現代語訳『海のロマンス』22:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第22回)


無線電信

どこか天空から断続的にぶきみな音が聞こえてくる。薄い鼓膜に耳に残る波調(リズム)を与え、非音楽的な共鳴を起こさせる間隔をとって、細かくきざんだツゲのクシの目を逆なでしたような音がしたと思うと、ピカピカッピカピカッと長短(ちょうたん)相連続(あいれんぞく)する青い閃光(せんこう)が後檣(ミズンマスト)の空を激しく彩(いろど)った。

午後八時から初夜当直(ファーストワッチ)に立っている三十人六十の眼(まなこ)は一斉に、百メートル四方の闇の空に飛ぶ。波は平らで雲もない穏やかな夜である。空中にある電気のエーテルの弾力性(エラスティシティ)は最もよく安定しているだろう*1。無線電信にはもってこいの夜だと言わねばならぬ。青い閃光はくだけて夏の空に散りばめられた星になったかと思うほどに飛散して光っている。その闇の空に向けられた人々の眼(め)には、欣喜(よろこび)の色があふれている。

母国での最も荘重なる、最も偉大なる、最もめざましいできごとを見ることができないのは遺憾(いかん)の極みである。せめては一瞬も早く事の成り行きを知りたいというのが、四千海里離れた船上にいる二百人の日本臣民の悲しき衷情(ちゅうじょう)である。無線電信は二十日ぶりに八百海里をへだてたサンフランシスコの領事のもとに打たれたのであった。年号が大正となったと、誰やらがしたり顔で噂をしている。大正は大成に通じるという喜びもある。

しかし、住みにくい世の中をのがれ、誘惑の多い刺激と色彩の追っ手の眼をくらますには、船に乗って悠々と大海原に浮かび出るにかぎる。霞(かすみ)を食らい露(つゆ)を飲まずともすむわけである。盛者必滅(せいじゃひつめつ)色即是空(しきそくぜくう)と観(かん)ぜなくてすむわけである*2

そういう者には、無線電信はいらぬおせっかいである。呪詛(じゅそ)すべき仇敵(きゅうてき)である。憎むべき外道(げどう)である。マルコーニはデビルに相当することになる*3。陸上(おか)から二千海里の沖に出たときにはじめて、世間のしがらみのない別世界にたどり着くわけで、そうなると、自(おの)ずから微笑が浮かんでくるだろう。すべての人間社会の権威や約束や情実などとは関係のない大自然の懐(ふところ)に入るのだ。一生涯このような境地にあるのは無理だとしても、一月(ひとつき)でもよろしい。一日でもよろしい。永劫より永劫に続く、時の流れの一瞬をつかみ、ごく短い間でも心の落ち着きを勝ち得たならば、その分だけ陸上(おか)の煩瑣(はんさ)な生活に比べて幸福だろう。

昔、陸上(おか)に住む人間がこう言った。周囲の海は清く、天下泰平(てんかたいへい)である。しごく平穏なので、吾、これから酒を飲もう、と。いかにものんきそうである。いかにも虚心坦懐(きょしんたんかい)のようである。しかし、その次に、たちまち酔って下手な踊りを踊る、ときた。これだからウンザリする。いくら酔ったって、いくら太平だったって、下手な踊りでは何の役にも立たない。祈祷(いのり)の席で、あくびをしたよりもひどい。船の上ではいくら踊りを踊っても、人としての情などない海を相手では、手ごたえがなかろう。無線電信で耳元で青い火を出してジッジッと来るまでは、吾、まさに酔わんとす、である。海という詩境に逍遥(しょうよう)することができる。すべての煩悩(ぼんのう)や絆(きずな)から解脱(げだつ)することができる。何を好き好んで利害の風に吹かれたいのだろう。何のために浮世(うきよ)の音をききたがるのだろう。……と、ふいに自分は大成丸の船上にいる一人であって、船はすでに一時間五マイルの速力で無線電信の有効距離圏に入っているのだと悟ったとき、いくらもがいても駄目(だめ)だと思った。

だからサンディエゴを出帆して再び海に出るまでは、この世間と没交渉の別世界については、当分見合わせとする。そのサンディエゴには、手紙というすこぶるつきの人間世界のしがらみの束が届いているに違いない。ヤレヤレ。


脚注
*1: エーテルの弾力性 - かつてアインシュタインの特殊相対性原理や光量子仮説が登場するまで、エーテルは「宇宙に満ちている物質」で、光の波動説では「光を伝えるもの」とされていた。
今の知識では意味不明に思われるが、ここでは無線電信の電波の伝搬状態がよいことを述べている。


*2: 盛者必衰、色即是空 - 前者は平家物語でよく知られているが仏教の無常観に由来し、後者も仏教の般若心経に出てくる言葉で、いずれも世の中が無常であることや万物は空であるといった趣旨。


*3: マルコーニ -グリエルモ・マルコーニ(1874年~1937)はイタリア出身の発明家で、無線電信の発展に貢献したとしてノーベル物理学賞を受賞している。
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