将来の遊戯の一大科 (2/2)

幸田露伴

水上生活の愉快

  いかなる富豪でも陸上においては移動しうる大邸宅を有することはできない。実に善美の別荘でも、造花の手で按配(あんばい)せられる四季の変化を除いては、小山(こやま)一つ小流(こながれ)一つを変化せしむることもまず難(かた)い。

で、その高楼から見る景色はいつも同様で、その窓から見る青山白水(せいざんはくすい)はいつも同じ青山白水である。そこで景色の好い方に面した窓を平常は閉じておいたというような面白い心がけの人でない平凡の人であってみると、いくら好い風景のところに家(いえ)しても、三日目には鼻につき、五日目、六日目には感じなくなってしまって、せっかくの別荘にもただちに厭(あ)いてしまうのが常である。財力の非常に豊かなものはその結果として四ヶ所にも五ヶ所にも邸宅を構えるようになり、それまでに及ばぬ者は好風景の地にいながら、窓も明けずに花合(あわ)せ友達と花牌(かるた)遊びをするというようになる。

この海岸線の多い日本に住み、かつは平穏な内海を前にした首都に住んでいながら、変化無尽(むじん)なる景色の中に移動しうる邸宅を構えるもののないのは実に愚かなことではあるまいか。いや愚かなわけではないが、先例のないことには誰しも手を出しかねるもので、ひっきょう水上生活の面白さを解(かい)せぬからのことである。

が、想像してもわかることで、百数十トンから以上の船の広さは、陸上の家屋にしてみてもかなりの大きさである。数百トンの船にしてみればなかなかのものである。好みによってはなお大なるものもよろしい。

それらのヨットを好み通りに建造して、そのサルーンを自己の趣味に従って装飾し、家族や朋友(ほうゆう)と共にこれに乗じて、あるいは海上遠くも去り、あるいは陸地近くも来たり、または北方の障壁断巌(しょうへきだんがん)の凄(すさま)じい景色の地、または南方の砂浜松洲(さひんしょうしゅう)の明媚(めいび)な景色の地、いずこなりともわが好むところの地に船を繋(つな)ぎ、花に月に夏に冬に賞覧(しょうらん)をほしいままにし、時には長風(ちょうふう)に賀(が)して朝鮮半島、中国、ロシア、南洋(なんよう)アメリカないし諸外国へまでも駛走(しそう)したらば、実に雄壮の趣味も優美の趣味もただこの一隻船(いっせきせん)によりて愉快に味わいうることではないか。

しかもサリヴァンの記(しる)するところによれば、ヨットを競走の目的でなく、単に愉快のために使用するにおいては、さのみ費用をも要せないで、百トンから二百トン位の船では幾許(いくばく)も要せぬようである。同人が記(しる)しているには、陸上の生活は贅沢な仲間であれば一週間に宿屋の費用が三十ポンドから四十ポンドあるいは五十ポンドくらいは容易にかかる。けれどもヨットの方はその半額で三、四ヶ月間、百トンあるいは百五十トンの船で遊ばれて、そのうちに水夫などの賃銭や、船具の破損料、食物など一切を含んでいる、とある。

その言の当否は予(よ)には判断しかねるが、けだし費用をかけるかけぬは、陸上で加減するよりよほど自由にゆくらしい。よしや反対に少々高価であるとしたところで、陸上では、たまたま別荘を構えれば、隣家にあまり感心せぬ者が住んでいて不快を与えてくれたり、村人の好遇を受けなかったり、いかんともなしがたい種々のことに遭遇して困却することがありがちのものであるが、ヨットであればすべて不快の箇所には遠ざかり、わが好む所にのみ居(お)るをうるの便があるのだから、むしろ高価でも忍ぶべきである。いわんやまた海上生活が肺病(はいびょう)や気管支病(きかんしびょう)や咽喉病(いんこうびょう)や喘息(ぜんそく)やなんぞに対して自然の薬剤たることは、とても温泉やなんぞの比でないにおいてをやだ。

荒潮(あらしお)に洗われて差し出(いず)る初日、浪の果てに沈む弦月(げんげつ)、あるいは高華(こうか)あるいは清冷(せいれい)、これらの景色はなにほど怯懦(きょうだ)の人や煩悶(はんもん)の人をして自然の大なる教えに浴せしむるを得るだろう。実にあにただ愉快とのみいはんやである。
遠航の愉快
新しい刺激は新しい知識と新しい興感(きょうかん)とを生ずる。この点において外国にまでの遠航は実に人の智を広め肝を壮(さかん)にし感興を新鮮にする。特にヨットに乗じて世界を周遊(しゅうゆう)するなどということになれば、その一船に招致しえた学者や才人や美術家やの知識と技芸の分量とに応じて、世界の種々の価値あるものを吸収したり批評したり消化したりして、直接には興味深く一切の事物に触接(しょくせつ)し、間接には学芸に何物をか貢献寄与することになる。

これらはヨットの本旨(ほんし)の方から言えばむしろ副産物的の結果であるが、決して軽視することのできぬことである。ヨットの本然(ほんねん)から言えば、八方の風を駆使して五大洋をわが馬場のごとくにみなすところに興味があるのであるが、副産物もまた小なるものではない。公務に服する軍艦ではなし、実利を主とする商船ではなし、純粋に遊戯のために万里(ばんり)を往来するというのは、馬鹿げているようではあるが実に尊ぶべきで、そしてその副産物も侮(あなど)るべきではないから、英国政府がヨットに対してはまったく免税し、かつまた軍艦あらざる時は公用浮標に緊纜(けいらん)しうるの権利を与え、また軍艦は入港し来たれる外国のヨットに対して時辰儀(じしんぎ)の差を教え正す等の便宜(べんぎ)を与うるを慣例とするごときことも生じたのであろう。何故となればヨットの乗者は実にその品格において高級を占むべき人士(じんし)なること自明の道理であるからである。

遊戯である、遊戯である、実にただ遊戯である。しかしながら他のいくたの遊戯のごとく不純不美(ふじゅんふび)であったり、または厭(いと)はしい副産物を多く有している遊戯でない。日月(じつげつ)や星辰(せいしん)や雨露(うろ)や霜雪(そうせつ)や、一切の自然に親炙(しんしや)して、そして大海の水の懐(ふところ)に抱かれて大空の風の手に擁せられて遊ぶ遊戯である。ブラッセイ卿がその高名なるサンビーム号その他のヨットに乗じて、遊戯とはいえ千八百五十四年より千八百九十三年までの間において二十二万八千六百八十二海里を悠然航走せるがごときは、実にヨットの遊びの中には無経験者の想到(そうとう)せざる幽趣妙処(ゆうしゅみょうしよ)の人を引きつくるものあるがためであることを思わしめるではないか。
競走の愉快

ありてい言えば予(よ)は競走ということについてあまり多く好まぬ故に、ヨットレースについてはむしろあまり多く言うを好まない。しかしヨットを談じて競走を談じなければ、全然無意味になってしまう。ヨットの競走の妙はけだし一新機軸を出(いだ)したヨット、もしくは大改良を施したるヨットを率いて相戦(あいたたか)うにあるので、他の腕力脚力等の比較、もしくは人間のなんらかの動物的精力の比較に勝負を決するところの、やや愚劣なる競争や競走とは異なっている。

で、千八百七十五年にヨットレース協会ができ、ヨットレースの規則ができてから大(おお)いに一切は整頓して、英国はいうに及ばず米国、ドイツでも各々競走に熱することひと通りではない。むろん小競走は各地にもあるが、大競走は国と国との間にも起こる。すなわち世界的なのである。

ヨットレースの賞杯の歴史はすなわち世界のヨッティングの歴史といってもよかろう。わが国なんぞからも参加するがよいのである。ドイツ皇帝がそのメテオルに乗じてシャツ一枚でメインシートを引っ張ったり、英国皇帝がウェールズ親王時代においてしばしばブリタニヤに乗御(じょうぎよ)せられたことは誰も知っている事実であるが、わが国の貴公子にもやがてあるいはそういう人も生ずるであろう。

英国のヨットの数は純帆船二千二百余艘(そう)にして計六万四千余トン、汽機(きき)を具(ぐ)せるもの七百艘(そう)にして計六万八千余トン、すなわち総計十三万余トンにして、なお小ヨット三千隻はこの算計に包含しないといえば、その盛んなこと、実に驚くべきで、ああさすがに皇帝国たる英国であると思われる。

古い遊戯はもう復興せずともだ。かくのごとき遊戯はあるいは将(まさ)に起こらんとするではなかろうか。予(よ)はわが国の位置から考えてもまさに起こすべき遊戯だと思う。猪牙(ちょき)や屋根船(やねぶね)や屋形船(やかたぶね)や御座船(ござぶね)の時代は過ぎた。横浜から伊豆の大島までの逆風競走が挙行されるなどという新聞紙の記事は、けだし遠からずして世に現われるようになるだろう。                     <了>
『蝸牛庵夜譚』は1907年刊行。
 底本: 春陽堂版『明治大正文學全集』第六巻。
 旧字体の漢字、旧仮名遣いは新字体、現代仮名づかいに改め、漢字の読みはルビではなく (読み) の形で直後につけ加えてあります。
また、現代の読者の便宜を考慮し、句読点、改行なども必要とみなされる範囲で適宜修正してあります。
 

将来の遊戯の一大科(1/2)

                幸田露伴 『蝸牛庵夜譚』所収

幸田露伴(1867年~1947年) 明治を代表する文豪。代表作に『五重塔』『天うつ浪』など。
夏目漱石と同世代だが、文語体の作品や江戸、中国についての博覧強記な随筆などのためか、それより古いタイプの書斎人という印象があるが、釣りなどアウトドア好きの一面も。千島列島の探検・開発で知られる探検家・郡司成忠は露伴の実兄。この随筆は明治40年刊行の『蝸牛庵夜譚』所収。

明治はわが国の一切の事情に一大横線を画した観があるが、遊技(ゆうぎ)においてもまた実にその通りである。明治以前、すなわち徳川氏時代の遊技は明治において次第々々にその優美な姿を隠して、ようやく世と相遠(あいとお)ざかってゆくものが少なくない。その一方にはまた徳川氏時代においてはいまだ産声をあげなかった新しい遊技が今日ようやくその快活な風采を現わしだしているのが、実に現在の状態ではないか。

楊弓(ようきゅう)は真に美術的の遊技であった。蓬矢抄(ほうししょう)のような書を読み、またその今なおまれに存在している桑(くわ)や紫檀(したん)やの美材が金銀その他の貴金属によって装(よそお)い作られた良工苦心(りょうこうくしん)の痕(あと)の明らかな弓を熟視し、その乾定(かんてい)して歪反(はいはん)せざるを賞するよりして、いくたの書籍の版木を犠牲として造られた桜の木の幹に、角筈(つのはず)や牙筈(けはず)と精良(せいりょう)の細工の鉄族(てつぞく)との取りつけられて、そして朱鷺(とき)その他の麗(うるわ)しい羽の矧(は)がれた箭(や)を熟視し、かつまた同じ時代の浮世絵画家等がその遊技を試みおる美女美男等の状(ありさま)を描いた画図等を見れば、われらは前代の遊技もまたはなはだ愛尚(あいしょう)すべきものであることを感じる。

しかし、その遊技は今どうである! いわゆる楊弓場(ようきゅうば)の感心しがたい情状のみがわずかに残存していたのもすでに古いことで、今は誰がまた楊弓の箭(や)の鏃(やじり)の頭が平らかであるか尖っているか知っていよう! いわゆる矢場の姉様(ねえさん)という語さえもクラシックになりかかっているくらいである。すなわち楊弓は隠れたのである。

蹴鞠(けまり)はもとより賤庶(せんしよ)の遊技ではなかった。けれどもその貴紳富豪(きしんふごう)の間に行われたことは、いかに多く画題や談柄(だんぺい)になっているかに徴(ちょう)しても明らかである。上代の高雅な装束や、鈍い安らかな曲線をなした沓(くつ)や、見るからが上品でこせつかぬ大きな鞠(まり)や、四本懸(よんほんがかり)の鞠坪(まりつぼ)や、今日その物を見たりその画を見たりしてもわれらはその優美な光景を想像して愛すべきを覚える。が、その愛すべき遊技は早く世人と相隔(あいへだ)ってしまって、今の若いものは誰かまた鞠垣(まりがき)の高い低いを明らかに覚えていよう!

狩衣(かりぎぬ)に綾蘭笠(あやいがさ)、弓寵手(ゆごて)行縢(むかばき)といういでたちの流鏑馬(やぶさめ)や、あるいはまた笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)などの式張(しきば)った競射や、それでなくとも競射や賭弓(かけゆみ)や、貴族的のにせよ平民的のにせよ、それらは皆いづれも勇(いさ)みのある面白い遊びであることは想像するに容易であるが、それらの射術(しゃじゅつ)騎術(きじゅつ)に関した遊びも、また現在においては、わずかに告朔(こくさく)の気羊的(きようてき)に存在しているのみで、時に催さるる競射会もさのみ盛んではないようである。

その他折端(おりは)の双六(すごろく)であれ、投扇興(とうせんきょう)であれ、単に遊びというのでもないが香道茶道というがごときものであれ、いづれも皆あるいは既にまったく滅び、あるいはようやく衰へゆくの勢いを現わしている。昔の遊戯でいまなお盛行(せいこう)しているのはわずかに囲碁、将棋、謡(うたい)などくらいのものである。

かくのごとくに徳川氏時代と明治とはその遊戯の上にも一線を画された観がある。で、新たに起こってきた遊技、すなわち球つきであるとか、端艇(ボート)競漕(きょうそう)であるとか、フートボールその他の球戯であるとか、単に遊戯というでもないが、自転車であるとかいうようなものが、次第々々に前代の遊戯の占めていた椅子の空位を占めて、明治の代(よ)の遊技の主なるものとなってきたのが現在の有様(ありさま)で、椅子の空位はまだ沢山に残っているし、そこで色々の新しい遊技が悠然と歩いて来てその椅子に着(つ)かんとするのもまた現在の有様(ありさま)である。

この時に際してヨットの遊びは確かに新たに起こるべき遊びで、また実に明治の士人(しじん)の手で興(おこ)すべき遊びであろう。

遊びも多い。楽しみの種類も多い。しかしヨッティングほど高尚で、優美で、壮快で、社会的でかつ超世的な面白いものがまた二つあろうか。おそらく二つはあるまいと予(よ)は想像する。高楼(こうろう)に置酒(ちしゅ)して巧笑(こうしょう)愁(うれい)を解(と)くに足り美目(びもく)情を悦ばすべき麗人(れいじん)を侍座(じざ)せしめ、粉陣(ふんじん)香囲(こうい)歌声(かせい)舞影(ぶえい)の裏に夜光の杯を挙ぐるのは、それはなるほど豪興群小(ごうきょぐんしょう)に誇るべくもあろう。しかし、要するに鄙俗(ひぞく)であるを免れない。どうも高尚とはいいかねる。

黒白(こくびゃく)の石子(いし)に一面の盤、疑神枯座(ぎょうしんこざ)して手談の楽みにふけっているのは、いかにも仙趣があって実に高尚である。しかしそれは智を熾 (さかん)にして物を忘るるの戯(たわむれ)で、必ずしも心を喜ばしめ情につちかう楽 しみではない。音楽を聞き演劇を見ることは高尚でもある優美でもある。しかし、いかに弁護者が弁護し、建築家が建築しても、盆の内の炒豆(いりまめ)の一個のような姿になって群衆中に視聴しつつ、ありがたからぬ空気を呑吐(どんと)することは、せっかくの高興を大いに減殺するし、かつまたたとえその楽譜は勇壮にその脚本は痛快なるものにせよ、要するにこれらの娯楽は壮快の娯楽とは決して言えぬのである。

端艇(ボート)競漕(きょうそう)や、競馬や、銃猟やは壮快ではある。ただし、あるものはいささか優美を欠き、あるものは高尚を欠き、かっすべて超世的でなく、これを嗜(たしな)む人の如何(いかん)によっては、ややもすれば修羅的になる傾(かたむ)きがある。釣魚(つり)は非常に複雑な多種多面の好遊技で、かつは超世的であるともいえるが、どうも幽静寂寞(ゆうせいせきばく)を恐るる人や、早急な人のあずかるあたわざる遊びで、かつ必ずしも非社交的ではないけれども、要するに非社交的になる傾きがある。

いや、予(よ)はヨッティングを掲(かか)げんがために他の遊技を抑えんとしたのではない、他の遊技とヨッティングとの差違を明らかにしようとしたのである。遊びも多い。楽しみの種類も多い。しかしヨッティングのように多趣味多方面で、そして社会の各部に関連接触する点の多い、しかも遊技の徳を円満に具有(ぐゆう)しているものはあまりあるまい。実に娯楽の王といってもよかろう。

ただし、強(し)いてその欠点を挙ぐれば、そのやや貴族的富豪的であって、民庶(みんしょ)に佳趣(かしゅ)を供給することの易(やす)からざる一段である。誠に「遊技娯楽の平民的ならざることは、その遊戯娯楽の大なる欠点」と言わざるをえないことであるが、しかしヨッティングも五レーターとか三レーターとか二分の一レーターとかいうような小艇の嗜好(しこう)が起こるに及んで、単に貴族や豪家のみの娯楽といふのでなく、かつは有髯者(ゆうぜんしゃ)のみの娯楽というのでもなく、最上級ならぬ人も、または婦人も、同じ遊技にたづさわるようになって、それらの小帆船、すなわちいわゆる海燕(うみつばめ)がカルショット城付近に群翔する碧瀾(へきらん)雪帆(せつはん)の好光景は実に天下の美観であるとまで人をして言わせるようになっているのが英国の実状であるに徴すれば、ヨッティングに対する唯一の非難さえすでにいくぶんか軽減されているのである。いよいよヨッティングは称揚すべき遊(あそび)である。

遊船構造設計の愉快

世界は人間の理想および理想を実現せんと努める不屈の勢力の発露(はつろ)によって進歩しているのである。ヨッティングは単に快走ということを目的としているので、その目的にかなわんがためには、種々の条件、すなわち構造の費用の多寡(たか)だの、積載する数量の大小だのということを犠牲にして顧みない。で、その点においては世の実用を主としている軍艦や商船の設計とは非常に相違があって、ヨットの船形の案出は、実に船舶の駛走(しそう)という点においては最大自由の境界(きょうがい)にあって人間の理想を最高度に実現せしめうるものである。

すべて何事によらず理想の実現ということは人生においての高級快楽であることは言をまたぬことで、いかなる微小の理想でも、これを実現しえた時、あるいはまさに実現しえんとする時の愉快は、五官に対する欲求の満足をえたときなどの愉快とは比較にもならぬほど大きくて、かつ高いものであるのは、何人も異論のない、換言すれば、ほとんど人間というものはその愉快に憧(あこが)れて営々として生活していると言ってもよいくらいである。そしてまた世界はその愉快を味わんとする人、もしくは味える人のために進歩しているので、汽車汽船であれ電話電信であれ写真であれ写声機であれ印刷機であれ爆発薬であれ、皆その実例である。

故に遊戯の一にして、もしも不正でない理想の実現に努むるものがあったら、その遊戯の性質ははなはだ高尚で、そしてまたその遊戯の効果、(遊戯そのものからいえば副産物であるが)ははなはだ洪大(こうだい)なるものであるとして十二分に尊敬してよい。競馬も実は一の遊戯である。しかし勝負の予想に対して金銭を賭(と)したり、あるいは自ら鞍上(あんじょう)に叱咤(しった)したりするような、賤(いや)しい、もしくは低い愉快を超越してしまって、おのずから理想的の駿馬(しゅんめ)を得ようとする上において焦慮苦心(しょうりょくしん)をするに至ったならば、たとえその人自身が飼料を与えたり、四下(すそ)を仕(し)たりせぬまでも、その人の愉快とするところの趣味ははなはだ高尚で、そしてその効果は階級こそあるだろうが世を益するに疑いないことである。

で、競馬は実に馬匹(ばひつ)を改良する上に大なる力があるという一大事実にも到着するのである。ヨットレースもその通りで、いかにもして快走の目的を十分に達しようという希望からして、種々様々の構造設計が案出され改補され、そして次第々々に最良最好の船形が世間に指示(しじ)発現(はつげん)さるるに至ったのである。水に没する船腹の形が描く曲線といえばそれまでのことではあるが、最も抵抗の少く最も滑らかに水を切って行く曲線の一個の式の価値は、いかに深遠(しんえん)洪大(こうだい)なものであろう! してまたその一曲線が得らるるまでには、いかに良工の苦心によって忠実精美な苦労と思慮が費やされたことであろう!

ワットソンの近代競走遊船(ゆうせん)の進化といえる一篇(いっぺん)を瞥見(べっけん)して、ヨットレースの歴史の初歩の船の形から、名高いブリタニヤだのメテオルだのその他の船に至るまでの種々様々の、あるいは深く、あるいは浅い各船の形を見れば、まったく船舶のことに関して知識のないわれらでさえ、いかに多くの聡明(そうめい)俊敏(しゅんびん)の人々の尊い知識や技術や堅確(けんかく)の意識や優美の趣味やが相合(あいがっ)して働いて、そして今日に至ったかを想像せずにはいられない。

かくのごとくして世は進歩し、古昔(こせき)無智(むち)時代の画家が、船の速力の大なることを現わさんがために船首に白浪の騒(さわ)げるさまを描いたのは既に過去の夢となってしまって、十二分に巧みに水の抵抗を少くするに足る美(うる)わしい曲線をもって造られたる船の舷端(げんたん)には、いわゆる水夫の経帷子(きょうかたびら)のような白浪は無益に立たぬようになってきたから、詩にしても、行船(ゆくふね)の舳浪(へなみ)騒ぎて、などと歌ったら、もはや船の速力は大きくなくて、そして却って非合理的の拙設計(せつせっけい)になった野蛮船であることを現わすようになってきた。

しかし今日でもこのうえ進歩の余地がないというに至ったのではないから、良いが上にも良かれと希望して、理想的の快走船を得んとし、たとえみずからコンパスや鉛筆を用いて設計せぬまでも、知識ある人の知識を使い、技術ある人の技術を用いて、自分の意識の下に新形式のヨットを建造し出そうとしたらば、必らずしも名高いヴァルキリーやナヴァホーをはるかに凌駕するものもできぬとは限るまい。よしやそうまではゆかぬとしても、もし有力者があってそういうことを敢えてしてみたら、その人の享受する快楽はかの万金(ばんきん)を持って宝玉(ほうぎょく)や骨董品(こっとうひん)を購(あがな)うがごとき低微(ていび)なものでなくって、実に趣味の高い、かつは世に対して貢献するところの効果のある高級娯楽であることをその人自身に発見するであろうと信ずる。

後半に続く

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 〜 スモールボート・セイリング(その8)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (8)

ジャック・ロンドン

私は古い人間で、ガソリンの時代より前に育った。その結果、古い流儀がしみついてしまっている。モーターボートよりヨットの方が好きだし、セーリングする方がエンジンで走るより美しくもあり難しくもあり、揺るぎない技術が必要とされると信じている。ガソリンエンジンは誰でも扱える。サルでもエンジンで走れると言えば言い過ぎになるだろうが、エンジンは誰にだって動かせる、というのは正しい。ヨットを帆走させるとなると、そうはいかない。技術も知性ももっと必要だし、途方もない訓練も必要になる。少年や若者や大人にとって、これほどすばらしい訓練の場はない。子供が小さければ、小さくて快適な小舟を与えればよい。あとは自分でなんとかするものだ。教えてやる必要はない。すぐに三角の帆を張り、オール一本で舵を取れるようになる。それから、キールやセンターボードについて語りだし、毛布を持ち出して船に泊まりたくなるだろう。

だからといって心配することはない。危険をおかすだろうし事故に遭うかもしれないが、忘れてもらってはこまる、海の上と同じように託児所でも事故は起きるのだということを。大小の船で死ぬより温室育ちのために死んでしまう子供が増えているが、子供は芝生でクロケットをしたりダンス教室に通ったりするよりも、ヨットでの帆走を経験した方が強くて信頼できる大人になるだろう。

それに、一度ヨットのなんたるかを身につけてしまえば、生涯ヨット乗りでいられるのだ。潮気が薄れることはない。ヨット乗りは年をとらず、あえて風や波と格闘することもいとわない。私はそのことを自分で体験し身にしみて知っている。いまは牧場を経営し、海が見えない場所に住んでいるのだが、牧場にいて海から長く離れていると、そう数ヵ月も経つと、何かしら落ち着かなくなるのだ。前回の航海での出来事について白日夢を見たり、ウィンゴ・スラウの川ではもうシマスズキが泳ぎまわっているだろうかと案じたり、カモの最初の北帰行のレポートに熱心に目を通したりしているのだ。そのうち不意に思い立って大急ぎでスーツケースに荷物を詰めこみ、道具類の点検修理をすませてヴァレーホに向けて出かけていくのだ。そこには小さなローマー号が係留され、私を待ってくれている。そう、主人の足舟が寄って来るのを、ギャレーのストーブに点火されるのを、そうして帆を固縛しているロープがとかれ、メインセールが風に揺れ、リーフポイントがカタカタ音をたて、ちょっと停船し、風を受けてまた動きだし、舵輪がまわされ、湾内を突き進んでいくのを、いつも待ってくれているのだ。

ソノマ・クリークのローマー号船上にて
一九一一年四月十五日

● 用語解説
キール: 竜骨。船首から船尾まで船の中央下部を貫く構造材。外洋ヨットではキールと呼び、一般に横流れ防止と横倒しになっても復元するための重しを兼ねている
センターボード: ヨットで横流れ防止用に船底から下に出ている板。一般に小型ヨットでは前部を軸にして下側に回転するものを指し、レーザー級などのディンギーで上から差しこむ矩形の板はダガーボードと呼んで区別される
ウィンゴ・スラウ: ミズーリ州(米国中西部)の地名
ヴァレーホ: カリフォルニア州(米国西海岸)の地名
ギャレー: 調理をする区画。いわゆる厨房
ストーブ: 小型ヨットでは、暖房用のストーブではなく煮炊き用のコンロを指すことが多い

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (95) - ジャック・ロンドン著

あとがき

スナーク号は水線長四十三フィートで全長は五十五フィート、船幅十五フィート、喫水が七フィート八インチだ。二本マストのケッチで、帆はフライングジブにジブ、フォアステイスル、メインスル、ミズン、スピンネーカーがある。船室の高さは六フィートで、甲板は手すりで囲まれたところと平らで何もないところに分かれている。水密区画は四つ。七十馬力の補助ガソリンエンジンを動かすのに、一マイル当たり約二十ドルの経費がかかる。五馬力のエンジンは故障していなければポンプを動かしてくれるが、サーチライトの電源にも二度ほどなってくれた。船載の十四フィートのボートのエンジンはたまには動くようだが、ぼくが乗ろうとすると決まって動かない。

だが、スナーク号は帆船だ。どこへでも帆走で行く。二年間航海したが、岩や暗礁、浅瀬で座礁したことはなかった。船内にバラストは積んでいない。鉄製のキールは五トンの重量があり、喫水は深く乾舷も高い。非常に頑丈だ。フルセールで熱帯のスコールに遭遇すると舷縁も甲板も波に何度も洗われるが、粘り腰があって転覆するまでには至らない。操船は容易だ。舵から手を放しても、風上航だろうが真横からの風だろうが、昼夜を問わず、きっちり走ってくれる。斜め後方からの風では、帆をきちんと調節しておきさえすれば方向のずれは二点内に収まるし、真追っ手の風では勝手に操舵させておいても三点とずれることはない*1。

スナーク号は途中まではサンフランシスコで建造された。キールの鋳造にとりかかろうとした日の朝に、あの大地震が起きたのだ。そこで混乱が生じた。建造は六カ月も遅延し、ぼくはスナーク号をほぼがらんどうのまま、エンジンを船底にくくりつけ、材料は甲板に固縛した状態でハワイまで回航して仕上げをした。サンフランシスコにとどまって完成させようとしていたら、今も進水できていなかっただろう。完成する前からコストは当初の予定の四倍にもふくれあがった。

スナーク号は最初からツキがなかった。サンフランシスコでは訴訟を起こされたし、ハワイでその請求書は詐欺だと抗弁したものの、ソロモン諸島では検疫違反を理由に罰金を課せられた。いろんなしがらみにとらわれた新聞は真実を書かなかった。役立たずの船長を解雇すると、やつがぼろぼろになるまでぼくが暴力をふるったと報道された。一人の若い乗組員が学業を続けるため帰国すると、ぼくは常にウルフ・ラーセン*2みたいな暴君で、とんでもない乱暴者なので、乗組員はみな長続きしないと報じられた。実際に殴ったのは一度だけだ。船長がコックを乱暴に扱ったからだ。この船長は経歴を詐称して乗りこんできたとわかったので、フィジーで解雇した。チャーミアンとぼくは運動をかねてボクシングをしたが、どちらも誰かを本気で殴ったことなどない。

この航海は、ぼくらが楽しみのために発想したものだ。スナーク号を建造したのはぼくだし、費用も経費はすべてぼくが支払った。ぼくはある雑誌と三万五千語の航海記を書く契約を結んだ。稿料はそれまで書いていた原稿と同じだ。雑誌はすぐに、ぼくを世界一周に派遣すると宣伝した。潤沢な資金を持つ雑誌だった。仕事でスナーク号と取引をした誰もが、この雑誌なら負担してくれるだろうと、三倍の値段を吹っかけた。南太平洋の島々にまでこの神話が伝わっていて、ぼくはそれに応じた割高の料金を払った。今になっても、雑誌が経費を払い、ぼくはこの航海でひと財産つくったと誰もが信じこんでいる。ああいう派手な宣伝の後では、航海すべてを自分の楽しみのためだけにやったのだとわかってもらうのは難しい。

ぼくはオーストラリアで入院した。病院で五週間すごした。それからホテルで五カ月も療養していた。悩みの種だった両手の病気は、オーストラリアの専門家の手にも終えなかった。医学文献にも記載されていないのだ。こんな症例はどこにも報告されていない。症状は両手から両足にひろがっていき、子供同然に、まったく力が出せなくなることもあった。大きさで言うと、通常の二倍くらいにふくれたりもした。同時に七カ所で皮膚が死んで皮がむけた。足指の爪の厚みが二十四時間で長さと同じくらいにもなった。それをヤスリで削り落としても、また二十四時間すると、内側から前と同じ厚さの爪が生えてきた。

オーストラリアの専門家たちは、この病気は非寄生性で、慎重に扱わなければならないということで意見は一致したが、いっこうに改善しないので、そのまま航海を続けることはできなかった。続けたとしても、ぼくは寝床に力なく寝たきりで、両手で何かを握ることもできず、小さな揺れる船を動きまわることもできなかっただろう。船はたくさんあるし、航海もたくさん行われているが、自分の両手や足の爪には代替品がないのだと、自分に言い聞かせた。さらに、気候のよいカリフォルニアに戻れば、ずっと落ち着いていられるとも考えて納得し、こうして戻ってきたわけだ。

戻ってきてから、ぼくはすっかり回復した。そして、自分の何が問題だったのかがわかった。合衆国陸軍のチャールズE・ウッドラフ中佐の書いた『熱帯の太陽光が白人に与える影響』という本にめぐりあい、それでわかったのだ。その後、ぼくはウッドラフ中佐にも会い、中佐も同じような症状に見舞われたことを知った。中佐自身は陸軍軍医で、フィリピンで同じような病気になったとき七名の陸軍軍医に診てもらったものの、オーストラリアの専門家と同じようにサジを投げられてしまった。簡単に言うと、ぼくは熱帯の太陽光線による組織破壊性の疾患にかかりやすい傾向があったのだった。X線の照射を何度も受けるみたいに、紫外線にぼくの体は痛めつけられてしまったのだ。

ちなみに航海を放棄せざるを得なかった別の病気について述べると、その一つは正常人の病気、ヨーロッパのハンセン病、聖書のハンセン病などとさまざまな呼び方をされているものだった。本当のハンセン病とは違い、この不可解な病気については何もわかっていない。自然治癒は記録されているが、この症例を治癒させたと言う医者は存在しない。治療方法がわからないのも無理もない。なぜこの病気にかかるのか自体がわかっていないのだ。薬を使用しなくても、ただカリフォルニアの気候に満たされた環境にいただけで、ぼくの銀色がかった皮膚は消えてしまった。医者がぼくに対して持っていた唯一の希望が自然治癒の可能性だったが、ぼくはそのとおりに治ってしまった。

最後に、航海という試練について述べておこう。これは、ぼくにとっても誰にとっても十分に楽しいものだったと言える。とはいえ、それを証言するには、ぼくらよりも適任者がいる。最初から最後まで同行した一人の女性だ。病院で、カリフォルニアに戻らなければならないとチャーミアンに告げると、彼女の眼には涙があふれた。幸福な楽しい航海を放棄するしかないと知ると、彼女は二日間ショックに打ちのめされた。

グレン・エレン(カリフォルニア州)にて
一九一一年四月七日
脚注
*1: 帆船時代の船舶では、360度の方位を32等分したものを1点(11度15分)としていた。2点は22度30分、3点は33度45分になる。
沿岸航海では風向は変わりやすいが、外洋では同じ方向から安定した風が吹いていることが多く、しかも、スナーク号は船底の前後方向にキールが伸びたロングキールで、舵から手を放しても同じ進路を保つ傾向が強いため、こういうことが可能になる。
キールが縦に細長い現代風のヨットでも似たようなことはできるが、こううまくはいかない。その代わり、ウインドベーンやオートパイロットなど、便利な自動操舵装置が開発され利用されている。

*2: ウルフ・ラーセン - 海洋冒険ものの大作『海の狼』(ジャック・ロンドン著)の主人公で、帆船ゴースト号を暴力で支配する船長。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その7)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (7)

ジャック・ロンドン

風の強い闇夜に暖かい寝床を抜け出し、状況が悪化した錨泊地から脱出するのは楽しいことではない。そのとき、われわれはやむをえず寝床から起き上がり、メインセールにツーポンリーフを施しておいてから、錨を揚げはじめた。ウインチは古くて、波で船首が上下する際にかかる負荷には耐えられず故障してしまったが、とはいえ、錨を手で揚げるのは無理である。実際にやってもみたのだが、びくともしなかった。むろん、とりあえず錨綱に目印のブイをつけておいてからその場を離れるという手もあったのだが、われわれはそうせず、他のロープを用意して元の錨とは向きを変えて別の錨を投げ入れた。

それからもほとんど眠れなかった。というのも、船が横揺れするため、一人ずつ寝床から放り出されてしまうからだ。海はますます荒れてきて、船が走錨しはじめた。潮通しがよく海底が滑らかになっている海峡まで出てしまうと、二つの錨がスケートをするように滑っている感触があった。海峡は深く、対岸は渓谷のように急峻なかけあがりの崖状になっていた。錨はその崖にぶち当たり、そこで持ちこたえた。

しかし、錨が効いて船がそれ以上流れなくなると、暗闇を通して、背後の岸に砕ける波の音が聞こえた。非常に近くだったので、足舟の舫綱を短くした。

明るくなってみると、足舟の船尾はきわどいところで破損を免れたことがわかった。なんという風だったことか! 時速七十マイルから八十マイル(風速三十六メートルから四十一メートル)の突風が吹いたりもしたのだが、錨は持ちこたえてくれた。逆に、がっしり食いこんでいるので、今度は船首のビットが船からはぎ取られるのではないかと心配になったほどだ。一日中、われわれのスループは船首と船尾が交互に持ち上がったり沈みこんだりしていた。嵐がおさまったのは午後も遅くなってからだったが、最後に猛烈な突風が吹いた。まる五分間の完全な無風状態の後、ふいに雷鳴が起こり、南西方向から風がうなりを上げて吹き寄せてきた。風向は九十度も変化し、暴風が襲ってきた。こんな状況でもう一晩すごすのはこりごりだったので、われわれは向かい風の中で、手で錨を揚げた。重労働なんてものじゃなかった。心が折れるとはこのことだ。われわれは二人とも苦痛と疲労で泣き出す一歩手前までいっていた。ともあれ最初の錨を引き上げようとするものの、錨は抜けない。波が押し寄せてきて船首が下がったときにゆるんだロープを船首のビットに余分に巻きつけておいて、次の波で船首が持ち上がるのを利用して引き上げようとした。ほとんどすべてのものが壊れてばらばらになったが、錨は食いこんだままだった。チョックは急激な力が加わったので外れてしまうし、舷側もちぎれ、それをおおっていた板も割れたが、錨はまだ食いこんだままだった。仕舞いには縮帆したメインセールを揚げて、張力のかかったチェーンを少したるませながら帆走で抜錨しようとした。しかし、力が均衡した状態でにっちもさっちもいかず、船は何度か横倒しになった。われわれはもう一つの錨でもこの作業を繰り返したのだが、そのうち河口の避泊地にはまたも宵闇が迫ってきた。
● 用語解説
ツーポイントリーフ: 二段階に縮帆(リーフ)すること。風の強さに応じて、ワンポン(一段階)、ツーポン(二段階)、スリーポン(三段階)と帆の面積を小さくしていく
ウインチ: ヨットでロープ類を巻き上げる小型の装置。錨を巻き上げるものはウインドラスともいう
ビット: 舫い綱などの端を固定しておく支柱のようなもの。現代のヨットではクリートを用いるのが一般的
チョック: 舫い綱や錨綱を船上に引きこむ際に船縁でロープを通すところ。船体の補強とロープの摩耗防止を兼ねている。フェアリーダーともいう

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (94) - ジャック・ロンドン著

追伸  というようなことを書いてから、さらに二週間がすぎた。タイヘイイはスナーク号で唯一病気にかかっていなかったのだが、ぼくらの誰よりも高熱が出て、もう十日も寝こんでいる。体温は華氏百四度(摂氏四十度)を何度も繰り返し、脈拍は百十五もある。

再伸  タスマン環礁とマニング海峡の間の海にいる。
タイヘイイの病気は、マラリア熱では最悪の黒水熱*1になってしまった。医学書によれば外部感染によるものらしい。熱を下げようとしているのだが、彼が気力をなくしてしまっているため、こっちも途方に暮れている。精神の病に関しては治療経験がほとんどない。スナーク号の短い航海で、精神錯乱はこれで二人目だ。


友好的なランドリー・ビルズ。洗濯屋だが、服装は文明からは程遠い──ロード・ホウ環礁にて

再々伸  いつか、ぼくは本を書くつもりだ(専門家向けにね)。タイトルは『病院船スナーク号の世界一周』。船に乗せていたペットはまだ逃げだしていない。メリンゲ礁湖からはアイリッシュテリアと白いオウムを一匹づつ乗せていた。テリアはキャビン入口の階段から落ちて後ろ足を引きづるようになったが、また落ちて、こんどは前足も痛めてしまった。現時点では残った二本の足で歩きまわっている。幸運なことに、大丈夫だった足はそれぞれ反対側についているので、なんとか動けている。オウムはキャビンの天窓にぶつかって死んでしまった。これがスナーク号の葬式第一号となった。鳥といえば、ペットじゃないニワトリは病人用のスープになったりしているのだが、何羽かは船から飛び出しておぼれ死んでしまった。丈夫で繁殖しているのはゴキブリだけだ。やつらは病気や事故とは無縁で、日ごとに巨大化し凶暴になって、ぼくらの手や足の爪を眠っている間にかじるようになった。

再々伸
チャーミアンが発熱を伴う別の発作をおこした。マーティンはふさぎこんでいたが、馬専門の獣医のところでイチゴ種を診てもらい硫酸銅の治療を受けた。ぼく自身は航海術や病気の治療、短編の執筆に忙殺されている。体調がいいというわけではない。乗組員の精神錯乱を別にすれば、ぼくとしても事態は最悪で、航海を続けることはもう限界だった。次の蒸気船でオーストラリアへ行き、手術を受けることになるだろう。苦痛の種はいろいろ抱えているが、自分にとって新種でまだ慣れていない疾病について書いておこう。この一週間というもの、ぼくの両手には浮腫ができ、ふくれあがっている。握りこぶしをつくろうとすると痛みがある。ロープを引こうとすると、とても痛いのだ。悪化したた霜焼けみたいな感じだ。また両手の皮がすごい勢いではげ落ち、その下の新しい皮膚は固く厚くなってきている。医学書を見ても、この病気についての記載はない。何なのか、だれも知らないのだ。

再々伸  まあ、とにもかくにもクロノメーターは修理した。この八日間というものスコールと雨がずっと続き、ほとんど漂泊していたのだが、昼に一部だが太陽を観察することができた。それで緯度を計算し、推測航法でロード・ホウのある緯度をめざした。この時点で、ぼくは経度の観測を行ってクロノメーターのテストを行い、三分ほどの誤差があるのに気づいた。一分は十五マイルに相当するので、合計した誤差は推測できる。ロード・ホウでは何度も観測を繰り返してクロノメーターの精度を確かめた。このクロノメーターは一日に一秒の十分の七ずつずれているいることがわかった。一年前にハワイを出帆したときも、この同じクロノメーターには一秒の十分の七の誤差があった。この誤差は毎日積み重なっているはずだ。ロード・ホウでの観測で証明されたように誤差の割合に変化はないので、時間のずれは三分どころではないはずだが、太陽の影響下にある何がいきなり針の進みを変化させて三分まで調整したのだろうか? そんなことがありうるのか? 時計の専門家はそんなことはないと言うだろう。が、ぼくとしては、そういう連中はソロモン諸島で時計を作ったり精度を調べたりしたことがないからだと言いたい。ぼくの見立てでは、気候のせいでそうなるのだ。ともかく、ぼくは精神の異常やマーティンのイチゴ種の治療には失敗したが、クロノメーターの修理には成功したのだった。


ロード・ホウ環礁のルアヌアにある貿易業者の家

再々伸  マーティンが治療に焼きミョウバンをためしている。熱はさらにひどくなった。

再々伸  マニング海峡とパヴヴ諸島の間にいる。
ヘンリーはリューマチで背中の痛みが増した。僕の腕では十カ所の皮膚がはげ落ち、十一個目のはげかかっている。タイヘイイはますます頭がおかしくなり、自分を殺さないよう昼夜を問わず神に祈っている。ナカタとぼくはまたもや発熱で痩せてきた。最新情報として、昨夜、ナカタは食中毒の発作を起こし、ぼくは半ば徹夜で看病した。
————————————————————————————
脚注
*1: 黒水熱 - マラリアの合併症。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その6)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

土手はでこぼこしているし、船の真下では潮が急激に引いて、おそろしく汚くて悪臭のする、潮汐のたびに姿を現すおぞましい干潟が見えていた。クラウズリーがそれを見下ろしながら私に言った。
「愛してるぜ、兄弟。俺はあんたのためだったら決闘もするし、吠えるライオンにだって立ち向かってみせる。野垂れ死にも洪水もこわくはないし、あんたがここに降りさせるようなことはしない」 そう言いながら、彼は吐き気に身震いした。「だけど、もしあんたが落っこちてしまったら、俺にはあんたを引き上げる度胸はねえからな。無理にきまってる。あんたはひどいことになるだろうし、俺にできるのは、ボートフックをつかんで、あんたを見えないところまで押しやることだけだろうよ」

われわれは船室で上になった側壁に座ってデッキにもたれ、船室の屋根に足をぶらぶらさせながらチェスをした。潮が満ちてきたところで、ブームリフトの滑車とタックルを使い、船をまた頑丈な竜骨の上に立たせることができた。それから何年もたってから、私は南海のイサベル島で同じような窮地に陥ったことがある。船体に張った銅板の汚れを落とすため、浜辺でスナーク号の側面を海側に傾けたのだが、潮が満ちてきても船は起き上がろうとしなかったのだ。海水がスカッパーから入ってきた。海水は舷側を乗りこえ、斜めになったデッキをじりじり上がってくる。われわれは機関室のハッチを閉めた。海面はそこまで達し、さらに船室のコンパニオンウェイや天窓の近くまで上昇してきた。われわれは皆熱があったのだが、熱帯の炎天下で何時間も必死に作業するはめになった。一番太いロープをマストヘッドに結んでおいてから陸まで運び、この重い船を引き起こそうとしたが、われわれ自身を含めて、すべてがこわれてしまった。われわれは疲労困憊し、死人のように横たわった。それから、また立ち上がって引っ張り、そうしてまたぶっ倒れた。下側の舷側は海面下五フィートに沈み、さざなみが寄せてきてコンパニオンウェイを包みこむようになってやっと、この頑丈で小さな船は身震いし、動揺し、そうして再びマストが天頂を向いたのだ。

小さな船を帆走させていると運動不足になることはないし、重労働はその楽しみの一部でもあり、医者いらずってことにもなる。サンフランシスコ湾はちっぽけな池などではない。大きいし、風もよく吹き、変化の激しい海域だ。ある冬の夕方、サクラメントの河口へ入ろうとしたときのことを思い出す。川は増水していた。湾からの上げ潮も流れに負けて強い引き潮になっていた。日が差すと、力強い西風は衰えた。日没だった。順風から中風くらいの追い風を受けていたのだが、急流をさかのぼることはできなかった。われわれはいつまでたっても河口にいたのだ。投錨地はなく、後退する速度もだんだん速くなってくる。風がなくなってしまったので、河口の外に出て錨を下ろした。夜になった。美しくて暖かく、星がよく見えた。私がブリストルの流儀ですべてをデッキに出している間に、仲間の一人が夕食を作った。九時になると、天候が回復する見こみがでてきた(気圧計を積んでいたらもっと正確にわかっただろう)。午前二時までにはサイドステイが風で鳴り出したので、私は起きだして錨索を繰り出した。もう一時間もすれば、間違いなく南東の風が吹き出してくるだろう。
● 用語解説
イサベル島: 南太平洋(メラネシア)にある島
スナーク号: ジャック・ロンドンが建造したヨット。これに乗って太平洋を周航し、『スナーク号の航海』(未訳)を著した
スカッパ: 排水口
コンパニオンウェイ: 船室への入口
サイドステイ:  マストを横方向から支える静索

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (93) - ジャック・ロンドン著

チャーミアンは菜食主義者と衛生学者に育てられた。彼女を育てた叔母のネッタは健康によい気候の地域に住んでいて、薬なんてものは信用していなかった。チャーミアンもそうだ。おまけに薬と彼女の相性も悪かった。治したい病気そのものより薬の副作用の方がひどかったりしたのだ。とはいえ、彼女はキニーネの効能については耳を傾け、病気になるよりはましだとして受け入れた。その結果、痛みは他の連中ほどひどくなかったし、苦しむ期間も短く、発熱の頻度も少なかった。そんなとき、ぼくらは伝道師のコーフィールド氏と出会ったのだが、彼の前任者は二人もソロモン諸島で暮らすようになって半年もたたないうちに死んでいた。彼らと同様に、彼もまた同毒療法*1なるものをかたく信じていたのだが、自分が発熱すると逆症療法*2とキニーネに頼るようになり、熱に苦しめながらも福音の伝道に努めているのだった。

だが、それにしてもかわいそうなのはワダだ! チャーミアンとぼくが彼を人食い人種のいるマライタ島への航海に連れて行ったことが、コックだった彼を打ち負かす最後の一撃になってしまった。ぼくらが乗せてもらったヨットは小さくて、船長は半年前に殺されていた。カイカイとは食べることを意味するが、ワダは自分は食べられるのだと思いこんでいた。ぼくらは重武装し、警戒を怠らなかった。河口の真水で体を洗うときは、黒人のボーイたちがライフルを構えて歩哨に立ってくれた。ぼくらは英国の軍艦が船長殺害の報復として村々を砲撃し焼き払うところに遭遇した。首に賞金をかけられたお尋ね者の原住民たちがぼくらの船に逃げこもうとしたりした。陸上では人殺し連中が闊歩していた。ぼくらは予想もしないところで人なつこい原住民の差し迫った攻撃に対する警告を受けることになった。ぼくらの船にはマライタ島の原住民が二人乗っていたが、彼らはいつでも連中に寝返りそうだった。おまけに、ぼくらの乗った船は座礁してしまった。船を守ろうと懸命の努力をする一方では、片手にライフルを抱え、略奪しようとカヌーに乗ってやってくる連中に警告した。こうしたことすべてがワダには激しすぎたのだ。彼は頭がおかしくなり、とうとうイザベル島でスナーク号から下船してしまった。熱が小康状態のとき、豪雨の最中に肺炎にかかるおそれがあるというのを押し切って上陸した。彼が人食い人種に食われず、病気と高熱を克服できたのであれば、さらに合理的に判断して幸運に恵まれていたのであれば、ともかくもどこか近くの島へ、近くといっても六週間から八週間はかかるのだが、そういう近くの島に逃げおおせていることだろう。ぼくは彼の歯を二本も引っこ抜いてやったのだが、ぼくの処方する薬はまったく信用していなかった。

スナーク号は何カ月間も病院のようになっていたし、正直に言うと、ぼくらはそういう状態になれてはきている。メリンゲ礁湖では、干潮を利用してスナーク号を干潟にわざと乗り上げて船底の銅板の汚れを落としたりした。岸のプランテーションにいた三人の白人の男は皆、熱で倒れてしまい、海に入って作業できるのは一人だけだった。この原稿を書いている時点で、ぼくらはイサベル島の北東付近の海域で現在どこにいるのかわからなくなり、ロード・ホウ島を探そうと無駄な努力をしている。ロード・ホウ島はマストに登らなければ見えないような低い環礁なのだ。クロノメーターは壊れてしまった。太陽は姿を見せないし、夜も星を観察をすることはできなかった。来る日も来る日もスコールや雨だけだ。コックが蒸発してしまったので、ナカタはコックとボーイの両方を兼務しようとしたのだが、熱を出して寝こんでしまった。マーティンは熱がおさまったと思うとまた発熱している。チャーミアンは定期的に発熱するのだが、手帳の予定を見ながら次の発熱がいつ来るか予測しようとしていた。ヘンリーは期待しつつキニーネをのみ始めた。ぼくの場合、いきなり発作に襲われたので、自分が倒れたときのことは覚えていない。ぼくらは誤って船で最後の小麦粉を、小麦粉がないという何人かの白人男にくれてやってしまった。いつ陸にたどり着けるのかもわからない。ソロモン諸島の病気は悪くなる一方だ。昇こうはうっかり陸のペンドュフリンに置き忘れたし、過酸化水素は使い切っている。それで、ぼくは今はホウ酸と消毒薬、消炎剤で実験しているところだ。いずれにしても、ぼくが尊敬される医者になりきれないとすれば、それは治療の経験が不足したためだということにはなるまい。
脚注
*1: 同毒療法(ホメオパシー)とは、治療しようとする病気の症状をわざと発生させることで病気を直そうという治療法。
*2: 逆症療法(アロパシー)とは、熱が出たら解熱剤を処方するなど、病気の症状と反対の状態を作り出そうという治療。対症療法と呼ばれることもある。