現代語訳『海のロマンス』29:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第29回)


(前回までのあらすじ)大成丸はついに最初の関門である太平洋横断をなしとげて、米国西海岸のサンディエゴに到着しました。
実は、ここサンディエゴで、船長が失踪するという前代未聞の事件が起きるのですが、それまでは太平洋横断の余韻がしばらく続きます。


サンディエゴ入港

ある者は、寒すずめのふくらんだ毛のようだという。ある者は、病み上がりの定九郎*1みたいだという。なんにせよ、すころぶ物騒な頭である。見る人の視覚に、混乱と恐慌とを生ぜしめる代物(しろもの)である。なぜ在留日本人がそろいもそろって、ほかに選びようもあろうに、こんな危険な頭髪(あたま)の刈り方をするのか? それはわからぬ。わかっても、断りもなく、他人の心理状態に立ち入ってこれを是非するのは、温和主義・非人情主義の船乗りにはだいそれた企(くわだ)てである。人の頭髪(あたま)の心配どころか、こちらは、自分の頭の上のハエにさえてこずって、つい先だって、貴重な時間と有限のエネルギーとを、あわれ一本のサイダービンと交換したような体たらくである。しかし、角刈り、フランス刈り、クラーク式などいう恐ろしい刈り方が世にときめくこの頃、ことさらにお椀形のアメリカ刈りだけにするのはちと理(もの)がわからぬと言わねばならぬ。

美しき花の丘として、月涼しき海沿いの山として、長き年月、吾人の耳に親しかりしロマランド*2を巡(めぐ)って、くの字なりに深く潜入したる、風軟(やわ)らかに波静かなるサンディエゴの良港に入りかけたとき、熊谷(くまがい)*3もどきにオーイオーイと帽子を振りながら練習船に近づいてくる、日章旗を立てた一隻の小型船(ランチ)があった。

一時間十ノットの全速力で入ってきた練習船は、ここに至ってようやく船足を緩め、水先案内船(パイロットボート)が来るのを待つ。小型船(ランチ)は十年ぶりに生き別れした子供が、偶然(ヒョイッ)と親にめぐり合ったように、懐かし気にすり寄ってくる。

想(おも)いは同じである。館山(たてやま)を出てから水と空とのほか、帆の影一つ見なかった乗組員が、四十五日ぶりに五千海里離れた異国で黄色い顔を見、大和言葉(やまとことば)を聞くのはちょっと他の人には想像できない嬉しさである。この嬉しさと、わざわざ出迎えてくれたありがたさとに、船が(水先案内船や検疫船などに比べて)汚く見すぼらしいことを忘れた。黄色い、光沢(つや)のない顔を忘れた。見るからに小柄で不格好な風体(ふうてい)を忘れた。例の物騒な頭の髪(け)などはもちろん気づかなかった。

すべてを忘れつくし、すべてを度外視したときに、明確にただ一つ自分らの目に入ってきたものがある。出迎えの日本人の右腕にまいた黒い腕章である。国家的哀傷(あいしょう)の悲しき唯一のシンボルである。このしめやかにして、おとなしく、陰気なる印象(インプレッション)を与える喪章をまとった人は、同じく真剣で敬虔(けいけん)な眼(まなこ)をあげて船尾の半旗を見上げている。やがて、太平洋の潮を超えてやって来た海の人と、ポピーの花が咲き乱れる異国の地で祖国のために奮闘している陸(おか)の人とは、この二度となき荘粛(そうしゅく)にして悲痛なる雰囲気の下に、なつかしさを抱いて握手する。

例の越後獅子(えちごじし)の頭を朝風に振りたてながら、日本人の長を先頭に順次、まじめな敬意と軽快(ブライト)な歓意(かんい)とで複雑な表情を浮かべた十二、三の顔がタラップを登ってくる。長髪といがぐり頭とが、三尺の間隔をおいて対面し、互いの発する一語一語に心ゆくばかり慰められる。

白地に赤く鮮血をほとばしらせたような、鮮やかに輝く、なつかしい日章旗が港内の水に映(はえ)るとき、また、それに前後して、かの有名なコロナドホテルの尖塔(タワー)に同じ国旗が翻(ひるがえ)ったとき、五百人の在留同胞は。歓喜の潮(うしお)と軽い誇り(プライド)の念とで胸が一杯になった、心強く感じたとのことである。

もっともである。しかし、あの頭髪(かみのけ)だけは、すこぶるもっともではない。

聞くところによれば、西洋ではいがぐり頭は囚人の典型だということである。囚人と同列視されるのは迷惑ではある。しかし、あのお椀のような髪型は身体のためにもよくあるまい、よく逆上(のぼせ)ないことだ、よくうっとうしくないことだと思う。自分は心の中で盛んに同情を寄せているが、本人たちは一向に平気のようである。

で、自分はここに「なるほど外国だな」という最初の印象(インプレッション)を、丘からではなく、港からではなく、いろいろさまざまな多稜形(たりょうけい)の市街から得たのではなく、この偉大なる髪の刈り方から得たことに多大の敬意を表するのである。



脚注
*1: 定九郎 - 歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の斧定九郎を指すか。
定九郎は敵討ちという忠臣蔵の本筋には関係のない端役にすぎないが、中村仲蔵が演じたことにより一躍存在感のある役となった。


*2: ロマランド - ポイント・ロマ(サンディエゴ港を太平洋の荒波から守る形になっている岬)には、当時、神智学協会のコミュニティが作られていた(1900年~1942年)。ポイント・ロマ・ナザレン大学(ナザレ派キリスト教系私立大学)がその一環で創立され、現在は郊外の緑豊かな文教地区になっている。


*3: 熊谷 - 歌舞伎の熊谷陣屋(くまがいじんや)に出てくる源義経(みなもとのよしつね)の家来の熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)。

[ 戻る ]    [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』29:練習帆船・大成丸の世界周航記」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 現代語訳『海のロマンス』30:練習帆船・大成丸の世界周航記 | 海洋冒険文庫

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です