ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第25回)


ベイロンのクロスターは、この近在で行楽に出かける先としては好都合な場所だ。イギリスのカヌーイストがドナウ川を漕ぎ下る場合に定番の「見るべき場所」になるのは間違いないだろう。というのも、川下りでこのあたりを旅するときの状況が効果満点で、こんなところは他にないからだ。ぼくが寝室の窓辺に寄りかかっていると、月が出てきた。天に向かって突き出している岩山を月が銀白色に照らし、周囲の木々はさらに暗くなってそれを縁どっていく。一方で、修道士の礼拝所からは、かすかに淡く赤みがかった光がもれていて、穏やかで低い夜の祈りをささげる声が聞こえてくる。おそらくは、毎日を働き通しでせわしない生活をしている平信徒よりは、修道士にでもなって頭巾をかぶっていた方がよいのかもしれない。仕事に忙殺される世界で、控えめに感謝と信仰心を抱いているよりは、聖廟で精進し、祈り、ひざまづく方がよいかなとも思った。とはいえ、ぼくとしてはまだためらいもあるのだが。

いつものように岸辺からの祝砲と声援に送られてベイロンを去った後、ドナウ川は両側がどちらも切り立った岩場の間を流れた。穏やかな川下りが何時間も続く。水は言葉にできないくらい透明度が高い。離れた深いところの洞窟さえ、のぞきこめるほどだった。ぼくはずっと下を見つめているのにもなれてきたので、泳ぎまわっている魚を見かけるとパドルの先でたたこうとしてみた(一度も成功しなかった)。そのため注意が散漫になり、カヌーが浅瀬に乗り上げたり岩場に激突したりもしたのだが、ぼんやり夢心地で、カヌーがコースを外れているのに気づかず、太い木にぶつかって木の葉やクモやゴミなんかが雨のように降ってきたりして、やっと川を下っていたことを思い出すという始末だった。そういう事件に遭遇すると、さすがに警戒心が芽生えるようになるので、ぼくは真面目に前方を注視するよう心がけた。が、狭いトンネルのような「難所」を通過したり、小さな滝を乗りこえたり、もっと大きな滝ではカヌーを引っ張って迂回したりと、一時間かそこら頑張ったところで、ぼくはついまたキョロキョロしてしまう。頭上にそびえている山の頂きや滑翔している鷲、その背後に広がっている、どこまでも青い空をつい眺めてしまうのだ。と、カヌーがまたしても水面下の岩に接触して大きく傾く。カヌーが損傷しないよう、ぼくは瞬時に飛び降りて船体を守る、といったことを繰り返した。こういう日々が続いているので、すぐに川に飛びこむことができるよう、ぼくはずっと裸足のままで、ズボンはたくし上げていた。濡れても、強烈な太陽がすぐに乾かしてくれるので、この上なく快適だ。

健康で気持ちも乗っていて、信頼できるカヌーがあり、風景もすばらしいという状況で、こうやって自分の体を使って漕ぐ喜びというのは、その本当の気持ちよさというものは、実際に経験してみないとわからない。急流では居眠り禁止ということを忘れさえしなければ、悲惨な結末になることはまずない。実際、ぼくはこの航海で風邪を引かなかったし、ケガもしなかった。カヌーに穴が開くようなトラブルもなく、無事に家に帰りつけた。また、一日たりともカヌー旅を悔いたこともない。願わくば、できるだけ多くの英国人が自由気ままに「自分のカヌーを漕いでみる」ことを体験できますように。

とはいうものの、カヌーを漕いでいるうちに腕が疲れてきたり、まだ目的地に着かないのに日が暮れてきたり、腹が減って死にそうだったりしたとき、特に人家のある場所を教えてくれるような人が誰もいないとか、そこに着いたとして問題なく夜を過ごせるような場所かがわからないなど、早く今日の予定が終わらないかなと願う気持ちになることはある。それは間違いない。5

航海についてガイドもなく、川沿いに舟を引いて歩く小道もないような川では、自分がその日にどれくらいの距離を進むことができるのか予測するのはむずかしい。調整や予測が可能なのは、自分は何時間漕ぐつもりでいるのか、平均の速度、風の強さ、川の流速、食事や休憩で上陸できそうな場所、水車用の堰堤、滝または障害物の有無などは検討がつくものの、それで航程を正確に予測することは不可能だ。

人里離れたスウェーデンの湖では、一日に三十マイルも進めば十分だと思っていたところ、一日に四十マイル進んだことも珍しくなかったし、景色がよく、いろんな出来事に遭遇し、興味のつきることのないようなところでは、一日に二十五マイルがやっとというところもあった。

一般論として、徒歩旅行では、気持ちのよい地方で一日に二十マイルも歩けば身も心も十分に活動し観察も行ったことになるだろう。だが、川旅で生じる出来事は、徒歩旅行者の日記に書かれるような出来事に加えて、自分のカヌーをめぐる状況すべてが関係してくるので、路上で起きる出来事よりはるかに多くのことが頻繁に発生し、しかも興味深いのだ。それにちょっと漕いでいるうちに、カヌー自体が自分の仲間(ぼくの場合は友人かな?)になってくるので、湾曲部をまわるたびに、また舷側に何かがぶつかったり擦(す)れたりするたびに、自分の体に何かが当たったり擦(す)れたりしたように感じるようになってくる。「人と一体化したカヌー」 対「川」という心地よいライバル関係ができるほどカヌーが個性を持つようになり、川もそうなっていくが、そうしたことすべてが航海中に起こりうるのだ。

欧州大陸を何回か旅した後では、鉄道に乗るか見物しはじめて一時間ほどは、すべてが物珍しく楽しいものに感じられるが、やがて早く終着点に着かないかなと願うようになり、町に滞在しても、そう長くならないうちに、帰国のことを口にするか考えはじめたりするものだ。一方、カヌーによる旅の特徴は、そうしたことがゆっくり進行していくので、その間はずっと楽しむことができるというところにある。というのも、いつだって奮闘し体を動かしているのは自分であって、周囲の景色についても仔細に観察できるし、湾曲部を曲がったり傾斜による流速に応じて即座にどうすべきかを判断しなければならないから退屈している暇がない。一日の喜びというものは、確かに、その日に航海した距離の長さでは測れない。たとえば、昨日の航海は景色や出来事や運動という点ではまさに最良の一つだったが、距離は一番短かった。ガイドブックによれば、「ツットリンゲンまで十二マイル」──川旅では、十八マイルといったところ──「クロスター・ベイロンから、美しい景観が展開する。ドナウ川のこの領域は航行不能」となっている。



原注
5: バルト海の航海では、飢えを感じることはなかった。食料や調理具も積んでいたからだ。1867年4月27日にテムズ・ディットンでの最初のカヌークラブの競技会で「陸上と水上での追い駆けっこ」で五隻のカヌーが競った四つの賞のうちの一つは、きれいな小型の調理セットだった。二人分を調理でき、重さは二ポンドだ。その調理セットには今でも「船長が設計し、コックが提供し、パーサーが勝ち取った」と銘が刻まれている。ヨルダン川やナイル川、それに今はもう埋め立てられてしまったオランダのゾイデル海の航海では、ぼくはカヌーの中で眠ったし、カヌーには四日分の食料を積むようにしていたが、そういうところではカヌーを降りて引っ張らなければならないダムがないかわりに、宿泊できるような集落がないところも多かった。しかも、ほとんどの場合、自分の貴重な持ち物から離れた場所で食料を調理し宿泊しなければならなかった。おまけに、そういう東方の航海で最も安全な野営の適地というのは常に、人っ子一人いない人里離れたところなのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 24:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第24回)


この素晴らしい景色はベウロンまで続いた。ドナウ川は広大な草原の周囲をめぐるように流れ、由緒正しい修道院が、深い森と円形競技場のような垂直に切り立った白い崖に囲まれるようにして立っていた。

この場所は美しいのだが、人の気配はなかった。夜の宿を求めるのは無理なようにも思えた。ここに漕ぎ入れてみると、ぼくはまたしても自分一人しか存在しない世界にいるという感覚になった。一本の木のところまで漕ぎ寄せてから上陸し、この秘境のような場所で、草をかき分けながら小さな集落まで歩いていった。

畑仕事をしていた人々は、いきなりフランネル生地の服を着た男が川の方から出現したものだからびっくりしていた。とはいえ、このクロスターの人々も「旅をしている小さな舟」のニュースについては知っていたので、ぼくのカヌーはすぐに二人の男の肩にかつがれて、立派な宿まで堂々と運ばれていった。ここの修道院を設立した王子も修道士なのだろうなと、ぼくは思っている。

「晩祷(夕の祈り)」の鐘が鳴るころ、ぼくが休憩所で壮大な景観を眺めながら食事をしていると、山々はみるみるうちに黒雲におおわれ、ものすごい雷鳴が長くとどろき、土砂降りの雨が降ってきた。

運のよいことに、この豪雨は、ぼくがちゃんとした避難場所を確保してから襲ってきた。空気が急に冷たくなった。これだけ雨が降ると、川は曲がりくねったりせず直線的に流れていくことだろう。尊敬すべき修道士たちは、そういうことにはまったく無頓着だったので、つまり、自分は屋根の下にいて雨中で野外にいる人を見るというのではなく、あるがままの現実をそのまま受け入れている様子だったので、ぼくは感心した。

この土地の友人を訪ねてきた少女の一人が、うまくはないもののフランス語を話すことができたので、ぼくの食事中は話相手をしてくれた。他の家族たちはというと、皆がぼくの持参したスケッチブックを眺めているのだった。何週間も続いたこの航海では、こういうことは少なくとも一日に二度は起きた。音楽が聞けるところはないかと思い切ってたずねてみたところ、大きなホールに移動することになった。そこではギターとピアノとバイオリン各一台で、コンチェルトが演奏されていた。歌をうたうことについては、ドイツの人たちは決してためらったりしない。

案内してくれたメラニー嬢は、今度はドイツ語しか話せない他の人たちとぼくとの通訳になってくれた。ぼくらの話題は、まったく無視するというわけにはいかない、いくつかの高貴なテーマに向けられた──つまり、「宗教」として、何が愛され、何が恐れられ、何が喜ばれ、何が馬鹿にされるのかということだ。

ぼくの荷物はとても少なかったが、選びぬいた品を持ってきていて、聖書の逸話集やフランス語とドイツ語で書いた紙類も含まれている。適当な折を見て使ったりしたのだが、たいていはきちんと受け止められ、大いに興味を持ってくれたり大真面目に感謝されたりもした。

文字が苦手で何か書いてやり取りするのをためらったり嫌がったりする人もいるが、人前で話すのが苦手だったり、乗馬やスケートやボート漕ぎが嫌いだという人だっているわけで、そんなことを詮索して小馬鹿にする必要はない。

外国語では正確に話せないことを明確な言葉で伝えるために、いくつか紙に書いて持ち歩くというのは、控えめに言っても、許容される範囲だろうと思う。自分にとっても相手にとっても非常に役に立ったり興味深く思えたりもするのだ。それで誰かを傷つけることはないし、誇りに思ったり恥ずかしいと思ったりすることでもない。ぼくもそれで人に笑われたりすることはもうない。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 23:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第23回)


翌朝も六時には、この少年たちは期待にわくわくしながら集まってきた。通学用のカバンを背負った少年たちは、登校時間になる前に出発することはなさそうだとわかると、ひどくがっかりした様子をしていた。

その代わりに、大人たちがやって来た。橋のところに集まって近づいてくる。ぼくとしては、カヌーについていつもよく聞かれる質問にも精一杯答えようとしていたのだが、ある男性が丁重な言葉使いで出発を五分だけ遅らせてくれないか頼んできた。というのも、その人の父親である老人は寝たきりなのだが、どうしてもカヌーを見たいと願っているそうなのだ。こういう場合、人に喜んでもらったり子供たちが大喜びしてくれると、こっちまで嬉しくなるのが常だし、ぼく自身も子供の頃に一隻のカヌーがどれほど自分を喜ばせてくれたかを思い出したりした。敬愛すべき母親のような、ふくよかな女性たちが興味津々でながめていたりするのに、そうした微笑や興味に対してそっけない態度をとることができるわけがない。

ぼくが出発しようとしているこの場所はドナウ川の主流ではなく、町の中を流れている細い支流の一つだった。というのも、他の流れには途中に水車用の堰(せき)があって、それを超えなければならないのだ。(前回に)掲載した木版画は出立地点の様子を示しているのだが、他の町でもあれくらいの群衆が集まってきていた。だが、絵では叫び声や喧騒といったものや、朝にカヌーを漕ぎ出そうとするときの祝砲や鐘の音を再現することはできない。

この日の航海では心楽しくなる光景が続いたが、それは英国にあるワイ川*1のロスからチェプストウにかけての最良の部分の景色を思い出させるものだった。そこでは白い岩肌が連続し、黒っぽく見える森もあり、ティンターン付近では洞窟やけわしい岩山、突き出た峰々にも遭遇したものだ。だが、ワイ川にはドナウ川で見かけるような島はなかったし、満潮時は泥まじりの濁流が押し寄せてきて、潮が引くと土手は泥だらけでもっとひどく状態になったりもした。

美しいドナウ川の島々は、大きさも形もさまざまだった。低くて平らな中洲もあれば、低木が繁茂した島や、先端部がとがっている、ごつごつとした岩だらけのところもあった。川底からは新鮮で透明な水が湧き出ていた。

ほとんど休む間もなく新しい景色が出現し、壮大な景色を眺める最良の地点にカヌーを確保しようと流れに逆らって漕ぐこともしばしばだった。切り立ったすばらしい岩壁が両側に高くそびえていたり、自由と体を動かす喜びに歓声をあげるカヌーイストの叫び声が、深い森の中でこだましたりするのだった。

とはいえ、すてきな景色が連続し、どんなに爽快な気分でいたとしても、空腹には耐えられないので、川沿いにあるフリーディンゲンという村に上陸することにした。だが、そこには、カヌーを置いておける場所がなかった。近くに宿屋がないため、朝食を食べに行っている間、カヌーを見張っていてくれる人が見つからないのだ。結局は一人の石工が手を貸してくれて、カヌーをロバの厩舎に運び入れ、少年が一番いい宿まで案内してくれることになった。ところが案内されたところは、一軒目も二軒目も三軒目もすべてビヤホールだった。そういうところでは、飲み物といえばビールしかない。しかも、その都度、人だかりが増えてくる。もう結構と、彼をお役御免にして、空腹な人間の本能の導くまま、自分で食事処を探すことにした。そうして、やっと見つけた場所にも、すぐに物見高い人だかりができた。ぼくが荷物と一緒に持参していた独英辞典には誰もが興味を示し、店内に入れず外にいた連中のところまでも何度か行き来していた。



脚注
*1: ワイ川 - 英国で五番目に長い川(全長215km)で、一部はウェールズとイングランドの境界になっている。英国では最も自然が残されている川の一つとされる。


原注
マリーは「(フランスに源流がありベルギー、オランダを経由して北海にそそぐ)ムーズ(マース)川をイギリスのワイ川と比べると、前者は後者よりずっとロマンティックだ」と述べている。ぼくのランキングでは、興味深い景色という点で、ワイ川はドナウ川よりずっと下だが、ムーズ川よりは上だと思う。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 22:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第22回)


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ツットリンゲンの町はライン川の両側に並んでいて、ほぼすべての家が染色業者か皮なめし工場かと思わせるほどで、男たちは川で皮をたたいたり解体したり洗ったりしていた。ぼくはカヌーを流れにまかせていたので、この目新しい乗り物について、少年たちが目ざとく見つけ──男の子というものは(いつの時代もそうなのだろうが)そういうものを見つけると、すぐに何か叫んだり駆け出したりする生き物だ。小さなドイツ人の集団がすぐに周囲に集まってきたが、こっちが期待している宿屋らしきものはどこにも見えなかった。自分が今いるところをじっくり観察できるというのが、川旅の持つ恩恵の一つだ。乗合馬車や蒸気船で運ばれてきた旅行者は、客引きやポーターにつきまとわれたりするが、こちらは川の上という連中の手の届かないところにいるわけなので、そういう煩瑣(はんさ)なことにわずらわされず、どういう町なのかじっくり検討することができる。気が進まなければ、そのまま通りすぎてしまうことだってできる。実際に気に入らなくて次の町まで進んだりしたこともあった。とはいえ、この川旅は今や、まったく窮地に立たされていると言ってよかった。流域の人口がそれほど多くない地域に差しかかっているため、ある町を素通りしたとして、その先にもっとましな町があるのかわからないのだ。上陸に適した場所を探して町外れ近くまで行ってみて、ぼくは水車用の水路に入ってから上陸した。

人々がどんどん押し寄せてきたので、ぼくとしてはそれから逃れるため、たまたま見つけた四輪の小さな手押し車を持っている少年に声をかけ、それを貸してくれないかと頼んでみた。どっと笑いがおこった(むろん、それは彼にとって大いなる名誉なのだった)。で、ぼくらはその手押し車にカヌーを載せて宿まで運んだ。その子にお駄賃(だちん)として六ペンス渡すと、それを見た子どもたちがわんさか集まってきた。ぼくらはカヌーを干し草置き場に吊り上げておき、厩務員に盗まれたりいたずらされたりしないよう見張っていてくれと頼んだ。しばらくすると、大人の見物人たちもやってきて行列ができたので、一人ずつ中に入って眺めることが許された。夜になっても、彼らは──女も男も──提灯(ちょうちん)片手にハシゴに登って「船」を調べていた。

夕方に着替えをすませて村の通りに出てみた。いつもならカヌーで来たやつだとは気づかれないものなのだが、ここでは散歩に出たとたんにバレてしまった。翌朝に出発するときにも、こんな風に多くの見物人が集まってくるのだろう。

ツットリンゲンはとても興味をそそられる古い町だった。立派な宿屋が一軒あり、舗道の状態はよくなかった。高い建物が密集していて、大柄で垢抜けないが正直そうな男たちは仕事をすませて、のんびりしている。仲間同士で集まり、照明のない暗くなってきた通りで愉快そうに談笑したりしていた。馬たちは丸々と太り、楽しげな女性たちに一本の橋、それに大勢の生徒たち──これが、ツットリンゲンの印象だった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 21:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第21回)


こうしたことは休息について述べているだけで、真昼のぎらぎらした太陽が照りつける前後の比較的に涼しい時間帯に距離をかせぐためにカヌーを漕ぐとなると話はまた別だということは、わかっておいてほしい。カヌーを一生懸命に漕いでいるときには、そんな風にのんびりしている暇はないし、懸命に操船しているときに感じる楽しさも、川を下っていくにつれて変化していく。

出発する時は穏やかだとしても、やがて聞き慣れた水車用の堰(せき)で水が落下する音が聞こえてくる。そういうことは毎日ほぼ五、六回はある。堰に近づくと、ぼくは堰の際まで行って、一直線になっている堰堤に沿って漕ぎながら、そこから下流側を眺めることにしていた。眼下にある数え切れないほどの細流を調べて、どのコースを通るのが最適かを把握するのだ。その頃には、水車を設置している製粉業者やその家族、使用人や近所の人たちが物珍しそうにぞろぞろと集まってくる。ぼくはといえば、毎度のことだが小さなバックパックを背負い、パドルを岸に置き、カヌーを降りて引っ張りながら障害物を乗りこえたり、迂回(うかい)したりすることになる。ときには一つ二つの干し草畑を引いて通ったり、小道や壁に沿って引きずっていって、それから川が深くなっているところでまたカヌーを浮かべるのだった。こういう堰の高さはせいぜい四フィートあるかないかなので、カヌーに乗ったまま頭から「突っ込む」こともできないわけではないのだが、下に岩とかがあってカヌーがそれに激突しひんまがってしまわないとも限らないので、こういうときは素直にカヌーを降り、持ち上げて乗りこえたり、引きずって迂回するほうがよい。

他の場所では、カヌーの船尾にまたがり、両足を水につけた格好で座って、右舷や左舷の岩を蹴りながら慎重に操船しなければならないこともあった3

原注3: このやり方を思いついたのは、この川でだった、この方法の利点は、ラインフェルデンの急流を通過するときにさらに明白になった。あとでスケッチでも紹介するつもりだが、この方法は後に中東のヨルダンでも実際にやってみた。

こういう出来事や浅瀬での渡渉なども多少はあるものの、カヌーに乗っていると、水に濡れることはほとんどない。背もたれに持たれた状態で難所だってスムーズに抜けられるし、流れが早いところでは漕ぐ必要もないので楽ちんだ。そういうところで無理に頑張って漕いで加速させたとしても、何かに衝突したときの衝撃が大きくなるだけだし、そうなれば、どんなに頑丈な舟でも壊れてしまう。

そんなこんなで景色を眺めたり、川沿いの住民とふれあったりしていても、人間の心は貪欲なので、やがてそれだけでは満足できなくなったりもする。とはいえ、やがて何か水音が聞こえてくる。腹にひびくような轟音だ。激流があるのだろう。この音が聞こえてくると、それまで寝ぼけ眼(まなこ)でいたとしてもすぐに覚醒し、全身にエネルギーを充満させなければならない。ぼくはこれまでの航海でカヌーを転覆させたことはなかったが、舟を救うためにカヌーから飛び降りざるをえなかったことは何度もある。こういうときに最優先すべきは舟で、次が荷物だ。特にスケッチブックはなんとしても濡らすわけにはいかない。快適かつ速く進むというのはその次に来る。こういう激しい労働の喜びと休息とを何時間も続け、いろんなものを見たり聞いたりしたわけだが、それについて語りだすと長くなってしまう。ここでは、沈んでいく太陽や猛烈な空腹が、その日の終着点に近づいたことを教えてくれるとだけ述べておく。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 20:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第20回)


マクレガーは、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流からの川下りを開始しました。


仲間の同行者が誰もいなくなって砂漠でラクダに進むべき方向を教えたり、人跡未踏の荒野で一人で馬を駆ったりするのは刺激的ではある。だが、両岸が高い崖になっている未知の川で急流を漕ぎくだっていくカヌーには、そういうものを超えた爽快感がある。

この楽しさは、一つには単に感覚的に動きがとても速いということによる。川で急流を下っていくのは、高所でロープにぶら下がって前方に飛び出すのと同様に、胸がしめつけられるような緊張感がある。ドナウ川での最初の数日は急流だった。水源からドイツ南部にある交通の要所のウルムまでの間、川には千五百フィート(約450メートル)ほどの高低差があった。5日間の航海で毎日三百フィート(90メートル)ずつ下っていく計算だ。だから、そういう日の航海というのは、午前に食事をとる頃が一番元気で、それからは夕方に上陸地点に着くまで休むことなくロンドンのシティーにあるセント・ポール大聖堂と同じ高さを下っていかなければならない。

この航海の楽しみのもう一つの要素は、難所を切り抜ける満足感にある。水路がいくつかに枝分かれしていて、自分が選択した流れに従って半マイルほど進んだところで、選ばなかった水路が中洲を迂回して自分の選択した水路に合流してきたりすると、まちがった水路を選択しなくてよかったと、自然に誇らしい気持ちがしてくる。

こうした感慨にひたりながら緑濃い大平原を曲がりくねりながら進んでいった。川にかかる橋にさしかかると、それだけで文明化した場所のように思えてくる。ある橋の下をくぐろうとしたとき、ドナウエッシンゲンから戻る陽気な歌い手たちを乗せた緑の枝で飾った馬車の一つが、ちょうど橋の上を音をたてて通過していくところだった。むろん、彼らはカヌーを見るなり馬車をとめて歓声をあげ、ドイツ語なまりの英語で「あのイギリス人だ!」「あのイギリス人だよ!」の大合唱になった。

カヌーでドナウ川の水源を出発した朝に集まってくれた、このにぎやかで愉快な人々との出会いがあったおかげで、ぼくの航海はニュースとして近隣の町々にすぐに広まった。そのため、ぼくのカヌー旅はどこでも歓迎され、ドイツやフランスだけでなくイギリスでも、さらにスウェーデンやアメリカでさえも、その進捗状況が新聞で報じられるようになった。

ガイジンゲンという村で、エンジンに燃料を補給する必要があることが判明したので、つまり腹が減って朝飯を食わなきゃと思ったのだが、川の近くには集落がなかった。近くに人もいたし、ぼくは係留ロープを使ってカヌーを岸から離して浮かべておき、利発そうな少年に、ぼくが戻るまでしっかり見張っていてくれと頼んだ。そうしておいて大きな建物まで歩いていって扉をノックし、中に入って朝食を頼んだ。座っていると、すぐにすばらしい食事が運ばれてきた。すると、村の人々が一人また一人と妙な服を着たよそ者を見物しに来た。こいつ、どうやってこんなところまで来たんだ、というわけだ。連中はひそひそ声でそういったことを話しあっていたが、ぼくが食事を終えて代金を払うと、どこへ行くのか確かめようとでもするかのように、ぼくの後をぞろぞろついてくる。こんな風に、いつも旅のそこここで、好奇心にかられた、しかし遠慮深い観察者たちが集まってくるのだった。

話を元に戻そう。八月の日差しは強烈だった。だからといって、途中でやめるわけにはいかない。高い岩場の下や涼しい洞窟、木橋の下や松が生えている崖の際(きわ)のちょっとした長い日陰などでカヌーをとめて休んでいると気持ちがよかった。

ぼくは昼日中には(体を動かすのも嫌なので)岸に上がり、建物の陰や草の生い茂った土手で何度か休んでみたりもした。だが、一番快適だったのは、葉を茂らせたオークの巨木の下にカヌーを係留したまま足を思い切り伸ばし、本を片手に夢見心地で寝そべったり、一日の航海を終えた夕方、川の流域で栽培されている安いタバコの葉を手に入れて前日に宿で作っておいた巻きタバコで一服したりすることだった2

原注
1: 高低差については、地図帳や地理書によって、ここに記載した数値と相違している場合がある。


2: イギリスでよく知られている二つの刺激物──紅茶とタバコ──は、ドイツでも広くたしなまれている。
(1) タバコの木(自生するので雑草木扱いされることもある)の葉を乾燥させて丸める。適当な道具を用いて火をつけ、その煙を吸引する。
多くの人で生じる効果は、気を落ち着かせることだ。が、食欲がなくなることもある。タバコはトルコで過剰に使用されている。葉には毒が含まれている。
(2) 茶の木(栽培もされている)の葉を乾燥させて丸める。適当な道具を用いて加熱処理し、成分を液体に溶け出させて飲む。
多くの人で生じる効果は、元気になることだ。が、眠れなくなることもある。紅茶はロシアで過剰に使用されている。葉には毒が含まれている。
この二つの嗜好品は安くて携帯可能だし、あらゆる地域で何百万もの人々が日常的に楽しんでいる。どちらにも支持者と反対者がいる。この植物が人間にとって有用であるか否かの議論は決着していない。


[訳者注]
タバコがヨーロッパで知られるようになったのは、コロンブスのアメリカ大陸発見以降。日本には、戦国時代にポルトガル人によって鉄砲が伝来したときに一緒に持ち込まれた。
なお、ヨーロッパで紙巻きタバコが普及したのは、十八世紀後半になってから。
また紅茶についても、大航海時代以降にヨーロッパに伝えられ(最初は緑茶)、十九世紀になると、カティーサーク号のような、中国から紅茶を運ぶティークリッパーと呼ばれる大型帆船が速さを競うようになった。
つまり、造船や航海術の進歩と嗜好品を含む新しい産物の伝来や普及とは、コインの裏表のように切っても切り離せない関係にある。
このあたりは、現代のテレビやパソコンやスマホの普及と人々の生活様式や文化の変化との関係に似ている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 19:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第19回)


いよいよ、ドナウ川の源流からカヌーによる川下りの旅が始まります。


八月二十八日、小さな橋の近くから出発することにしたが、合唱大会に参加していた歌手連中が大勢集まって歌をうたい、カヌーに揚げた英国国旗に別れを告げてくれた。(三日間の宿賃で十三フランも請求した)宿屋の主人は丁寧におじぎをしている(料金をきちんと払ったのだ)。地元の人々に見守られてカヌーを川に浮かべると、ぼくのロブ・ロイ・カヌーは喜び勇んで矢のように進んだ。

はじめのうち、ドナウ川は数フィートの幅しかなかった。が、すぐに大きくなり、大平原を流れるころには、上流域のヘンリー付近を流れるテムズ川くらいにはなった。静かで緑濃いドナウ川は、曲がりくねりつつ平坦な牧草地を、何時間もかけて、ゆったりと、しかしなめらかに流れていく。土手ではスゲが風になびき、岸辺の浅いところには柔らかい水草も茂っている。長い首と長い羽、長い脚を持った一羽の青サギが、さまざまな二十羽ほどのひとかたまりになったカモ類と一緒に餌をついばんでいた。きれいな色をした蝶が陽光をあびて漂うように舞い、ごつい顔のトンボが空中を飛びかっている。

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干し草を作っている人たちが仕事をしていた。なんとも恐ろしげな大鎌を振るう作業の手をとめ、それを水につけている。連中は話をしていた。この実直そうな一団のそばを通りかかると、連中は口をあんぐり開け、こっちを不思議そうに見つめている。が、すぐに我に返ると、帽子をとり、「こんちは」と言ってよこした。彼らは仲間に声をかけ、妙な気どりもなく、こっちを見て素直に笑っていた──小馬鹿にした笑というのではない。祖国から数百マイルも離れたところで小さなカヌーに乗っている男を見て、ちょっとありえない光景に、心底おもしろいと感じているような笑い方だった。

やがて左右の丘陵に、家々や古い城が見えるようになった。それから森に入り、やがて岩場になった。けわしい岩場に荒野、緑あふれる森が混然とし、川というものの持つ美しさが壮大なパノラマのように繰り広げられていく。それが何日も続く。きれいな川は何本も経験しているが、このドナウ川の上流域をしのぐところは、そうあるものではない。森はとても深く、奇岩や高い岩場もあって、変化に飛んでいる。水は透明度が高く、草は青々としている。川は曲がったり向きを変えたりしている。流れも速く、懸命に漕ぐ必要もない。景色が次々に新しくなっていくので、ずっと緊張しっぱなしだ。ボーッとしていると、瀬に乗り上げるか、岩にぶつかるか、無数のブヨやクモがいる木に激突してしまいかねない。そう、これこそ正真正銘の旅なのだ。ここでは、先に進んでいくには、技術や分別が要求される。そうした力を十二分に発揮しなければならない。思うに、人格というものは、こうしたことによって練り上げられていくものなのではないだろうか。というのも、まず自分で選択をしなければならない。それも瞬時に、だ。たとえば、いきなり眼前に五つの水路が出現したりするようなことの連続だ。そのうちの三つはまず安全だろうが、どれが最短で、どれが一番水深があり、現実に航行に適しているのはどれなのかを、瞬時に判断する必要がある。ためらったりすれば、次の瞬間にカヌーは浅瀬に乗り上げてしまう。こうした決断をすばやく行い、それを繰り返すことによって、それがやがては習慣になっていく──これは実に驚くべきことではあるまいか。むろん、そうしたことは何度もひどい目にあった後に可能になるのだったが。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 18:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第18回)



それとは別にウルリックというウェイターがいた。腹をすかせた歌い手たちが殺到するのを見込んで、その日だけ「特別に」雇われていた。彼は人見知りで、村の宿屋で働いた経験があるだけの若者だ。「ドナウエッシンゲンのポスト」といえば、職場としてはおしゃれで品格のあるところだとされている。彼はフランス語も勉強していて、ちょっと涙もろいので、ぼくは素っ気ないほど実用的な本を彼にやった。すると、ぼくがカヌーを漕いで川を下るときに自分をカヌーに乗せて家まで運んでいってくれないかと頼んできた! こういう単純で率直な依頼を受けたりしたら、こっちも本当に楽しくなってくる。ぼくらがずっと浅いところばかりを航行するのだとしたら、こんな連れがいても楽しいだろう。

ドナウ川の実際の水源については、ナイル川の水源の場合と同じく諸説ある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 17:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第17回)


黒い森と呼ばれる山岳地帯の嵐をやり過ごし、ドナウ川の源流に近いドナウエッシンゲンに着いたところで、いよいよ源流地帯からの川下りというわけですが、街は大きな合唱大会の準備で大賑わいなのでした。


窓という窓に飾りをつけたり装飾品が置かれたりしていたので、ぼくも自分用に一つ作った。カヌーのバウ(船首)に小さな青い絹の英国旗を揚げ、帆には花や葉を飾りつけた(自分でいうのも何だが、なかなかの出来映えだ)。祝意を示すぼくの飾りはすぐにドイツ人たちの目にとまった。彼らは歓声をあげ、その喜びを歌で表現し、アドリブで替え歌を作ってイギリスをたたえた。カヌーの周囲で歌ったり、笑ったり、叫んだり、若さあふれる大声で陽気に万歳と唱えたりもしている。ドイツ人は沈着冷静だなんて、もう二度と言ってくれるな。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 14: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第14回)

 

やむなくイギリスに戻った相棒のアバディーン伯爵と別れたマクレガーは、いよいよ単独行で、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流をめざし、ドイツとスイスの国境にある黒い森と呼ばれる山岳地帯に足を踏み入れます。


外国の山の中腹に一人でいる。夕日が荒涼としたな山岳地帯に暖かい日射しを注いでいる。風が軽やかに吹き抜け、まわりでは羊たちがメーメー鳴いている――うきうきするような喜びに満ち、心の底からわくわくしているのだが、この気持ちを伝えるには、同じような経験をしたことがない人々に言葉でどう表現したらよいのだろう?

近辺を歩きまわって、源流域を流れている小川はカヌーで下るにはまったく適していないことがわかった。それで木造建築の宿に戻って寝ることにした。洗い場は楕円形で、壁はとても薄く、深夜には周囲の騒音がすべて聞こえた。いま聞こえているのは、宿の主人の大きないびきと、まだ寝ていない使用人たちの話し声、猫のもの悲しい鳴き声やネズミがガリガリやっている音、牛の寝息、さらに馬をつないだ鎖のガチャガチャいう音だ。

ドイツでは寝台はベッドではなく「ベット」と呼ばれているが、それがいかに入念に組み立てられたものであるかは、夜になって布団にもぐりもうとしてみてはじめてわかる。寝床が適度に傾斜するように、いろんな物を上手に組み合わせて積み上げてあるのだ。そうしたものをいちいち取り出し、掘り崩していかなければならない。まず、少なくとも厚さが六十センチはあるふかふかの袋を引きはがし、ベッドカバーをめくり、それから目の覚めるような緋色の毛布をめくる。次に、巨大な枕を一つ、さらにもう一つ、おまけに、これも大きなくさび形のボルスターと呼ばれる抱き枕風のクッションを引っ張り出さなければならない。ベッドの寝る面に傾斜をつけるのなら、単に一方の側を高く持ち上げるだけですむと思うのだが、ドイツの人たちはどうしてこんな面倒なことをしてまで四十五度で斜めになって眠りたがるのだろうか?*1

人々の物腰は丁重で、地味だが丁寧な行動は、実際ずっとぼくについてまわった。だれもが気軽に「こんにちは」と声をかけてくれるし、ホテルの中でも、朝食をすませて出かけようとすると、まだ一言も発しないうちから「おはようございます」と声がかかるし、食事中の人には「十分に召し上がれ」となる。八時ごろに紅茶かコーヒー、パンとバターに蜂蜜での軽い会話がはじまり、お昼には昼食の「ランチ」、午後七時には夕食という形の食事が続く。

作法が洗練されているわけではない! ぼくが乗った馬車の御者は食事のときにぼくと一緒で、二人の世話をする給仕はそばで待機していたが、給仕の合間にタバコを吸ったりしていた。とはいえ、こうしたことはすべて、カナダやノルウェーでもよく見られる。山や森や急流があって人口の少ないところでは、どこでもそうだ。ノルウェーでもそうだったが、そういうところでは誰でも文字が読めるし、実際に何かを読んでいた。ドイツのごく普通の家では、フランスの似たような場所で一ヶ月に読まれるより多くの文字が読まれている1

ぼくはその日は荷馬車と御者を雇ったが、その御者は、翌朝にぼくが出した最初の指示には難色を示した。ティティゼー湖に行くため、カヌーを積んだ馬車について街道からそれるように命じたからだ。ティティゼー湖は山間にあるきれいな、長さ四マイルほどの湖で、小高い森に囲まれている。御者はぶつぶつ異議を唱えていたが、その理由は表面的なものにすぎず、本人が口に出している言葉より深い理由があるのは明らかだった。事実、人々の間で長く伝えられている迷信があって、イエスを処刑したローマ帝国のポンテオ・ピラトが湖の深いところに住み着いていて、カヌーで漕ぎ出したが最後、かのピラトがそいつを水中に引きずり込むに違いないという、なんとも不吉な噂が語り継がれているらしかった2

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訳注
*1: かつてのドイツでは、仰向けになって眠ると、悪魔が胸に乗ってくるという迷信があった。
眠っている人の胸に老婆がしゃがんでいる、こんなこわい絵も描かれている

John_Henry_Fuseli_-_The_Nightmare

『悪夢』、1781年、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741年~1825年)作 (source Wikipedia)

 

金縛りのようなものだろうか。それで、体を横向きにし、しかも上体をかなり高くした状態で眠る人が多かったらしい。

原注
1: 1867年当時のヨーロッパで、ドイツ語で発行された新聞の数は3241紙だった。そのうち747紙は政治新聞である。戦乱が続いているときは、ベルサイユでも印刷された

2: ピラトについての伝説は、ドイツやイタリアで流布している。イタリア南部にあるストロンボリ島は火山島だが、「ポンテオ・ピラトのせい」で、ある斜面の一角に人々が近づこうとしない場所がある。

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