ヨーロッパをカヌーで旅する 71:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第71回)
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川は数マイルにわたり、いつもと違う様相を呈していた。両岸の土手は低く、そこから草の絨毯(じゅうたん)でおおわれた緩やかな斜面が続いている。どちらの側の眺めも、広々としてしている。両岸を緑で縁どられた、透き通った川面をカヌーは滑るように進んでいく。前方には、広大な平原が果てしなく続いている。そこを過ぎると、川は再びはしゃぐように飛び跳ねたり、大きく落下したりしていた。たいていの場合、それは人工物が設置されているためで、そのたびにカヌーを降りて障害物を乗りこえたり、船体を手で押さえつけて下をくぐらせたりと、なにかと手間がかかった。苔(こけ)や地衣(ちい)類がびっしり生えた岩は滑りやすく、そういう場所で力のいる作業をするのはけっこう重労働だ。

パドルについていえば、毎日ずっと、来る日も来る日もパドルを漕いでいたので、もう体の一部のようになっている。ほとんど無意識に動かしていた。カヌーを始めたばかりの頃は、大切な物を落としたり失くしてしまっては大変なので、ヒモやロープをつけたりしていた。波に負けてパドルが手から離れたり、不注意で川に落としたりしたときに備えて、どうすればよいか考えて練習していた。とはいえ、実際の川下りとなると、そういう事前に考えたことは、なかなかその通りにはいかないものだ。カヌーから飛び降りる際にヒモがからんだり、逆にヒモがついているのを失念して岸に放り投げようとしたこともあった。というわけで、パドルのヒモは長めにするか、あるいは、まったくなくてもよかった。一度に二十もの作業を、しかもすべて最優先でやらなければならないというような、もう頭がこんがらがって訳が分からないというようなときでも、実際にパドルを落としたことはない。カヌーが転覆しそうになったときも、なんとかカヌーから抜け出して事なきを得た6

原注6: これまで十回ほどの航海を行ったが、結果はまったく同じだ。予備のパドルを用意するよう助言を受けることも多かったが、ぶっちゃけ、そんなのまったく不要と言っていいかもしれない。竹製のマストについては、元をただせばボートフックとか棒としても使えると思っていた。先端に継ぎ手を取り付け、魚をかけるギャフも用意していた。ボートフックとしては、イギリスのグレーブゼンドで一度使ったことがあるだけだ。すぐに無意味だとわかった。カヌーを岸のそばまで寄せたいときには、水深があればパドルで漕げばいいだけで、ボートフックなど使わない。逆に岸の近くが浅ければ、カヌーの底がつかえてしまうので、ボートフックがあっても使えない。しかも、ボートフックに握り替える際にパドルを落とすことだってありうる。

パドルで漕ぐのは、歩くときに足を動かすのと同じように、ほぼ無意識にできるようになった。川でも普通の難所であれば、入念に下調べしなくても直感的にわかるようになった。ためらうとか、何をどうしようとか、あれこれ考えなくても、自然に対処できるようになった──ような気がする。こういう一種の上の空という状態は、急流を流れ下る際に、ずっと高いところの地面やもっと上空の雲をじっと見つめていても、安定した適切なカヌー操作の支障にはならないという神がかり的な境地に至るまでになった。

夢見心地でそういうことをあれこれ考えていたものだから、ふと気がつくと、川の周囲の景色が最高なのに、それに背を向けて見過ごしていたとわかって後悔した。それで、その場で二、三回ぐるっとまわりながら、沈む夕日に照らされて輝いている峰々をうっとりと眺めた。そうした光景に心を奪われながら、そうやってぼんやりとした気持ちのまま、また川をゆっくりと下っていく。カヌーというものは、カヌー自体が常に最善のコースを選んでくれるので、乗っている人間の方は特別な操船などしなくても問題ないという、なんとも非論理的でおバカな妄想にふけったまま、数多くの岩が点在している早瀬までやってきた。水流はそのまま岩を乗りこえて流れているし、ぼくはまだ魔法にかかっていて、どのコースを通るのが安全かといったコース選択など何もせず、カヌーが流れていくままにまかせておいた。と、この能天気な男に対して川が反撃した。はっと気がつくと、カヌーは水面下にある巨大な岩めがけてまっすぐ進んでいた。水流は巨大な岩盤上を流れているが、水深は数センチしかない。次の瞬間、カヌーの底が岩に当たった。カヌーは急停止し、その場で旋回する。流れに対して横向きになる。ゆっくり転覆しかける。カヌーの傾きがきつくなったところでやっと、ぼくの緊張感を欠いた筋肉も目ざめた。というのは、この愚かでものぐさな態度の結果として沈は避けられないと感じられたからだ。

さらにまずかったのは、ぼくはそのときちゃんと座っていなかった。カヌーに寝そべるようにして、片足はバッグのベルトにからんだままだった。次の瞬間(こういうとき、ほんの一瞬が数分にも思える)、この小さく哀れなカヌーは横倒しになった。脳裏にはいろいろな思いが激流のように浮かんでは消えた。ぼくはなんとか脱出しようともがく。と、カヌーが岩から離れた。カヌーの船長たるぼくは、自分の頭と腕だけを水につっこんだ状態で──なんとも情けない状態だ。まあ、これはこれで笑い話にはなるだろうが──、なんとか立て直してちゃんとカヌーに座ったときには、頭からずぶぬれになっていて、服の袖から水がしたたり落ちた。それでどうにか酔いからさめたみたいに、目がさめた。その瀬を過ぎると、また感傷的になり夢想にふけっても大丈夫になった。つまり、川はまた元のように普通の流れに戻った。

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現代語訳『海のロマンス』56:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第56回)

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島物語   上、サンゴ礁の島々

練習船の朝は、衣服を洗う手に調子を合わせる節(ふし)が面白い洗濯屋の鼻歌に明けて、今日もまた快適な航海日和(こうかいびより)である。

イエーエー、ホーッと、のんきそうにブレース*1を引く当直員の歌に、暁(あかつき)の夢を破られて、上甲板に出ると、寝ぼけ眼(まなこ)をしかと見開けといわんばかりにサンゴの島(環礁、アトール)が間近に浮かんでいる。甲板(デッキ)は写真にとったり、スケッチをしたりする早起きの非番直員で一杯だ。

*1: ブレースは帆桁(ほげた)に付けたロープ。これを引いて帆の向きを調整する。

七十八の島からなるツアモツ諸島の一部、アクチアン群島の一つたるミント島*2である。

*2: 地名については当時と現在では異なる場合が多い。
ツアモツ諸島も、現在では実際の発音に忠実に「トゥアモトゥ」と表記されたりするため、アクチアン群島、ミント島が具体的にどの島を指すのかは不明。

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(Source: Wikimedia Commons)

傘のように広がったヤシの木がサンゴ礁の中ほどにあって、その濃緑の葉かげは静かなる礁湖(ラグーン)にかかり、白い砂は堡礁(バリアリーフ)の波うち際を帯のように包んで、右の端にはしぶきがものすごく上がっている。

このミント島なるものはアクチアン群島中の最大のものであるという。午前七時半、ぼくが六分儀で観測したところによると、左舷正横(ポート・ビーム)二・五海里のところに角距離(アングラーディスタンス)二十九度四十分に見えたから、低くはあるがかなり長い島である*3

*3: 六分儀は、太陽や星の水平線からの高さを測定するための道具で、そのときの時間と高度で緯度経度が計算できるのだが、その応用で、これを横にして島の端から端までの角度を測ることにより、その島までの距離と組み合わせて島の長さを知ることもできる。
六分儀は実際に近年まで土木測量の分野でも活用されていた。

海図(チャート)で見ると、いわゆる「海抜が低い」小さな島々が、視線をはぐらかすように点々と散らばっているところは、諸葛孔明(しょかつこうめい)が魚腹浦(ぎょふくほ)に敷いたと伝えられる八陣の布石そっくりである*4

*4: 三国志の有名な石兵八陣の逸話。
数の上で劣勢な軍が少ない兵をあちこちに分散させて大兵力に見せるという作戦。
逃げる劉備(りょうび)を助けるために諸葛孔明が考案し、追尾してきた陸遜(りくそん)をこの作戦で撃退したとされる。

もしも、この海上の「八陣」に流れこんで首尾よく環礁にぶつかろうものなら、それこそ「大正の陸孫(りくそん)」である。うまうまとサンゴ礁で難破して「魚腹(ぎょふく)」に葬(ほうむ)られるばかりである。

いくら海洋(うみ)が好きでも、ネプチューンと仲良しでも、まだまだ魚腹に葬(ほうむ)られるほど粗末な体は持っていないつもりである。そこで用心した。一週間ばかり前から内心では大いに用心していた。船長と専任教官は南太平洋の地理と、サンゴ礁の成因性質についての知識を与え、一等航海士はサンゴ礁に対する見張り(ルックアウト)の注意と見つけ方とを教えた。

かくして見張り(ルックアウト)は昨日の午後から「二重見張り(ダブル・ルックアウト)」となり、一人は前のマストの上に立つことになった。そうして、いい風であるにもかかわらず、今日の午前九時には総帆(そうほん)をたたんで機走に移り、この危険ではあるが興味をそそる環礁(アトール)を研究・観察するため、わずか三、四マイルの距離を空けて通過することにした。やがて、ベッドフホードとかテナルンガという同工異曲の島が同じ色と同じ形をして灰色に曇った空の下に現れてくる。

サンゴ礁には通常バリアリーフ(堡礁、ほしょう)とフリンジングリーフ(裾礁、きょしょう)との二種類がある。前者はまた、さらに環形礁(かんけいしょう)と線形礁(せんけいしょう)との二つに分ける。

この環形礁(かんけいしょう)の中央の円形の湾がすなわち、よく地理書に書かれている礁湖(ラグーン)で、波静かにして底深く、よく大船・巨船の仮錨地となりうるといわれているものである。

この環形礁で最も有名なものは、このツアモツ諸島、近くにあるソシエテ諸島、小笠原郡島とポリネシアの一部とである。

そうして線形礁で世界最大と称せられる著名のものは、東豪州クイーンズランド沖に東南から西北に走っている千マイルの長さがあるグレートバリアリーフである。

このサンゴ礁の間を縫って進むときは、気温と海温の変化に注意し、晴雨計の昇降に留意し、風向風力、鳥群、魚族の異変等すべて、島に近づきつつある予報をとらえるのも必要であるが、最も努力し心を配って効果のあるものは、とにかく集中力を切らさず見張る(シャープ・ルックアウト)ことである。

忠実にして機知と決断力に富み、優秀なる観察力と周到なる心配りと適格な判断力を有する見張りが、百尺(約三十三メートル)の高いところで、鋭い両眼をまんべんなく水平線の上を走らせていることを自覚するとき、安心と信頼とは人々の心に行き渡る。

というわけで、見張りに立つものは常に海水の変化に注意し、水平線の空の色、雲の形に目を配り、波の砕け(サーフ)や海水(みず)の白い飛沫を見逃すまいと心がけなければならない。

ことに海の色の変化は有力なサンゴ礁発見の手がかりとなるもので、太陽(ひ)を背中にして航海するときは、水面下四、五尋(ひろ)*5までのサンゴ礁は、そのすぐ上の水に淡い褐色か緑色か暗緑色かの色の変化を生じさせるので、たやすく危険を予知しうるとのことである。

*5: 尋(ひろ)は長さの単位。一尋は大人が両手を広げたときの長さ(約1.8m)。四、五尋は7~8メートル程度。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 70:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

緑色)現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第70回)eyecatch_2019

ルミルモンには宿屋が一軒あったが、ひどいところだった。すべてに秩序がなく汚れていた。御者もぼくと同じテーブルについて遅い夕食をとった。彼はフランス流の洗練というものを見せてくれた。そういうものは、一人でいるときよりも、他に人がいるときに発揮されるものだ。また、本当の自己否定とか、堅い友情をためしたりするときに示されこともある。で、御者氏は五つの異なるコースの食事を注文し、ワインを飲み、果物やいろんなものを食べまくった。翌日に渡された請求書の金額は、二人分の宿泊費込みでちょうど三シリング四ペンスだった。この御者氏は聡明な男で、自分がよく知っている分野の話題となると、話にまったく如才がなかった。そして、ぼくらの会話がもう一つの世界の、もっと大きなことについての話になると、「あの連中も向こうでは幸福なんだろうね。だって、向こうに行って戻ってきた人なんて誰もいないからね」と言った。── ちょっと変わった考えの持ち主で、妙な言いまわしをする人だった。相手が話題に興味を持ったようなので、ぼくはそれについて書いてある冊子を彼に手渡した。すると、彼はすぐさま声に出して読み始めた5

原注5: 何日か前、知らない人がぼくに読んでみてくれと紙の束を渡してくれたことがあった。礼を言い、後で気まぐれにその束を調べてみた。三十枚ほどの大判の用紙を綴じたもので、政治や科学や文学や宗教についての論考が掲載されていた。一番最後のテーマが面白かった。なんとも巧妙かつ辛辣に、批判的な論じ方をしてあったので、それがぼくには面白かった。その雑誌は上質の紙にタイプ印刷したものだったが、印刷はイギリスで行われていた。週刊で出ているようで、どこでも十二冊につき六シリングで売られていて、各ページには「サタデーレビュー」というタイトルがついていた。

翌朝、つまり九月二十日の朝、カヌーを手押し車に載せて運んだ。例によって、すぐに人垣に囲まれた。この町に着いたのは昨夜だが、もう暗くなっていたので、いまぼくらを眺めている見物人は、どういう事情でこんな通りの真ん中に小さな舟がいきなり出現したのかについては何も知らない。で、どう反応したものか、とまどっている様子だった。もうこのあたりで川に浮かべられるんじゃないかと言う人もいれば、いや、あと一、二マイル先に行ってみるべきだと言う人もいた。朝食の前にあちこち歩きまわってモーゼル川については調べておいたので、ぼくとしては、今は乾季で水位は下がっているだろうが、ここからでも川下りはできるだろうと思っていた。で、運搬してくれる人にはそのまま先へ進むよう指示し、冷やかし半分の喝采を浴びながら川へと向かった。緑色のメガネをかけて白い帽子をかぶった一人の老紳士が興味津々といった様子で近づいてきて、自分はこのボートの航海についての記事を読んだことがあると言いながら、群衆に道をあけるよう命じてくれたので、もうからかわれたりすることはなくなった。

群衆は態度を一変させ──フランス人は移り気だ──ぼくに積極的に手を貸し、スタート地点に決めていた地点まで一マイルもカヌーを運ぶのを手伝ってくれた。なんとも迅速な対応で、皆が大声で「さよなら!」とか「よい旅を!」とか、あたたかい声をかけてくれた。

また透明な水の上をカヌーで漕いでいくのは楽しかった。水の透き通った川というは、ドナウ川以来だ。流れも安定していた。流速のないイル川やバーゼル運河では味わえなかった爽快さを味わうことができた。水辺の花が、苔むした岩の周囲にできたさざ波でゆれている。川岸はゆるやかな傾斜になっていて、草地が公園のように広がっている。果樹はたわわに実っている。半時間ほどの快適な川下りで、ソーヌ川やドゥー川ではなくモーゼル川までやって来た。ぼくは喜びを感じながらカヌーで川を漕ぎ下ることに専念した。

この川の水は非常に透明度が高く、冷たかった。深く長いよどみもあれば、せせらぎが聞こえる浅瀬もあり、川は曲がりくねって流れていた。この前までの運河に比べれば、魚や水鳥がいたり、木々や愛すべき草原があるというのは、何とも歓迎すべき変化だった。太陽の日射しも強烈だった。そのため、予備の帆を両肩にショールのようにかけて、強い紫外線に抵抗した。そうやって独りきりで、楽しさをかみしめながら、滑るように川を下った。浅瀬も数多くあった。パドルで懸命に漕いだのだが、この日にカヌーが川底につかえた回数は、これまでの航海のどの一日よりも多かった。カヌーの舟底がドシンとかズズズッといった感じで川底とこすれる。何度も何度もだ。そのたびにカヌーを降りて、水深のあるところまで曳いて行かなければならない。時には、上陸して野原を通り抜けたり、岩を乗りこえて進んだこともあった。とはいえ、ズック靴にフランネルのズボンといいうラフな格好だし、川にいるときは常に濡れたような状態なので、どうということもなかった。

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現代語訳『海のロマンス』55:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第55回)

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三、赤道祭の起源

今日の艦船で行われる赤道祭(せきどうさい)なるものは──とはいうものの、汽船はもちろん、商売でやっている帆船でも現在ではほとんど見られないものとなっている。従って、まだこのクラシカルな迷信的儀式がまじめくさって行われるのは、軍艦か例の花魁(おいらん)船に限る──船長や士官を除く乗組員のうちで、最も多く赤道通過の経験を持っている者が海神ネプチューンに扮(ふん)し、多くの従者を引き連れ、鳴り物入りで、船長の手に刺股(さすまた)か南半球への航海を許す鍵を渡すことになっている。

しかし、この子供らしい芝居っけたくさんな儀式は、後世になっておとなしい船乗りによって発明されたので、赤道祭の起源なるものはまったく毛色の違った別種のカルチャーである。

「一般に赤道通過の際に挙行される実際の赤道祭を目撃した者は、けだし絶無(ぜつむ)ならん。ただ、ある者が近世において、往時に行われていた海上習慣の変形したものを見たのにすぎないだろう。」
と、ある本に書いてある。

十七世紀ごろ、ラス・オブ・フホンテノーと呼ばれる難所を通過するフランス船には、俗に「洗礼」と称する儀式があった。それは、船の士官の一人が、ガウンめいた長いローブを着て、頭には滑稽な帽子をかぶり、右手には木製の剣を下げ、左手にはインク壺を持ち、炭粉で顔を黒々と塗りたてて登場してくる。

この化物(ばけもの)めいた男が「難所通過」の未経験者を呼んで、その面前に膝まづかせ、持っていたインクで額に十字を描き、下げた木刀で肩を打つ。そばにいる介添人が一杯のバケツの水を頭からかぶせる。この間、終始無言であった男は、所持したブランデーの瓶一本をメインマストの根本にうやうやしく置いてくる。

これで儀式が終わり、ブランデーは古参船乗りの胃の腑(ふ)へ送られる。いや、まことにありがたい儀式である。

これとほとんど同様の観念に基づき、同様の習慣から来たもので、さらに一層猛烈な儀式は、オランダの船がバーリング岩の沖を通るときに行われたという。

それは、いわゆる「洗礼」される者を罪人のように縛って、これをメインのヤーダーム(帆桁の端)に吊るし、二、三度、引き上げ、引き下ろす。もしそれがオランダ国王または船長の名をもって四回に及ぶときは、その者の名誉はいとも尊(たっと)いものとなる。有難迷惑(ありがためいわく)である。かくして、海にひたされること数回に及び、最初の一回は銃を撃って敬意が示される。いよいよ有難迷惑である。

この「海水の洗礼」が嫌な者は、船員であれば十二ペンス、士官ならば二シリングを出すことになっている。この「贖罪金(しょくざいきん)」が酒肴料(しゅこうりょう)となるのは前のものと同様である。

このほか、オランダの船は「キール・ホーリング(船底くぐり)」といって、前記のようにヤーダームに吊り上げた「洗礼者」を、海に入れ、竜骨(キール)を超えて反対側の舷(たげん)のヤーダームに吊り上げる風習が行われていたという。

しかし、ぼくはときどき考える。そんな乱暴な目に逢いつつも、汚れざる海洋(うみ)の神秘を味わい、海を恐れ、海を尊(たっと)び、海を迷信的に見た昔の船乗りを不幸であると言おうか、幸福であると言おうか、と。

四、赤道の三海流

海洋(うみ)に生まれ、海洋(うみ)に生き、海洋(うみ)に死する船乗りに最も必要なものは、海洋(うみ)の知識である。心ひそかに泣きつつも、海の神秘と海の懐疑とを解かねばならぬ。

気圧を研究し、風を分解し、潮流ビンを捨てて海流を探るのもそのためである。

太平洋の赤道付近には、北赤道海流、南赤道海流の二つの環流(かんりゅう)と、反対海流(カウンターカレント)という海流と、都合三つの流れがある。

北赤道海流とは、地球の表面温度の関係から南洋諸島の北辺に生じ、西北に走ってフィリピン群島、台湾、日本東海岸を洗ってカリフォルニア州西海岸に回流してくる例の黒潮なるもので、これがカリフォルニア州西海岸で屈曲して再び発生地に帰着するものである。

南赤道海流もまた一つの順回流で、ただ向きが北赤道海流と違って左向きとなるだけである。すなわち、これは赤道の南辺に発生し、南極より北東に走って南米のパタゴニア沿岸で屈曲しきたる極海流を併せて東豪州海岸に向かうもので、その流れの幅も速力(一時間三海里以上)もはるかに北のものより優勢である。

反対海流(カウンターカレント)は例の北東と南東の二つの貿易風帯から生じる表層の「皮流(ひりゅう)」が西に流れてフィリピン群島に衝突し、そこで折り返して反対に東へ東へと流れるのを指すので、ちょうど両環流の中央を走り、その速力は一昼夜で七十海里に達する。

北赤道海流については、ここに面白い話がある。かつてサンフランシスコ航海のとき、本船から投げた潮流ビンが流れ流れて、一年あまりの後、台湾・花蓮(ホアリエン)港付近で一人の生徒の手に拾われ、学校へ送られたという数奇な事実のため、同海流の流向(りゅうこう)と流程(りゅうてい)とを推測することができたという。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 69:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第69回)
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左手を上ったところは巡礼者が集まる聖地になっている。毎年何千人もの人々がやってきては、新鮮な空気を吸い、山を歩いていい汗をかいている。フランス人たちは、運動や娯楽のためというより、信仰心にかられて、こんなところまで登ってきているようだ4

原注4: 有名なフランスの「聖地」としては、他にもグルノーブル近郊のラ・サレットの山がある。ここでは一日に一万六千人もの巡礼者が登ってきて、聖母マリアが時代を超えて出現し、羊飼いたちに語りかけたとされる場所を訪ねるのだそうだ。ぼくも実際に訪ねたことがあるのだが、そのときは聖なる水をレモネードのビンに詰め、それを荷かごに載せて運んでいる何頭かのロバと出会った。山のふもとに住んでいた僧侶が自家用ポンプを設置するまで、この聖水はヨーロッパ中でビン一本につき一シリングで販売されていた。現地で読んだ報告書によれば、聖人のふりをするために雇われた女がその手口を告白したので裁判沙汰にまでなったそうだ。イギリスでも、ローマカトリック教会の新聞は、この言語道断な詐欺行為を立証するための興味をそそる記事を掲載したりしていた。とはいえ、聖母マリア出現の目撃談における真実性と善良性については、バーミンガムのローマカトリックの司教がローマ教皇の承認を得て書いた本でも熱心に支持されている。


ぼくが思うに、ごく普通の人生という道の上を丈夫な靴をはいて真実かつ正直な生活を送るより、鋭い石の上をはだしで百マイル行進する方がやさしいのではあるまいか。

イギリス人の友人が合流し、ぼくの馬車に乗ってきた。モーゼル川の様子を調べるため、ぼくらは本通りを離れて、ビュッサンの町の方へ少し進んだ。この美しい川は、山頂の傾斜がゆるく丸みを帯びたバロン・ダルザス山(1247m)から流れ出しているのだが、四、五本の細かなちょろちょろした水の流れはバスタブほどの大きさの泉に流れこみ、そこで合流していた。その泉からあふれた水は山道に流れ出て、指を広げれば橋がかけられるほど小さな川の赤ちゃんとなっていた。このぶくぶくと涌き出している流れこそは、ぼくの興味をそそるものなのだった。というのも、今はまだ、かわいらしい小さな音をたてて草むらをちょろちょろと流れているだけだが、ぼくはこの冷たく透き通った流れがカヌーを浮かべられるほど力強い川になるまで追いかけていくつもりだからだ。

こうした大河の源流を実際に目撃すると、ロマンティックな空想癖のある者が興奮しないわけはないし、詩人は感情が高まり心がゆり動かされるはずだ。偉大な思想というものにはすべて、その源流というか萌芽というものが存在するに違いない。後世に大きな影響を与えるような偉大な考えというものが、一人の天才や戦士や賢者や政治家の頭の中でどのように誕生し、どのように脳を刺激したのかを知ることは興味深いだろう。源流の存在に加えて、思想というものにも、それぞれさざ波や深い淀(よど)みや周囲の美しい景観というものを伴った流れが存在している。気高い考えの者もいれば、視野の広い考えを持つ者もいるし、まっすぐ直接的なものもあれば、遠まわしなものもある。急流もあれば、静かで円滑な流れもある。すみきっていて、しかも深い、という流れは、ごくわずかしかないが。

とはいえ夢見心地で現実を見ずに出発するわけにはいかない。といって、ボージュの居心地のよい集落でいつまでもぐずぐずしているわけにもいかない。カヌーを浮かべられる本物の川があるところまで、冷静に状況判断しながらとにかく進むしかない。ぼくらは、川を浮かべられる川を探しながら峠を下った。うっそうと茂った木立のあちこちに、星のようにきらきらする光が見えている。湧き水がたまって陽光を反射しているのだ。そうした水たまりはから本物の川が流れ出しているはずだ。薄暗いなかで、カヌーが浮かべられるか否か、ぼくは小さな沼の一つ一つをチェックした。

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カテゴリー:読み物
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現代語訳『海のロマンス』54:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第54回)

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赤道通過(クロス・ザ・ライン)

一、海神ネプチューン

練習船大成丸は十一月七日、初夜当直(ファーストウォッチ)の一点鐘(いってんしょう)、午後八時半*1
に無事に赤道を通過した。

  *1:大成丸の当直は、夕方の四時から翌日の朝の八時まで、
    四時間ごとに分担がなされていた。

     午後四時から午後八時まで: 薄暮当直(イブニングウォッチ)
     午後八時から深夜零時まで: 初夜当直(ファーストウォッチ)
     深夜零時から午前四時まで: 中夜当直(ミッドナイトウォッチ)
     午前四時から午前八時まで: 黎明当直(モーニングウォッチ)
    
      担当する四時間を三十分ごとに区切って合図の鐘を鳴らすが、
    鐘をつく数を順に増やし、
     それぞれ一点鐘、二点鍾、三点鍾~八点鍾と呼んだ

科学万能で神秘的なものを排する「散文(プローズ)の世の中」である。自分ばかりは旧式なロマンチックの帆船に乗って、非人情や無刺激な生活を送っていると思っても、それも結局は主観的観念に過ぎなかった。

二十世紀の赤道の海には、海神(かいじん)ネプチューンの威霊(いれい)も現れなかった。世が世ならば……とホロホロと大きな涙をこぼして海神も嘆息されたろうが、一方、ぼくらも、品川を出帆して以来、期待し憧憬(しょうけい)した赤道通過祭が、オジャンになって少なからず落胆したしだいである。

海洋の神秘があざけられ、オーシャン・スピリットがその権威を失い、大洋の情趣や景勝が忘れられていくのを見ているネプチューン殿もつらかろうが、かのアホウドリと共に阿呆(あほう)といわれ馬鹿にされ、世間からは時代遅れの余興のように見られている帆船乗りも、また情けなく、つらいことではある。

船が利口になって帆船は汽船となり、人が利口になって船乗りが海員となり、茫漠(ぼうばく)とした大海の上から「帆とロマンス」とを払い去った現世で、古きにあこがれ新しきを呪(のろ)い、夢のごとくおぼろげな過去の愉悦(ゆえつ)と追憶に生きうる者は、かくいうぼくと、ネプチューン君、君との二人である。さらばネプチューン君!! 君の権威と威力(ちから)と慈悲とを祝福せんかな。

  一、その一挙手は大波をゆるがし、
    その一投足は陸と人とをふるわす。
    わがネプチューンのその権威、
    わがネプチューンのその威力(ちから)

  二、その殿堂たる大洋に大河は朝貢(みつぎ)し、
    その懐(ふところ)に魚類が楽しむ。
    サンゴの宮、瑠璃(るり)の花園(にわ)、
    われはたたえん、その得と威と力。

  三、踊れるトリトン/ネプチューンと、歌える海の妖精(フ)、
    声うるわしく人を魅了(みする。
    かのサイレーン(海の精)こゆ、
    千尋(ちひろ)の底の常春(とこはる)の楽土(くに)。

二、五目飯とカステラ

十一月七日正午の観測によれば、船は今夜の八時ごろに赤道を超える(クロスする)という。
船長の考えで、赤道祭(せきどうさい)などというお祭り騒ぎは止して、ごちそうを食べ、のんびりくつろぐだけの休日になる。海上生活の情緒的な行事として長い間、人々に想像され期待されていた赤道祭は、ウヤムヤに逓信省(ていしんしょう)所属の練習船・大成丸の甲板上から消え去った。したがって、白いひげを生やして、片手に三叉槍(さんさそう)、片手に地球をささげた海神から、「南半球の鍵」をもらう荘厳なる儀式もなく、トリトンや海の妖精(シーニンフ)や海の精(サイレーン)等の従者たちの扮装(ふんそう)も見られなかった。

ごちそうが出る休日として、正午(ひる)に五目飯(ごもくめし)、卵とじ、吸い物、きんとんという贅沢(ぜいたく)な献立を頂戴したぼくは、おやつに、カステラを肴(さかな)にサイダーの祝杯をあげた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 68:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第68回)
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鉄道は緑の山々を縫って曲がりくねりながら走っている。あちこちの村に「工場」があり、夜になると、無数ともいえる窓の光で山の中腹の斜面が照らし出される。こうした工場群は、女性が大好きな──買うのはその夫たちだが──流行のフランス製のショールやスカーフを作り出しているファッション業界の拠点でもあるのだ。ここで図案化されたデザインは、一流の名人の手になる油彩画のように高額で、フランスでは、一つの図案を彫るごとに、イギリスの製造業者が支払う金額の三倍のお金が支払われているらしい。

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現代語訳『海のロマンス』53 :練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第53回)
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アホウドリを釣る

一、彼らはおそれ、彼らはおどろき、
  彼らはうらみ、彼らはののしった。
  生暖かい鳥の首をキューキューと、
  こともなげに俺が絞めたとき。

二、何という無残なしうち?!
  おそろしい悪魔の心!!
  手前が鳥を殺した故に、
  海が時化(しけ)たらどうするつもりだ?

三、見ろやい、祟(たた)りがもう現れた、この外道(げどう)め、
  無辜(むこ)の鳥を殺した報いは、
  マストにうなる強い風となったわ。
  と、震えながら彼らは吠えた*1

*1: イギリスの作家、コウルリッジの幻想的で怪奇な長編物語詩『老水夫行』に、アホウドリを殺したために船が呪われて……という、ほぼ同じような一節がある。

バタバタと甲板を駆ける靴の音がしたと思ったら、「釣った、アホウドリを釣った」という、浮世離れしたユーモアに富んだ声が、人々の心のどこやらに必ずひそんでいる、子供のごとき好奇的欲求をけしかけるように、けたたましく甲板に響く。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 67:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第67回)eyecatch_2019

第十二章

カヌーで航海するときはいつも小さな旗を揚げているのだが、それは荷馬車で運ぶ時も同じだ。ゆっくり歩いていく。目的地には少しずつ近づいてはいる。夕方になると、美しいボージェの山々から涼しい風が吹いてきて、旗も生き返ったようにひらめいた。トゥーア川が道をさえぎるように流れていて、そこを渡らなければならない。とはいえ、日照りが続いていて水が少ないので、渡渉は簡単だった。ぼくらの荷馬車の行列は、やがてタンというかわいらしい町に入った。御者はこのまま自分が定宿にしているホテルまで行こうと言った。ぼくとしては、その宿を見た瞬間に、この規模の町でこれが一番ということはないなと、すぐにわかった(何度も経験しているからね)。それで、ぼく自身が手綱(たづな)をとって引き返し、もう少しましな宿を探した。

見つけた宿の主人はぼくのカヌー旅の記事を読んでいたそうで、大歓迎してくれた。最高だったのは、なんでも自由にできるということだ。夕方、集まった地元の人々を楽しませるため、マグネシウムのランプを点灯してみせた。大勢の人が道路にあふれている。摘みたてのブドウを満載した大きな樽を載せた荷車を牛にひかせて家路に向かうところなのだ。花束を振りまわし、花の冠を高く掲げ、踊ったり、しわがれ声で歌ったりしている。朴訥(ぼくとつ)な感じではあるが、ブドウの豊作を祝っているのだ。国境を超えてフランス領に入って気がつくのは、フランス人は歌が下手だということだ。そういうのを聞かされると、すぐにドイツ人の上手な歌がなつかしくなるから不思議だ。このあたりの農民たちの言葉はまだドイツ語で、気質もドイツ的なのだが。

夜になると、火事を消す実験があるというので、それを見物しにいった。市場に大きなかがり火がたかれていた。新しい装置の発明者が前に出てくる。背中に水を入れた容器を背負っている。炭酸ガスで大気圧の六倍の圧力がかかっているらしい。細くなったホースの先端を火に向ける。かがり火は驚くほど短時間で消えた。大成功だ1。この発明家と町の頭のよい人たちは、その後で、ぼくのカヌーを見物しにきた。例によってスケッチブックを広げて楽しんでもらい、気持ちよく一日が終わった。この日のはじめは苦労の連続だったが、一日の最後ですべて逆転した。にぎやかな町ではあるものの、本屋は一軒しかなく、品揃(しなぞろ)えも貧弱だった。一人の神父と修道女二人が、そこで本を買っていた。活字がびっしり詰まった本より絵や図入りの本の方がよく売れているようだ。

原注1: この発明(消火器)はロンドンでもよく知られているし、非常に価値のあるものだと思う。

翌朝、新しい鉄道を利用してカヌーを丘陵地帯まで運ぶことができた。鉄道の係はカヌーを別便で送るように言った。つまり「貨物」専用の汽車に載せろというわけだ。このカヌーは自分にとって、いわば「女房」のようなもので、それと別々の汽車に乗るなんてできないと、ぼくの方も説を曲げなかった。彼らは額を寄せ、知恵をしぼり、五種類の書類に何やら書きこみ、二倍の料金を請求した。とはいえ、ぼくが払った費用は全部で九ペンスだった。まったく、フランス人は相も変わらず書類仕事が好きで、臨機応変ということを知らない。

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