ヨーロッパをカヌーで旅する 35:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第35回)


ここから湖の反対側にあるコンスタンツの町まで漕いでいくのは楽勝だった。とはいえ、そこには税関があり、これを避けて通るわけにはいかない。「カヌーの検査が必要です」「かまいませんよ、どうぞお調べください」というやり取りをしたものの、担当者の上司が不在だったので、明朝までにカヌーを税関まで運んでおいてくれ、という。この件で議論をし、一時間も無駄にした。ぼくはまず「スイスは自由なんじゃないのか」と抗議したい気持ちだ。とはいえ、コンスタンツはスイスにあるのではなかった。この場所は、厳密にはバーデン大公国になっていて、「大」公国という名前を守るために重箱の隅をつつくようなことをやって旅行者を閉口させているわけだった。気のいい地元の人が一人、そういうお役所仕事は恥だと思ったみたいで、カヌーを調べて問題がなければ通してやれよと説得してくれた。

その担当者はまるで三千四百トンもあるブリッグ型帆船でも調べているかのように、小さなカヌーの検査にたっぷり時間をかけた。で、その検査が船尾まで達したところで、ぼくはおもむろにカヌーの隔壁にある丸い穴を指さした。彼はその穴をのぞいた。人だかりができていたが、沈黙して見守っている。穴からのぞいても真っ暗で何も見えない(実際、何も入ってはいないのだ)。お役人は厳かにカヌーについて「入国可」と宣言した。というわけで、晴れてカヌーをホテルまで運ぶことができたのだった。

とはいえ、コンスタンツは、ヤン・フスという、実際に「大」という尊称をつけたくなる、真実を探求する気高い殉教者*1とも縁のある土地なのだ。公会堂では、数百年前にヤン・フスが投獄されていた正真正銘の独房があり、以前に旅行でここを訪れたとき、ぼくは塔から望遠鏡でそれを眺めたことがある。ヤン・フスは鉄の棒で串刺しにされ、火あぶりに処せられた。そのため、彼の偉大な魂は、燃え盛る薪(まき)の山を脱して昇天した。

報復を、ああ、主よ、あなたの聖徒が虐殺され、その骨は凍てつくアルプスの峰々に
捨てられてしまいました
神父たちがことごとく物や石ころをありがたがっているときでさえ
純粋にあなたの真理を守り続けていたというのに

ミルトン*2

ライン川は川幅が広かった。水深があって、かすかに青みがかっている。透きとおっていて、水面下のものもよく見えた。小石まじりの川底は下の方からカヌーへ向けてめくれあがってくるようだったし、集落にある教会なども土手の上で静かに回転しているようだった。川ではなく、土地とそこにあるものの方が動いているように思えた。それほどに川面は鏡のようになめらかで、川はおだやかに流れていた。

この川でもまた漁師を見かけるようになった。立派な網を仕掛けたりしている。さらに、川には四本の杭(くい)の上に建てた標的小屋もあった。標的というのは、一辺が六フィートほどの巨大な立方体である。川の中にある柱の上に設置された別の小屋から、その標的に向けて射撃がなされるのだ。巨大な木片の背後の安全なところに隠れた記録係が、巨大な木片を縦軸に沿って回転させて銃痕を修復し、当たった位置を知らせていた。

コンスタンツ湖はボーデン湖とも呼ばれるが、湖を離れてライン川に入るとまもなく、水路の幅が急激に狭くなった。川幅は逆に幅一マイルか二マイルほどに広がっていた。つまり、あちこちに草の生い茂る島ができていて水路が枝分かれしているのだ。長い棒を差し込んでみると、水の勢いに押されて揺れ動くのがわかる。蒸気船の航路は非常な回り道となっているが、カヌーはそういうところでも快適に飛ぶように流れていくことができる。丈の高いアシの茂った島の背後には、それぞれきまって釣り船がいて、川底に打ちこんだ二本の杭に係留されていたり、釣り船の主が片手でオールを操って音もなく漕ぎながら、魚がいそうな淀みに向かって移動したりしていた──かなり新しいやり方だ──その漁師のもう片方の手は網を繰り出しているのだ。粗雑な造りの荷船も浮かんでいた。深くて流れのあるところでは、なすすべもなく、ぐるぐる回っていたり、巨大な四角い帆を揚げてもっと深い方へ向かおうとしていたり、あるいは無風状態で巨大な四角い横帆が垂れ下がっていたりした──帆の外観については、上下に幅広の紺色の線が二本引かれていた。帆ということでは、ジュネーブの先端がとがった大三角帆*3を広げた様子、特に二本マストで白い帆をこちらに向けて穏やかな追い風を受けて両舷に二枚の帆を展開している様子は、艤装という観点からは、巨大な横帆よりはずっと優雅に見える。

このあたりの川底はかなり起伏があって流れも速いので、ところどころで大きな渦ができている。しかも沸騰するように下から突き上げては盛り上がり、また奇妙な崩れ方をしたりしていた。そしてまた、さっと大きな円を描くように渦をまいてから前方へと進むのだ2



原注
2: こうした大渦は、慣れていないと、接近するにつれて非常な注意が必要に思われるが、そうたいしたことはない。というのは十分に水深があるので、渦はカヌーをひねるように傾けて回転させようとするだけだ。帆を揚げているときは別だが、そう気にすることはない。後戻りしていないかだけ注意していればよい。こうした渦の一つを全速力で横切ってみれば、バウの突然の動きにパドルで対抗する必要すらないことがわかるだろう。何かがカヌーの航行に干渉するわけではなく、そのままこらえておいて、それから渦と逆の方向に漕いでやれば何の問題もない。
 

訳注
*1: ヤン・フス(1369年~1415年)は、チェコ出身の神学者で宗教改革家。歴史的に見ると、マルチン・ルターの宗教改革より百年以上も前から、さまざまな宗教家がカトリック教会の腐敗を糾弾していた。
ヤン・フスもその系譜に連なる一人で、ローマ・カトリック教会を非難したために破門となり、1414年のコンスタンツ公会議で異端として火あぶりの刑にされた。
 

*2: 「報復を……」 - 『失楽園』で知られる十七世紀・英国の詩人ジョン・ミルトン(1608年~74年)の「ピエモント山の虐殺」と題するソネットの冒頭。
1414年~1418年にコンスタンツで開かれたローマ・カトリック教会の公会議で、ヤン・フスは異端とみなされ火刑に処せられたが、この詩はその出来事に触発されたもので、教会の腐敗に対して「神に報復を求め」ている聖書の黙示録の一節(6-10)を下敷きにしている。

*3: 大三角帆 - 帆の形やリグ(艤装)については、こちらで図解しています。

帆(セイル)やヨットのリグ(艤装)による分類と名称

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ヨーロッパをカヌーで旅する 34:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第34回)


その日の午後は、騒々しい二つの楽団でだいなしになった。両者は明らかにライバルで、互いに負けまいと大音響を出しあっていたのだ。とばっちりを受けたのは、週末を湖畔で静かにすごしたいとやってきた旅行者たちだ。ぼくは湖の周辺で長い散歩をしたのだが、この騒音からのがれることはできなかった。おまけに、戻ってくると、月の光に照らされた湖にボートを浮かべている男がいて、打ち上げ花火を発射したり爆竹を鳴らしたり回転花火を放り投げたりしているのだった。ぼくとしては、遠くの、残雪が満月に照らされている山々をうっとりと眺めているほうがずっとよかった。しかも、頭上には「一つ一つの星」がきらめき、それが湖面にも映っているのだ。

コンスタンツ湖は長さが四十四マイル、幅は九マイルほどだ。翌朝早く、心身ともににすっきりして湖にカヌーを浮かべてみた。湖面には、さざなみ一つなかった。すると、もう一度スイスの旅を、以前とは違う新しいやり方でやってみたいという気持ちになった。まもなく、ぼくはカヌーに乗って沖出しし、どちらの湖岸からも同じような距離にあるところまで漕いでいった。ここまで来ると、どっちに漕ぎ進んでも対岸が近づいてくるようには感じられない。それで、一休みした。このときに感じた興奮は確かに初めて体験するものだった。周囲の景色はどこを見ても美しく、どこを眺めるのも自分の勝手だった。どこにも近道はなく、道路もなく、航路も見えない。時間もなく、せかされる予定表もなかった。パドルを漕ぐだけで右にも左にも行けた。どっちに行くか、どこで上陸するかも、まったく自分しだいなのだ。

聞こえてくるのは、一隻の蒸気船の外輪がゴトゴトいう回転音だけだ。しかも、その蒸気船はまだ遠くにあった。その船が近づいてくると、乗客たちはカヌーに喝采してくれた。ぼくの勘違いでなければ、彼らは笑顔を浮かべ、こっちがいかにも楽しそうに、そして素敵に見えるので、それをうらやましがっているというようにも思えた。これからどうするか少し思案したが、このままスイスまで行ってしまおうと決めた。集落が続く湖岸を漕ぎ進み、奥まった入江にある小さな宿屋に寄ることにした。カヌーを係留し、朝食を注文した。宿には八十がらみの老人がいた。彼が主人で給仕も兼ねているのだった。立派な人だった。人は年を重ねるにつれて、年長者には敬意を払うようになる。

その宿屋で食事をしたり本を読んだりスケッチをした。暑く、静かだった。そうしていた五時間ほどの間、彼は日向ぼっこをしながらぼくの話相手をしたり、ぼくの目を山々に向けさせたり、眠そうな声で何かを答えたりしていた。今度の川や湖の旅では、平和でほとんど夢のような休息のひとときだった。激しい川下りをしてきた後なので、なんとも心地よかった。ここには、カヌー旅につきものの急流や悪戦苦闘というものがまったくないのだ。

宿屋の近くに介護施設があった。古い城で、少し認知症気味のかわいそうな女たちが入所していた。カヌーに取り付けた小さな旗が彼女たちの注意を引いた。入所者たちは全員外に出るのを許され、カヌーを見物に来た。楽しそうに笑顔を浮かべ、訳のわからないことを言ったり身振りで示したりしている。この奇妙な集団と別れると、他の場所でまた上陸した。一本のすばらしい樹木があったので、その木の下で一、二時間かけてカヌーの損傷したところを修理した。ちょっとした道具は積んであるのだ。今度の旅の次のステージではイギリス人の視線も気にしなければならないので、念入りに磨き上げた。

あまりに暑く、湖には波を起こすエネルギーすらなかった。羊につけてある鈴が、ときどき、疲れて気乗りしないように、不規則にチリンチリンと鳴っていた。一匹のクモがカヌーのマストから木の枝まで糸を張り、セキレイが近くの小石の上を跳ねながら歩いている。湖水に半分浸かった状態のカヌーと、そばの草むらに寝転んでいるぼくの方をいぶかしげに見つめたりしていた。


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ヨーロッパをカヌーで旅する 33:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第33回)


一九三九年、一隻の蒸気船がここを航行しようとしたが、浅瀬に乗り上げてしまった。努力のかいなく離礁できず、そのまま放置された。というわけで、蒸気船に乗るにはドナウウェルトまで行かなければならない。そこからは蒸気船で黒海まで行くことができる。ウイーンから下流を航行する旅客船は高速で予約も可能だ。

ウルムには丸太のイカダが浮かんでいた。こうした丸太はイル川から来たのだろうと思う。というのは、ドナウ川の上流をカヌーで下っているときには丸太を見かけることはなかったからだ。川には公設の洗濯場がいくつもあった。川に大きな建物が浮かぶように設置され、庇(ひさし)が大きく張り出している。五十人ほどの女性が片膝をついたり低い手すりから身を乗り出すようにして一列に並んでいるのが見える。こぞって服を容赦なくたたきつけている。

ぼくはまっすぐその女性たちのところへ向かった。カヌーを上陸させられるようなところがないか、また駅までどれくらいあるのかを聞くためだ。すると、年かさの婦人がカヌーを運ぶための男手と手押し車を見つけてきてくれた。ぼくがイギリスから来たのだと知ると、女性たちは一斉に前よりも大きな声で話をしだし、懸命にたたいたりこすったりしたので洗われている服がかわいそうだった。

例によって駅ではひと悶着あった。とはいえ、カヌーの取り扱いはその半分にすぎなかった。残りの半分はというと、ヴュルテンベルク王がらみだった。この王様がフリードリヒスハーフェンの王宮に行くための特別列車に乗り込もうとされていたのだ。王族の至近距離にゲーグリンゲンからやってきたみすぼらしい不審な男がいる、目を離すな、というわけだ! この王様は明らかに威厳のある振る舞いをされていたが、すべてが王様らしいというわけではなかった。それどころか、誰も乗っていない王室御用達の列車に敬意を表するよう衛兵に命じるときなど、それを面白がっているようなところもあった。

王様の一行はすぐに出発して見えなくなった。

ぼくが山岳や森林をへめぐり波とたわむれていた十二日間に起きた世の中の動きを知るため、ここで新聞を買った。すると、「アレはどうなってる?」といろんな人に声をかけられた。アレというのは、海底ケーブルを敷設していたグレート・イースタン号での事故と、スイスの氷河で起きた災害のことだ。海底ケーブルの破断と山岳地帯における登山者の死亡事故に何か関係でもあるのかと思わせるほどだった。ぼくが新聞を読んでいる間も、列車はフリードリヒスハーフェンに向けて南下していく。カヌーは貨物扱いで、運賃は三シリングだった。気はすすまなかったが、木片を精緻に組みつけたカヌーの磨き上げた前部甲板に荷札が貼りつけられていた。

コンスタンツ湖*1の北端にある港は活気に満ち、汽車を降りて眼前に広がる魅力的な景色を眺めるだけの価値はあった。この地について、湖を渡ってスイスまで運んでくれる蒸気船を待つ間に半時間もあればあらかた見物できると片づけてしまうのは申し訳ない。ぼくは日曜日には休むことにしている。そのためにここに来たのだ(速く、遠くへ旅行したいというのであれば、逆説めくが、日曜日はむしろ休むようにしたほうがよい)。ホテルは駅前にあり、湖に面してもいたので、ここはまさにカヌー持参で立ち寄るためにあるような場所だった。というわけで、ぼくはカヌーを上の階のロフトまで持ち込んだ。そこでは洗濯女たちがカヌーを置いておくスペースを空けて監視してくれただけでなく、親切にもセイルや激しい航海で傷んでいる他のこまごまとしたものまで修理してくれた。

翌日、プロテスタントの立派な教会で礼拝があった。参列者も多く、きらびやかな衣装を着た典礼係が取り仕切っていた。礼拝は一人の婦人によるヘンデル作曲のメサイアから『慰めよ』の独唱という、絶妙かつシンプルなものではじまった。彼女の声は、この厳粛なメロディーが普通は男声で歌われるものだということを忘れさせてくれた。それから大勢の子供たちが祭壇に上がって十字架像を取り囲み、とても美しい讃美歌をうたった。次に参列者全員が加わり、品よく、しかも熱意をこめて讃美歌を斉唱した。若いドイツ人の牧師が雄弁に説教をたれ、散会となった。



訳注
*1: コンスタンツ湖:ドイツとスイスの国境にある湖で、ボーデン湖とも呼ばれる。面積は約536平方キロで、琵琶湖よりやや小さい程度。

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