スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (43)

オアーズ川を下る(続き) ── 教会の内で

まずコンピエーニュからポン・サント・マクサンスまで下った。翌朝、六時ちょっと過ぎに宿の外に出てみた。空気は刺すように冷たく、霜もおりているようだった。広場では二十人ほどの女たちが朝市に出された品物に群がって声を張り上げていた。値段の交渉であれこれ言いあう声が、冬の朝の雀のさえずりのように断続的に聞こえてくる。通行人はちらほらいたが手に息をはきかけて暖め、血行をよくしようと足踏みして木靴をがたがた鳴らしたりしている。街路はまだ冷たい影におおわれていたが、煙が出ている頭上の煙突には日が差し、黄金色に輝いていた。一年のこの季節に早起きすると、起床したときは十二月の寒さだったものが、朝食を食べるころには六月の陽気になっていることもある。

教会までの道がわかったので行ってみた。教会には、生きた礼拝者だったり死者の墓だったり、何かしら見るべきものがある。真摯な熱意や空虚な欺瞞に包まれていたりする。歴史的に由緒のあるものではないとしても、そこで暮らす人々についての情報が得られるのは確かだ。教会の内部は屋外に比べてさほど寒くはなかったが、どこか冷え冷えとしていた。白い祭壇のまわりは極寒の地のように見えた。人の気配も少なく、寒々として、英国国教会に比べて大陸側の派手なカトリックの祭壇はかえってわびしさを感じさせた。内陣に神父が二人座り、書物を読んだり告解者を待ったりしていた。祭壇から離れたところでは一人の老婦人が祈りをささげていた。健康な若い人々が寒くて掌に息をはきかけたり胸をたたいていたりしているときに、この老婆がロザリオを普通に扱っているのが不思議でもあった。それに気をとられたものの、それ以上に、ぼくは彼女の行動とその意味するものに何か失望を感じざるをえなかった。彼女は椅子から椅子へ、祭壇から祭壇へと動き、教会内をぐるっとまわっていた。聖廟の前まで来ると、どの聖人に対しても同じ数のロザリオで同じ時間だけ祈りをささげるのだった。経済の先行きにあまり楽観していない用意周到な資本家のように、彼女は安寧を願うあまり、さまざまな聖人やら守護神やらに分散投資して歎願しているらしかった。仲裁者を一人に絞って信用するというリスクをおかすつもりはないのだろう。一人と言わず聖人や天使すべてが最後の審判のときに彼女を擁護すべきだと思うように仕向けているのだった! それは、ぼくには、本当には信じきれていない、愚かな、無意識の、見え透いた偽善にしか思えなかった。

彼女は骨と皮だけの、死者と区別がつかないような老婆だった。彼女はぼくを一瞥したが、その目には表情というものがなかった。見るとはどういうことかの解釈にもよるだろうが、彼女はある意味で盲目といってもよかった。おそらく若いころには恋をし、子供も産んだことだろう。子供を育て、愛称をつけてかわいがったりもしたはずだ。しかし今となっては、そういったことすべてが過去のものとなり、彼女はその頃より幸福にもなっていなければ賢くもなっていないのだった。彼女が毎朝できる最善のことは、ここに来て、寒々とした教会の中で、来世の幸福を願うことだけなのだろう。ぼくは通りへと逃げ出し、すばらしい朝の空気を腹いっぱい吸わないではいられなかった。朝だって? 朝にこれほど厭世的であれば、どうやって夜まで過ごすというのだろうか! しかも、夜に眠れなかったりしたら、どうなるのだろうか? 七十歳までも生きた後で、自分の人生が間違っていなかったことを公衆の面前で示さなければならない人はさほど多くないというのは、幸運なことだ。こういう殺伐とした時代には、多くの人々は人生の最盛期に倒れ、どこか見知らぬ土地で自分の愚かな行動の償いをさせられるというのも、見方によれば幸運なことかもしれない。でなければ、病気の子供と愚痴ばかりのお年寄りを抱えて、人生そのものに嫌気がさしてしまうかもしれないではないか。

その日、カヌーを漕いでいる間、ぼくは自分の精神を立て直そうと努める必要があった。あの老婆のことが喉に刺さったトゲのように頭から離れなかった。とはいえ、やがて馬鹿になりきることができた。カヌーに乗って無心に漕ぎ、漕ぐ回数を数えつつ、それが何百になったか忘れたりしながら、それ以外のことは考えないようにした。ときどき漕ぐ回数が何百だったかをおぼえてべきだという不安にかられたりもしたが、そうなると楽しみが苦行になってしまう。そういう不安は漕いでいるうちに頭から消え、ぼくは自分が何をやっているのかもよくわからない状態でひたすら漕ぎ続けたのだった。

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