ヨーロッパをカヌーで旅する 37:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第37回)

言葉が通じない海外で話をするとなると、絵を描く必要がでてくる。これは、アラブをのぞけば、身振り手振りよりもずっといい。ロシア中央部のニジニ・ロヴゴロドの市場を訪ねたとき、ぼくは「中国人街」で多くの時間をすごしたのだが、チン・ルーという中国人と話をするのがとても難しかった。身振り手振りも役に立たない。だが、連中は茶箱に赤いロウを持っていて、そばには白い壁があった。そこで、ぼくは自分のやっていることについて英語で説明しながら、同時に白い壁に赤いロウで絵を描いてみた。すると、それが興味を引いたらしく、中国人やロシアのカルムイク人、それにどこの国かわからないが異国風の人々が何十人と集まって来るではないか。自分が伝えようとしていた相手の集団は、ぼくの言いたいことを完全にわかってくれたように思えた。

というわけで、カヌーに上達したら、次は通じやすい身振り手振りを覚え、ちょっとした筆記具を携帯しておけば、飢え死にすることもないし、寝るところが見つからないということもなく、ずっと遠くまで、いろんな土地やそこの人々と知りあって楽しく旅を続けることができる。

ヴォルガ川からライン川に話を戻そう。ツェラー湖(またの名をウンター湖)に入ると、流れはずっと穏やかになる。コンスタンス湖の景色に比べると満足できるとまではいえないが、冠雪した山々を背景に持つこの湖は美しくはある。しかも、残念ながらコンスタンス湖には島がなかったが、このツェラー湖にはいくつかあって、そのうちの一つはかなり大きいのだ。ぼくが到着する前、フランス皇帝*1が湖畔の城に二日滞在していたらしい。カヌーで旅している男がやってくると皇帝が知っていたら、もう一週間ほど滞在を延ばしていてくれたのではあるまいか3

皇帝陛下と朝食をともにするには遅すぎたとはいえ、ぼくはカヌーを漕いでシュテックボルンの村に入った。文字通り川の縁に宿屋が一軒建っていて、川旅をする者には便利この上ない環境だ。ライン川のこの付近では、こうした場所をよく目にした。そういうところでは、パドルを手に持ったままドアをたたき、犬に吠えられたりもせず食事を注文できる。熱々のジュージュー音を立てている食事にありつけるのだ。テーブルの支度ができるのを待つ間、カヌーの荷物を整理し、カヌーを窓辺のバルコニーに係留しておく。朝食や食事をとる間も、休憩したり本を読んだり絵を描いたりしている間もずっと、自艇は目の届くところにあるわけだ。

経験から学んだことだが、子供というものは、どんなやんちゃな子であっても、川に浮かべてあるカヌーにちょっかいを出す者はほとんどいない。だが、大人は別だ。どんなに好人物でも、小さな舟が岸辺に残されていたりすると、それを引っ張ってみたり、つっついてみたりしないと気が済まないらしい。



原注
3: この皇帝とカヌーについては、次の記事が参考になる。この記事は四月二十日(皇帝の誕生日)の「グローブ」誌に掲載されたものだ。


「今朝発行された1866年4月6日付の布告により、大臣は、1867年の万国博覧会において、プレジャーボートおよび河川の航行に付随する技術と業界に関連するすべてについて特別展示を行う団体のための特別委員会を設置する。この措置は、素人愛好家の航海が過去数年間に担ってきた重要性を示し──報告書で示されているように、この新しいスポーツに名誉を与えるもので、フランスにおいてこれが発展することを長く妨げてきた古く馬鹿げた偏見をなくすことにつながると考えられている。なんでも英国風を好む皇帝は、特に英国のスポーツすべてを模倣して取り入れることを積極的に後援するようになっているが、マクレガー氏の『ロブ・ロイ・カヌーの航海』を読んだ後、カヌーを展示するよう提案したと言われている。『ロブ・ロイ・カヌーの航海』では、プレジャーボートは単に楽しいだけではなく、フランスの若者たちに人里離れた未知の川や渓流を一人で探検するという多くの新しい発想が展開されている。」


バルト海での航海に用いたロブ・ロイ・カヌーはパリで開催されたこの博覧会に展示された。皇帝はセーヌ川でこのカヌーの性能を自分の目で確かめ、すぐにサールから姉妹艇のカヌーを購入し、それを王位継承者に与えた。この継承者はロイヤル・カヌークラブの一員となったとき、愛艇をローヌと命名し、船長とカードを交換するという良き慣習に従った。

訳注
*1: フランス皇帝 - ナポレオン三世(1808年~1873年)。フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの甥(ルイ・ナポレオン)のこと。
ドイツとの普仏戦争で捕虜になった後、晩年は英国のロンドンですごし、その地で没した。


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