ヨーロッパをカヌーで旅する 44:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第44回)

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ここでは、三人のイギリス人が蒸気船を待っていた。スイスまで釣りをしに来たのだ。釣りや狩猟と旅行は、ぼくの経験からすれば、どっちを優先するかを決めておかなければ、あぶはち取らずになってしまう。かつてノルウェーのヴォッセヴァンゲンの町で、何時間も馬車を待っていたときのことを思い出す。待ち時間の間、ぼくは手頃な杖に釣り針に見立てたピンをつけて三匹のマスを釣った。これはこれで面白かった。一方、ぼくの連れは暇を持てあまし、石の上に置いたぼくのグレンガリー帽*1を拳銃で撃ったりしていた。

*1: グレンガリー帽 - スコットランドの、縁なしの、フェルトやウール製の軍帽。

本物の釣り師というのは、釣果というよりは、釣りという行為自体を目的としている。むろん、大漁なら友人たちに対しても面目がたつのでうれしいわけだが、たとえ坊主であったとしても本人は満足していたりするものだ。さて、釣れるかもしれないと思って旅の足をとめ釣りをやってみたものの何も釣れなかったとき、一日を無駄にしてしまった、あのまま旅を続けていたら面白いことがどんなにたくさんあっただろう、などと後悔するかもしれない。逆に、魚が釣れたのにスケジュールの都合で移動しなければならなくなったりしたら、なんとも心残りで、旅を再開しても最初の十マイルほどは周囲の景色なんか目に入らず、川のよどみや川底の石や餌のこと、川面で跳ねる魚のことを未練たらしく思い出したりするのだ。最悪なのは、魚がかかったものの釣り逃がしたときで、このときは敗北感に打ちひしがれたまま釣りをやめざるをえず、不機嫌な状態で旅を続けることになる4

原注4: とはいえ、カヌーからの釣りは、スウェーデンを航海した時の記録にも書いたように、流れがカヌーを運んでくれる時には、とても楽しい。ある夏、ぼくの忠実な連れである小型テリアの「ロブ」をカヌーに乗せて、ロブ・ロイ・カヌーでシリー諸島のアザラシがいる砕け波に突っこんだり、コーンウォールの海岸の岩場がむきだしの岬をまわって、迫りくるフランスの軍艦をおそれてさまざまな港に係留されている百隻のドイツの船舶を訪問したりしたこともあった。そのときは、冬の間、カヌーは寺院の窓から押しこんで保管してもらった。

イミンでの三人の旅行者についていえば、時間が二十分しなかなかったので、五分で朝食をすませ、次の三分で竿を用意し、大急ぎで庭に出て釣り糸を投げ、魚も急いで針にかかるべきだとでもいうように、せかせか移動して歩いていた。この意欲満々の釣り人の一人は禿頭だったが、その頭にも真夏の太陽が容赦なく照りつけている。帽子をかぶる時間すらなかったのだ。もう一人は釣り糸を草木にからませ、釣りどころではない。三人目は慎重なタイプで、忠告にも耳を傾けて、この人だけが魚がいるところに向かった。騒いだ二人のいるところ以外では、どこにでも魚がいたのだ。で、彼らはなんとか数匹の大物を釣り上げた。つまり、群れからはぐれ、寝坊したために朝食を食べそこなった魚がいて、つい彼らの餌にまどわされたのだろう。一番熱心な、アイザック・ウォルトンも顔負けの男は、予定にしばられて本人が満足いくまで釣りを楽しむことはできなかった。

大挙して海外を旅行するイギリス人の群れに参加していながら、自分を他の同輩とはまったく別だとみなして、彼らの行動や発言を第三者として眺める──これは興味深くもあるし楽しいことではあるのだが、できることなら一日でもいいので(少なくとも気持ちの上だけでも)スイスの住人やパリの市民になってみようとすること、自分のまわりにいるイギリス人をその国の人々がイギリス人を見るように眺めてみようとすると、ずっと興味深いことがわかるだろう。とはいえ、そういうことはすでに賢明な多くの旅行者が行っていて、彼らは多かれ少なかれユーモアをまじえつつも辛辣な手紙を母国に書き送っている。なので、ぼくとしてはイギリスという島国から毎年大挙して大陸に流れこんでくる、ちょっと変わった人々を個々に分析することはしないでおく。こういう寄せ集めの人々の多くを「俗物」、「浪費家」または「井の中の蛙」と非難するのが流行になっているが、彼らが同胞の旅行者に対して行っている辛辣な批判の多くは、自分を別格にして上から目線で斜に構えて論じているにすぎない、ということはないだろうか?

むろん、ぼくが航海の途中で出会ったイギリス人にも、とても風変わりな人々がいて、彼らのカヌーに対する発言もとんちんかんだった。たとえば、ある人は「荷物係も乗せられるくらい大きなカヌーを作ろうとは思わなかったのかい?」と言った。それに対するぼくの返事ははっきりしている。「だれかに世話をしてもらうためにカヌーに乗るわけじゃないんだ。自分が乗りたいから乗るんだよ」 別のイギリス人は(本人は母国にいて)カヌーでの航海について、「それって時間の浪費じゃないのか?」と、大真面目でぼくに聞いてきた。で、ぼくが彼に「君は休暇をどうすごすんだい」と聞くと、返事は「俺はずっと家にいるよ」だった。

英語での会話に戻ろう。旅行者向けに出版されている外国語会話集は、そのほとんどが現実的ではないと思う。フランス語やドイツ語、イタリア語、あるいはスペイン語について旅行者を助けようという意図で書かれたこうした旅行会話集は、単語や語句が見やすい二段組みで印刷され、末尾には「丁重な手紙の文例集」までついているのだが、そのすべてで、実際にはあまり使う必要のないものが詰めこまれている。よく知らない言語で自分の意思を伝えたいと思っても、そういう表現は植物や宝石についての会話や形而上学に関する哲学的議論に埋もれてしまっている。旅行者が遭遇し必要とする表現がまったく抜けていたりもする。

旅行で必要になったことがないドイツ語のページすべてに印をつけていたとき、本当に簡潔で要を得た「会話帳」が必要だと痛感した。それで、ぼくはカヌーに積む荷物の重量を減らすため、会話帳の不要と思われるページを片っ端から破り捨てた。そのため『会話帳」はなげかわしいほど薄くなってしまったが、残ったページは実際の役に立った。それはごくわずかで、元の本の分量からすると、まるで骸骨のようにスカスカだった。

こうした冊子のもう一つの欠点は、書かれている内容が、外国人なら困っているイギリス人にはこう話しかけるだろうと空想した会話で構成されていることで、その言葉は口にするには長すぎたり、風変わりだったりすることが多いのだ。現実の生活では本物の外国人と会話する機会は少ないし、本に書いてある定番のフレーズとはまったく違う言葉で話しかけられたりするので、そもその相手の言う意味がわからない。覚えたことと実際の会話とがうまく対応していないのだ。

相手の口にした言葉が英語でどういう意味なのかを知るために辞書が必要なことは明らかだ。会話帳というのは、自分が相手に伝えたいことをどう言うかについては役に立つ。つまり、会話帳から自分で選んで、多少の手直しをして伝えることができる。ノルウェーやスウェーデン向けのデンマーク語の会話帳はまあまあよかったし、旅行者に必要な表現が網羅されていた。だが、他の主な言語それぞれについて、この種の本は次に示すことを基本として作られるべきだと思う。

まず、「私は~がほしい、私は~をしたい」という表現が必要だ。旅行中の会話で最も多く使われる表現をアルファベット順に整理し、それに応じた外国語の表現を併記する。次に「~してくれませんか」という依頼の表現が必要になる。旅行者にとって一般に必要となる行為それぞれを示す動詞を並べておく。三番目に「~は…ですか?」という質問の仕方だ。「馬車は~で止まります」、「この道は~に通じています」、「汽船は~から出ます」などの表現で、名詞や動詞や前置詞の使い方を説明しておく。最後に、「~ですか」に使用できる形容詞をアルファベット順に網羅したリスト。こうした四つの表現群に加えて、副詞や数を示す言葉が二ページ分。これで外国人と話す際のやりとりの主なところは網羅できると思う。政治や芸術、景色など特別なテーマについての会話に関していえば、必要な言葉をいくつかを覚えるだけでは足りず、相手の言語そのものを学んでいなければ現実に深いやりとりができる可能性は少ない。しかも、旅行用の会話帳を手にする人々は、そういう意味での言語研究を目的にしているわけではないのだ。

外国での会話に関してくどくどと述べてしまったが、また旅を続けよう。

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