オープン・ボート 5

III

海の上で同じ船に乗りあわせた者たちに生じる微妙な連帯感を言葉で表すのはむずかしい。誰も同志だとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかったが、一緒にボートに乗るはめになってみると、そういう感情というものが実際に存在し、互いに親近感がわいてくるのだった。船長がいた。機関士がいて、船の料理長がいて、それに乗客の記者がいた。この四人は同志だが、普通の仲間よりもっと強いきずなで結ばれていた。負傷した船長は船首の水がめにもたれ、いつも低い声で穏やかに話した。しかし、船長にとって、このボートに乗り合わせた他の三人ほど命令をすぐに受け入れて機敏に動くクルーはいなかっただろう。そこには、安全という共通の目的のために何が最善かをただ認識するということを超えるものがあった。たとえば、司令塔たる船長の命令に従ってみると、たとえば、すべてを批判的に見ろと教えられてきた記者のような者であっても、遭難している状態とはいえ、これが自分の人生で最高の体験になるとわかった。だが、誰もそうだとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかった。

「帆があったらなあ」と、船長がいった。

「私のオーバーコートをオールの先端にかけてみようか、そうすれば、君ら二人も休めるんじゃないか」

それで、コックと記者はオールをマストのように立てて持ち、コートを広げた。機関士が舵をとった。すると、この新しい帆は小さなボートをうまく前に運んでくれた。機関士は、ボートが波に突っ込まないように、ときどき舵をすばやく動かして漕がなければならなかったが、それをのぞけば、この帆走はうまくいった。

一方、灯台は少しずつ大きくなってきた。いまでは塗られている色もだいたいわかるようになり、空を背景に小さな灰色の影のように見えていた。両手でオールを漕ぐ係は灯台に背を向けていたが、この小さな灰色の影の灯台を見ようと、たびたび振り返った。

やがて、波に頂点まで持ち上げられるたびに、ようやく揺れるボートから陸が見えるようになった。灯台は空を背景にした垂直な影だったが、陸地は水平線上に細くのびた黒い影みたいだった。たしかに紙よりも薄かった。

「ニュースミルナの沖あたりかな」と、コックが言った。彼はこの海岸沿いをスクーナーで何度も航海したことがあったのだ。「ところで、船長、海難救助の詰め所が廃止されたのは一年ぐらい前だったでしょうか?」

「そうなのか?」と、船長がいった。

風は徐々に落ちてきた。コックと記者はもう風を受けるためにオールを立てておく必要がなくなった。だが、波はあいかわらずボートに襲いかかってくる。小さなボートは進むこともできず、波に翻弄された。機関手と記者はまたオールを手にした。

船の沈没は、いきなり起きるものだ。避難訓練を受け、心身が健康なベストの状態で沈没が起きるのであれば、海での溺死者は減るはずだ。だが、このボートに乗っている四人は、救命ボートに乗り込む前の二日二晩というもの、ろくに寝ていなかったし、沈みかけた船の甲板上をはいつくばって登るという異常に興奮した状態にもあったので、腹一杯食べておこうという気にもならなかったのだ。

オープン・ボート 4

一方、機関手と記者はボートを漕ぎ続けていた。漕ぎに漕いだ。

彼らは同じシートに腰かけ、それぞれ一本のオールで漕いだ。やがて機関手が両手で二本のオールを左右に持って漕ぐようになった。それから記者が交代し、同じように両手で左右のオールを漕いだ。彼らは必至に漕いだ。細心の注意が必要なのは、船尾で休んでいる方が自分の番になって漕ごうとするときだ。小さなボートで席を移動するのは、卵をあたためているメンドリから卵を盗みとるよりむずかしい。まず、船尾で待機していた方が手を漕ぎ座にそってすべらせ、壊れやすい陶器でできているみたいに慎重に移動しなければならない。それから漕ぎ座にいた方が手を反対側にそってすべらせるのだ。すべてに細心の注意を払っわなければならなかった。二人が互いにすれ違うときには、ボートに乗っている全員が迫ってくる波を見張っていた。そして船長が「よく見ろ。さあ、いまだ!」と叫んだ。

茶色いカーペットみたいな海藻の塊が、ときどき島のように出現した。そうした海藻の塊は、明らかにどっちの方向にも動いていなかった。海藻の塊はほとんど静止していた。それで、ボートの男たちは自分たちが岸の方にゆっくり流されているとわかったのだった。

船首にいて後方に目を配っていた船長は、ボートが大きな波で高く持ち上げられると、モスキート湾の灯台*1が見えたといった。やがて、コックが俺も見たといった。そのとき、記者は漕いでいたのだが、自分もどうしても灯台を見てみたいと思った。とはいえ、はるか遠くの陸に背を向ける格好で座っていたし、波をうまくやりすごすのが最優先だったので、振り返って眺める機会はなかった。やっと、それまでより穏やかな波が来たので、波でボートが持ち上げられたとき、西方の水平線をちらっと眺めた。

「見えたかね?」と、船長がきいた。

「いいえ」と、記者がゆっくり答えた。「何も見えませんでした」

「もう一度、見てみなさい。こっちの方角だ」と、船長が指で示した。

別の波の頂点にきたとき、記者は指示された方向を眺めた。今度は、揺れ動く水平線の端に何か小さな動かないものが見えた。ピンのように尖っていた。こんな小さな灯台を見つけるのは、よほど注意していないと無理だ。

「あそこまで行けると思いますか、船長?」

「風が持ってくれて、ボートが水没しなけりゃね。他に手はないし」と、船長がいった。

小さなボートは高く盛り上がった波に持ち上げられては水しぶきに洗われ、海藻のないところでは動いていることすらよくわからなかったが、少しずつ進んでいた。ボートは大海原にもみくちゃにされながら、溺れかけた子供のように奇跡的に船首を上にあげて進んでいた。ときどき目の前いっぱいに広がった海水が、真っ白な煙が充満するようにボートに流れ込んできた。

「くみ出したまえ、料理長」と、船長は冷静な声でいった。

「承知しました、船長」と、元気のよい返事が返ってきた。

脚注
*1:モスキート湾の灯台 ─ フロリダ半島中部の大西洋に面した湾にある、米国でも有数の高さを誇る灯台(53m)。

 

『オープン・ボート』は、作者のスティーヴン・クレイン自身が経験した船の沈没と小型ボートでの漂流に基づくもので、この灯台も実在している。



ErgoSum88 [Public domain]

灯台は光が遠くまで届くよう岬などの高い場所に造られることが多いが、この地域は平地なので、灯台自体を高くしてある。


なお、モスキート湾付近にはモスキート沼やモスキート川があり、行政区画もモスキート郡となっていたことから、この付近では開拓者たちもさぞ蚊に悩まされたのだろうということがわかる。

現在、モスキート郡はオレンジ郡、モスキート川はハリファックス川、モスキート湾は、十六世紀のスペインの開拓者にちなんでポンス・デ・レオン湾と名称変更されている。

オープン・ボート 3

波の頂点でボートが跳ねると、風が無帽の男たちの髪をかき乱した。ボートがまた船尾から着水すると、水しぶきが乱れた髪をなでつけていった。盛り上がった波は丘のようで、その頂点にきたとき、一瞬だが、風が吹き乱れている広大な光かがやく大海原が見えた。このエメラルドや白や黄色の光に満ちた荒々しく自由奔放な海は、おそらく壮大で、おそらく輝かしくもあっただろう。

「いいぞ、陸に向かって風が吹いてる」とコックが言った。「そうじゃなかったら、どうなるんだろうな? 考えたくもねえけど」
「そうだな」と記者が言った。
 あれこれ作業で忙しい機関手は、無言でうなづき同意した。

 すると、船首にいた船長がユーモアと侮蔑、悲しみの入り混じった複雑な笑顔を見せ、「助かりそうだとでも思っているのかね、君たちは?」と言った。

すぐに三人は黙った。気まずく咳ばらいしたり口ごもったりした。こんな状況で何かしら希望的観測を述べるのは子供じみていて馬鹿げていると、彼らも感じたのだった。とはいえ、心の中では疑いもなく、なんとかなるんじゃないかと感じててもいるのだった。若者というのはそんなときは強情になるものだ。彼らは若くもあったし、あからさまに示された絶望には反抗したいという思いもあった。だから、船長に反論せず黙りこんだのだ。

「まあ、そうだな」と、船長はとりなすように言った。「なんとか陸には着けるだろうよ」

 だが、彼の声の調子には、条件つきだぞと思わせるものがあったので、機関手がそれを受けて「そうです! この風が続いてくれさえすれば!」と続けた。

 海水をくみ出していたコックは「そうそう! 波でひっくり返りさえしなけりゃな!」と言った。

中国製のネルの生地でできているようなカモメが、ボートの周囲を飛んでいた。洗濯ロープにかけられ強風で揺れるカーペットのように、茶色い海藻の塊が波とともに揺れ動いては巻き波になってくずれ落ちたりしていたが、カモメたちはその近くの海面に降りて浮いたりもしていた。海鳥の群れが平気な様子で浮かんでいるので、ボートに乗った連中には、それをうらやましがるものもいた。というのは、荒れ狂う海といえども、カモメにとっては、数千マイルも内陸の草原ライチョウの群れに対するようなものにすぎなかったからだ。カモメたちは何度も近くまで来て、黒いビーズ玉のような目でボートの連中を見つめた。鳥はまばたきをしないので、監視されているようで不気味だし、何かをたくらんでいるようにも見えたので、男たちは鳥に向かってどなったり、あっちに行けと叫んだりした。一羽のカモメが接近してきて、船長の頭の上に降りようとした。そのカモメは円を描かず、ボートに並行して飛びながら、ニワトリのように短く空中を斜めに移動した。物欲しそうな黒い目は船長の頭に向けられていた。「くそったれの畜生が」と、機関手が鳥に向かって叫んだ。「てめえの体はジャックナイフでできてるみたいじゃねえか」 コックと記者もその鳥をあしざまにののしった。当然のことながら船長も太く重いもやい綱の端でその鳥を追い払いたいと思っていたのだが、あえてそうしなかった。というのも、激しい動作をすると、自分たちを乗せたボートが転覆してしまいかねないからだった。船長は手を広げ、あっちに行けと穏やかに追い払った。カモメに狙われたことで弱気になっていた船長は、ともかく頭を守ることができてほっとしたように息を継いだ。その鳥を何か嫌な不吉なもののように感じていた他の男たちもほっと一息ついた。

オープン・ボート 2

この救命ボートに乗るのは、ロデオの暴れ馬に乗っているようなものだった。馬とボートを比べても、大きさにたいして変わりはない。ボートは馬のように跳ねたり船尾を下にして立ち上がったり、海面に突っこんだりした。波が来るたびにボートは高く持ち上げられ、とんでもなく高い柵に突進するようにも思えたが、こうした海水の壁を登っていく様子は神秘的でもあった。波の頂点は白濁した泡になっていて頂点から崩れ落ちていくので、そのたびにボートは宙を飛び、海面に激突しては水しぶきをあげながら滑り落ちていくのだが、次の脅威となる波の前で武者震いするようにまた揺れ動くのだった。

海で特筆すべきことは波に限りがないということだ、波をうまく乗りこえてもすぐにまたボートを沈めようとたくらんでいる次の波が押し寄せてくるという事実がそれを示している。長さ三メートルのちっぽけなボートに向かって波が次々に押し寄せてくるのを見ると海の資源にはきりがないことを痛感させられるが、こういうことを小さなボートで海に出たことのない普通の人々が経験することはあるまい。灰色の海水の壁が迫ってくるたびに、ボートに乗っている人間の視界から他がすべて遮断され、こんなにひどい波はこれが最後かなと、つい思ってしまうほどだ。波の動きには非常に優雅なところがあって、巻き波が頂点に達して崩れ落ちるのをのぞけば、音もなく迫ってくるのだった。

青白い光を受けたボートの男たちの顔は灰色だったに違いない。視線はたえず船尾の方向に向けられ、異様な光をやどしていたことだろう。その様子を高いところから眺めていれば、そうした光景は全体として疑いもなく絵のように美しかっただろう。だが、ボートの男たちにはそれを眺める余裕はなかったし、かりにあったとしても、心はそれ以外のことで占められていた。太陽はたえず空を背景にゆれていたし、海の色が灰色からエメラルドグリーンに変化したので夜が明けたことを知ったのだ。黄金色の光の筋が走り、泡は雪のように舞っていた。夜が明けていくんだなという認識はなかった。自分たちに向かってくる巻き波の色がそれに応じて変化したことに気がついただけだ。

コックと記者は互いにかみ合わない言葉で海難救助の詰め所と避難小屋の違いをめぐって言い争った。コックは「モスキート湾の灯台のすぐ北に海難救助の詰め所があるんだ。俺たちを見つけてくれればすぐに船を出して拾い上げてくれるぜ」と言った。
「誰が俺たちを見つけてくれるって?」と記者。
「詰め所の連中さ」とコックが言った。
「避難小屋に詰めてる人間はいないぜ」と記者が言った。「俺の知る限り、船の難破に備えて服や食料が保管されているだけさ。スタッフが配属されてるわけじゃない」
「いるんだよ、本当に」とコックが言った。
「いるわけねえだろ」と記者が言った。
「おいおい、俺たちはまだそこに着いたわけじゃないんだ」と、船尾の機関士が口をはさむ。
「そうだな」とコックが答えた。「俺のいうモスキート湾の灯台の近くにあるっていうのは避難小屋じゃないんだ。海難救助の詰め所のほうなんだ」
「だから、そこまでまだ遠いんだって」と船尾の機関士が言った。