ヨーロッパをカヌーで旅する 37:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第37回)

言葉が通じない海外で話をするとなると、絵を描く必要がでてくる。これは、アラブをのぞけば、身振り手振りよりもずっといい。ロシア中央部のニジニ・ロヴゴロドの市場を訪ねたとき、ぼくは「中国人街」で多くの時間をすごしたのだが、チン・ルーという中国人と話をするのがとても難しかった。身振り手振りも役に立たない。だが、連中は茶箱に赤いロウを持っていて、そばには白い壁があった。そこで、ぼくは自分のやっていることについて英語で説明しながら、同時に白い壁に赤いロウで絵を描いてみた。すると、それが興味を引いたらしく、中国人やロシアのカルムイク人、それにどこの国かわからないが異国風の人々が何十人と集まって来るではないか。自分が伝えようとしていた相手の集団は、ぼくの言いたいことを完全にわかってくれたように思えた。

というわけで、カヌーに上達したら、次は通じやすい身振り手振りを覚え、ちょっとした筆記具を携帯しておけば、飢え死にすることもないし、寝るところが見つからないということもなく、ずっと遠くまで、いろんな土地やそこの人々と知りあって楽しく旅を続けることができる。

ヴォルガ川からライン川に話を戻そう。ツェラー湖(またの名をウンター湖)に入ると、流れはずっと穏やかになる。コンスタンス湖の景色に比べると満足できるとまではいえないが、冠雪した山々を背景に持つこの湖は美しくはある。しかも、残念ながらコンスタンス湖には島がなかったが、このツェラー湖にはいくつかあって、そのうちの一つはかなり大きいのだ。ぼくが到着する前、フランス皇帝*1が湖畔の城に二日滞在していたらしい。カヌーで旅している男がやってくると皇帝が知っていたら、もう一週間ほど滞在を延ばしていてくれたのではあるまいか3

皇帝陛下と朝食をともにするには遅すぎたとはいえ、ぼくはカヌーを漕いでシュテックボルンの村に入った。文字通り川の縁に宿屋が一軒建っていて、川旅をする者には便利この上ない環境だ。ライン川のこの付近では、こうした場所をよく目にした。そういうところでは、パドルを手に持ったままドアをたたき、犬に吠えられたりもせず食事を注文できる。熱々のジュージュー音を立てている食事にありつけるのだ。テーブルの支度ができるのを待つ間、カヌーの荷物を整理し、カヌーを窓辺のバルコニーに係留しておく。朝食や食事をとる間も、休憩したり本を読んだり絵を描いたりしている間もずっと、自艇は目の届くところにあるわけだ。

経験から学んだことだが、子供というものは、どんなやんちゃな子であっても、川に浮かべてあるカヌーにちょっかいを出す者はほとんどいない。だが、大人は別だ。どんなに好人物でも、小さな舟が岸辺に残されていたりすると、それを引っ張ってみたり、つっついてみたりしないと気が済まないらしい。



原注
3: この皇帝とカヌーについては、次の記事が参考になる。この記事は四月二十日(皇帝の誕生日)の「グローブ」誌に掲載されたものだ。


「今朝発行された1866年4月6日付の布告により、大臣は、1867年の万国博覧会において、プレジャーボートおよび河川の航行に付随する技術と業界に関連するすべてについて特別展示を行う団体のための特別委員会を設置する。この措置は、素人愛好家の航海が過去数年間に担ってきた重要性を示し──報告書で示されているように、この新しいスポーツに名誉を与えるもので、フランスにおいてこれが発展することを長く妨げてきた古く馬鹿げた偏見をなくすことにつながると考えられている。なんでも英国風を好む皇帝は、特に英国のスポーツすべてを模倣して取り入れることを積極的に後援するようになっているが、マクレガー氏の『ロブ・ロイ・カヌーの航海』を読んだ後、カヌーを展示するよう提案したと言われている。『ロブ・ロイ・カヌーの航海』では、プレジャーボートは単に楽しいだけではなく、フランスの若者たちに人里離れた未知の川や渓流を一人で探検するという多くの新しい発想が展開されている。」


バルト海での航海に用いたロブ・ロイ・カヌーはパリで開催されたこの博覧会に展示された。皇帝はセーヌ川でこのカヌーの性能を自分の目で確かめ、すぐにサールから姉妹艇のカヌーを購入し、それを王位継承者に与えた。この継承者はロイヤル・カヌークラブの一員となったとき、愛艇をローヌと命名し、船長とカードを交換するという良き慣習に従った。

訳注
*1: フランス皇帝 - ナポレオン三世(1808年~1873年)。フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの甥(ルイ・ナポレオン)のこと。
ドイツとの普仏戦争で捕虜になった後、晩年は英国のロンドンですごし、その地で没した。


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ヨーロッパをカヌーで旅する 18:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第18回)



それとは別にウルリックというウェイターがいた。腹をすかせた歌い手たちが殺到するのを見込んで、その日だけ「特別に」雇われていた。彼は人見知りで、村の宿屋で働いた経験があるだけの若者だ。「ドナウエッシンゲンのポスト」といえば、職場としてはおしゃれで品格のあるところだとされている。彼はフランス語も勉強していて、ちょっと涙もろいので、ぼくは素っ気ないほど実用的な本を彼にやった。すると、ぼくがカヌーを漕いで川を下るときに自分をカヌーに乗せて家まで運んでいってくれないかと頼んできた! こういう単純で率直な依頼を受けたりしたら、こっちも本当に楽しくなってくる。ぼくらがずっと浅いところばかりを航行するのだとしたら、こんな連れがいても楽しいだろう。

ドナウ川の実際の水源については、ナイル川の水源の場合と同じく諸説ある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 17:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第17回)


黒い森と呼ばれる山岳地帯の嵐をやり過ごし、ドナウ川の源流に近いドナウエッシンゲンに着いたところで、いよいよ源流地帯からの川下りというわけですが、街は大きな合唱大会の準備で大賑わいなのでした。


窓という窓に飾りをつけたり装飾品が置かれたりしていたので、ぼくも自分用に一つ作った。カヌーのバウ(船首)に小さな青い絹の英国旗を揚げ、帆には花や葉を飾りつけた(自分でいうのも何だが、なかなかの出来映えだ)。祝意を示すぼくの飾りはすぐにドイツ人たちの目にとまった。彼らは歓声をあげ、その喜びを歌で表現し、アドリブで替え歌を作ってイギリスをたたえた。カヌーの周囲で歌ったり、笑ったり、叫んだり、若さあふれる大声で陽気に万歳と唱えたりもしている。ドイツ人は沈着冷静だなんて、もう二度と言ってくれるな。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 14: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第14回)

 

やむなくイギリスに戻った相棒のアバディーン伯爵と別れたマクレガーは、いよいよ単独行で、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流をめざし、ドイツとスイスの国境にある黒い森と呼ばれる山岳地帯に足を踏み入れます。


外国の山の中腹に一人でいる。夕日が荒涼としたな山岳地帯に暖かい日射しを注いでいる。風が軽やかに吹き抜け、まわりでは羊たちがメーメー鳴いている――うきうきするような喜びに満ち、心の底からわくわくしているのだが、この気持ちを伝えるには、同じような経験をしたことがない人々に言葉でどう表現したらよいのだろう?

近辺を歩きまわって、源流域を流れている小川はカヌーで下るにはまったく適していないことがわかった。それで木造建築の宿に戻って寝ることにした。洗い場は楕円形で、壁はとても薄く、深夜には周囲の騒音がすべて聞こえた。いま聞こえているのは、宿の主人の大きないびきと、まだ寝ていない使用人たちの話し声、猫のもの悲しい鳴き声やネズミがガリガリやっている音、牛の寝息、さらに馬をつないだ鎖のガチャガチャいう音だ。

ドイツでは寝台はベッドではなく「ベット」と呼ばれているが、それがいかに入念に組み立てられたものであるかは、夜になって布団にもぐりもうとしてみてはじめてわかる。寝床が適度に傾斜するように、いろんな物を上手に組み合わせて積み上げてあるのだ。そうしたものをいちいち取り出し、掘り崩していかなければならない。まず、少なくとも厚さが六十センチはあるふかふかの袋を引きはがし、ベッドカバーをめくり、それから目の覚めるような緋色の毛布をめくる。次に、巨大な枕を一つ、さらにもう一つ、おまけに、これも大きなくさび形のボルスターと呼ばれる抱き枕風のクッションを引っ張り出さなければならない。ベッドの寝る面に傾斜をつけるのなら、単に一方の側を高く持ち上げるだけですむと思うのだが、ドイツの人たちはどうしてこんな面倒なことをしてまで四十五度で斜めになって眠りたがるのだろうか?*1

人々の物腰は丁重で、地味だが丁寧な行動は、実際ずっとぼくについてまわった。だれもが気軽に「こんにちは」と声をかけてくれるし、ホテルの中でも、朝食をすませて出かけようとすると、まだ一言も発しないうちから「おはようございます」と声がかかるし、食事中の人には「十分に召し上がれ」となる。八時ごろに紅茶かコーヒー、パンとバターに蜂蜜での軽い会話がはじまり、お昼には昼食の「ランチ」、午後七時には夕食という形の食事が続く。

作法が洗練されているわけではない! ぼくが乗った馬車の御者は食事のときにぼくと一緒で、二人の世話をする給仕はそばで待機していたが、給仕の合間にタバコを吸ったりしていた。とはいえ、こうしたことはすべて、カナダやノルウェーでもよく見られる。山や森や急流があって人口の少ないところでは、どこでもそうだ。ノルウェーでもそうだったが、そういうところでは誰でも文字が読めるし、実際に何かを読んでいた。ドイツのごく普通の家では、フランスの似たような場所で一ヶ月に読まれるより多くの文字が読まれている1

ぼくはその日は荷馬車と御者を雇ったが、その御者は、翌朝にぼくが出した最初の指示には難色を示した。ティティゼー湖に行くため、カヌーを積んだ馬車について街道からそれるように命じたからだ。ティティゼー湖は山間にあるきれいな、長さ四マイルほどの湖で、小高い森に囲まれている。御者はぶつぶつ異議を唱えていたが、その理由は表面的なものにすぎず、本人が口に出している言葉より深い理由があるのは明らかだった。事実、人々の間で長く伝えられている迷信があって、イエスを処刑したローマ帝国のポンテオ・ピラトが湖の深いところに住み着いていて、カヌーで漕ぎ出したが最後、かのピラトがそいつを水中に引きずり込むに違いないという、なんとも不吉な噂が語り継がれているらしかった2

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訳注
*1: かつてのドイツでは、仰向けになって眠ると、悪魔が胸に乗ってくるという迷信があった。
眠っている人の胸に老婆がしゃがんでいる、こんなこわい絵も描かれている

John_Henry_Fuseli_-_The_Nightmare

『悪夢』、1781年、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741年~1825年)作 (source Wikipedia)

 

金縛りのようなものだろうか。それで、体を横向きにし、しかも上体をかなり高くした状態で眠る人が多かったらしい。

原注
1: 1867年当時のヨーロッパで、ドイツ語で発行された新聞の数は3241紙だった。そのうち747紙は政治新聞である。戦乱が続いているときは、ベルサイユでも印刷された

2: ピラトについての伝説は、ドイツやイタリアで流布している。イタリア南部にあるストロンボリ島は火山島だが、「ポンテオ・ピラトのせい」で、ある斜面の一角に人々が近づこうとしない場所がある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 13: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第13回)


夏の航海計画を立てるのは楽しい。ブラッドショーの海外鉄道ガイドに読みふけるのは六月とか七月だ。このガイド本には他にも有益な情報は掲載されているのだろうが、どこへ行こうかと思案しつつ、ぼくは自分に興味のある「蒸気船と鉄道」のページだけを何度も読み返した。

こうした楽しみはすべて、次のような質問に対する答えが自分のなかできちんと出ているかにかかっている。気分転換したいのか、ゆっくりのんびり過ごしたいのか? 休息のために出かけていくのか、保養のためなのか、はたまた精力的に動きまわって夏を存分に楽しみたいのか?

とはいえ、誤りのないことでも有名なブラッドショーのガイド本にも、ぼくがカヌーについて知りたいと思っていることに対する答えは載っていなかった。自分で持ち運ぶボートについての旅行ガイドなんて、どこにも存在していないからだ。だから、どうしようかという悩みについては、フライバーグですぐに決着がついた。とにかく「ドナウ川の源流まで行ってみよう」と、単純明快に決心したのだ。

で、翌朝にはもうカヌーを荷車に載せ、例によってグレーの服を着用し、埃っぽいヘレンタールの通りを歩いていた。そのときのぼくは、体調もよく意気軒高で、うきうきと心も軽く、はつらつとして明確な目標も持っていたが、具体的に何をすべきか、何を見るべきか、誰に会うべきかわからないという状態なのだった。これをどう表現したらいいのだろう? こういうときには、とにかくうれしくて、簡単に「感謝の念に満ちた!」状態でいることはできる。

あれこれ思案しながら数マイルほど歩いていくと、イギリス人を満載した馬車が追いこしていった。やがて彼らとも道連れになった。外国でのイギリス人の評判は「他人行儀で、無口で、尊大で、陰気で、信用できない」だ! ぼくに言わせれば、それはとんでもない誤解だ。 非常に美しい深い峡谷を通っていく間ずっと、連れの女性たちはぼくのような者でもちゃんと相手をしてくれたし、ヘレンタール峠をこえるときは、荷車に載せたカヌーがぼくらの後ろからちゃんと運ばれてくるようにしてくれた。旅行者は汽車でスイスに向かうので、フライバーグの尖塔を車窓から眺めて感心する人は多い。が、この峠まで足を運ぶ人はめったにいない。

黒い森という意味のシュワルツワルトがスイスへの入口になっている。森林や岩場が多くて不気味な場所だが、立派な道路が通っているし、ちゃんとした宿もあちこちにあった。村は森の中にあった。一軒おきに製材工場があるのではというくらい、せわしなく活力に満ちた音が響いてくるが、それにカッタンコットンと水車のまわる音がまじって、なんとものどかな感じだ。観光客が景色を眺めに来るのはそこまでだ。さらに進むと、暗い色をした大海原のような壮大な山岳地帯が広がっていた。家々は大きくなる一方で、その数は減っていく。ほぼすべての建物の脇に小さな礼拝堂があり、聖人の等身大の木像が破風の端に取りつけられていた。ある夜、ぼくはこうした巨大な建物の一つに泊まった。使用人やら農作業を終えた連中が戻ってくると、その半数はなかば歌うような調子で、小さな声だが節をつけて祈りを唱え、それから大盛りの夕食に挑むのだった。

馬車はさらにけわしい山岳地帯を登っていった。どちらの側も山に囲まれた渓谷の盆地のようなところで、頭上には巨大な老木がそびえている。こうした巨木はいずれ切り倒され、ストラスブールで見るような大きなイカダの一つに載せられてライン川を流れ下っていくのだろう。

ライン川のイカダは有名だからこまかい説明は省くが、広い水面に丸太が延々とつらなって浮かび、その上に小屋が立ち並び、陽気なイカダ師たちが大挙して乗っている。連結させた長大なイカダを操作しながら流すには五百人もの人手が必要で、その材木の値は三万フランにもなるという。

この峠の一番高いところが分水嶺だった。スイスのバールに宿をとり、カヌーも安全に保管してもらえるようにしておいてから、ぼくはカヌーを浮かべられる流れを探すため徒歩で遠くまで見てまわった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 12: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第12回)


天気はまたすぐによくなって楽しくなった。というか、カヌーって狩猟もできるんだって感じになってきた。というのも、いかにもここは俺の縄張りだぞといいたげな野生のカモが浮かんでいたし、浅瀬を歩いていたサギは、ぼくらが近づくと、こわいこわいという風に遠ざかっていったりしたからだ。それで、相棒は銃を構えた。ぼくは猟犬になったつもりで、川の反対側からこっそり忍び寄り、パドルで獲物を指すという遊びをやったりした。

この遊びに、ちょっと夢中になりすぎてしまった。相棒の伯爵は岸に上がり、土手で腹ばいになった。ぼくらを小馬鹿にしている鳥の方へと前進していく。彼の射撃の腕は一流で、ウインブルドンの大会でも実証済みなのだが、いかんせん短銃でサギを撃つのは簡単ではなかった。

影が長く伸びてくると、この単調な川も美しく見えてきた。夕方、人気のないプールで水浴びをし、泳ぎ疲れるとまじりけのない黄色の砂場で横になって休んだ。ハーナウで宿泊することにした。

翌日のマイン川の川下りについては、とにかく楽しかったことだけは覚えているが、最後に大きな城に着いたことを除いて、ほとんど記憶がない。城のある場所で、一隻の船が停泊していた。明らかにイギリスのものだった。その船についてあれこれ探っていると、一人の男が皇太子の船だと教えてくれた。しかも、「いまバルコニーから君たちをご覧になっているよ」と言うのだ。ここはルンペンハイムにあるケンブリッジ公爵夫人の城で、フェリーを下車した四頭立ての馬車が、皇太子夫妻をこの川辺の城へとお連れしたところなのだった。そこからフランクフルトまでは、西の強風が吹いたので、必死でパドルを漕いだ。ルシーという宿で濡れた服を乾かした。ヨーロッパで最高級のホテルの一つだ。

翌日、フランクフルトのボート乗りたちは、イギリスからやってきたぼくらのカヌーが川を軽々と進んでいく様子に驚いていた。風を受けて川を飛ぶようにさかのぼったり、「地面が濡れているだけ」の浅瀬では、パドルを漕いで向きを自在に変えた。二人とも楽しいからカヌーに乗っているのだったし、カヌーに乗ってしまえば体重は関係ない。もっとも、ぼくらの乗っているカヌーには、二人一緒に乗って快適に漕げるだけのスペースはなかった4

原注4
ロイヤル・カヌー・クラブには、何隻か「二人用」カヌーがある。各艇に二人の漕ぎ手が乗るので、非常に速い。最近ではクラブは毎年のように、各艇に四人を乗せ、ダブルパドル*1を使ったレースも行っている。オークやヒマラヤスギやパイン材で作ったカヌー以外にも、皮や帆布、ブリキ、紙、天然ゴム製のカヌーも所有している。

 

脚注
*1:ダブルパドル - 両端に水をかく平たいブレードがついているパドル。ダブルブレードパドルとも呼ぶ。
カナディアンカヌーのようにデッキがないカヌーでは、片側のみのシングルブレードパドルを使うのが一般的で、その場合、一本のパドルを持ち替えて両舷を交互に漕ぐ。

日曜日、例のやんごとなき高貴な方々がフランクフルトにある英国国教会の教会に来場された。他の聴衆と同じように歩いて礼拝堂から出てこられたが、静かで上品なやり方で、派手な行進なんかするより親しみが持てた。

厳粛な場では、シンプルに徹することが真の威厳につながる。

その翌日、とにかく行動的で陽気な相棒は、ぼくと別れて帰国することになっていた。ウインブルドンではその腕前で年間最優秀賞を獲得していたのだが、彼はウインブルドンでの二週間の射撃練習だけでは満足していなかった。沼地や草地での狩猟の予定が詰まっていて、それとは別に仕事でも故国にいる必要があったためだ。相棒はライン川をケルンまで漕ぎ下った。途中で何度か、全速力で進んでいる蒸気船にロープのフックを引っかけてカヌーを引っ張らせるという離れ業を演じて見せたりもした5

原注5
アバディーン伯爵は、後年、ある帆船に乗っていて溺死した。卿の兄弟の故ジェームズ・ゴードン氏はプロのカヌーイストで、ロブ・ロイ・カヌーに乗って英国海峡を横断した最初の人である。現在の伯爵もロイヤル・カヌークラブの会員であり、物故されたがフランスの王位継承者だった方もこのクラブに所属し、四隻のカヌーを所有されていた。協会の会長は英国皇太子である。

一方、ぼくは自分のカヌーを鉄道でフライバーグまで運んだ。そこから、まったく新しい航海を始めるのだ。というのも、ここまでは知っている川だったが、ここから先は、ロブ・ロイ・カヌーでは未知の水域を漕ぐことになる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 11:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第11回)


一日が長く、しかも楽しかった。とはいえ、何度か、にわか雨に降られた。あわやというところで土手に乗り上げたり、竹製のマストが折れたりもした。帆が垂れ下がってしまい、突風で傘が逆さになったみたいに、みっともなかったりもした。こんな状況ではあったが、心配は何もしていなかった。ケガもしていないし、文句をいうことでもない。ぼくは庭師のところに行って、マストの代用になる、もっと強いものを手に入れてきた。タチアオイの支柱として使われたりする、緑色に塗った長い棒だ。これは今度の航海で最後まで持ってくれたし、折れた竹は帆の下縁を張るブームに作り直した。

アバディーン伯爵は次に下る予定のナーエ川を下見に出かけたが、結果はあまりかんばしいものではなかった。ぼくも試験的に河口から漕いでさかのぼってみたが、非常に水深が浅かった。

汽船で別の場所に行こうという意見には同意するしかなかった。ぼくは重力という普遍的な原則を尊重し、それには逆らわないようにしているので、カヌーの旅で地球を味方にするには、川をさかのぼるよりは下る方がずっといいというわけだ。蒸気船や馬や人力を活用してカヌーを川の上流へと運び、重力の助けを借りて川を漕ぎ下るのが賢明なやり方だ。

相棒がイギリスに戻らなければならない期日が迫っていたので、ぼくらはマイエンヌまで行ってから、汽車でマイン川が流れているアシャッフェンブルクに向かった。カヌーを貨車で運搬する際には、例によって一悶着あった。エクス・ラ・シャペルのときのように、寛大な対応をしてくれる救世主みたいな人物は出現しなかった。小うるさい手荷物係と支払いの件で交渉した。ちょっとした悪気のない嘘もついたが、今回の航海でそんなことをしたのはこのときだけだ。

鉄道で乗り合わせた乗客の一人がぼくらの旅に非常に興味を抱いてくれた。ぼくらは事細かに説明した。後でわかったことだが、相手は、ぼくらが「二つの小さなキャノン(cannons)」を伴って旅をしているのだと思い込んでいた。フランス語の小舟(canots)をカノン(Canons)と聞き違え、さらに大砲という意味もあるキャノンだと思い違いしていたのだ。で、そのキャノンとは何だということで、彼はキャノンなるものの長さと重さについても聞いてきた。ぼくらの「キャノン」は長さが「十五フィート」(約4.5メートル)で重さは80ポンド(約32キロ)、しかも、そのキャノンを売るためではなく好きで運んでいるのだと聞いても平然としていた。ぼくらはキリンを運んでいるんですよといっても、彼は少しも驚かなかっただろう。

アシャッフェンブルクという、この長い名前を持つドイツの町の宿屋に宿泊していた客たちは、丁重な受け答えながらも大きな関心を寄せてくれたので、ぼくらとしても嬉しかった。ぼくらは二人ともカヌーに乗るときは灰色のフランネル地の服を着用するのだが、これが彼らをひどく驚かせたようだ。こういう服装についてびっくりされたり、なぜこんな旅をしているのか、どこへいくのかなどと聞かれるのは、海外でカヌーを漕いでいると日常茶飯事だ。

マイン川でカヌーを漕ぐこと自体に問題はなかったが、景色は可もなく不可もなくといったところだった。いい風が吹くと、ぼくらは帆を揚げ、カヌーをヨットのように帆走させようと苦心して時間を無駄にした。川では、追い風でない限り、そううまくいくものではない。う雨が激しくなってきたので、ランチタイムということにして、ぼくらはとある宿屋の一部になっている殺風景な離れのようなところに逃げ込んで昼食をとった。そこには古くなった黒パンと生のベーコンしかなかった。ずぶ濡れになって、この粗末な食事をとっている間も、風は音をたてて吹きつのり、雨音も激しくなった。ぼくらはレインコートを着たまま寒さに震えた。今度の旅でこんなひどい目にあったのは、このときだけだ。この贅沢な旅で、これほど過酷な状況というのは他になかった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 10: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第10回)


翌日、乗客の荷物だとはっきりわかるようにカヌーを台車に載せて鉄道の駅まで運び、理をつくしてカヌーが手荷物であることを証明しようとしたが、ポーターたちは頑強にそれを認めようとはしなかった。が、一瞬にして、彼らの態度が一変した。理由はわからないが、あわててぼくらのところにやってくると、放置されていた二隻の「ボート」をひっとらえて貨物車まで大急ぎで運び、中に押し込んで扉をバタンと閉めた。汽笛が鳴り、汽車が動き出した――「連中が突然なぜ折れたのかわかるかい?」と、一人のオランダ人がきいた。彼は英語が話せた。「いや、まったくわかりません」と、ぼくらは答えた。「君らが英国首相の息子とラッセル卿の息子だぞと言ってやったのさ、私がね」

だが、鉄道での相手の対応は、エクス・ラ・シャペル(ドイツ語ではアーヘン)でまた元に戻ってしまった。ぼくらはなんとか説得しようとしたが、今度はこっちが折れるしかなくて、カヌーは「交易品」扱いにされてしまった。夜中にゆっくり運ばれて、「たぶん明日」には到着するだろうというわけだ。責任者だという男は、ぼくらのカヌーを自分の戦利品として分捕ろうとしているのではないかとすら思えたが、そいつが偉そうに声を張り上げているとき、乗客の荷物担当の「上司」が出てきて話を聞いてくれた。そうして、穏やかな口調で、ぼくらのために特別に覆いをつけた貨車を用意するよう命じてくれた。ドイツのケルンに着くと、貨物用の料金は「まったく支払う必要がなかった」3。

原注
*3: これは例外的なケースだ。イギリスに戻ってから、ぼくはその人にお礼状を書いた。こういう手荷物としての優遇措置がまた受けられると期待するのはもう無理だろう。カヌーを貨車に載せる場合、何かと扱いにくく場所もとるので、特別扱いには反対するのが当然だと思われている。フランスでは、鉄道の貨物車は他国の貨車より長さが短いし、関係者たちはカヌーは交易品と同じ扱いになると主張した。ここで述べたのは、ベルギーとオランダで起きたケースだ。ドイツでは、カヌーを手荷物として運ぶことについて問題はほとんど生じなかった。スイスでは、誰も異議をとなえなかった。だって、こいつイギリスからの旅行者だぜ、というわけだ。イギリスの鉄道関係者はどうかといえば、カヌーのような長尺で軽量の物品を好意的に判断してくれる人も多少はいて、カヌーを客車の屋根に載せて運んだりもできる。偉い人たちは、交易品としてカヌーに関税をかけても税収が増えるわけじゃないと思っていて、カヌーイストはポーターが運搬するときには必ず自分も手伝うので、手荷物か否かでトラブルが起きることは少ないだろう。カヌーを使ったこういう旅が現実に可能だと広く理解されるようになれば、いずれ各国の鉄道すべてで何らかの明確な規則が定められることになるだろう。結局、カヌーの旅は貨車で運んだりするため遅いものにならざるをえず、普通の交通機関を利用して観光して歩いたほうがずっと簡単ではある。

静かなところがいいと思って、ケルンでは対岸のドイツ地区にあるベルヴューホテルに行った。ある大きな合唱団体がそこでコンクールをやっていて、すばらしい歌や踊りが演じられていた。翌日の日曜日、この静かなはずのドイツ地区で、射撃祭が行われた。見事な腕前で射撃王に選ばれた男は、その妻とともにオープンカーならぬ幌のない馬車に乗ってパレードをした。二人とも正装して真鍮製の王冠をつけ、歓声を上げる群衆に会釈を返した。闇夜に青い光がきらめき、ロケット花火が打ち上げられた。

ケルンでは、アバディーン伯爵が蒸気船の切符を買いに行っている間に、カヌーを台車に乗せた。彼が前で引っぱり、ぼくは後ろから押して運んだ。川までの道すがら、みすぼらしい身なりの男につきまとわれた。荷物の運搬人として雇ってくれというのだ。断ると、ひどく腹を立てた。大きな石ころを拾い上げ、荷車の後を威嚇しながら追ってきた。あの石をカヌーにぶつけられでもしたら壊れるなと気が気じゃなかった。両手をカヌーから離すわけにもいかないので、近づかないよう足で蹴って遠ざけながら、小走りで急いだ。衛兵の一人がその様子を目撃していた。すぐに警官がそいつを捕まえ、ぼくのところに連れてきた。すると、そいつは怒るどころかガタガタ震えていた。「この辺では旅行者が被害にあってるんですよ」と、警官は処罰したそうな口ぶりだったが、ぼくは彼を罰しないようにと言った。この出来事について書いたのは、今度の航海でこういう目にあったのは、このときのたった一度だけだということを知ってもらいたいからだ。

ぼくらはカヌーを蒸気船に積みこみ、ライン川の川幅が広くなっているビンゲンまで運んだ。ここの景色はすばらしくて、ぼくらは川を存分に楽しんだ。絶好の風を受けて帆走したり、中洲に上陸したり、蒸気船の引き波を利用して波に乗って加速したりと、ヨットの航海にピクニック、それにボートレースをあわせて一度に楽しんだというわけだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 9: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第9回)


ライン川では、若者も少年たちもとても泳ぎが上手で、その多くは飛びこみもうまかった。ところどころに似たような構造の女性用プールもあった。水遊びするときは口数も多くなるので、そういうところでは、うるさいくらい元気な歓声が聞こえてきたりする。

川の近くにある駐屯地の兵士たちも規則正しく行進して水浴びに来ていたが、ある日、ぼくらは大勢の若い新兵が水浴びするために集まっているのを見た。

水につかっている者もいれば、射撃訓練で的を狙っている者もいた。的は三個あって、それぞれ厚紙でできていた。垂直に立てた板に取り付けてある。記録係は防弾用の盾で安全に保護されてはいたが、三つの的すべてがよく見えるように、的から非常に近いところに配置されていた。射撃する側は一人ずつ、それぞれの的に対峙して銃を撃つ。弾丸は厚紙を貫通して丸い穴を残し、弾丸自体は背後の地面にめりこんだ。掘り出してまた使うことができるわけだ。イギリスでは鉄製の的を使うので、弾丸は破裂して四方に散らばってしまい、記録係や周囲の人間にとっては危険きわまりない。

そんな感じで三人が射撃すると、太鼓と旗とラッパの合図で射撃がやむ。と、記録係が防弾用の盾から出てきて、それぞれの的にできた弾丸の痕を示し、紙を貼って穴をふさいだ。記録係が防弾盾の背後に戻ると、射撃が再開される。この安全な射撃訓練のやり方は、イギリスで最近まで軍隊の訓練で用いられていた方法に比べると、ずっとよかった。このフランス流の方法は、射撃の腕前がはっきり示されるという点でも非常に効果的だ。

川で、ある湾曲部を曲がると、牛の大軍が群れをなして川を渡ろうとしているところだった。ぼくはカヌーに乗ったまま、そのど真ん中に入り込んでしまい、牛が闖入者(ちんにゅうしゃ)にどのように反応をするのかを身をもって知るはめになった。ナイル川でカヌーを漕いだときに、朝や晩に黒い牡牛が川を泳いで渡るのを目撃したことがあるのだが、それは川から這(は)い出てくる「牝牛」についてエジプトの王が見た夢の一つを思い出させるものだった*1。創世記に出てくるこの逸話には子供心にも当惑したが、実際に川を渡る牛に遭遇してみると、そうおかしな話でもない。聖書は、牛が川を泳ぐということを明確に示した本でもある。真実は目ではっきり見たときに、より本当らしく思えてくるものなのだ。

夕方になって長い影ができるようになったころ、ぼくらはオランダのマーストリヒトの町の近くまでやって来た。ここには、ヨーロッパでも最も強固な要塞が築かれている。つまり、町は一世紀も前のアームストロング砲やホイットワース小銃に抗するため、まっすぐな高い壁に囲まれていた。

川は深くて流れは速かったが、暗くなってから近づいたのに、どこにも街の灯が見えなかった。林を抜けて、町の真ん中あたりまで来たはずだったが、家々の灯がどこにも見えないのだ。この町の家には窓がなく、明かりもつけず、ロウソクをともすことすらないのだろうか? そう、一つの明かりも見えないのだった!

川の両岸には巨大な高い壁が続いていた。右岸を調べたが門や港のようなものを見つけることはできず、この奇妙な場所の左岸沿いは崩れていた。

後でわかったのだが、交易や往来する船はすべて、そこからぐるっと回って、この古くて荒廃した要塞の上へと続く運河に向かうことになっていた。そのため、両岸の無愛想なレンガ造りの壁がぼくらを取り囲み、脇道にそれないようにしているわけだった。そのまま進んでいくと、闇の中で、頭上に橋がぼんやり見えてきた。そこに到着すると、橋の上にいたオランダの悪ガキどもが小石を雨あられと降らせて、ぼくらを歓迎してくれた。ヒマラヤスギの傷がつきやすいデッキの上で、小石は情け容赦なくぱらぱらと音を立てた。

ようやく壁をよじ登れそうな場所を見つけた。がれきが積み重なり、ちょっとした坂のようになっていて、そこには何もないのだが、そこからカヌーをなんとか堅固な要塞の上まで引き上げることができそうだった。そうやって、この眠ったような町にカヌーを運び入れた。門番がぼくら二人の顔をランプの光で照らし、いぶかしむように凝視したのも無理はない。灰色の服を着た二人のやせた男が運んでいるものは、二つの長い棺桶のように見えただろうから。門番氏は驚いていたが、話のわかる人で、ぼくらをホテルまで、暗くて人気のない通りを歩いて案内してくれた。

脚注
*1:  川から這(は)い出てくる牛 - エジプトの王(ファラオ)が繰り返し見たという、最初は丸々と太った牝牛七頭が、それからやせこけた牝牛七頭が川から出てきた夢のこと。
旧約聖書の創世記によれば、ユダヤ人の祖であるヤコブの子のヨセフが、その夢は「七年の豊作と七年の凶作が続く」ことを示す神のお告げだと預言したことから、ヨセフは王に重用され、イスラエル人をその後の飢饉から救うことになったとされる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 8: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第8回)


リエージュでやっとアバディーン伯爵と合流した。計画では、これよりずっと前に一緒になるはずだった。彼も今回の航海用にカヌーを新造していた。ぼくのロブ・ロイ・カヌーより一フィート長く、幅は二インチ細かった。一番の違いは、船体に頑丈なオーク材ではなくモミの木を使ってあることだ。そのカヌーはロンドンからリエージュまで送られてきていたが、輸送中にデッキを縁どりしているコーミングが破損していた。それで、家具職人のところに持ち込み、数時間かけて修理してもらった。

ぼくらはカヌーを川に浮かべた。見送る人はなく、真夏の太陽が照りつけるなかで、リエージュを後にした。

これで、今回の旅も気の合う二人連れとなった。それぞれが自分のカヌーに乗り、とても楽しかった。ときどき帆を揚げてセーリングを楽しんだり、一、二マイルをパドルで漕いだり、互いに助けあって堰(せき)をこえたり、川沿いの土手からカヌーを引いて歩いたりした。*2

原注2:この後も何度かやってみたのだが、ずっと座りっぱなしでいるのが苦痛になってきたときには、カヌーを引いて歩くのもありだと思う。連続して十時間とか十二時間とか、ずっと座りっぱなしだったりすると、カヌーを降りて歩きながら引いていくのもそう悪くない。とはいえ、カヌーの旅になれてくると、ゆったりとくつろいだ状態で長時間をカヌーの床板に座っていても平気になってくる(マットやクッションは不要だ)。それに、条件のよい川では、カヌーを降りて気分転換する必要もない。ぼくのカヌーは非常に軽量だったので、運河では小指一本で引いていくこともできたが、引いて歩くよりは、漕ぎ疲れて腕が痛いときでも川を漕いで下った方が早いのは間違いない。

川では、互いに自分が面白いと思う流れのところを進むようにした。川幅が広いと、かなり離れたところから会話をかわしたりするので、その声に土手にいる地元の人々が驚いたりした。というのも、会話している片方の姿は見えるのに、その相手はとなると、川岸の草や丈の高いスゲに隠れて見えないので、なにやら独り言を大声で叫んでいる変なやつ、となる。こういう風に大きな声で話をしていると、大声で歌をうたっているような感じがしてくる。合唱しているようなものだが、単にハモるよりずっとエネルギーに満ちていて、自由にやっていいというと、ぼくらのような根っからのイギリス人はすぐに一つになって常軌を逸した躁状態になる。

八月の真昼の日射しはすさまじく、そうした元気もしまいにはなくなってきた。それで、とある村で食事をしようと上陸した。

食事をすませてカヌーに戻ったとき、川で鋭い叫び声が聞こえたので、そっちを振り返った。叫び声の主は小さな男の子で、どうやら川に落ちたらしい。流れのなかで必死に大きな荷船にしがみつこうとしている。当然のことながら、ぼくは救助に向かった。カヌーで一直線にすっとんでいき、ずぶ濡れの不運な子供をカヌーの細い船尾につかまらせた。その子は叫んだりもがいたりしていたが、ともかく無事に荷船に引き上げられたのだった。

ベルギーやドイツ、フランスの川では、そのほとんどに、川に浮かべた立派な水浴び場がある。これはとても便利な設備で、イギリス人も外国で水浴びする人はとても多いのに、悲しいかな、イギリス本国にはまだない。

この水浴び場は川岸に係留されている。百フィート(約三十メートル)ほどの木の枠組みに、柱やチェーンや金属網を組み合わせた生け簀(いけす)のような構造で、人為的に作った川底には浅いところから深いところへと傾斜がつけてあり、水浴び中に川下に流されてしまうこともない。こうした簡易プールの周囲には浴槽のようなボックスや階段、ハシゴがあり、技量に応じた飛びこみ板もある。現在では、ロンドンにも一カ所できている。

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