スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (50)

元の社会へ




それからの二日間の航海についてはほとんど覚えていないし、ノートにも何も書いてない。快適な風景の中を川は安定して流れていた。青い服を着た洗濯女たちや青いシャツを着た釣り師たちが川岸の緑に変化をつけていて、この二つの色は、忘れな草の青い花と葉のようだった。忘れな草のシンフォニー。フランスの詩人テオフィル・ゴーティエなら、この二日間に見えた景色をこう描写しただろう。空は青く、雲一つなかった。川は平原をゆるやかに流れていき、なめらかな川面には空や岸辺が映っていた。洗濯女たちが大きな声でぼくらに笑いかけ、ぼくらはといえば、川を下る間ずっと、寝ぼけまなこで、とりとめもなく物思いにふけったりしていたが、その間も木々のふれあう音や川の音は伴奏のように聞こえていた。

川はまさに大河の風格でとぎれることなく流れていて、そのことはずっと念頭にあった。ここまで来ると川も終着点も近く、十分に決意をかためた成人男子のように、力強く、そしてゆったりと流れていた。ル・アーブルの砂浜では、波が音をたてて岸辺に打ち寄せていた。

ぼくはといえば、バイオリンのケースのようなカヌーに乗って、この動く大通りのような大河を移動していきながら、海を待ち遠しく感じはじめていた。文明化された人間にとって、遅かれ早かれ、文明に戻りたいと思う時が来るものなのだ。ぼくはパドルを漕ぐのにも疲れたし、人の生活の周辺で生きていくというのにも飽きてきた。もう一度、実社会に戻りたいと思った。仕事につき、自分の言うことを理解してくれる人々と、好奇の対象としてではなく同じ条件の人間として、会ってみたいと思った。

そして、ポントアーズで受け取った一通の手紙で、ぼくらは旅を終える決心をし、雨のときも日光が輝いているときもずっとぼくらを楽しませてくれたオアーズ川からカヌーを引き上げたのだった。長い距離を航海し、ぼくらと運命を共にしてくれたが、別れはいつか来るものだ。ぼくらは実社会から離れたところを旅してきて、今やっとなじみのある場所に戻ってきた。ここでは、人生そのものが激しく動いていて、パドルを漕がなくても人生という冒険の渦中に否応なく投げだされてしまう、そういうおなじみの世界に戻ってきたのだ。劇中の航海者のように故郷に戻ってきて、運命によりぼくらの周囲がどう翻弄されたのか、家に戻るとどんな驚きが待っているのか、留守中に世の中がどれほど、そしてどんな風に変わったのかを知らされる。カヌーは日中はずっと漕いでいられるが、夜になれば自分の部屋に戻ることになるし、ストーブの脇で愛や死が待っていたりするのだ。最も美しい冒険とは、ぼくらが探し求めて出かけていった先にあるものではないのだ。

[了]

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『スティーヴンソンの欧州カヌー紀行』は今回で終了です。
次回からは米国の作家、スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』(新訳)をお届けします。
これはジャーナリストだった著者が実際にフロリダ沖で体験した船の沈没と救命ボートでの脱出をもとにしたフィクションで、ヘミングウェイは小説志望者の必読書として、16冊の作品リストの冒頭にこの作品をあげています。

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