現代語訳『海のロマンス』102:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第102回)

花雫(はなしずく)せよ、沈黙の谷

いずこに彼は今や在(あ)る!!
かつては超人と謳歌(うた)われ、傲慢(ごうまん)と誹謗(そし)られた彼。
全欧の覇権(はけん)とたわむれ、各国の王の位を弄(もてあそ)び
地球というテーブルで、人骨(ほね)のサイコロを振った彼。
すさまじき最後を見なかったか。人の世から離れた遠き孤島に。
心ある人は独り静かにただ微笑(ほほえ)みて泣くべし。

とは、「人食鬼」、「悪魔」、「猛獣」などと恐れ、嘲(あざけ)り笑う以外にはこの大英傑を呼ぶことのできなかったジョンブル(英国人)の中のただ一人(いちにん)の、真摯(しんし)にして感傷的な謳歌者たるバイロン卿の有名な賛辞である。

ナポレオンが死去した際には遺骸(いがい)を英本国に送るべしという、コックバーン司令官に下った内令は途中で変更された。新総督サー・ハドソン・ローエは、万一の際におけるナポレオンの墓地は、生前に彼が最も愛慕(あいぼ)した谷に定むべしとの訓令を受け取った。

ごつごつとした形状(かたち)のセントヘレナという孤島における六年間。

ナポレオンは、まぶしいくらいに光り輝き、目もくらめくばかりに絢爛(けんらん)だった過去の追憶に生きるの外(ほか)は、閑暇(ひま)あるごとに日々、気の毒なほどに狭苦しく限られた土地の上に、窮屈な馬上の散策を試みては、はかなき瞬間の満足を、意義も努力も責任もない当時の生活において見いだすことを寂(さび)しい日課とした。

そして、その散策は常に、ロングウッドの館から三マイルほど北西にあたるゼラニウムの谷に向けられた。鬱然(うつぜん)と茂る木の間に鳴く鳥の音もかすかに、風もないのにホロホロと散るゼラニウムの花雫(はなしずく)がなんとも艶(えん)なる山懐(やまふところ)に、この偉人は散策する場所を静かに見いだした。

猜疑(さいぎ)と白眼(はくがん)との圧迫に耐えずして、水に乏(とぼ)しく霧に苦しめられるロングウッドの館をさまよい出た彼は、ビロウドのような青い草に身を投げて、耳元近くでこんこんと湧き出る泉の声を聞きながら、木の間を透(す)かして悠々(ゆうゆう)たる白雲の流れていく様子を仰ぎ見るとき、しばしば、志を得ず囚(とら)われの身となった愁(うれ)いを忘れたのであろう。

清らかに湧(わき)いずる泉の音と、無心の風に吹かれてなびける二本の柳樹(りゅうじゅ)とは、彼をこれほどまでに強くゼラニウムの谷に執着させた最大のものであった。

帝(てい)が後年、総督本人に向かって、「今後十数年をいでずして英国のカストレリー卿やバサルスト卿やその他の連中は、今、吾(われ)と言葉を交わしている君ももろともに、いずれも皆、忘却の墓に葬られてしまうだろう。もし、将来において君らの名前を記(しる)す者がいるとすれば、それは君らが吾に対して無礼侮辱(ぶれいぶじょく)を加えたとしてであろう。これに反してナポレオン帝は長く歴史上の花となり――」と憤慨(ふんがい)したごとく、ハドソン・ローエの過酷(かこく)で無情なる圧迫の手はひしひしと帝(てい)の周囲に加えられた。

――実際、ローエはこの偉大なる囚人の看守役たる歴史的名誉をまっとうするの道は、ただもっぱら誅求(ちゅうきゅう)束縛(そくばく)を厳にするの一途(いっと)のみであると考えたかも知れぬ

――しかも、帝(てい)はなお平素(へいそ)、このローエが統治している小領地たるこの谷を思慕(しぼ)して、その最後の病褥(びょうじょく)にあっても、

「余(よ)、もし健康を回復したら、あの泉のほとりに記念碑を建てよう。もしまた、このままに死ねば、あそこに遺骸(いがい)を葬(ほうむ)ってくれ」とまで言われた。

一八二一年五月五日、紆余曲折(うよきょくせつ)の多かった五十二年の生涯を遺伝性の胃がんに終わった帝(てい)の葬儀は、ゼラニウムの谷で、同年五月八日に行われた。

英国の歩兵にかつがれた棺(ひつぎ)の上には、紫色のビロウドと、帝(てい)がマレンゴの決戦で銃弾により穴があいた外套とが置かれた。

追悼(ついとう)し回想して涙に泣き崩れたる女性等を乗せて随行する馬車、馬に乗ったベルトランとモントロンの二人の伯爵、総督ローエおよび提督マルコルム二の両氏、帝(てい)の生前の愛馬などからなる葬列は、島生活の六年間を通じて帝に最も愛撫(あいぶ)された小ナポレオン、ベルトランを先頭に静かに谷へと下っていった。

宗教上の儀式が終わってレンガ工事に着手中、いちじるしく帝(てい)を敬愛していた群衆は、争って帝(てい)が生前に好きだった柳の枝をとって記念にしようとした。この憧憬にもとづく真情の流露(りゅうろ)を見せつけられた総督は、いちじるしく機嫌をそこない、制止するよう厳命を発した。が、群衆の来襲はますますはなはだしくなり、制止の命令も役に立たなかったので、ついに帝(てい)に対する最後の反抗的私憤を示すため、墓に柵をめぐらせ(今も墓の周囲には柵が現存している)、さらに、見張りの哨兵(しょうへい)を配置して人民の墓参を禁ずるに至った。

されど、ぼくは、死後においてなお迫害と陵辱(りょうじょく)から脱することができなかった憐れなる世界最後の偉人に報いるに、

“Si taceant homines, facient te sidera notum, sol nescit comitis immemor ease sui”
(人が沈黙を守れば、星、なんじの名を輝かす。彼の輝ける太陽は永劫にその友を忘れない)というエピグラムを以てしよう。


セントヘレナ島での滞在記は今回で終了し、次回からは、セントヘレナを出発して南大西洋、インド洋、太平洋を進む帰途の航海となります

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現代語訳『海のロマンス』46:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第46回)
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グラスカッター

十月十二日(土曜)。大掃除と洗濯がすんで「日曜」という楽しい期待を明日に控えた、平和なすがすがしい「土曜らしい雰囲気」が人々の顔に浮かぶ。

午後、カッターを艤装して、楽しい半日を静かなサンディエゴの内海に遊んで、遊びくたびれた十余人は、ボートをコロナド半島の先端にあるノースアイランドに寄せる。

このノース島には、かの有名なカーチス氏の経営にかかる「カーチス飛行機学校」なるものがある。

練習船(ふね)が八月三十一日に、この静かにして絵のような泊(とまり)に入港して以来、日に何度となく船のまわりを滑走したり飛翔したりする幾組かの水上飛行機があった。はじめのうちは、あのすさまじいエンジン音の爆音も、あざやかで見事な着水や飛行の技量も珍しかったが、しまいにはすっかり馬鹿にしてしまって、自習室で本でも読んでいるときは、またかとばかりうるさがられた。

しかし、それでもときどきは、金髪緑眼(きんぱつりょくがん)の佳人(ひと)を乗せて鋭く水を切って滑走するときや、巧みに練習船(ふね)の帆桁(ヤード)とすれすれに飛んで、きわどい離れ技を演ずるときは、惜しげもなく拍手と歓声が全船から流れ出ることもあった。こんなときには、操縦者はきっと片手を上げて挨拶したものだ。

その学校の桟橋へ船をつけて、白いジャンパー姿の男がドヤドヤと上陸する。見ると、桟橋の根元の方に一人の老人が腰をかがめて、箱のような変な格好の船型と、奇怪なる設計図(プラン)とを並べて、深い瞑想にふけっている。通りすがりに言葉をかけても、振り向きもせぬ。しないのも道理、この老人こそ、この学校の師範代で、二週間に一遍ずつまわってくるカーチスの代教授をしているほどに技量抜群な人だというが、多年の飛行ですっかり鼓膜を破ってしまったのだと……

イッシャー君というのが出てきて、いろいろと案内もし、説明もしてくれる。学校(ここ)には「水上」と「陸上」の二種類あることや、キムピー嬢、近藤氏、武石浩波(たけいしこうは)氏の三人はみなこの学校で練習を受けたこと、自分はパリの飛行機学校で、ドイという日本学生と友達であったなどと話す。

「カーチス飛行機学校」といえば、いかにも立派なようであるが、実は五十エーカー(約二十万平米、東京ドーム四個半)ばかりのだだっ広い草原(くさはら)に、破れかかった汚い家が二、三軒と、修繕工場一棟と、「水上」「陸上」の飛行機格納庫各一棟ずつとモーター試験場とがあちこちにたたずんでおった。

ちょっとでいいから乗せてくれと頼んだら、おそまつな滑走用の一台の「カーチス」式複葉機(バイプレーン)を出してきた。彼らはこれを「草なぎ機(グラスカッター)」と呼んでいる。誰だったか、スイッチをつなごうとしたら、やれ大変とばかり、差し止められた。その代わりに写真をとってもよいと許可された。写真を撮りにわざわざ頼みにくる連中も多いらしい。

「水上」の方は例のイッシャー君が、この「フロート」がどうで、この「翼(プレーン)」の浮揚力がどれくらいで、支柱(ステイ)の受ける力が最小となるよう応力が計算されていて、発動機(モーター)の爆発周期は何分の一だとか、むずかしいことを詳しく説明してくれたが、ひどいなまりのあるアメリカン英語でペラペラときた講義の大部分はとうとう「理解」できないままだった。

ローマランドの一日

船長艇(キャプテン・ガレー)を艤装して、音に聞こえしローマランドに一日の清遊を試みる。同舟の友は五人。

    この山に仙人おわす水仙花

月が似合うローマランド、日没が似合うローマランドは、また花も似合う。

しめやかな春雨の軽いうきうきした足音が、野に響き、水に響いて、けぶるような紗をすかしたような情趣を生み出すとき、美しき水仙花やクローバーは今を盛りと咲かせた花からしずくがしたたり落ちている。

方形係数(ブロック・コエフィーシェント)*1がわずかに〇・六の船長艇は、少しキールを水につけただけの軽い姿で、鏡のように静かな入江の水を、朝の八時頃の下げ潮に押されながらすべるように走っていく。

*1: 方形係数(肥せき係数とも呼ぶ)は、船の太り具合を指す指標。
水線下の容積の太さ(やせ)具合を示し、この値が小さいと細身でスピードも速いイメージになる。
具体的には 「船の排水容積」と「水線長×水線幅×喫水」の比で、船型が完全な直方体だとすれば方形係数は「1.0」になる。
大量の荷を運ぶよう設計される貨物船は、旅客船に比べて、この値が大きくなる傾向がある。

セントラル教会の招待会(イブニング・ソサエティ)で、晴れやかな三日月眉と、すずしい張りのある目と、黒いビロウドの帯飾りとをつけた、世にも美しいサンディエゴの娘と歓談笑語(かんだんしょうご)したその翌日(あくるひ)の朝である。

光輝ある初秋の光線(ひかり)は透き通った水に落ち、帆をかすめる小鳥の影が、水底の細石(こいし)や藻の葉にさっと黒く落ちては、また元のように明るくなる。この快適な朝の景観と、ブドウ、オレンジなどのカリフォルニアの美果を積みこんだ心丈夫とは、今日の行楽をして、期待あるものたらしめ、意義あるものたらしめる。

パビリオン・ハウスの検疫所を右に見て、おそろしく長い海藻(ケルプ)の中を流れ下った艇は、十時にローマランドの砲兵隊連隊合宿所の下へと漕ぎ寄せる。

カーキ色の兵隊さんが往来する合宿舎(カンティーン)には青いツタが見事にはいまとわって、その二階からは音色もゆかしいピアノが漏れ聞こえてくる。一軒の将校宿舎のベランダには五、六人の奥さん連中が集まって、紅茶を飲みながら静かに世間話にふけっている。

こんな俗世間を離れたような生活を眺めながら、船乗りの間に有名な例のローマランドの灯台(ライトハウス)に着いたのは十時ごろであったろう。

青いサボテンの花が目もはるかに連なる先に、太平洋の波打ち際に沿って白い建物と海抜百フィートの灯台とが見える。

キャピテン・ビーマンという、七十ばかりの好々爺(おやじ)の灯台長や、その細君や、一等灯台員など、家族総出で歓迎してくれる。

話によると、この灯台は今から二十三年前に建てられた回転灯で、四百三十二面の反射鏡と、四分の回転周期と、五秒間の照射期間を持っているという。到達距離は二十海里で、光力は十二万燭光*2を数える。

*2: 燭光(しょっこう)は光度の単位で、現在のカンデラとほぼ等しい。カンデラは、照度の単位である「ルクス×距離の二乗」で計算される。

ここのローマ岬(ポイント)は音に聞く海上の難所で、三年前には鉄船が、七年前にはスクーナー型の帆船が相次いで同じような場所で座礁し、粉々に破壊されたという。現に、灯台の下には、いたましくも赤く錆びた鉄片が、世を呪うもの、海神の権威をないがしろにする不届きものの末路を見よやとばかり、敗残の跡をさらしている。

快く軽い汗を感じながら小さな多くの小山を北に越したぼくらは、スペイン人がこの地の覇者であった時代の旧灯台(オールド・ライトハウス)に行く。一八五四年に建てられたもので、荒廃した壁の中には、古いカビくさい、一種いやなにおいがしみじみと人の追憶に迫るように漂っていた。

この旧館と同じ背の山には、日本のコックが埋葬されている墓地(セメタリー)があるという。何でも十何年前に米国の一砲艦がここで爆破したとき、一緒に乗りこんでいた志願兵であるという。

なつかしさと、あわれさとのまじった気分で、山の頂上にあるその墓地(セメタリー)に行く。墓地というよりは遊山地といったほうが適当なほどに明るい華やかな空気が、敷物のように青くきれいな芝地の上に広がっていた。

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