ヨーロッパをカヌーで旅する 43:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第43回)


湖の行きどまり付近で、射撃の標的がずらっと並んだところに出くわした。そこでは、スイス人たちが短い距離からの射撃を行っていた。的を狙うためにレンズや架台、腕につけるストラップやヘアートリガーなどを備えていたが、そのすべてが安っぽくて、カバーまでつけてある。こういう仕掛けの扱いには熟達しているようだが、そうしたものを装着していることで、結局はオモチャの銃のように見えるし、ベルギーやフランスで見るような石弓からさほど進歩しているとも思えない。ベルギーやフランスでは、男たちは柱に固定した詰め物のコマドリを標的にして集まってくるが、的は撃たず、休憩と称してはビールを飲むのだ。 続きを読む

ヨーロッパをカヌーで旅する 42:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第42回)


カヌーの運搬を頼んだ荷馬車の御者はちょっと変わった客、つまり英国旗を掲げたボートを運んでいることが自慢のようだった。それで、友人と出会うたびに、説明を繰り返している。細かいことはわからないが、かなり話を誇張して伝えているようだ。聴く相手もたいてい大喜びしていた。とはいえ、ツークの町を出たところで、この立派な御者先生に運賃の十三フランを払い、もうこの辺でいいですよと言うと、こんな中途半端な場所でよいのかと、ひどく面食らったようだった。出発の準備や何かで朝から動きまわって休憩もとっていなかったので、ぼくとしては一刻も早くカヌーを水面に浮かべて、のんびり休みたかったのだ。とはいえ、「イギリスから来て荷馬車で運ばれているボート」を見たいという町の人々の好奇心から逃れることはできなかった。見えないようにカヌーを石積みの土手の背後に移したのだが、町の人たちは土手の上によじ登り、立ったままこっちを眺めている。ぼくはそっけない顔をして何も言わずに座っていた。連中も同じように腰を下ろし、辛抱強く待っている。そこで作戦を変更し、カヌーを上下さかさまにして修理するふりをした。底板の継ぎ目にそって赤いパテを塗ってみせる。連中は、その作業が終わるまで、じっと見ている。仕方がないので、同じことを隣の継ぎ目でも繰り返しながら、これを全部やらなきゃならないんですよと説明する。さすがに、そこまでは付き合いきれないと、こっちの意図を察した何人かは腰を上げたが、前列のその空いた場所は、すぐに他の人で埋められた。こんなことを繰り返すのは相手にも失礼な気がしたし、ぼくの方も冷静になってきたので、カヌーを湖に浮かべて荷物を載せ、水上から見物人たちに「アデュー」と別れを告げた1

原注 1: この別れの言葉は、他のフランス語と同じく、ドイツやスイスでもよく用いられている。

パドルに水を感じると、また新しい活力がわいてきた。やわらかく、しなやかな流れと水面の穏やかなうねり──埃(ほこり)まみれの陸の旅の後では、こうしたことがまた新鮮な喜びを感じさせてくれる。こういう文字通り流れるような川旅を体験してしまうと、陸上の旅にはもう戻れないような気もしてくる。

ツーク湖は小さな湖で、山があるのは片側だけだ。そこから見事な丘陵が広がっている。リギ山や百を超える峰々が重なり合ったり、峰と峰の間に独峰が高くそびえたりしている。あまりにも風光明媚すぎて、下手な説明なんか、かえって邪魔なくらいだ。それに、この景色は旅行者にはよく知られてもいる。いろんな店のウインドウに、ここの風景を描いた絵が飾ってあるし、実際に現地に行って自分の眼でながめたことのない人であれば、そうした絵だけでも十分に楽しめるだろう。冠雪した山々を一望したときの感動は、とうてい言葉では伝えることはできない。

Zugersee

ツーク湖 [Lake of Zug, Author= Matthias Alder]

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ヨーロッパをカヌーで旅する 35:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第35回)


ここから湖の反対側にあるコンスタンツの町まで漕いでいくのは楽勝だった。とはいえ、そこには税関があり、これを避けて通るわけにはいかない。「カヌーの検査が必要です」「かまいませんよ、どうぞお調べください」というやり取りをしたものの、担当者の上司が不在だったので、明朝までにカヌーを税関まで運んでおいてくれ、という。この件で議論をし、一時間も無駄にした。ぼくはまず「スイスは自由なんじゃないのか」と抗議したい気持ちだ。とはいえ、コンスタンツはスイスにあるのではなかった。この場所は、厳密にはバーデン大公国になっていて、「大」公国という名前を守るために重箱の隅をつつくようなことをやって旅行者を閉口させているわけだった。気のいい地元の人が一人、そういうお役所仕事は恥だと思ったみたいで、カヌーを調べて問題がなければ通してやれよと説得してくれた。

その担当者はまるで三千四百トンもあるブリッグ型帆船でも調べているかのように、小さなカヌーの検査にたっぷり時間をかけた。で、その検査が船尾まで達したところで、ぼくはおもむろにカヌーの隔壁にある丸い穴を指さした。彼はその穴をのぞいた。人だかりができていたが、沈黙して見守っている。穴からのぞいても真っ暗で何も見えない(実際、何も入ってはいないのだ)。お役人は厳かにカヌーについて「入国可」と宣言した。というわけで、晴れてカヌーをホテルまで運ぶことができたのだった。

とはいえ、コンスタンツは、ヤン・フスという、実際に「大」という尊称をつけたくなる、真実を探求する気高い殉教者*1とも縁のある土地なのだ。公会堂では、数百年前にヤン・フスが投獄されていた正真正銘の独房があり、以前に旅行でここを訪れたとき、ぼくは塔から望遠鏡でそれを眺めたことがある。ヤン・フスは鉄の棒で串刺しにされ、火あぶりに処せられた。そのため、彼の偉大な魂は、燃え盛る薪(まき)の山を脱して昇天した。

報復を、ああ、主よ、あなたの聖徒が虐殺され、その骨は凍てつくアルプスの峰々に
捨てられてしまいました
神父たちがことごとく物や石ころをありがたがっているときでさえ
純粋にあなたの真理を守り続けていたというのに

ミルトン*2

ライン川は川幅が広かった。水深があって、かすかに青みがかっている。透きとおっていて、水面下のものもよく見えた。小石まじりの川底は下の方からカヌーへ向けてめくれあがってくるようだったし、集落にある教会なども土手の上で静かに回転しているようだった。川ではなく、土地とそこにあるものの方が動いているように思えた。それほどに川面は鏡のようになめらかで、川はおだやかに流れていた。

この川でもまた漁師を見かけるようになった。立派な網を仕掛けたりしている。さらに、川には四本の杭(くい)の上に建てた標的小屋もあった。標的というのは、一辺が六フィートほどの巨大な立方体である。川の中にある柱の上に設置された別の小屋から、その標的に向けて射撃がなされるのだ。巨大な木片の背後の安全なところに隠れた記録係が、巨大な木片を縦軸に沿って回転させて銃痕を修復し、当たった位置を知らせていた。

コンスタンツ湖はボーデン湖とも呼ばれるが、湖を離れてライン川に入るとまもなく、水路の幅が急激に狭くなった。川幅は逆に幅一マイルか二マイルほどに広がっていた。つまり、あちこちに草の生い茂る島ができていて水路が枝分かれしているのだ。長い棒を差し込んでみると、水の勢いに押されて揺れ動くのがわかる。蒸気船の航路は非常な回り道となっているが、カヌーはそういうところでも快適に飛ぶように流れていくことができる。丈の高いアシの茂った島の背後には、それぞれきまって釣り船がいて、川底に打ちこんだ二本の杭に係留されていたり、釣り船の主が片手でオールを操って音もなく漕ぎながら、魚がいそうな淀みに向かって移動したりしていた──かなり新しいやり方だ──その漁師のもう片方の手は網を繰り出しているのだ。粗雑な造りの荷船も浮かんでいた。深くて流れのあるところでは、なすすべもなく、ぐるぐる回っていたり、巨大な四角い帆を揚げてもっと深い方へ向かおうとしていたり、あるいは無風状態で巨大な四角い横帆が垂れ下がっていたりした──帆の外観については、上下に幅広の紺色の線が二本引かれていた。帆ということでは、ジュネーブの先端がとがった大三角帆*3を広げた様子、特に二本マストで白い帆をこちらに向けて穏やかな追い風を受けて両舷に二枚の帆を展開している様子は、艤装という観点からは、巨大な横帆よりはずっと優雅に見える。

このあたりの川底はかなり起伏があって流れも速いので、ところどころで大きな渦ができている。しかも沸騰するように下から突き上げては盛り上がり、また奇妙な崩れ方をしたりしていた。そしてまた、さっと大きな円を描くように渦をまいてから前方へと進むのだ2



原注
2: こうした大渦は、慣れていないと、接近するにつれて非常な注意が必要に思われるが、そうたいしたことはない。というのは十分に水深があるので、渦はカヌーをひねるように傾けて回転させようとするだけだ。帆を揚げているときは別だが、そう気にすることはない。後戻りしていないかだけ注意していればよい。こうした渦の一つを全速力で横切ってみれば、バウの突然の動きにパドルで対抗する必要すらないことがわかるだろう。何かがカヌーの航行に干渉するわけではなく、そのままこらえておいて、それから渦と逆の方向に漕いでやれば何の問題もない。
 

訳注
*1: ヤン・フス(1369年~1415年)は、チェコ出身の神学者で宗教改革家。歴史的に見ると、マルチン・ルターの宗教改革より百年以上も前から、さまざまな宗教家がカトリック教会の腐敗を糾弾していた。
ヤン・フスもその系譜に連なる一人で、ローマ・カトリック教会を非難したために破門となり、1414年のコンスタンツ公会議で異端として火あぶりの刑にされた。
 

*2: 「報復を……」 - 『失楽園』で知られる十七世紀・英国の詩人ジョン・ミルトン(1608年~74年)の「ピエモント山の虐殺」と題するソネットの冒頭。
1414年~1418年にコンスタンツで開かれたローマ・カトリック教会の公会議で、ヤン・フスは異端とみなされ火刑に処せられたが、この詩はその出来事に触発されたもので、教会の腐敗に対して「神に報復を求め」ている聖書の黙示録の一節(6-10)を下敷きにしている。

*3: 大三角帆 - 帆の形やリグ(艤装)については、こちらで図解しています。

帆(セイル)やヨットのリグ(艤装)による分類と名称

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ヨーロッパをカヌーで旅する 30:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第30回)


その次にはリートリンゲンと呼ばれる町に泊まった。外国人にはあまり居心地がよくないところだ。イギリス人でここを訪れる人はほとんどいないため、ぼくとカヌーはここでもこっけいなほどの騒動を巻き起こした。滞米経験があり英語もできるという一人のドイツ人が質問の通訳をしてくれたのだが、他の人々は通訳された返事を聞いているだけだった。ところが、翌朝八時にはなんと千人以上もの人々がカヌーの出発を見届けようと橋の上に集まってきたのだ。本を詰めたナップサック1を背負った大勢の児童も駆けてきた。

ここを出ると、景色はそれまで通ってきたところと似たようなものだったが、いずれにしても、そういう絵のように美しい風景を眺める余裕はほとんどなかった。というのは、風が強く、しかも追い風だったからだ。流れは速く、川は蛇行し、いたるところに浅瀬や渦や無数の中洲や流れを横切る水路などが存在し、どこを通るか、特に順風のときに、どうやって帆を下ろないですませるかにエネルギーのすべてを使ってしまった2。

帆走できるとわくわくするし、体も酷使することになるのだが、昼になっても朝食をとる場所すら見つけられなかった。おまけに後方に黒い雲の塊ができつつあって、やがて雷や雨になる気配があった。

「あ~あ」と、ぼくは心の中でつぶやく。「今朝、あの立派なご婦人が備えをしておきなさいと言ってくれたのに、ちゃんときいておけばよかった!」 彼女は賢母の微笑を浮かべ、おずおずとぼくの腕時計の鎖にさわらせてくれないかと頼んできたのだ。「とても美しいわ」と。しかし、我ながら不思議なのだが、ぼくは今日に限って手軽に食べられる食料を積んでいなかった。風が強く、しかも順風だったので、時間を無駄にしたくなかったのだ。ものすごくスピードが出て、ぼくらはたちまちエーインゲンに着いた。今夜の宿として地図に印をつけておいた村だ。だが、そこに着いてみると、時間はまだたっぷりあった。先へ進む好条件がこれほどそろっているときに、それをあきらめてカヌーを岸につけて村に食事にでかける気にもならなかった。それに集落は川からずっと離れていたので、それまでと同じように流れに乗って帆走して先へ行かざるをえなかった。

ときどき農作業の手を休めて岸辺で眺めている人に一番近い人家の場所を聞いたが、相手は「一番近い」とか「川に近い」という言葉が聞きとれないようだった。それで、そういう会話の最後には、相手はきまって「ヤヴォール(了解)」という言葉を発した。これはアメリカ英語では「そうなんだ」、スコットランドの言葉では「そうか」、アイルランド語では「そうだね」、フランス語では「本当ですね」になるが、どれもぼくの役には少しも立たなかった。

というわけで、腹ペコだし気力もなくなってきた。その先の川の蛇行する様子を調べようと、なんとか上陸したものの、そのまま木の下で眠り込んでしまった。目がさめたときには風は弱まっていた。川の水深があったのでパドルを漕いだ。

ドナウ川は、このときナイル川のように泥まじりの濁流になっていて、両岸の高さも水面から垂直に八フィートから十フィートほどあった。大平原を流れる支流のいくつかが本流に流れ込んできていた。教会の塔が何度も見え隠れした。そこに近づこうと努力したものの、半マイルほど進むと川は急角度で湾曲していく。しかもどんどん曲がり続け、さっき正面に見えた塔が今度は背後に見えたりした。この悩ましい異常な状態については簡単に説明がつく──この近辺は地盤がしっかりしていないので、洪水で新しい流れができると村ごと押し流されてしまう。で、集落の位置を慎重に検討し、川から離れたところに配置したため、いくら漕いでも村には近づかないのだった。

暗くなってきた。ぼくは地図を調べた。大平原に蛇行するドナウ川が描かれているが、蛇行の数は実際の半分にすぎなかった。しかも、今入ったばかりの森の中には適当な集落が一つもないことが判明した。木々が頭上にまで張り出しているため、夕方の薄暮はすぐに夜の闇へと変化し、ミシシッピー川の上流部のように沈んでいる木の数も急に増えた。そのいくつかが川面に揺れている。粘土性の強い泥がついて根っこが重くなっているのだ。川下りでは流れの速いところを通るのが常だが、こういった状況なので、緩やかな流れの方へと慎重に漕ぎ進んで川を横切って移動したりした。



原注
1: 本を詰めたナップサック - ナップサックは「いろんなもの」を入れて背負うバッグ(背嚢)の意味で、語源は schnap(スナップ)とsach(袋)から。英語のハバーサック(肩掛けカバン)がhafer(カラス麦)、forage bag(飼料袋)から来ているようなものだろう。


要調査 - このナップサックを背負わせるのは、少年たちを兵役に順応させるためで、これが多くのドイツ人たちが怒り肩である理由なのだろうか?


[訳注] 日本のランドセルはオランダ語のランセル(背嚢)からで、リュックサックを含めて、本来はほぼ同じ用途だったと思われる。


2: 新聞の天気予報では、このとき中央ヨーロッパでは嵐が通過する、となっていた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 29:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第29回)


今日、新しい楽しみを発見した──飲み干したワインのボトルを川に放り投げ、プカプカ浮かんだり流されてぐるぐる回ったりする様子を、それと並走しながら観察し、川の自然な流れと自分が頭で考えて選択したカヌーのコースとを比較するのだ。やがてボトルが生き物のように感じられてきて、カヌーとボトルで競争したりもした。ボトルが川底の石に当たるたびに、人にみたてたコルク栓が水中に沈んだりするので同情心もわいてくる。カヌーに比べると浸水が激しいようで、川底にぶつかるたびに、ガラス特有のキンキンする甲高い音が聞こえてきて、やがて沈んだ。

川の近くには低木が生い茂っていた。それがもう数マイルも続いている。枝ごしに陸地が見通せる場所が一箇所あって、二十人ほどが干し草作りをしていた。男も女もいたが、川から離れたところで真面目に仕事をしているので、ぼくが接近しても誰も気がつかなかった。

ここでちょっといたずらをしてみようと思った。で、作業をしている人々が見える状態を維持しながら、カヌーを土手に近づけた。そうしておいて、いきなり大声を張り上げたのだ。

統治せよ、ブリタニア、
ブリタニアは大海原を支配する*1。

この詩で「奴隷(どれい)」のくだりになる前に、作業をしていた全員が石像のように固まってしまった。黙り込み、あぜんとし、前後左右や上の方をキョロキョロ見まわしたりしている。むろん、川の方には目を向けない。というのも、川に誰かがいるはずがない、と思い込んでいるのだ。これまで自分たちの平穏な日常を乱すために川から何者かがやってくるなんてことは一度もなかったからだ。そこで、ぼくは陽気な口笛を吹いた。そうしておいて、隠れるのをやめてカヌーの上に立ち上がり、できる限りわかりやすい英語で彼らに対して短い(が、華麗な)スピーチをし、次の瞬間にはまた姿を消した。

さらに進むと、道路を建設しているところがあった。ぼくはカヌーを木の下に引き上げておいて、「バラック」というか作業員用の食堂まで歩いていき、中に入った。三、四十人のドイツ人の作業員が座っていて、昼間からビールを飲んでいた。ぼくも一杯注文した。彼らの健康を祝し、金を払い、会釈して食堂を出たのだが、このフランネル生地の服を着た男がどこから来たのか知ろうと、連中は大挙してぼくの後をついてきた。ぼくはカヌーで出発したものの、川は建設工事のためにだめになっている。寸断され、迷路のようだ。ぼくは渡渉しながらカヌーを引っぱったり、漕いだり、抱えて運んだりと悪戦苦闘した。彼らは岸辺に並んでそれを眺めていた。

このあたりまで来ると、橋に頻繁に遭遇するようになったが、これは文明が悪い形で川に侵入してきたものだ。というのも、こうした橋のほとんどは高さが非常に低いので、マストを傾けるためにカヌーを片側に倒さないと通過できない。そうなると、カヌーは難破したような状態で自由に動けない。風があるため帆を下ろすことはできないし、それに加えて、川の流れも速いので、ぼくと彼女──カヌーは物ではなく相棒だ──は、橋の中央部のアーチにどんどん接近していく。橋脚の間に入ったとき、流れていくコース上に鋭い突起物があることに気づいた。脇に寄せてかわそうとすれば木製の堤防にぶつかってしまうだろう。とはいえ、突起物に激突すると穴があいてしまうし、堤防にぶつかる方が(両手で押して離れることができるので)まだましだ。

堤防にドシンと当たったカヌーは、ひっくり返ろうとした。転覆させないためには、すぐさまカヌーから飛び降りるしかなかった。無造作に突き出されていた橋の下の突起物は、鉄の杭の先っぽか柵のようなものだったろう。

というわけで、ここで、川旅で遭遇する多くの隠れた危険というものは、橋の周辺で起きるということを述べておきたい。水中に固定された木製または鉄製の棒や、橋の建設で残されて転がっている荒く鋭い岩などが川からきちんと除去されたりすることはないので、そうしたところを漕いで進んだりするのはむずかしい。

川には、もう一つ、別の種類の障害物も存在する。それは川に渡してある細いワイヤーロープだ。このワイヤーロープに取り付けた短いロープをたどって平底の渡し船が流れを横切る仕組みになっている。ロープの色は黒で、近くまでいかないと見えない。見えた時には、もうマストを倒そうとしても間に合わない。とはいえ、こういった危険はしっかり「見張り」をしていれば、回避するのがむずかしいわけではない。川旅を一、二週間も続けていれば、見張りは本能的かつ習慣としてできるようになる。

川旅には多くの利点があるが、その一つは、川では観察力が必要であるし、それが養われるということだ。

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訳注
*1: 統治せよ、ブリタニア(“Rule, Britannia”) - 仮装劇『アルフレッド大王』で歌われるジェームズ・トムソンによる詩の一節。


イギリスの愛国歌であり、ベートーベンが『ルール・ブリタニアによる五つの変奏曲』を、ワーグナーが『序曲 ルール・ブリタニア』を作曲するなど、ドイツ語圏でも知られている。


なお「奴隷」云々は、詩におけるこの呼びかけの後に、ブリトン人(イギリス人)は「奴隷とはならない」という表現が続くことから。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 27:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第27回)


出発するときも好天が続いていた。深緑色の森から木々の枝が川面まで垂れ下がっている。川の流れというのはえてしてカヌーをそうしたところに運んでいくことがあるのだが、湾曲部で速い流れがそっちに向かっているようなところでは、鋭く曲がった枝で傷つかないように特に注意が必要だ。奇妙に思えるかもしれないが、カヌーにとっては岩や土手より実際にはこうした木々の方が危険だし、はるかに厄介だったりする。というのは、カヌーが低い枝の下に入り込んでしまうと、パドルをうまく使えなくなってしまうのだ。強く水をかこうとパドルを立てると、パドルの反対側が枝にひっかかってしまう。また、枝をかわそうと頭を下げると前方がよく見えなくなるし、一般に太い枝は固くて、頭をぶつけたりしたら、けっこう痛い。といって、上体を後ろにそらせてかわそうとすると、顔を小枝でひっかかれ、特別に高い鼻でなくても穴に枝が食い込んだりする。顔を守ろうと手を使うと、パドルを川に落としてしまうこともある。ぼく自身は帽子を落としたことはなく、石頭だし、パドルをなくしたこともない。むろん鼻を枝で串刺しにされたこともないのだが、川下りでは、できるだけ樹木から離れたところを通過するようにしていた。

それでも、サギやカモの群れをおどかしてやろうと、木陰を進みたいという誘惑にかられるときもある。

一度など、二ダースほどのサギの群れと遭遇したことがある。カヌーは音を立てず静かに水面を滑っていくので、じっくり観察することができた。この鳥たちはその場所でそれまでカヌーなどというものに邪魔されたことがなかったようだ。

サギたちはぼくとカヌーをじっと見つめ、互いに顔を見あわせ、それから、この未知の物が接近してくることについて群れ全体で意思を確認しあっていた。鳥たちの顔に気持ちが出ていて、それを読みとれるとすると、こうしたサギのうちの一羽は他のサギに「こんなの、いままでに見たことがあるか?」と聞いていた。もう一羽のくちばしの動きは明らかに「なんて図々しいやつだ」と応じていた。三羽目が皮肉な調子で甲高く叫んだ。「しかも、よそ者だぜ!」 そうしたことを相談しているようだったが、サギたちはやがて立ち上がって輪を作り、それから下流の方へと飛んでいき、ちょっと離れたところに舞い降りて、またひとかたまりになった。ぼくの方も川を下っていくので、しばらくすると、その新しい場所に接近する。すると、サギはまた飛び立って下流に移動する。こんな調子で同じことを繰り返し、それが数マイルも続いた。しまいにサギの群れは戦略を変更し、下流ではなく脇にどいてカヌーに道をゆずってくれた。

気持ちのよい追い風が吹いていたが、だんだん強くなってきた。帆を揚げると、カヌーはトップスピードで進み、岩を乗りこえ、干し草畑の耕作人たちを追い抜いていく。それを目撃した一人が残りの「仲間」に知らせようと叫んだが、彼らが見ようとやってくるより早く通りすぎてしまった。後方から興奮した調子で、幽霊じゃないかとか話し合っている声が聞こえた。

しかし、何度も幽霊船と間違われるのはうれしいことではない。カヌーについて何も知らない人や船を見たことのない人、外国人を見たことのない人たちの真ん前を突っ切っていく方がずっと面白かった。「突っ込んでいく」には大きすぎる落差の滝があったり、幅のある障害物が存在しているときには、カヌーを陸に上げて迂回する方がよい。ぼくはカヌーの先端を生け垣から突き出して他から見えるようにして干し草畑を突っ切って歩いたり、「水たまりさえあればどこでも」進めるアメリカの浅瀬走行船を真似て、露でぬれている刈り取られたばかりの草地の上を引きずっていったりもした。そういう場合、不意打ちでそういう場面に出会った人々の驚きは、ちょっと言葉では言い表せない。灰色の服を着た怪しい男がにこりともせず地面の上でカヌーを引いて歩き、人に囲まれると、いきなり笑いだしたり英語で熱弁を奮ったりするものだから、逃げ出す者さえいた。子どもたちはたいてい泣き叫んだりした。そういう様子は、ぼくにとって不思議だったが、相手にとっても同じくらい奇妙だったに違いない。

このあたりで川の水はすべて淡い青みがかったものになり、水面下の深いところの美しい光景が見えなくなったのは残念だった。だが、三十マイルほど進んだところで再び川底の小石が見えるようになり、魅力的な透明感を取り戻した。水の色が濃くなったり黒い影ができたりするのは、それなりに重要な問題をはらんでいる。というのは、水に陰影がささず色もつかず透き通っていれば、水中にある岩や大きな石や他の障害物をはっきり視認できるのは無論のこと、多少の経験を積むことで、ちょっと離れたところであっても、どれくらいの深さがあるのかがはっきりわかるようになるからだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 23:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第23回)


翌朝も六時には、この少年たちは期待にわくわくしながら集まってきた。通学用のカバンを背負った少年たちは、登校時間になる前に出発することはなさそうだとわかると、ひどくがっかりした様子をしていた。

その代わりに、大人たちがやって来た。橋のところに集まって近づいてくる。ぼくとしては、カヌーについていつもよく聞かれる質問にも精一杯答えようとしていたのだが、ある男性が丁重な言葉使いで出発を五分だけ遅らせてくれないか頼んできた。というのも、その人の父親である老人は寝たきりなのだが、どうしてもカヌーを見たいと願っているそうなのだ。こういう場合、人に喜んでもらったり子供たちが大喜びしてくれると、こっちまで嬉しくなるのが常だし、ぼく自身も子供の頃に一隻のカヌーがどれほど自分を喜ばせてくれたかを思い出したりした。敬愛すべき母親のような、ふくよかな女性たちが興味津々でながめていたりするのに、そうした微笑や興味に対してそっけない態度をとることができるわけがない。

ぼくが出発しようとしているこの場所はドナウ川の主流ではなく、町の中を流れている細い支流の一つだった。というのも、他の流れには途中に水車用の堰(せき)があって、それを超えなければならないのだ。(前回に)掲載した木版画は出立地点の様子を示しているのだが、他の町でもあれくらいの群衆が集まってきていた。だが、絵では叫び声や喧騒といったものや、朝にカヌーを漕ぎ出そうとするときの祝砲や鐘の音を再現することはできない。

この日の航海では心楽しくなる光景が続いたが、それは英国にあるワイ川*1のロスからチェプストウにかけての最良の部分の景色を思い出させるものだった。そこでは白い岩肌が連続し、黒っぽく見える森もあり、ティンターン付近では洞窟やけわしい岩山、突き出た峰々にも遭遇したものだ。だが、ワイ川にはドナウ川で見かけるような島はなかったし、満潮時は泥まじりの濁流が押し寄せてきて、潮が引くと土手は泥だらけでもっとひどく状態になったりもした。

美しいドナウ川の島々は、大きさも形もさまざまだった。低くて平らな中洲もあれば、低木が繁茂した島や、先端部がとがっている、ごつごつとした岩だらけのところもあった。川底からは新鮮で透明な水が湧き出ていた。

ほとんど休む間もなく新しい景色が出現し、壮大な景色を眺める最良の地点にカヌーを確保しようと流れに逆らって漕ぐこともしばしばだった。切り立ったすばらしい岩壁が両側に高くそびえていたり、自由と体を動かす喜びに歓声をあげるカヌーイストの叫び声が、深い森の中でこだましたりするのだった。

とはいえ、すてきな景色が連続し、どんなに爽快な気分でいたとしても、空腹には耐えられないので、川沿いにあるフリーディンゲンという村に上陸することにした。だが、そこには、カヌーを置いておける場所がなかった。近くに宿屋がないため、朝食を食べに行っている間、カヌーを見張っていてくれる人が見つからないのだ。結局は一人の石工が手を貸してくれて、カヌーをロバの厩舎に運び入れ、少年が一番いい宿まで案内してくれることになった。ところが案内されたところは、一軒目も二軒目も三軒目もすべてビヤホールだった。そういうところでは、飲み物といえばビールしかない。しかも、その都度、人だかりが増えてくる。もう結構と、彼をお役御免にして、空腹な人間の本能の導くまま、自分で食事処を探すことにした。そうして、やっと見つけた場所にも、すぐに物見高い人だかりができた。ぼくが荷物と一緒に持参していた独英辞典には誰もが興味を示し、店内に入れず外にいた連中のところまでも何度か行き来していた。



脚注
*1: ワイ川 - 英国で五番目に長い川(全長215km)で、一部はウェールズとイングランドの境界になっている。英国では最も自然が残されている川の一つとされる。


原注
マリーは「(フランスに源流がありベルギー、オランダを経由して北海にそそぐ)ムーズ(マース)川をイギリスのワイ川と比べると、前者は後者よりずっとロマンティックだ」と述べている。ぼくのランキングでは、興味深い景色という点で、ワイ川はドナウ川よりずっと下だが、ムーズ川よりは上だと思う。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 16: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第16回)


黒い森を進んだマクレガーは、いよいよドナウ川源流のドナウエッシンゲンに到着します。


やっと雨があがって、夏の太陽が顔をだした。路上の水たまりに陽光がきらきら反射している。濡れたカヌーをスポンジでふき、歩いていくうちに、びしょぬれだった体も暖かくなってきた。馬も元気をとり戻し、興奮して実際に駆けだした。道は下り坂になり、太陽は明るく輝いている。森のなかで雷雨に襲われて滅入っていた気分も、ほんの十分ほどですっかり明るくなった。

どんなに厳格な禁酒主義者でも(禁酒といっても、ぼく自身は節度のある飲み方を心がけているだけだが)、こんなときはドイツの蒸留酒であるキルシュヴァッサーを軽く一杯引っかけても許せる気になるのではあるまいか。というわけで、「禁酒している者」はぼくの他にはいなかったので、ぼくは御者とその使用人にたしなむ程度に酒をふるまい、馬には飼料のブランマッシュを与えてブラシをかけた。これで、ぼくらはお互いに満足し、また元気に歩を進めた。

薄暗くなる前に、ドナウエッシンゲンに入った。小さな橋を渡っているとき、ドナウ川については、この水源からそのままカヌーで下ることができるとわかった。というのも、源流域の流れの中央では水深が三インチ(7.5センチ)以上あったからだ。五分もすると、カヌーを荷馬車から下ろす前から周囲には人だかりができた3。

まず、ぶらぶらしている暇な連中がやってきた。それから、もう少し人見知りする町の人たち。さらに、素性のわからない大勢の野次馬たち。この連中がどういう人たちなのか、最初はよくわからなかったが、この町で翌日にこの地方を対象とする合唱の大会が開催されるのだという説明を聞いてやっと合点がいった。六百人もの人々がやっていてきているのだが、全員がそれなりの身なりと立場の男性で国の広範囲から集まっている。この合唱大会のために、町はお祭り状態だった。宿はどこも満室だった。が、橋の近くにある「ポスト」という宿の人のいいご亭主が立派な部屋を提供してくれた。カヌーの方は、馬車置き場の天上から吊り下げさせてもらった。合唱団のテノールやバスの連中が食事中にしゃべる声はすさまじい音量だった。ぼくのロブ・ロイ・カヌーについて、いろんなことが何度も繰り返し話題になっていた。ぼくらの御者氏は別の部屋に聞き手を集め、カヌー旅の何たるかを講義したほどだ。

翌日、この町を見物して歩いたが、それだけの価値はあった。どこもきれいに飾りたてられていたのだ。家という家はきちんと片付けられ、どの通りにもゴミ一つなかった。質素な窓からは木の枝や花飾り、肩掛けやキルトの布や毛布が吊るされているのが見えたが、裕福な家々には、いろんな旗や飾りリボン、アーチに紋章、花輪などが飾られていた。おのぼりさんのような大勢の人々が通りをぞろぞろ歩き、太鼓やトロンボーンの楽隊と押し合いへし合いしながら、でこぼこの舗道をてんでんばらばらな様子で行進している。ときどき、四頭立ての馬車がガタガタ音を立てて遠くの合唱団の人々を運んでくるたびに大歓声が巻き起こった。合唱団の人々は、座席の代わりに並べた袋と袋のすき間に四本の松の木を柱として立てて草花でおおった屋根をつけた長い四輪馬車に乗っているのだが、座席には座らず立ち上がっていて、大きな声で叫び、歌い、掲げた旗を振っている。何百人もの見物人たちは一本調子の大声で「ドイツ万歳」と叫んだりしている。

原注
3: でこぼこした山道を進む長旅で、カヌーをバネのない荷車に固定するため、ぼくはさまざまな方法を試みたが、最善の方法は、長い荷車の上に二本のロープを張り、その上にカヌーを載せることだと確信するにいたった。ロープが緩衝材の役割を果たし、振動をやわらげてくれるのだ。カヌーが前後に動かないように、船首につけた牽引用のロープは前後方向にしっかり固縛しておく。ワラ束を下に敷いても、砂利道や車輪の跡の轍(わだち)が残ったでこぼこ道を数マイルも進むうちに外れてしまう。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 15:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第15回)

 

ライン川源流域の川がカヌーには適していないと知ったマクレガーは、山間部にあるティティゼー湖にカヌーを浮かべることにした。その湖にはイエス・キリストを処刑したピラトの亡霊が潜んでいるという言い伝えが残っていて、生きて戻れないぞと地元民に脅されるが、それを尻目に湖へと漕ぎ出す。


もちろん、そのおかげで決心がついた。さわやかな朝で、霧がかかってはいたが、ぼくは小石まじりの岸辺からカヌーを漕ぎ出した。ざっと数えて少なくとも八人の地元民がかたずを飲んで見守っていた。数マイルを漕いだが、とても快適だった。カヌーは水面からの高さがないので、遠く離れるにつれてカヌーそのものは見えなくなる。「水面に浮いた状態で座った人間が、顔のあたりでパドルを振りまわしているように見えた」だろう。

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