スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (15)

サンブル運河 - ランドルシーへ

朝、ぼくらが屋根裏部屋から降りていくと、女主人は玄関の扉の裏側に置いてある水を入れた二つのバケツを示し、「それで顔を洗って」と言った。ぼくらはそれで顔を洗った。ジリヤール夫人は玄関前の石段で一家の靴を磨いていた。夫のエクトルさんは陽気に口笛を吹きながら、その日の売り物の商品を整理して携帯用の戸棚にしまっている。荷馬車にはこういう棚が積んである。夫婦の子供はイギリスでウォータールー・クラッカー*1と呼ぶかんしゃく玉を床に投げつけていた。

ウォータールーはフランス語でワーテルローのことだが、ちなみにフランス語ではかんしゃく玉を何と言うのだろう。アウステルリッツ・クラッカー*2だろうか。物事にはいろんな見方がある。サウサンプトン経由で汽車に乗ったフランス人が、ウォータールー駅で降り、馬車でウォータールー橋をわたる羽目になったそうだ*3。たぶん母国に帰りたくなっただろう。

ポン自体は川の上にあるが、陸を歩けばクアルトから十分で着く。ところが、水路を行くと延々と六キロもあった。ぼくらは荷物を宿屋に残したまま、カヌーを置いたところまで雨に濡れた果樹園を通って歩いて行った。子供たちが何人か見送りにきていたが、ぼくらは昨日のような不可思議な存在ではなくなっていた。金色の夕日をあびて登場したのに比べると、今朝の出発はずっと地味で味気なかった。ぼくらが到着したときは幽霊が出現したみたいなものだったのだろうが、そういう謎めいた雰囲気は消えていかざるをえない。

バッグを取りに宿屋までカヌーで戻ると、ポンの宿屋の人々はびっくり仰天した。二隻の瀟洒な小舟それぞれに英国国旗がひるがえり、ニスを塗り磨き上げられているのを見て、そうとは知らず高貴な人たちを泊めていたのかと気づいたようだった。女主人は橋の上に立って眺めていたが、宿代をもう少し高く請求すればよかったと残念に思っていることだろう。宿屋の息子はそこらを駆けまわって、近所の人たちに面白い見世物があるぞと呼び集めている。ぼくらはたくさんの見物人に見守られながら、カヌーを漕いだ。行商人だと思ったのに、こういう紳士だったのか、というわけだ。だが、もう手遅れだ。

一日中、雨が降ったりやんだりしていたが、土砂降りになることもあった。ぼくらは体の芯までずぶ濡れになり、日が差すと少し乾いて、また雨でずぶ濡れになるといった調子だった。その合間には穏やかなときもあった。特にモルマルの森沿いを進んでいたときがそうだった。モルマルという名前は不吉な印象を与えるが、風景も香りも心地よいところだ。川沿いに広がっているこの森は荘厳な感じがした。木々の枝が川面に垂れ下がり、また上の方にもずっと葉が壁のように重なっている。森は自然が作り出した都市そのもので、たくましく害のない生物に満ち、死んだものはなく、人間が作ったものも存在しない。森の生物そのものが家であり公共のモニュメントでもあるのだ。森ほど生に満ちたものはなく、森ほど静けさに満たされたところもない。そんな場所で、ぼくら二人は、自分をちっぽけでせわしげな存在だと痛感しながらカヌーを漕いでいった。

森はたしかにあらゆる匂いに満ちている。多くの木々の匂いは甘美で、元気づけてくれる。海の匂いは粗野で攻撃的だし、かぎたばこのように鼻孔を刺激し、広々とした大洋や帆船への憧憬を誘う。森の匂いは元気をださせるという意味ではそれに似ているが、いろんな意味で、もっとやさしさに満ちている。また、海の匂いはあまり変化しないが、森の匂いは無限の変化に満ちている。一日のうちでも時間帯によって、匂いの強さだけでなく性質も変化する。森のなかを移動し、木の種類が違ってくると、また別の空気を吸っているようだ。たいていはモミの木の樹脂の匂いが優位を占めているが、森の植生によっては、もっとなまめかしい場合もある。にわか雨が降った午後、モルマルの森の空気が漂ってきたが、スイートブライヤーというバラの甘い香りにも劣らない繊細な匂いがした。

[脚注]
*1: ウォータールー(フランス語でワーテルロー) - 現在のベルギーの地名。地中海のエルバ島を脱出したナポレオンが再起し、1815年にイギリスを含む連合軍やプロイセン軍と戦って決定的な敗北を喫した場所。
*2: アウステルリッツ - 現在のチェコの地名。1805年にナポレオンがオーストリアとロシアの連合軍を破った場所。
*3: ウォータールー駅/ウォータールー橋 - ワーテルローの戦いの戦勝記念に、イギリスではロンドンにある橋の名前がワーテルローにちなんでウォータールー橋に改称された。その後、その橋の近くにできた駅もウォータールー橋駅と命名された。なお、現在は路線も名称も当時と比べると変化している。

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