の世では、無骨者よ、頑固者よと笑われる。そういう人は帆船の空気を吸ったらよいだろう。ロマンスを味わいトラディションを研究することがロマンチックの第一義ならば、船乗り商売はいわゆるロマンチックな生活として、世の青靴下(ブルーストッキング)党*1にうらやまれることだろう。なぜかというと、帆船には昔のロマンスの形見となるべきものが比較多く残っているためだ。

その一例として、自分はここに帆船に絶えず用いられているログなるものについて話したいと思う。

時計はいわずもがな、日時計、漏刻(みずどけい)等の原始的な時間を示す機械がまだ発明される以前に、ギリシャやエジプトの古代王国で砂時計(サンドグラス)なるものが用いられていた。二つの木の台と数本の支柱との間に囲まれた細い頸部(けいぶ)を持つ二つのガラス球の中に細かな砂を入れたものがそれである。この古くさい、五千年前の粗野にして純朴なる一器具が、精巧なクロノメーター、六分儀(セクスタント)等の二十世紀の機器とところを同じくして船内に備えられているさまは、なんとも珍妙な対照を示している。しかし、いかに古い匂いのする帆船とはいえ、五千年前のイリヤン族を真似て、この砂時計を時刻を測るのに用いるわけではない。すなわち、船ではその速力(スピード)を測るために用いるのだ*2

毎時間の終わり五分前に風下船尾(リースターン)に、次の時間の風下当番(リーサイド)、舵手(ヘルム)、見張り(ルックアウト)等が「ログ、流せ!」の号令で集まってくる。やがて、そのうちの一人はくだんの砂時計を持ち、クリヤーグラスと叫ぶ。これは、砂が一方のガラス球に集まったのを告げるのである。測程線(ログライン)──良質の木綿糸を太く撚り合わせた適当な長さの線の先に測程板(ログシップ)という扇型の小板をつけたもの──を手から繰り出す用意をしたもう一人が、測程板(ログシップ)を水に投じると同時に「反転(ターン)」と呼ぶ。砂時計はひっくり返され、測程線(ログライン)は船の速力に応じて繰り出されていく。一つの球内の細かい砂がすべて下方の他の球中に収受されたとき、砂時計を持っていた者が「タイム」と呼び、測程線(ログライン)の送出者は線の送出をとめ、もともと線につけてあった標識(マーク)によって船の速度を知ることができるのだ。

このサンドグラスについては、西洋人もそぞろにロマンチックな感興を享受するものとみえ、ぼくの好きなロングフェローの詩にこんなのがある*3

灼熱のアラブの砂漠から
運ばれてきた、一握りの赤い砂
このガラスの中で、幾多の時代を見守り、叡智を導くものとなる。


(中略)

あるいは、ナザレのキリストを慈しみ深く抱いたマリアの
希望と愛と信仰の巡礼が荒野を明るく照らすところを

どこの野原や海岸のものともわからない、ひと握りの砂から、巧みに夢幻的な韻調(サウンド)や感慨を誘う状況を描きだしたロングフェローは、今この瞬間にサンドグラスを手に持って船尾(プープ)に立っている自分の想像のなかで、白い額で、大きなつぶらな眼をした、濃い縮れた髪の毛の男として描き出される。

そうして不思議にも、十四秒の最後の瞬間に、最後の砂のしたたりが細い頸部(けいぶ)を通過すると同時に、描き出された顔がフイッと消え失せた。あの白い額も、あの大きなつぶらな眼も、さてはあの濃い縮れた髪の毛もまた……。

黒い帆と軽快な船体とを巧みに操って地中海の海上権を握ったフェニキア人が珍重した簡単な器具が、代々伝承されて、ついに飛行機が飛び、無線電信が通じた価額万能の現代に、昔の匂いを吐き、色彩(いろ)を語ると思えば、なんとなく昔が恋しい、古代の人々がなつかしいという思いにかられたりするのだ。

船路(ふなじ)には草の枕も結ばねば、おきながらこそ夢も見えけれ*4 (重之)


脚注
*1: 青靴下(ブルーストッキング)党 - 18世紀中頃にイギリスの上流家庭の女性たちの間で開かれていた知的サロンとそのメンバーや同調者を指す。
練習帆船・大成丸の世界周航中に平塚雷鳥により設立された青踏社により出版された雑誌『青鞜(せいとう)』はその日本版ともいうべきもので、ブルーストッキングの活動は、歴史的には、女性をめぐる問題提起やフェミニズムの起源になったとも言える。


*2: 船の速度を知る - かつて船舶で速度を調べるために使用されていたのがログ(木片)で、木片を海面に落とし、一定の距離を流れる時間から速度を計算したが、この一定の時間を測るために砂時計が使用された。
帆船時代には木片の代わりに、下におもりをつけて垂直に立つようにした三角形(または扇形)の板を、空に揚げる凧(たこ)のように紐(ひも)をつけて船尾から流した。

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紐(ひも)に一定間隔で結び目(ノット)/印をつけておき、一定の時間(砂時計の砂が落ちきる時間)に、いくつ分の結び目まで流れたかで速度を知った。
海では、1時間(3600秒)に1海里(1850m)進む速度を1ノットと定義するが、これは2秒で約1mになる。
本文にあるように、大成丸の砂時計は14秒(正確には14.4秒)なので、7mごとの印(当初は結び目=knot)1つ分が1ノットを示す。


*3: 米国の詩人 H.W. ロングフェロー(1807年~1882年)の「砂時計のなかの砂漠の砂」という詩の一節
(1850年刊行の詩集『海辺と炉辺』所収)。
『海のロマンス』では英語のまま引用されているが、ここでは和訳したものを掲載。


*4: 船路… - 源重之(みなもとのしげゆき、生没年不詳)は平安時代中期の歌人で、三十六歌仙の一人。これは筑紫に赴任する際に詠んだ歌で、『拾遺集』に収録されている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 27:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第27回)


出発するときも好天が続いていた。深緑色の森から木々の枝が川面まで垂れ下がっている。川の流れというのはえてしてカヌーをそうしたところに運んでいくことがあるのだが、湾曲部で速い流れがそっちに向かっているようなところでは、鋭く曲がった枝で傷つかないように特に注意が必要だ。奇妙に思えるかもしれないが、カヌーにとっては岩や土手より実際にはこうした木々の方が危険だし、はるかに厄介だったりする。というのは、カヌーが低い枝の下に入り込んでしまうと、パドルをうまく使えなくなってしまうのだ。強く水をかこうとパドルを立てると、パドルの反対側が枝にひっかかってしまう。また、枝をかわそうと頭を下げると前方がよく見えなくなるし、一般に太い枝は固くて、頭をぶつけたりしたら、けっこう痛い。といって、上体を後ろにそらせてかわそうとすると、顔を小枝でひっかかれ、特別に高い鼻でなくても穴に枝が食い込んだりする。顔を守ろうと手を使うと、パドルを川に落としてしまうこともある。ぼく自身は帽子を落としたことはなく、石頭だし、パドルをなくしたこともない。むろん鼻を枝で串刺しにされたこともないのだが、川下りでは、できるだけ樹木から離れたところを通過するようにしていた。

それでも、サギやカモの群れをおどかしてやろうと、木陰を進みたいという誘惑にかられるときもある。

一度など、二ダースほどのサギの群れと遭遇したことがある。カヌーは音を立てず静かに水面を滑っていくので、じっくり観察することができた。この鳥たちはその場所でそれまでカヌーなどというものに邪魔されたことがなかったようだ。

サギたちはぼくとカヌーをじっと見つめ、互いに顔を見あわせ、それから、この未知の物が接近してくることについて群れ全体で意思を確認しあっていた。鳥たちの顔に気持ちが出ていて、それを読みとれるとすると、こうしたサギのうちの一羽は他のサギに「こんなの、いままでに見たことがあるか?」と聞いていた。もう一羽のくちばしの動きは明らかに「なんて図々しいやつだ」と応じていた。三羽目が皮肉な調子で甲高く叫んだ。「しかも、よそ者だぜ!」 そうしたことを相談しているようだったが、サギたちはやがて立ち上がって輪を作り、それから下流の方へと飛んでいき、ちょっと離れたところに舞い降りて、またひとかたまりになった。ぼくの方も川を下っていくので、しばらくすると、その新しい場所に接近する。すると、サギはまた飛び立って下流に移動する。こんな調子で同じことを繰り返し、それが数マイルも続いた。しまいにサギの群れは戦略を変更し、下流ではなく脇にどいてカヌーに道をゆずってくれた。

気持ちのよい追い風が吹いていたが、だんだん強くなってきた。帆を揚げると、カヌーはトップスピードで進み、岩を乗りこえ、干し草畑の耕作人たちを追い抜いていく。それを目撃した一人が残りの「仲間」に知らせようと叫んだが、彼らが見ようとやってくるより早く通りすぎてしまった。後方から興奮した調子で、幽霊じゃないかとか話し合っている声が聞こえた。

しかし、何度も幽霊船と間違われるのはうれしいことではない。カヌーについて何も知らない人や船を見たことのない人、外国人を見たことのない人たちの真ん前を突っ切っていく方がずっと面白かった。「突っ込んでいく」には大きすぎる落差の滝があったり、幅のある障害物が存在しているときには、カヌーを陸に上げて迂回する方がよい。ぼくはカヌーの先端を生け垣から突き出して他から見えるようにして干し草畑を突っ切って歩いたり、「水たまりさえあればどこでも」進めるアメリカの浅瀬走行船を真似て、露でぬれている刈り取られたばかりの草地の上を引きずっていったりもした。そういう場合、不意打ちでそういう場面に出会った人々の驚きは、ちょっと言葉では言い表せない。灰色の服を着た怪しい男がにこりともせず地面の上でカヌーを引いて歩き、人に囲まれると、いきなり笑いだしたり英語で熱弁を奮ったりするものだから、逃げ出す者さえいた。子どもたちはたいてい泣き叫んだりした。そういう様子は、ぼくにとって不思議だったが、相手にとっても同じくらい奇妙だったに違いない。

このあたりで川の水はすべて淡い青みがかったものになり、水面下の深いところの美しい光景が見えなくなったのは残念だった。だが、三十マイルほど進んだところで再び川底の小石が見えるようになり、魅力的な透明感を取り戻した。水の色が濃くなったり黒い影ができたりするのは、それなりに重要な問題をはらんでいる。というのは、水に陰影がささず色もつかず透き通っていれば、水中にある岩や大きな石や他の障害物をはっきり視認できるのは無論のこと、多少の経験を積むことで、ちょっと離れたところであっても、どれくらいの深さがあるのかがはっきりわかるようになるからだ。

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現代語訳『海のロマンス』13:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第13回)


船中の音楽とメス猫

すさみやすい船乗りの心をやわらげるものが音楽であることを知るならば、無骨者が集まった越中島(えっちゅうじま)*1にピアノの音が響き、バイオリンの調べが聞こえるこることが、それほど不思議でないことがわかるだろう。

百二十五名の、生死をいとわない海の児が乗った練習船にも、尺八をはじめとしてマンドリン、ハーモニカ、横笛、バイオリン等の軽便にして雅趣のある楽器がたくさん持ちこまれている。また、日曜や大祭日(たいさいじつ)などの休日には学生用食堂の中央に一台の蓄音器が設置され、午前・午後と交代で非直になった者がニコニコしながらそれを取り巻いて座を占める。人々の顔にはもう予期した笑の色が流れる。やがて「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」の無邪気なものをはじめとして「野崎の連引(つれびき)」「三十三間堂」などの呂昇(ろしょう)*1の肉声に至るまで、それぞれ歓笑のうちに迎えられる。大きな子供等が髭面をくずして納まり返るところは本当に無邪気なものである。

この他に日曜の午後には汁粉(しるこ)の缶詰が開かれ、紅茶が供される。これも航海中に日曜を待ち遠しく思う要素の一つである。

前回の米国西海岸のサン・ペドロへの航海のときには、船には犬とワニと猫と三種の小動物がいて、少なからず船内の空気を華やかにした。ジャックと呼ばれた犬と、小さなワニとは在留日本人の贈り物であった。他の愛玩物たる猫は虎ブチのはいったやつで、愛らしい表情と、すばやい目つきとを持った、二等航海士(セカンド)のお気に入りであったが病気になったため、その後任者として三毛の美しい子猫が二匹やってきた。

誰やらの思いつきでさっそく赤と黄のリボンを首につけたまではよかったが、メス猫だからと頭からしたたかに香水をふりかけたところ、面食らって士官室に飛び込み、悪事たちまち露見して大目玉をくった風流児もあった。かてて加えて、こやつ、女に似合わぬしたたかな悪戯(いたずら)者で、さる人の秘蔵のマンドリンにじゃれて糸をめちゃめちゃにして手ひどいお叱りを受け、それからというものは糸の音には耳を伏せて逃げるのが一愛嬌となった。ときどき船倉(ホールド)の底で二匹が可愛らしい赤い口と口を、小憎らしい口ひげと口ひげとを寄せ合っているのを見うける。

「きっと、われわれの世界は動いてやまずとかなんとか言っているにちがいないぜ、君」
と言って、いあわせた者を笑わせた剽軽(ひょうきん)者もあった。この頃では三毛先生もすっかり船に慣れて、揺れ動く床の上を歩く腰つきも巧みである。

風下当番、舵手、見張り

船は今、右舷後方からの順風を満帆にはらみ、五、六度のこころよい傾斜をなし、軽く紺青の水の上をすべって行く。

風はさそれほど強くはないが、風の神の呼吸が規則正しいことを示すかのように、力ある一定の速力でそよそよと吹いてくる。なんとも穏やかで快適な航海である。こういうときには、風下当番(リーサイド)は少しのんびりした心持ちになる。

暁(あかつき)の海が血潮(ちしお)の色に燃える日も、重みのある黒い帆の影が甲板(デッキ)の上にはっている清い月の夜も、船が水に浮かぶかぎり船橋(ブリッジ)の上には必ず二人の学生の影が見られる。停泊中にあっては「甲板当番(かんぱんとうばん)」と呼ばれ、帆走中にあっては、すなわち「風下当番(リーサイド)」となる。

練習船では第一次の遠洋航海をすませた者を二期生と呼び、新乗船者を一期生と呼ぶが、風下当番は二期生および一期生より一人ずつ一時間交代に選び出されるのだ。「風下の水平線を注視し云々(うんぬん)」という指示がこの名称の由来になっているが、そのほかに晴雨計、乾湿計、海水寒暖計等の記入、時鐘(タイムベル)をたたくことなども、なすべき任務である。

時鐘(タイムベル)については、ここに面白い伝説がある。いつごろの世紀からか帆船の船乗りの間に大晦日(おおみそか)の正午の八点鐘*3を打つ独身者には、パンドラ姫のごとく、うるわしき幸ある花嫁が与えられるだろうとの言い習わしがあった。この民間伝承にあるような雰囲気は二十世紀の練習船の中にもはっきり残っておったものとみえ、サン・ペドロへの航海の際に、南カリフォルニアの近海で迎えた昨年の大晦日には、どちらかといえば敬遠されるこの役目を希望する者が多くて、ついにクジで決めたというほほえましい争いもあった。

世の中がだんだん手軽に、都合よく、科学的になって、野菜畑やビリヤードルームまで備えたオリンピック号やタイタニック号などの巨船が生まれてくるという時代に、蒸気力(スチーム)や水圧力(ハイドロール)すべての機械力を白眼視して、白い帆に黒い風が抱擁されるのを待つ帆船の艤装には、黒船のそれに比べて異なったところがたくさんあるが、舵輪(ホイール)などもその一つである。

練習船の艫(とも)には黒船に見られない樫(かし)またはチーク等の堅材で作った直径八フィート大の舵輪(ホイール)がある。これには二人の大の男が常にとっついている。一人は風上舵手(ウェザーヘルム)で他は風下舵手(リーヘルム)である。風上舵手(ウェザーヘルム)は二期生が担当し、一期性は風下舵手(リーヘルム)となる。やはり一時間交代である。舵能(ステアリング)の会得は多年の経験と、高度な技量とを要するもので、その研究は優に一科目を形成するものであるとは、日本航海界の権威たる松本教授の言であるが、実際にも風速、風位、潮流、波の高低および大小船の喫水等と深い関係がある舵能(ステアリング)の修練はとても困難であり、しかも趣(おもむき)のある問題である。だから、舵手(ヘルム)は常にマストヘッドの風見と航走羅針盤とを眺めて、風の方位と進路の保持に細かく心をくだくのである。

「左舷船首(ポートバウ)二点三マイル*4のところにクジラが見えます」と叫んで叱られた先人の逸話は、いまも見張り当番に立つ者が心ひそかにほほえむ種を作っている。手にメガホンを持って船首楼に立ち、水平線を凝視し、舷灯(ランプ)が見えないか、島影はないかと注視するのが見張りである。

夢よりも淡いサンサルバドルの島を遠く水平線のかなたに見いだしたコロンブスの喜びも、三角波が立ち騒ぐインド洋に船を進めてテーブルマウンテンを近くから仰ぎ見たバスコ・ダ・ガマの喜びも、ともに無名の一見張りの鷹のような鋭い視線によるのである。



脚注
*1: 越中島 - 東京都江東区の地名。ここでは東京商船学校(東京高等商船学校、東京商船大学を経て、現在は東京海洋大学)を指す。


*2: 呂昇 -  当時、人気が高かった女義太夫師の豊竹呂昇(1874年~1930年)のこと。


*3: 八点鐘 - かつて船で時間の経過を知らせるために鐘を鳴らしていたが、最初の三十分経過時に一つ鳴らし、一時間後に二つ、一時間半後に三つと、半時間おきに鐘の数を増やし、四時間経過時に八つ鳴らしたことから八点鐘と呼ばれる。通常、当番は四時間おきなので、当番終了を告げる鐘でもある。


*4: 左舷船首二点三マイル - 二点は、360度方位を32度方位で表したときの方位で、一度が11度15分なので「左舷の船首から22度30分の方位で、距離は三海里」の意味になる。ちなみに、陸上の1マイルは1609m、海での1マイル(海里)は1852m。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 26:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第26回)


第五章

ドナウ川の両岸の切り立った断崖は徐々に緩やかになった。道も川の近くを通るようになって、景観も地味というか、よくある風景になってきた。

道の方からガタンゴトンという音が少なくとも半時間ほど聞こえていたし、二頭立ての長い馬車が早足で駆けてくるのも目にしていた。その馬車は明らかにぼくのカヌーと速さを競っているようだった。馬車からはしきりに何か合図がなされていたので、ぼくは漕ぐのをやめた。すると、馬車も停車し、一人の男が飛び出してきた。炎天下に帽子もかぶらず、息を切らせ、野原を横切ってくる。その後に女性が二人続いていたが、どちらも同じように急ぎ足だった。その男はドイツ人で、ロンドンにも短期間だが住んでいたことがあり、現在は一ヶ月の休暇で母国にいるのだった。彼はぼくがカヌーをとめて連れの女性たちに見せてくれた「親切」に大いなる感謝の意を表した。村でカヌー旅の話を耳にして数マイルの距離を追ってきたのだという。またそれとは別に機会では、三人の若者が暑さにあえぎながらカヌーと並走していた。木や石につまづいてひっくり返ったりしている。そういう過激な駆けっこを一マイルも続けた後で、ぼくは何でそんなことをしてるんだいと聞いてみた。すると、この善人の村人たちは、この先に難所があることを、ぼくがそこにさしかかる前に教えてやろうと、わざわざ追いかけて来てくれたのだった。

見ず知らずの人間にそこまで骨を折ってくれるというのは、究極の親切だと思う。それで、ぼくは彼らの手助けをありがたく受け入れた──本音を言えば、その程度の難所は、ぼくにとって難所でも何でもなかったのだが。すると、彼らは目的が果たされたことに喜び、大いに満足し、言葉も元の高地ドイツ語の一種の純粋なシュワーベン語に戻った。

何度も折れ曲がったり急流を下ったりしした後、なんとかジグマリンゲンの町に着いた。住人は三千人足らずだが、どこか貴族的な雰囲気があった。この地域全体の人口は五万二千人にすぎないが、大公と呼ばれる人物が存在している。いわば「ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン公」という立派な名を冠した領主がロンドンの小教区ごとに存在しているようなものだ。その昔、地理の本でこの小公国を見かけるたびに失笑したものだが、ぼくはもう二度と笑ったりはしない。というのも、この地には世界で最も美しい景観の川が存在しているし、破滅的な戦争で爆発寸前の火種に点火する火花という、情け容赦ない興味がこれからも常につきまとうだろうと思われるからだ。

ここには、きれいな庭園がいくつかあった。すばらしいプロテスタントの教会が一つと立派な店も数軒あり、丘陵には複数の城が見える。しかも、高い岩山にそびえている古い方の城はよくある姿ではあるものの絵のように美しい。と同時に、ご先祖が入植したこの地は激動の地でもある。ぼくが宿泊したドイツ・ホフは開業したてのホテルだった。ぼくが客となった最初の英国人というわけだが、その英国人客がカヌーや野次馬と一緒に入口までやってきたときには、従業員一同を含めてハチの巣をつついたような騒ぎになった。ぼくの相手をしてくれた給仕はロンドンのバッキンガム・ゲートにあるパレス・ホテルで一年間の研修を終えたばかりの新人で、食事のときはぼくの横にいて、何かと英語で世話をしてくれた。自分の英会話の能力が必要とされていることをとても喜んでいた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第25回)


ベイロンのクロスターは、この近在で行楽に出かける先としては好都合な場所だ。イギリスのカヌーイストがドナウ川を漕ぎ下る場合に定番の「見るべき場所」になるのは間違いないだろう。というのも、川下りでこのあたりを旅するときの状況が効果満点で、こんなところは他にないからだ。ぼくが寝室の窓辺に寄りかかっていると、月が出てきた。天に向かって突き出している岩山を月が銀白色に照らし、周囲の木々はさらに暗くなってそれを縁どっていく。一方で、修道士の礼拝所からは、かすかに淡く赤みがかった光がもれていて、穏やかで低い夜の祈りをささげる声が聞こえてくる。おそらくは、毎日を働き通しでせわしない生活をしている平信徒よりは、修道士にでもなって頭巾をかぶっていた方がよいのかもしれない。仕事に忙殺される世界で、控えめに感謝と信仰心を抱いているよりは、聖廟で精進し、祈り、ひざまづく方がよいかなとも思った。とはいえ、ぼくとしてはまだためらいもあるのだが。

いつものように岸辺からの祝砲と声援に送られてベイロンを去った後、ドナウ川は両側がどちらも切り立った岩場の間を流れた。穏やかな川下りが何時間も続く。水は言葉にできないくらい透明度が高い。離れた深いところの洞窟さえ、のぞきこめるほどだった。ぼくはずっと下を見つめているのにもなれてきたので、泳ぎまわっている魚を見かけるとパドルの先でたたこうとしてみた(一度も成功しなかった)。そのため注意が散漫になり、カヌーが浅瀬に乗り上げたり岩場に激突したりもしたのだが、ぼんやり夢心地で、カヌーがコースを外れているのに気づかず、太い木にぶつかって木の葉やクモやゴミなんかが雨のように降ってきたりして、やっと川を下っていたことを思い出すという始末だった。そういう事件に遭遇すると、さすがに警戒心が芽生えるようになるので、ぼくは真面目に前方を注視するよう心がけた。が、狭いトンネルのような「難所」を通過したり、小さな滝を乗りこえたり、もっと大きな滝ではカヌーを引っ張って迂回したりと、一時間かそこら頑張ったところで、ぼくはついまたキョロキョロしてしまう。頭上にそびえている山の頂きや滑翔している鷲、その背後に広がっている、どこまでも青い空をつい眺めてしまうのだ。と、カヌーがまたしても水面下の岩に接触して大きく傾く。カヌーが損傷しないよう、ぼくは瞬時に飛び降りて船体を守る、といったことを繰り返した。こういう日々が続いているので、すぐに川に飛びこむことができるよう、ぼくはずっと裸足のままで、ズボンはたくし上げていた。濡れても、強烈な太陽がすぐに乾かしてくれるので、この上なく快適だ。

健康で気持ちも乗っていて、信頼できるカヌーがあり、風景もすばらしいという状況で、こうやって自分の体を使って漕ぐ喜びというのは、その本当の気持ちよさというものは、実際に経験してみないとわからない。急流では居眠り禁止ということを忘れさえしなければ、悲惨な結末になることはまずない。実際、ぼくはこの航海で風邪を引かなかったし、ケガもしなかった。カヌーに穴が開くようなトラブルもなく、無事に家に帰りつけた。また、一日たりともカヌー旅を悔いたこともない。願わくば、できるだけ多くの英国人が自由気ままに「自分のカヌーを漕いでみる」ことを体験できますように。

とはいうものの、カヌーを漕いでいるうちに腕が疲れてきたり、まだ目的地に着かないのに日が暮れてきたり、腹が減って死にそうだったりしたとき、特に人家のある場所を教えてくれるような人が誰もいないとか、そこに着いたとして問題なく夜を過ごせるような場所かがわからないなど、早く今日の予定が終わらないかなと願う気持ちになることはある。それは間違いない。5

航海についてガイドもなく、川沿いに舟を引いて歩く小道もないような川では、自分がその日にどれくらいの距離を進むことができるのか予測するのはむずかしい。調整や予測が可能なのは、自分は何時間漕ぐつもりでいるのか、平均の速度、風の強さ、川の流速、食事や休憩で上陸できそうな場所、水車用の堰堤、滝または障害物の有無などは検討がつくものの、それで航程を正確に予測することは不可能だ。

人里離れたスウェーデンの湖では、一日に三十マイルも進めば十分だと思っていたところ、一日に四十マイル進んだことも珍しくなかったし、景色がよく、いろんな出来事に遭遇し、興味のつきることのないようなところでは、一日に二十五マイルがやっとというところもあった。

一般論として、徒歩旅行では、気持ちのよい地方で一日に二十マイルも歩けば身も心も十分に活動し観察も行ったことになるだろう。だが、川旅で生じる出来事は、徒歩旅行者の日記に書かれるような出来事に加えて、自分のカヌーをめぐる状況すべてが関係してくるので、路上で起きる出来事よりはるかに多くのことが頻繁に発生し、しかも興味深いのだ。それにちょっと漕いでいるうちに、カヌー自体が自分の仲間(ぼくの場合は友人かな?)になってくるので、湾曲部をまわるたびに、また舷側に何かがぶつかったり擦(す)れたりするたびに、自分の体に何かが当たったり擦(す)れたりしたように感じるようになってくる。「人と一体化したカヌー」 対「川」という心地よいライバル関係ができるほどカヌーが個性を持つようになり、川もそうなっていくが、そうしたことすべてが航海中に起こりうるのだ。

欧州大陸を何回か旅した後では、鉄道に乗るか見物しはじめて一時間ほどは、すべてが物珍しく楽しいものに感じられるが、やがて早く終着点に着かないかなと願うようになり、町に滞在しても、そう長くならないうちに、帰国のことを口にするか考えはじめたりするものだ。一方、カヌーによる旅の特徴は、そうしたことがゆっくり進行していくので、その間はずっと楽しむことができるというところにある。というのも、いつだって奮闘し体を動かしているのは自分であって、周囲の景色についても仔細に観察できるし、湾曲部を曲がったり傾斜による流速に応じて即座にどうすべきかを判断しなければならないから退屈している暇がない。一日の喜びというものは、確かに、その日に航海した距離の長さでは測れない。たとえば、昨日の航海は景色や出来事や運動という点ではまさに最良の一つだったが、距離は一番短かった。ガイドブックによれば、「ツットリンゲンまで十二マイル」──川旅では、十八マイルといったところ──「クロスター・ベイロンから、美しい景観が展開する。ドナウ川のこの領域は航行不能」となっている。



原注
5: バルト海の航海では、飢えを感じることはなかった。食料や調理具も積んでいたからだ。1867年4月27日にテムズ・ディットンでの最初のカヌークラブの競技会で「陸上と水上での追い駆けっこ」で五隻のカヌーが競った四つの賞のうちの一つは、きれいな小型の調理セットだった。二人分を調理でき、重さは二ポンドだ。その調理セットには今でも「船長が設計し、コックが提供し、パーサーが勝ち取った」と銘が刻まれている。ヨルダン川やナイル川、それに今はもう埋め立てられてしまったオランダのゾイデル海の航海では、ぼくはカヌーの中で眠ったし、カヌーには四日分の食料を積むようにしていたが、そういうところではカヌーを降りて引っ張らなければならないダムがないかわりに、宿泊できるような集落がないところも多かった。しかも、ほとんどの場合、自分の貴重な持ち物から離れた場所で食料を調理し宿泊しなければならなかった。おまけに、そういう東方の航海で最も安全な野営の適地というのは常に、人っ子一人いない人里離れたところなのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 24:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第24回)


この素晴らしい景色はベウロンまで続いた。ドナウ川は広大な草原の周囲をめぐるように流れ、由緒正しい修道院が、深い森と円形競技場のような垂直に切り立った白い崖に囲まれるようにして立っていた。

この場所は美しいのだが、人の気配はなかった。夜の宿を求めるのは無理なようにも思えた。ここに漕ぎ入れてみると、ぼくはまたしても自分一人しか存在しない世界にいるという感覚になった。一本の木のところまで漕ぎ寄せてから上陸し、この秘境のような場所で、草をかき分けながら小さな集落まで歩いていった。

畑仕事をしていた人々は、いきなりフランネル生地の服を着た男が川の方から出現したものだからびっくりしていた。とはいえ、このクロスターの人々も「旅をしている小さな舟」のニュースについては知っていたので、ぼくのカヌーはすぐに二人の男の肩にかつがれて、立派な宿まで堂々と運ばれていった。ここの修道院を設立した王子も修道士なのだろうなと、ぼくは思っている。

「晩祷(夕の祈り)」の鐘が鳴るころ、ぼくが休憩所で壮大な景観を眺めながら食事をしていると、山々はみるみるうちに黒雲におおわれ、ものすごい雷鳴が長くとどろき、土砂降りの雨が降ってきた。

運のよいことに、この豪雨は、ぼくがちゃんとした避難場所を確保してから襲ってきた。空気が急に冷たくなった。これだけ雨が降ると、川は曲がりくねったりせず直線的に流れていくことだろう。尊敬すべき修道士たちは、そういうことにはまったく無頓着だったので、つまり、自分は屋根の下にいて雨中で野外にいる人を見るというのではなく、あるがままの現実をそのまま受け入れている様子だったので、ぼくは感心した。

この土地の友人を訪ねてきた少女の一人が、うまくはないもののフランス語を話すことができたので、ぼくの食事中は話相手をしてくれた。他の家族たちはというと、皆がぼくの持参したスケッチブックを眺めているのだった。何週間も続いたこの航海では、こういうことは少なくとも一日に二度は起きた。音楽が聞けるところはないかと思い切ってたずねてみたところ、大きなホールに移動することになった。そこではギターとピアノとバイオリン各一台で、コンチェルトが演奏されていた。歌をうたうことについては、ドイツの人たちは決してためらったりしない。

案内してくれたメラニー嬢は、今度はドイツ語しか話せない他の人たちとぼくとの通訳になってくれた。ぼくらの話題は、まったく無視するというわけにはいかない、いくつかの高貴なテーマに向けられた──つまり、「宗教」として、何が愛され、何が恐れられ、何が喜ばれ、何が馬鹿にされるのかということだ。

ぼくの荷物はとても少なかったが、選びぬいた品を持ってきていて、聖書の逸話集やフランス語とドイツ語で書いた紙類も含まれている。適当な折を見て使ったりしたのだが、たいていはきちんと受け止められ、大いに興味を持ってくれたり大真面目に感謝されたりもした。

文字が苦手で何か書いてやり取りするのをためらったり嫌がったりする人もいるが、人前で話すのが苦手だったり、乗馬やスケートやボート漕ぎが嫌いだという人だっているわけで、そんなことを詮索して小馬鹿にする必要はない。

外国語では正確に話せないことを明確な言葉で伝えるために、いくつか紙に書いて持ち歩くというのは、控えめに言っても、許容される範囲だろうと思う。自分にとっても相手にとっても非常に役に立ったり興味深く思えたりもするのだ。それで誰かを傷つけることはないし、誇りに思ったり恥ずかしいと思ったりすることでもない。ぼくもそれで人に笑われたりすることはもうない。

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現代語訳『海のロマンス』12:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第12回)


……波は……さざなみに至るまで、ありとあらゆる波はことごとく巨霊のカンナに削りとられて……いま沈みゆく、モヤのかかった赤い大陽は………………

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デッド・カーム(真の無風状態)

総帆を展開

帆船にとって風は生命(いのち)である。総量である。しかし、単に風といっても、微風(ライト)から台風(ハリケーン)まで風力の階段がある。北風、東風、西風等の方位の配列がある。熱帯風、貿易風、季節風等の風帯がある。

本船は十六日午前六時、館山の錨地を出て、九時まで機走を続けて完全な外海に出たとき、総員にて上はローヤルから下はコースまでの総横帆(そうおうはん)*1と、舳(みよし)はジブから、艫(とも)はスパンカーまでの総縦帆(そうじゅうはん)*2と合計三十余枚のセイルを展じた。ちょうどそのとき吹いてきた力強い西方の海軟風(シーブリーズ)をはらんでフワリと前方に張り出した放物線体の帆縁(セイル)の曲線美は、日ごろ見慣れている乗組員の目にも優美に映るとみえ、ここかしこに集まり、空を仰いで賛美する者が多い。実際、今まさに開こうとする蓮の花のような線曲率(カーバチュア)はどんな名工の塑像にも、どんな念入りの肉体美にも発見することのできない柔らかいデリケートな感じを与える。

昼の休みに冷たい甲板(でっき)に汗ばんだ体を投げて、高くマストの上に掲げられた風見の、色彩あざやかな吹き流しを見ていると、馬尾雲(ばびうん)と呼ばれる白い薄い柔らかい夏雲が軽く東へ東へと飛んでいる。船体は五百俵の米と二百樽の味噌や醤油の類と、氷室(アイスチャンバー)に納めた二百貫余の生肉とを満載しているため、赤い水平線を示す塗り色が波に埋まっているくらい喫水が深いので、縦揺れ(ピッチング)も横揺れ(ローリング)も少なく、船は一箇所に静止しているように思われる。かくして練習船はこの西風の好伴侶に送られてカリフォルニアの沿岸に達し、それから沿岸風を利用してサンディエゴに向かう予定である。

東西南北の四風をつかさどる風神のうちで、西風神(ゼフィラス)は最も穏やかな性質だという。この風の吹くところ、冷たい氷雪もとけ、野には薄くしい花が咲き、岡には黄金の果実が熟し、悠々としてくつろいだ雰囲気に満ちると言い伝えられている。われら海の子にとってはまたとない守り神である。

十八日に出帆して以来、青い海に咲く白い波の花と、夕方の空の濃い紫色の雲とをながめてすでに三日が過ぎた。その間も西風は絶えることなく吹き続け、強い黒潮の圧流とを受けて、日々二百海里余*3を走破し、二十日正午に位置は北緯三十六度十分、東経百四十八度四十七分、十九日正午からの航程は実に三百十九海里と、本船の帆走航程の記録(レコード)となるくらいだった。こうして、今や銚子から東に五百海里の沖にある練習船に、さらにこの後も西風神(ゼフィラス)の風が吹いてくれますように。


脚注
*1: 横帆 - 江戸時代の千石船のように、上辺(と下辺)に帆を張る棒(帆桁)がつき、マストと垂直方向に展開されるものを横帆という。
一般的な形状は、等脚台形に近い。
ロイヤル(セイル)もコース(セイル)も横帆で、一番下に張る大きな帆を特にコースセイルと呼ぶ。
メインマストのコースセイルが一番面積が広いため、これをメインセイルと呼ぶこともある。


*2: 縦帆 - 現代のヨットの帆のように、前縁を固定しマストと同じ垂直方向に展開する帆を縦帆という。
追い風を受けたときの推進力は劣るが、風上に向かうときや方向転換するときの効率がよい。
形状は三角形が多いが、ガフリグのように台形もある。
ジブもスパンカーも縦帆だが、ジブはマストの前側に展開し、スパンカーは船尾に展開する。


練習船大成丸は四本マストのバーク型と呼ばれるタイプ(写真)。
大成丸_figure02
前から三本のマストには、上から下へ五、六枚程度の横帆を展開し、
また、それぞれのマストから、ヨットのジブ(前帆)のように、斜めにロープを渡して三角形の縦を展開するようになっている。


ひとくちに帆船といっても多岐にわたり、マストの数や形状、建造年代によって呼び名もさまざまで、それぞれによって帆の名称も異なったりするが、総帆を展開した帆船は、おそらく人類が発明した「最も美しい乗り物」の一つ。


*3: 海里 - 長さの単位のマイルには、陸上のマイル(哩、約1609m)と海上のマイル(海里、浬、約1852m)がある。
原文では哩と浬が混在し、そのどちらにもマイルとルビがつけてある。
緯度経度や海上での距離の計算では主に60進法を使うので、明確に陸上と分かる場合を除き、ほぼ60の倍数となる海里を指すと判断してあります。

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