オープン・ボート 17

スティーヴン・クレイン著

だが、とうとう、それ以上はどうしても進めなくなった。その場所の潮流がどんな風に流れているのか泳ぐのをやめて調べたりはしなかったが、どうしても前に進まない。海岸は舞台の景色のように目の前にあった。細部にいたるまではっきり見えたし地形もよくわかった。

ずっと離れた左の方を料理長が追いこしていった。船長が料理長に声をかける。「仰向けになれ、料理長くん! そうしておいてオールを使んだ」

「了解」 料理長は仰向けになり、自分自身がカヌーになったように一本のパドルをうまく使って漕ぎだした。

船長が片手で竜骨につかまっていたボートも、やがて記者の左側を通過していった。ボートが上下左右にとんでもない動きをしていなければ、船長は自分の体を持ち上げて板塀の上からのぞきこんでいる男のように見えただろう。彼は、船長がまだボートにつかまっていられることに驚いた。

彼らは記者の先を進んでいった。機関士、料理長、船長の順にどんどん岸の方へ近づいていき、その後を追いかけるように水瓶が跳ねまわりながら流れていく。

記者はといえば、潮流という奇妙な新しい敵にずっととらえられていた。白い砂浜や緑の断崖、その上にある静まりかえった小さな家々のある海岸が絵画のように眼前に広がっていた。すぐそばにあるのに、フランスのブルターニュ地方やアルジェの風景画を画廊で眺めているような気分だった。

「自分はおぼれ死ぬのだろうか? そんなことがありうるだろうか? ありうるのか? 本当に起こりうるのか?」と思ったりした。人間は、自分自身の死を最後の自然現象とみなすほかないのだ。

とはいえ、その後で、ひとつの波が、死を招く小さな潮の流れから彼を引き出してくれた。彼はふいに自分がまた岸の方へと進むことができるとわかった。片手でボートの竜骨につかまっていた船長が海岸ではなく記者の方を見て、「ボートまで来い、ボートまで来るんだ!」と彼の名を呼んでいた。

船長やボートのところまで行こうと悪戦苦闘しつつも、人が本当に疲れきっているときには、溺死は実際にはむしろ心地よい救いとでもいうべきものであって、苦しみから解放され、やっと楽になれるのだと思ったりもしてした。だから、もうじき楽になれると、ほっとしてもいたのだが、それというのも、一時的にせよ苦痛があるのではないかという恐怖感があったからだ。負傷して苦しむのはごめんだった。

と、一人の男が浜辺を走っているのが見えた。驚くべき早さで服を脱ぎ捨てている。上着、ズボン、シャツなど、あらゆるものが魔法のように脱ぎ捨てられていく。

「ボートまで来い」と船長が呼んでいた。

「わかりました、船長」 泳いでいきながら、船長が竜骨から手を離してボートから遠ざかるのが見えた。その後で、記者はひとつの小さな驚異を体現することになった。大きな波が彼をとらえると、彼の体をものすごい速度でボートの方へ、それを飛びこえた向こう側へと軽々と放り投げたのだ。まるで体操競技のようだった。まさに海で起きた本当の奇跡だった。波打ちぎわで転覆しているボートは、泳いでいる人間にとってはオモチャどころではない凶器なのだから。

水深が腰くらいまでしかないところに到達した。一瞬も立っていられないほど体力を消耗していた。波が来るたびに何度も倒され、引き波にさらわれそうになる。

すると、男が走りながら服を脱ぎ、脱いでは駆けて、海に飛びこむのが見えた。彼は料理長を浜に引き上げ、それから船長に近づこうとしたが、船長は手を振って来なくていいと合図し、記者の方へ向かわせた。男は裸だった。冬の木のように裸だったが、その姿には後光が射して見えた。聖人のように光り輝いていた。男は記者の手をつかみ、力強く引き寄せ、引きずり、かかえ上げてくれた。身につけた習慣で彼は礼儀正しく「ありがとう」といった。だが、男はいきなり「あれは何だ!」と叫び、指さした。記者は「行ってやってくれ」と応じた。

浅瀬で機関士がうつぶせに倒れていた。その額は、寄せては返す波で規則的に水が引いたときにできる砂地にくっついたままだ。

記者は、その後のことは何も覚えていない。やっとのことで上陸すると地面に倒れてしまい、全身を砂にぶつけた。まるで屋根から落ちたようだったが、ドスンという衝撃も心地よいものだった。

海岸にはすぐに人々が集まってきた。男たちは毛布や服や気付けのウイスキーの瓶を手にし、女たちはコーヒーポットや薬などをかかえていた。海からやってきた男たちに対する陸の人々の対応は温かくて寛大だった。海水をしたたらせながらもじっと動かない一人は、砂浜の上の方へと運ばれていった。生還者の場合と少し異なり、死者に対する人々の対応は重苦しいものだった。

夜になると、月明かりの下で、白い波が寄せては返すのが見えた。浜辺にいる男たちに、風が大海原の声を届けてくる。彼らは風の声を通訳できるような気がした。

<完>

スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』は今回で終了です。

オープン・ボート 16

スティーヴン・クレイン著

海では、押し寄せてきた大波の頂点がいきなり轟音をあげて崩れ落ち、長く続く白い砕け波がボートに襲いかかった。

「ようそろ。そのままいけ」と船長がいった。岸の方を眺めていた男たちは無言のまま視線を押し寄せてくる波の方に移し、そうして待った。ボートは波の前面でなめらかに持ち上がり、怒り狂った波の頂点で跳躍し、波の背後の長く続く斜面に着水した。海水が入ってきたが、料理長がくみ出した。

だが、また次の波がやってくる。沸騰したような白濁した波頭がボートに激突し、ボートはでんぐり返し状態で翻弄された。四方八方から海水がどっと流れこんできた。記者はそのとき舷側を両手でつかんでいたが、そこから海水が入ってくると、濡れたくなくて反射的に指を離した。

小さなボートは水の重みで沈みかけ、旋回しながら海中に引きづりこまれそうになった。

「海水(ビルジ)をくみ出すんだ、料理長くん! 急げ」と船長がいった。

「はい、船長」と、料理長がいった。

「いいか、お前ら、勝負は次の波だぞ」と、機関士がいった。「ボートからできるだけ遠くへ跳ぶんだ」

その三つ目の波がやってきた。巨大で、荒々しく 情け容赦ないやつだ。ボートが波に飲みこまれた。と同時に、彼らは海へ跳びこんだ。船底に救命帯の切れ端が残っていたので、記者はそれを左手でひっつかんで胸に当てて跳びこんだ。

一月の海は氷のように冷たかった。フロリダ沖だからそこまで冷たくはあるまいと高をくくっていたが、予想したより冷たかった。ぼうっとした頭で、なぜかこのことは記憶しておくべき重要な事実に思えた。海水の冷たさは悲しいほどだった。悲劇的だ。この事実と自分の置かれた状況とを考えあわせて彼は当惑したが、泣いてもおかしくない理由があるようにも感じられた。このときの海水はそれほど冷たかった。

海面まで浮上すると、潮騒の他はほとんど気にならなかった。それから、海上に浮かんだまま、他の連中を探した。機関士は先頭をきって泳いでいた。力強く、泳ぎも達者だった。少し離れたところに、救命帯のコルクを巻きつけた料理長の白い大きな背中が浮いていた。後方では、船長が負傷していない方の手で転覆したボートの竜骨につかまっていた。

岸の方へはなかなか進めなかった。波に翻弄されながら、記者はそのことについて考えた。

理由を探りたい誘惑にもかられたが、どうやら岸までたどりつくまで長い勝負になりそうだとわかったので、あせらないよう肩の力を抜いて泳いだ。跳びこむときにつかんだ救命帯の切れ端を体の下側に巻きつけ、ときどき手押しのそりにでも乗ったように波の斜面を滑り落ちていった。

オープン・ボート 15

スティーヴン・クレイン著

VII

記者がまた目を開けたときには、夜が明けかけており、海も空も灰色がかっていた。それから海面が深紅と金色に彩られた。とうとう夜が明けたのだ。空は真っ青で、波の一つ一つに朝日が反射し輝いていた。

遠くの砂浜には、黒っぽい小さな家がたくさんあって、その上に白い風車が高くそびえていた。人の姿はない。浜辺には犬も自転車も見えない。家々は見捨てられた村のようだった。

ボートの男たちは海岸をじっと目で探り、相談しあった。

「そうだな」と、船長がいった。「助けが来ないのなら、このまま波に乗って陸に向かったほうがいいかもしれんな。こんなところに長くいたら、いざというとき何かする体力も残ってないだろうし」 他の者はその意見を無言で受け入れた。ボートは陸を目ざした。あの高い風車の塔には誰も登っていないのだろうか、誰も海を見ていないのだろうかと、記者は思った。この塔は、アリの窮状に背を向けて立っている巨人という格好だった。記者には、苦闘しているちっぽけな人間どもにはそっぽを向いて平然としている自然、――ただ風が吹き荒れている自然というものを、いくぶんか人間の目に見える形で示しているように思えた。自然は残酷だとは思えなかった。といって慈悲深いわけでもなく、誠実でもないし賢明でもなく、そういうものではなくて、自然は無関心、彼らにまったく関心がないだけなのだ。こういう状況におかれた人間は、おそらくは宇宙が自分の境遇に無関心であることに強い印象を受けるあまり、人生において自分がおかしたたくさんのあやまちを思い起こし、いたたまれない思いで、もう一度チャンスがあればと願うのだ。この死に瀕した瞬間に自分の無知をさとり、物事の白黒なんてものはばからしいほど明白に思われて、もしもう一度やり直す機会が与えられたら、自分の言動を悔い改め、人に紹介されたり一緒にお茶を飲んだりするときにはもっとうまく明るくふるまおうと思ったりするのだろう。

「いいか、君たち」と船長がいった。「ボートはまちがいなく沈むだろう。私たちにできるのは、ボートが沈むのを遅らせることだけだ。沈んだら、ボートを離れて浜辺に向かうんだ。ボートが本当に沈んでしまうまでは、あわてて海に飛びこんだりするんじゃないぞ」

機関士が二本のオールを手にして、肩ごしに打ち寄せる波を見た。

「船長」と、彼はいった。「ボートの向きを変えて、沖に向けておいたほうがよいと思いますよ。そうしておいて、バックで陸の方へ進むんです」

「いいだろう、ビリー」と船長がいった。「船尾から行こう」 機関士はボートの向きを変えた。船尾に座っていた料理長と記者は、人気のない無関心な浜辺を見るには肩ごしに振り返らなければならなくなった。

巨大な波がボートを高く持ち上げた。岸に打ち寄せる一面の白波が斜面を駆け上がっていくのが見えた。「岸のすぐ近くまで沈まないで行くのは無理だろうな」と船長がいった。大波から目を離すことができるたびに、岸の方を凝視する。そうやって、じっと見つめている間、その目にはその者の本性があらわれるものだ。記者は他の連中を観察していたが、彼らはおそれてはいなかった。が、そのまなざしにこめられた真意までは読みとれなかった。

記者自身はといえば、とても疲れていたので、事実に基づいて物事の本質を把握することはできなかった。無理にでもそのことを考えようとしたが、このとき、彼の心は筋肉に支配されていて、筋肉はそんなことはどうでもいいといっていた。おぼれたりしたら、はずかしいだろうなと、ふと思っただけだった。

あわてふためいた言葉もなければ、蒼白な顔もなく、はっきりした動揺もなかった。男たちはただ浜辺を見つめていた。「いいか、飛びこんだら、できるだけボートから離れるようにしろよ」と船長がいった。

オープン・ボート 11

スティーヴン・クレイン

V

「パイだと」と、機関士と記者が怒ったようにいった。「そんな話するなよ、馬鹿野郎!」

「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えていたんだ。そしたら――」

海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。とうとう完全な闇が訪れ、南の海から射していた光が黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。

ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っていた。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足まで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力したが、ときどき波がボートにどっと入りこんだ。夜の、氷のように冷たい波だ。彼らはまたしても冷たい水でびしょぬれになった。彼らは一瞬、体をひねってうめき、また死んだように眠りこんだ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てていた。

機関士と記者の計画では、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。

機関士は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼んだ。「ちょっと交代してくれないか?」と静かにいった。

「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移った。二人は慎重に場所を入れ替わった。機関士は料理人に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。

海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。

記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」

船長はいつもの落ち着いた声で答えた。「そうだ。左舷から二点(22.5度)ほど離しておけ」

料理人は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけていた。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると、すぐに寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理人はストーブのように暖かかった。

オープン・ボート 10

スティーヴン・クレイン

低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。

「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」

「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」

 岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。

音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞った。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。

「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」

「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」

「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」

 そうこうしている間も、機関士はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関士が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前屈みになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。

「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」

忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる連中にときおり意識して声をかけていた。

「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」 その声は疲れていて低かった。

本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。漕ぎ手はといえば、ときどき波頭を抑えつけられるようなうなり音が聞こえる以外には、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。

料理長は頭を漕ぎ座に載せていたが、眼下の海水を興味もなく見つめていた。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」

オープン・ボート 9

スティーヴン・クレイン

砂浜は遠く離れていて、海面より低く見えた。小さな黒い人影を見分けるには、目をこらして探さなければならなかった。船長が棒きれが浮いているのを見つけたので、そこまでボートを漕ぎよせた。ボートにはなぜかバスタオルが一枚あった。それを棒きれに結びつけて、船長が振った。ボートを漕いでいると振り返って見ることもままならないので、聞いて確かめるしかない。

「あいつ、どうしてる?」

「立ったまま動かない。こっちを見てるんじゃないか……また動いた。家の方に向かってる……また立ち止まった」

「こっちに手でも振ってるかい?」

「いや、もうやってない」

「見ろよ、べつの男がやってきた」

「走ってるぜ」

「よく見ててくれよ」

「なぜか自転車に乗ってる。別の男と話をしてるな。二人ともこっちに手を振ってる。見ろよ!」

「何かビーチにやってきた」

「何だ、ありゃ?」

「ボートみたいだ」

「そう、たしかにボートだ」

「いや、車輪がついてるぜ」

「そうだな。救命ボートじゃない……馬車に乗せて引いてるんだ」

「救命ボートだよ、きっと」

「いや、えーと、あれは、あれは乗合馬車だ」

「救命ボートだよ」

「ちがう。乗合馬車だって。はっきり見える。ほら、あそこにある大きなホテルのどれかの馬車なんだ」

「畜生め、そうだな。馬車だ。乗合馬車で何をしようってんだろう? 救助隊のメンバーでも集めてるのか」

「そうだよ。見ろよ! 小さな黒い旗を振ってるやつがいる。乗合馬車のステップに立ってる。もう二人やってきた。ほら、みんな集まって話をしてるぜ。旗を持ってたやつを見てみろよ。もう旗を振ったりはしていないだろ」

「あれは旗じゃないんじゃないか? やつの上着だ。間違いない、あいつの上着だよ」

「そうだな。上着だ。上着を脱いで顔のまわりで振りまわしてる。振ってるのが見えるだろ」

「そうだな。あそこは海難救助の詰め所じゃなかったんだ。ただの避寒地のリゾートホテルの乗合馬車で、おぼれかかってる俺たちを乗客がたまたま見つけたってところか」

「あのくそったれ野郎、上着で何をしようとしてるんだ? 何か合図でも送ってるつもりか」

「北へ行けっていってるみたいだ。そっちに海難救助の詰め所があるに違いない」

「そうじゃない! あいつは俺たちが釣りをしてるって思ってるんだ。ただ合図してるだけさ。見えるだろう、ほら、ウィリー」

「うーん、あれが何かの合図だったらいいんだが。お前はどう思う?」

「意味なんてないんじゃないか。あいつ、ただ遊んでるだけだ」

「そうだな、もういちど陸に近づけとか、沖に出て待てとか、北とか南へ行けとか伝えようとしてるんだったら、そこには何か理由があるはずだ。だけど、よく見ていると、ぼうっと突っ立って上着を腰のあたりで車輪みたいに振りまわしてるだけの大馬鹿野郎だ」

「人が集まってきてる」

「大勢やってきたな。見ろよ! あれこそボートじゃないか?」

「どこ? ほんとだ、見えた。いや、あれはボートじゃない」

「あの野郎、まだ上着を振りまわしてやがる」

「俺たちが感心して眺めてるとでも思ってるんだろう。いいかげん、やめりゃいいのに。意味なんかないんだし」

「かもしれんが、俺には北へ行けっていってるようにも思えるんだがな。そっちの方に海難救助の詰め所があるんだ」

「おいおい、飽きもせずまだ振ってぜ」

「どんだけ長く振ってられんだよ。俺たちを見つけてからずっと振ってるんだぜ、あいつ。馬鹿じゃねえか。なぜボートを出してくれないんだ、あいつら。ちょっと大きな漁船でここまで来てくれさえすれば一件落着なのに、なんでそうしないんだろ」

「あ、もう大丈夫だ」

「やつら、すぐにボートを出して、ここまで来てくれるさ。今、俺たちのことをじっと見てるからな」

オープン・ボート 8

スティーヴン・クレイン著

そのとき迫ってきた波は、さらにおそろしかった。こういう波はいつだって、小さなボートに襲いかかって泡立つ海に引きづりこもうとする。波が迫ってくるときは、その前から長いうなりのような音がした。海になれていなければ、ボートがこれほど急激に盛り上がってくる波を駆け上がっていけるとは、とうてい思えない。岸までは、まだかなりの距離があった。機関士はこういう磯波にはなれていた。「いいか」と、彼は早口でいった。「このままだとボートはあと三分と持たない。といって岸まで泳ぐには遠すぎる。またボートを沖に戻しませんか、船長?」

「そうだな! そうしよう!」と船長がいった。

機関士は目にもとまらぬ早さでオールを操り、次々に打ち寄せる波間でうまくボートの向きを変え、なんとか沖に引き返した。ボートが水深のある沖まで戻る間、ボートでは沈黙が続いた。やっと一人が暗い調子で口を開いた。「やれやれ。ともかく、これで陸の連中には俺たちが見えたはずだ」

カモメたちは風を受けて斜めに上昇し、灰色の荒涼とした東の方角へと飛んでいった。南東ではスコールが起きていたが、出火した建物から立ち上るどす黒い煙のような雲やレンガ色をした赤い雲でそれとわかった。

「救助隊の連中をどう思う? なんともいかしたやつらじゃないか?」

「俺たちを見てないってのは、どう考えてもおかしいよな」

「たぶん遊びで海に出てるとでも思ってるんだろう! 釣りをしてるとか、とんでもない馬鹿だとでも思ってるだろうよ」

午後は長かった。潮流が変わり、ボートを南に押し流そうとした。が、風と波の方は北へ追いやろうとしていた。前方はるかに海岸線をはさんで海と空が接していた。岸辺には小さな点のようなものがいくつかあったが、それは街の存在を示しているようだった。

「セントオーガスティンかな?」

船長は頭を振った。「モスキート湾に近すぎるよ」

そこで、機関士が漕いだ。それから記者が交代して漕ぎ、また機関士が漕いだ。うんざりするような重労働だった。人間の背中には、分厚い解剖学の本に書いてあるよりもっと多くの痛点があるようだ。背中の広さは限られているが、いたるところで無数の筋肉のせめぎあいやもみあいが生じ、よじれたりからみあったり、なぐさめあったりしている。

「ボートを漕ぐのが好きだったことあるかい、ビリー?」と、記者がきいた。

「いいや」と機関士が答えた。「くそおもしろくもねえよ」

漕ぎ手を交代してボートの舟底で休むときには、極度の疲労感から、指の一本がぴくぴく動くのをのぞけば、すべてのことがどうでもよくなってしまう。舟底では、冷たい海水が揺れ動きながらパシャパシャはねている。そこに横になるのだ。漕ぎ座を枕がわりに頭をもたせかけると、そのすぐ横では波が渦をまいていた。海水がどっとボートに流れ込み、一度ならずびしょ濡れになった。だが、そんなことは気にもならなかった。ボートが転覆してしまえば、巨大な柔らかいマットのような海に投げ出されるのは確実だったからだ。

「見ろ! 岸辺に男がいるぜ!」

「どこだ?」

「あそこだ! 見えるだろ、やつが見えるだろ?」

「見えた。歩いてるな」

「お、立ち止まった。見ろよ! こっちを見てる!」

「俺たちに手を振ってるぜ!」

「たしかに! 間違いない!」

「やった、もう大丈夫だ! もう大丈夫だ! 三十分もあれば、救助のボートがここまでやって来るな」

「あいつ、まだ動いてる。走りだした。あそこの家まで駆けてくつもりなんだ」

オープン・ボート 7

IV

「料理長君」と、船長がいった。「君のいう避難所には、人のいる気配がないようだが」

「そうですね」とコックが答えた。「妙ですね、俺たちのことが見えてないなんて!」

 ボートに乗った男たちの眼前には、低い海岸が広がっていた。上が植物で黒っぽくなった低い砂丘のようだった。波の打ち寄せる轟音がはっきり聞こえたし、ときどき海岸に打ち上がる白い唇のような波頭も見えた。空を背景に、小さな家が一軒、黒い影となって見えていた。南の方には、細い灰色の灯台も見えていた。

潮流に加えて風や波がボートを北に押し流していた。「おかしいな、誰も見てないなんて」と、男たちはつぶやきあった。

ボートに乗っていると、波の音はそれほど明瞭ではなかったが、雷鳴のように力強いものだった。ボートが大きなうねりで持ち上げられると、ボートに座っている男たちにも轟音がはっきり聞こえた。

「こりゃきっと転覆するな」と、誰もが口をそろえた。

公正という点では、ボートのある場所からは、どの方向にも、二十マイル以内に海難救助の詰め所はなかったという事実をここで述べておくべきだろう。が、ボートの男たちはその事実を知らなかったので、国の海難救助に携わっている人々の視力について、口を極めて悪口をいいあった。しかめっ面をしてボートに座り、四人は罵詈雑言の限りをつくした。

「俺たちが見えないって、おかしいだろ」

少し前までの助かったという安心感は完全に消え失せていた。心も辛辣になり、やつらは無能なんだとか、何も見えちゃいないんだ、ひどい臆病者なんだなどと、自分たちがまだ発見されていない理由を次から次に数えあげた。人がたくさん住んでいそうな海岸で、人影がまったく見られないというのは、なんともつらいことだった。

「どうやら」と船長が、やっと口を開いた。「自力でなんとかするしかないようだな。こんなところに浮かんだままで救助を待っていたら、ボートが転覆したときに陸まで泳いでいく体力も奪われてしまう」

それを受けて、オールを手にしていた機関士がボートをまっすく陸に向けた。ふいに全身の筋肉が緊張した。考えるべきことがあるのだった。

「全員が上陸しなかったとしても」と、船長がいった。「全員が上陸できるとはかぎらないが、もし私ができなかったとして、私の最後を誰に連絡すればいいか、君らは知ってるかね?」

彼らは万一のときに必要となる連絡先の住所や伝言について教えあった。彼らには強い怒りがあった。それを言葉で表現すると、おそらく、こういうことだ――万一、自分がおぼれることがあったら、もし俺がおぼれたりしたら――おぼれてしまったら、海を支配している七人の怒れる神の名にかけて、なぜこんなにも長く漂流したあげくに砂浜や木々を見せられているのか? 苦労してここまでやってきて、どうやら助かりそうだとなったところで無慈悲にもその望みを絶つためにここまで生き延びさせたってことなのか? それはおかしい。運命という名の年とった愚かな女神にこんなことしかできないのであれば、人間の運命をもてあそぶ力を剥奪すべきだ。自分が何をしようとしているかも知らない老いたメンドリにすぎないのか。運命の女神が俺をおぼれさせると決めたというのなら、どうして船が沈没したときに殺してくれなかったんだ。そうすれば、こんなきつい目にあわなくてもすんだのに。すべてが……不条理だ。だが、いや、運命の女神だって俺をおぼれさせることなんかできはしない。俺をおぼれ死んだりさせたりはしない。こんなに苦労させられた後で、死ぬなんてありえない」 そうして、天にむかって拳を振り上げたい衝動にもかられた。「俺をおぼれさせてみろ。そしたら、俺がお前を何と呼んでやるか聞きやがれ!」

オープン・ボート 6

スティーヴン・クレイン

こうした理由から、機関士も記者も、このときばかりは漕ぎたくなかった。記者は、正直にいうと、まともな人間で、こういうときにボートを漕ぐのが楽しいと思うようなやつがいるわけないと思った。気晴らしのレジャーではないのだ。ひどい罰を受けているみたいだったし、頭のいかれた天才であっても、これが筋肉に対する拷問ではなく、背中に対する罪悪でもないと断言することはないだろう。ボートを漕ぐのがこんなに楽しいとは思わなかったよ、と記者がボートに乗った連中につぶやくと、疲れ切った機関士がまったく同感だというように苦笑した。船が沈没する前、彼は船の機関室で昼も夜も当番を続けていたのだった。

「まだ無理はするなよ」と、船長がいった。「体力を残しておくんだ。波打ち際まできたら、必死でがんばらなきゃならなくなる――泳ぐ羽目になるだろうからな。のんびりいこう」

陸地が少しずつ海面から高くなってくるのがわかった。黒っぽい一本の線だったものが、黒い線や白い線、樹木や砂浜が見わけられるようになった。とうとう、岸辺に家が見えると船長がいった。「あれが避難所でしょう、きっと」とコックが応じた。「そのうち俺たちを見つけて、救助に来てくれますよ」

遠くに見えていた灯台が建物の背後にそびえていた。「もう灯台守が気づいてるはずだな、ちゃんと望遠鏡で見張っててくれれば」と船長がいった。「救助隊に連絡してくれるだろう」

陸地が徐々に、しかも美しく、登場してきた。また風が強くなった。風向は北東から南東に変化していた。そうして、ついに今まで聞こえなかった音がボートの男たちの耳に聞こえてきた。岸に打ち寄せる、低い雷鳴のような波の音だ。「まっすぐ灯台には向かっていけないだろう」と船長がいった。「ボートを少し北に向けてくれ、ビリー」

「少し北ですね、船長」と機関士が応じた。

小さなボートが船首をまた少し風下の方に向けると、漕ぎ手以外の者は、陸が大きく迫ってくるのを見守っていた。陸がだんだん大きくなってくるにつれて、無事に上陸できるかという疑念や不吉な予感めいたものも、彼らの心から消えていった。ボートを操船するのは相変わらずやっかいだったが、それでも、うれしい気持ちは隠しきれなかった。たぶん、あと一時間もすれば上陸しているはずだ。

男たちは自分の体重を使ってボートのバランスをとるのになれてきていた。今では暴れ馬に乗ってロデオをやってみせるサーカスの男たちのようだった。記者は全身びしょ濡れだと思っていたが、上着のポケットを探ってみると、葉巻が八本見つかった。半分は海水で濡れていたが、残りの四本は無事だ。探すと乾いたマッチも三本見つかった。ボートに乗った四人は、救助が近いことを確信し、目を輝かせて葉巻をくゆらせ、互いの長所や短所を判断しつつ、それぞれ水を一口飲んだ。

オープン・ボート 5

III

海の上で同じ船に乗りあわせた者たちに生じる微妙な連帯感を言葉で表すのはむずかしい。誰も同志だとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかったが、一緒にボートに乗るはめになってみると、そういう感情というものが実際に存在し、互いに親近感がわいてくるのだった。船長がいた。機関士がいて、船の料理長がいて、それに乗客の記者がいた。この四人は同志だが、普通の仲間よりもっと強いきずなで結ばれていた。負傷した船長は船首の水がめにもたれ、いつも低い声で穏やかに話した。しかし、船長にとって、このボートに乗り合わせた他の三人ほど命令をすぐに受け入れて機敏に動くクルーはいなかっただろう。そこには、安全という共通の目的のために何が最善かをただ認識するということを超えるものがあった。たとえば、司令塔たる船長の命令に従ってみると、たとえば、すべてを批判的に見ろと教えられてきた記者のような者であっても、遭難している状態とはいえ、これが自分の人生で最高の体験になるとわかった。だが、誰もそうだとはいわなかったし、そういうことを口にする者もいなかった。

「帆があったらなあ」と、船長がいった。

「私のオーバーコートをオールの先端にかけてみようか、そうすれば、君ら二人も休めるんじゃないか」

それで、コックと記者はオールをマストのように立てて持ち、コートを広げた。機関士が舵をとった。すると、この新しい帆は小さなボートをうまく前に運んでくれた。機関士は、ボートが波に突っ込まないように、ときどき舵をすばやく動かして漕がなければならなかったが、それをのぞけば、この帆走はうまくいった。

一方、灯台は少しずつ大きくなってきた。いまでは塗られている色もだいたいわかるようになり、空を背景に小さな灰色の影のように見えていた。両手でオールを漕ぐ係は灯台に背を向けていたが、この小さな灰色の影の灯台を見ようと、たびたび振り返った。

やがて、波に頂点まで持ち上げられるたびに、ようやく揺れるボートから陸が見えるようになった。灯台は空を背景にした垂直な影だったが、陸地は水平線上に細くのびた黒い影みたいだった。たしかに紙よりも薄かった。

「ニュースミルナの沖あたりかな」と、コックが言った。彼はこの海岸沿いをスクーナーで何度も航海したことがあったのだ。「ところで、船長、海難救助の詰め所が廃止されたのは一年ぐらい前だったでしょうか?」

「そうなのか?」と、船長がいった。

風は徐々に落ちてきた。コックと記者はもう風を受けるためにオールを立てておく必要がなくなった。だが、波はあいかわらずボートに襲いかかってくる。小さなボートは進むこともできず、波に翻弄された。機関手と記者はまたオールを手にした。

船の沈没は、いきなり起きるものだ。避難訓練を受け、心身が健康なベストの状態で沈没が起きるのであれば、海での溺死者は減るはずだ。だが、このボートに乗っている四人は、救命ボートに乗り込む前の二日二晩というもの、ろくに寝ていなかったし、沈みかけた船の甲板上をはいつくばって登るという異常に興奮した状態にもあったので、腹一杯食べておこうという気にもならなかったのだ。