スティーヴン・クレインの手記 2

眠れない

海に夜の闇がおとずれた。コモドア号の船尾には夜光虫による幅の広い青白い光の航跡がのびている。コモドア号のずんぐりした船首が黒く大きな波に突っこむたびに、船の一方の側で海水が渦をまき点滅しながら滝のように流れ落ちていく。聞こえるのは、リズミカルで力強いエンジン音だけだ。外国の紛争の片棒をかつぐ形の船に特派員として便乗した駆け出しの記者として、ぼくは出港してからずっと興奮状態にあったので、なかなか眠くならなかった。それで一等航海士の寝床で横になって体を休めた。船が傾くたびに隔壁ごしに衝撃が伝わってきたが、薄暗い中で船がゆれるたびに胃の上あたりに吐き気がもよおしてくる。これは楽しくもなければ何かの教訓になるようなことでもなかった。

料理長、行く末を案じる

料理長は厨房の長いすで眠っていた。太った堂々たる体躯をしていたが、チェッカーゲームのボード盤をうまくつかって、船が動いても体が長いすから落ちないようにしていた。ぼくが厨房に入っていくと彼は目を開け、周囲を見まわしながら、つらそうに「神様」とつぶやいた。「なんとも居心地が悪いんだよな。この船で何か起きるような気がしてしょうがないんだ。それが何なのか俺にはわからないが、このポンコツ船で何かが起きそうないやな予感がする」

「で、乗客の連中の方はどう?」と、ぼくはきいた。「誰かいなくなるとかあるかな、予言者先生?」

「そうだな」と料理長がいった。「ときどき、なんだか呪われてるような気がするんだ。それはともかく、なんとなくなんだが、あんたも俺もどっちもこの船から離れることになって、またどこかで、少し先のコニーアイランドとかそんなところで再会するような気もするんだな」

一人で十分

眠れないとわかったので、ぼくは操舵室に戻った。チャールストン出身のベテランの船乗りであるトム・スミスが舵を握っていた。暗かったのでトムの顔は見えなかったが、羅針盤を見ようと前かがみになるたびに、羅針盤が収納されている箱の薄暗い照明で、風雪に耐えてきた彼の姿が浮かび上がる。

「やあ、トム」とぼくはいった。「この航海はどう、うまくいくかな?」

彼はこう答えた。「やり通せるとは思うぜ。こんな航海は何度もやってるし、なんせ給料がいいからな。だが、無事に戻ったら、こんどで終わりにするよ」

ぼくは操舵室の隅に腰をおろし、うつらうつらしていた。やがて船長が職務を果たすためにやってきて、ぼくのそばに立った。と、機関長が階段を駆け上がってきて、あわてた様子で、船長にエンジンルームで問題が起きたと知らせた。機関長と船長はそっちへ向かった。

船長が戻ってきたとき、ぼくは同じ場所で眠りかけていた。船長は操舵室の真うしろにある小部屋の扉まで行き、キューバ人のリーダーに大声で呼びかけた。

「おい、君の仲間に手を貸してくれるよう頼んでくれないか。私はそっちの言葉ができないから説明できんのだ。仲間を連れて一緒に来てくれ」

機関室での共同作業

キューバ人のリーダーはぼくを見て、こういった。「機関室に行って手を貸してくれ。バケツでかい出すんだ」

機関室といえば、いわば灼熱地獄の釜のような光景が展開されているところだ。そもそも耐えられないほど熱いし、燃焼による薄暗い光にあやつられるように不可解で身の毛もよだつような影が壁をうごめいている。そこに大量の海水が流入し、泡立ちながら機械類の間をゆれ動き、大きな音を立ててぶつかりあい、がたがた鳴り、蒸気を立ちのぼらせていた。船底の一番奥にある奈落の底というわけだ。

その場所で、ぼくは若い機関士のビリー・ヒギンズと知りあった。彼はこの地獄のようなところに陣どり、バケツに水をくんでは男たちに手渡し、彼らは一列に並んで順送りして舷側から捨てていった。その後、指示に従って手順を変え、船の風上側にある、機関室に通じている小さなドアから排水するようになった。

船でパニックは起きなかった

その間も、排水ポンプが故障しているとか、機械に関する他の専門的なやりとりが頻繁になされたが、ぼくにはちんぷんかんぷんだった。とはいえ、機関室でいきなり大きな破壊が生じたということだけは理解できた。

このとき、乗客の間に扇動するような行為は一切なく、その後もコモドア号でパニックめいたものは発生しなかった。ヒギンズやぼくと一緒に作業をした連中は全員キューバ人だったが、彼らはキューバ人のリーダーの指示に従っていた。やがて、ぼくらは船倉の方に移るよう命じられた。またあの不快な機関室に入るのかと、ぼくらはためらったが、ヒギンズは率先してバケツをつかみ、昇降用階段を降りていった。

スティーヴン・クレインの手記 1

この手記は、スティーヴン・クレインが自分の乗った船が沈没したときの経験を記事にまとめたノンフィクションで、後にこれを下敷きにした短編『オープン・ボート』を執筆しました。

一連の手記とあわせて出版され、クレインの出世作となりました。

『オープン・ボート』は、アーネスト・ヘミングウェイが若い作家志望者に必読書として示した16作品の一つです。

先週まで連載していた『オープン・ボート』と読み比べると、作家が実体験をもとに手記をまとめ、さらにそれをどのように小説へと昇華していったかがわかる興味深い作品といえるでしょう。

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スティーヴン・クレイン自身の物語

明瀬和弘訳

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コモドア号はいかにして難破し、彼はいかに脱出したか
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恐怖にかられた黒人がボートを水浸しにする
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若い作家は、火災が起きたエンジンルームで部屋で息をつまらせながら苦闘する
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マーフィー船長とヒギンズの勇気
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救命筏の仲間を曳航しようと試みる――打ち寄せる波をかいくぐって浜へ向かう
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フロリダ州ジャクソンビル、一月六日     元旦の午後。コモドア号はジャクソンビルの埠頭に係留され、黒人の港湾作業員たちが列をなして箱詰めされた弾薬やライフルを大量に積み込んでいた。船のハッチは怪物の口のようにそれを飲みこんでいく。伝説の海洋生物に餌が与えられているようでもあった。白昼公然と行われており、埠頭で気分を高揚させたキューバ人たちは、祖国の、ぼくらには耳なれない愛国歌をうたいだした。

すべては公然と行われていた。コモドア号にはキューバ向けの武器や軍需物資が積まれていた。以前のように秘密裏にことを運ぶといった配慮はどこにもなかった。レミントンからキューバへ物資を運ぶのではなく、コモドア号はニューヨークまでオレンジを運ぶだけだという感じで、平然と荷を積み込んでいるのだった。さらに川の下流には、セントジョンで合衆国の利益を保護する二等辺三角形の形をした古い密輸監視艇のバウトウェル号が錨泊していたが、船上にあわただしさのようなものはなかった。

別れの挨拶

コモドア号の甲板では、二カ国語で別れの挨拶がかわされた。この船で出発しようという男たちの多くは南部の町に多くの友人がいたし、遠くはなれた北部の友人たちと別れていくぼくらの方は、この激しくも真剣な別れの光景を目にし、もの悲しさを感じていた。

とはいえ、税関はそう単純ではなさそうだった。船の航海士やキューバ人のリーダーたちは、夕闇が迫り、濃い霧を通してジャクソンビルの町の灯がちらほら見えるようになるまで拘束されていた。それから、別れの挨拶が盛んに飛びかうなかで、コモドア号はやっと離岸した。船首をはるか沖合に向けると、陸に残ったキューバ人たちは何度も喝采した。コモドア号はそれに答えて汽笛を三度、長く鳴らしたが、そのときも彼らの悲しみにぼくは胸をうたれた。ともかく、彼らは声をあげて泣いていた。

それから、やっと他国の反乱を扇動する者になったような気がしてくるようになった。そういう行為における危険が小さいとは、とても思えなかった。ジャクソンビルの町の灯が遠ざかっていき、船のエンジンのドンドンといういつもの音を聞きながら、ぼくらは物思いにふけった。

だが、遠ざかっていく陸地をながめている乗客の顔に激しい感情はなかったように思う。実際、厨房の下働きをしているボーイから船長にいたるまで、ぼくらは全員、穏やかに満ち足りた気分で上機嫌だった。しかし、ジャクソンビルから二海里と進まないうちに、性悪の霧のために水先案内人が判断を誤り、コモドア号は激しく座礁してしまった。この恥ずかしい状態で、ぼくらは夜が明けるのをじっと待たざるをえなかった。

ボウトウェル号からの助け

これは単に物理的な災難に遭遇しただけではなかった。他国の争いに口をはさむどころか、ぼくらは座礁した船の搭乗者にすぎないのだった。気持ちの上で一度ならず落ち込むことになった。

ジャクソンビルに連絡がいき、そこからさらに略奪監視船ボウトウェル号の船長に連絡が送られて、監視船のキルゴア船長はポンコツの三角の形をした船のエンジンを始動させ、全速力で助けに駆けつけてきた。ボウトウェル号がコモドア号を海底の泥から引っ張りだしてくれたので、ぼくらはまた河口へと向かった。略奪監視船は、コモドア号がキューバ軍の志願兵を川沿いで拾い上げないよう監視するため、コモドア号の半マイルほど後方をついてきた。

一月一日の早朝のことだ。美しく金色に輝く南からの陽光が川にふりそそいでいる。それが古びたボウトウェル号の上空で輝やき、真珠のような白い船体をきらりと光らせ、さらに船の索具を金の糸のようにきらきらさせた。

すれ違う船や陸上から、ポンコツのコモドア号に対して喝采が送られた。出港したときと同じような陽気な歓迎だった。メイポートで川の水先案内人が公海までの資格を持つ人に代わったのだが、コモドア号はまたしても座礁してしまった。ボウトウェル号は堂々と伴走していた。ぼくらの苦境を知るとまた支援してくれたが、コモドア号はこんどはエンジンを逆回転させて自力で脱出し、また外洋をめざした。

略奪監視船の船長はだんだん好奇心をそそられてきたようだった。コモドア号に挨拶し、「このまま海に出るのかね?」と聞いた。

コモドア号のマーフィー船長は「そうです」とこたえた。

それからコモドア号が彼に敬意を示して汽笛を鳴らすと、キルゴア船長は帽子をとり「諸君、楽しい航海を」といった。これが沿岸で受けた最後の言葉となった。

コモドア号が砂州を超えて巨大な巻き波が打ち寄せているところまでくると、楽しい雰囲気は船の乗組員から消えてしまった。

訳注

 

背景となる状況について

 

この海難事故が起きたのは1897年1月2日です。


当時、スペインからのキューバ独立の機運が高まっており、背後から支援していた米国とスペインとの間で、この海難事故の翌年に米西戦争が勃発します。

 

そうした戦争前夜の緊迫した状態で、スティーヴン・クレインはキューバ情勢を探る特派員として派遣され、コモドア号に乗船したのでした。

 

貨物の積載が大晦日までかかったコモドア号は、予定より遅れて1月1日に出港し、霧のため二度も座礁したことが原因で、翌2日午前7時に沈没しました。

 

脱出したスティーヴン・クレインたちが乗ったボートは、1月3日午前7時30分から午前10時ごろに陸に到着したとされています。

 

この手記は、スティーヴン・クレインが救助されてからわずか三日後の1月7日に、ニューヨーク・プレス紙に発表されました。

 

フィクションの短編小説『オープン・ボート』は、それから数週間後の二月中旬には書き上げられていたといわれています。発表されたのはスクリブナーズ・マガジンの同年6月号でした。

オープン・ボート 17

スティーヴン・クレイン著

だが、とうとう、それ以上はどうしても進めなくなった。その場所の潮流がどんな風に流れているのか泳ぐのをやめて調べたりはしなかったが、どうしても前に進まない。海岸は舞台の景色のように目の前にあった。細部にいたるまではっきり見えたし地形もよくわかった。

ずっと離れた左の方を料理長が追いこしていった。船長が料理長に声をかける。「仰向けになれ、料理長くん! そうしておいてオールを使んだ」

「了解」 料理長は仰向けになり、自分自身がカヌーになったように一本のパドルをうまく使って漕ぎだした。

船長が片手で竜骨につかまっていたボートも、やがて記者の左側を通過していった。ボートが上下左右にとんでもない動きをしていなければ、船長は自分の体を持ち上げて板塀の上からのぞきこんでいる男のように見えただろう。彼は、船長がまだボートにつかまっていられることに驚いた。

彼らは記者の先を進んでいった。機関士、料理長、船長の順にどんどん岸の方へ近づいていき、その後を追いかけるように水瓶が跳ねまわりながら流れていく。

記者はといえば、潮流という奇妙な新しい敵にずっととらえられていた。白い砂浜や緑の断崖、その上にある静まりかえった小さな家々のある海岸が絵画のように眼前に広がっていた。すぐそばにあるのに、フランスのブルターニュ地方やアルジェの風景画を画廊で眺めているような気分だった。

「自分はおぼれ死ぬのだろうか? そんなことがありうるだろうか? ありうるのか? 本当に起こりうるのか?」と思ったりした。人間は、自分自身の死を最後の自然現象とみなすほかないのだ。

とはいえ、その後で、ひとつの波が、死を招く小さな潮の流れから彼を引き出してくれた。彼はふいに自分がまた岸の方へと進むことができるとわかった。片手でボートの竜骨につかまっていた船長が海岸ではなく記者の方を見て、「ボートまで来い、ボートまで来るんだ!」と彼の名を呼んでいた。

船長やボートのところまで行こうと悪戦苦闘しつつも、人が本当に疲れきっているときには、溺死は実際にはむしろ心地よい救いとでもいうべきものであって、苦しみから解放され、やっと楽になれるのだと思ったりもしてした。だから、もうじき楽になれると、ほっとしてもいたのだが、それというのも、一時的にせよ苦痛があるのではないかという恐怖感があったからだ。負傷して苦しむのはごめんだった。

と、一人の男が浜辺を走っているのが見えた。驚くべき早さで服を脱ぎ捨てている。上着、ズボン、シャツなど、あらゆるものが魔法のように脱ぎ捨てられていく。

「ボートまで来い」と船長が呼んでいた。

「わかりました、船長」 泳いでいきながら、船長が竜骨から手を離してボートから遠ざかるのが見えた。その後で、記者はひとつの小さな驚異を体現することになった。大きな波が彼をとらえると、彼の体をものすごい速度でボートの方へ、それを飛びこえた向こう側へと軽々と放り投げたのだ。まるで体操競技のようだった。まさに海で起きた本当の奇跡だった。波打ちぎわで転覆しているボートは、泳いでいる人間にとってはオモチャどころではない凶器なのだから。

水深が腰くらいまでしかないところに到達した。一瞬も立っていられないほど体力を消耗していた。波が来るたびに何度も倒され、引き波にさらわれそうになる。

すると、男が走りながら服を脱ぎ、脱いでは駆けて、海に飛びこむのが見えた。彼は料理長を浜に引き上げ、それから船長に近づこうとしたが、船長は手を振って来なくていいと合図し、記者の方へ向かわせた。男は裸だった。冬の木のように裸だったが、その姿には後光が射して見えた。聖人のように光り輝いていた。男は記者の手をつかみ、力強く引き寄せ、引きずり、かかえ上げてくれた。身につけた習慣で彼は礼儀正しく「ありがとう」といった。だが、男はいきなり「あれは何だ!」と叫び、指さした。記者は「行ってやってくれ」と応じた。

浅瀬で機関士がうつぶせに倒れていた。その額は、寄せては返す波で規則的に水が引いたときにできる砂地にくっついたままだ。

記者は、その後のことは何も覚えていない。やっとのことで上陸すると地面に倒れてしまい、全身を砂にぶつけた。まるで屋根から落ちたようだったが、ドスンという衝撃も心地よいものだった。

海岸にはすぐに人々が集まってきた。男たちは毛布や服や気付けのウイスキーの瓶を手にし、女たちはコーヒーポットや薬などをかかえていた。海からやってきた男たちに対する陸の人々の対応は温かくて寛大だった。海水をしたたらせながらもじっと動かない一人は、砂浜の上の方へと運ばれていった。生還者の場合と少し異なり、死者に対する人々の対応は重苦しいものだった。

夜になると、月明かりの下で、白い波が寄せては返すのが見えた。浜辺にいる男たちに、風が大海原の声を届けてくる。彼らは風の声を通訳できるような気がした。

<完>

スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』は今回で終了です。

オープン・ボート 16

スティーヴン・クレイン著

海では、押し寄せてきた大波の頂点がいきなり轟音をあげて崩れ落ち、長く続く白い砕け波がボートに襲いかかった。

「ようそろ。そのままいけ」と船長がいった。岸の方を眺めていた男たちは無言のまま視線を押し寄せてくる波の方に移し、そうして待った。ボートは波の前面でなめらかに持ち上がり、怒り狂った波の頂点で跳躍し、波の背後の長く続く斜面に着水した。海水が入ってきたが、料理長がくみ出した。

だが、また次の波がやってくる。沸騰したような白濁した波頭がボートに激突し、ボートはでんぐり返し状態で翻弄された。四方八方から海水がどっと流れこんできた。記者はそのとき舷側を両手でつかんでいたが、そこから海水が入ってくると、濡れたくなくて反射的に指を離した。

小さなボートは水の重みで沈みかけ、旋回しながら海中に引きづりこまれそうになった。

「海水(ビルジ)をくみ出すんだ、料理長くん! 急げ」と船長がいった。

「はい、船長」と、料理長がいった。

「いいか、お前ら、勝負は次の波だぞ」と、機関士がいった。「ボートからできるだけ遠くへ跳ぶんだ」

その三つ目の波がやってきた。巨大で、荒々しく 情け容赦ないやつだ。ボートが波に飲みこまれた。と同時に、彼らは海へ跳びこんだ。船底に救命帯の切れ端が残っていたので、記者はそれを左手でひっつかんで胸に当てて跳びこんだ。

一月の海は氷のように冷たかった。フロリダ沖だからそこまで冷たくはあるまいと高をくくっていたが、予想したより冷たかった。ぼうっとした頭で、なぜかこのことは記憶しておくべき重要な事実に思えた。海水の冷たさは悲しいほどだった。悲劇的だ。この事実と自分の置かれた状況とを考えあわせて彼は当惑したが、泣いてもおかしくない理由があるようにも感じられた。このときの海水はそれほど冷たかった。

海面まで浮上すると、潮騒の他はほとんど気にならなかった。それから、海上に浮かんだまま、他の連中を探した。機関士は先頭をきって泳いでいた。力強く、泳ぎも達者だった。少し離れたところに、救命帯のコルクを巻きつけた料理長の白い大きな背中が浮いていた。後方では、船長が負傷していない方の手で転覆したボートの竜骨につかまっていた。

岸の方へはなかなか進めなかった。波に翻弄されながら、記者はそのことについて考えた。

理由を探りたい誘惑にもかられたが、どうやら岸までたどりつくまで長い勝負になりそうだとわかったので、あせらないよう肩の力を抜いて泳いだ。跳びこむときにつかんだ救命帯の切れ端を体の下側に巻きつけ、ときどき手押しのそりにでも乗ったように波の斜面を滑り落ちていった。

オープン・ボート 15

スティーヴン・クレイン著

VII

記者がまた目を開けたときには、夜が明けかけており、海も空も灰色がかっていた。それから海面が深紅と金色に彩られた。とうとう夜が明けたのだ。空は真っ青で、波の一つ一つに朝日が反射し輝いていた。

遠くの砂浜には、黒っぽい小さな家がたくさんあって、その上に白い風車が高くそびえていた。人の姿はない。浜辺には犬も自転車も見えない。家々は見捨てられた村のようだった。

ボートの男たちは海岸をじっと目で探り、相談しあった。

「そうだな」と、船長がいった。「助けが来ないのなら、このまま波に乗って陸に向かったほうがいいかもしれんな。こんなところに長くいたら、いざというとき何かする体力も残ってないだろうし」 他の者はその意見を無言で受け入れた。ボートは陸を目ざした。あの高い風車の塔には誰も登っていないのだろうか、誰も海を見ていないのだろうかと、記者は思った。この塔は、アリの窮状に背を向けて立っている巨人という格好だった。記者には、苦闘しているちっぽけな人間どもにはそっぽを向いて平然としている自然、――ただ風が吹き荒れている自然というものを、いくぶんか人間の目に見える形で示しているように思えた。自然は残酷だとは思えなかった。といって慈悲深いわけでもなく、誠実でもないし賢明でもなく、そういうものではなくて、自然は無関心、彼らにまったく関心がないだけなのだ。こういう状況におかれた人間は、おそらくは宇宙が自分の境遇に無関心であることに強い印象を受けるあまり、人生において自分がおかしたたくさんのあやまちを思い起こし、いたたまれない思いで、もう一度チャンスがあればと願うのだ。この死に瀕した瞬間に自分の無知をさとり、物事の白黒なんてものはばからしいほど明白に思われて、もしもう一度やり直す機会が与えられたら、自分の言動を悔い改め、人に紹介されたり一緒にお茶を飲んだりするときにはもっとうまく明るくふるまおうと思ったりするのだろう。

「いいか、君たち」と船長がいった。「ボートはまちがいなく沈むだろう。私たちにできるのは、ボートが沈むのを遅らせることだけだ。沈んだら、ボートを離れて浜辺に向かうんだ。ボートが本当に沈んでしまうまでは、あわてて海に飛びこんだりするんじゃないぞ」

機関士が二本のオールを手にして、肩ごしに打ち寄せる波を見た。

「船長」と、彼はいった。「ボートの向きを変えて、沖に向けておいたほうがよいと思いますよ。そうしておいて、バックで陸の方へ進むんです」

「いいだろう、ビリー」と船長がいった。「船尾から行こう」 機関士はボートの向きを変えた。船尾に座っていた料理長と記者は、人気のない無関心な浜辺を見るには肩ごしに振り返らなければならなくなった。

巨大な波がボートを高く持ち上げた。岸に打ち寄せる一面の白波が斜面を駆け上がっていくのが見えた。「岸のすぐ近くまで沈まないで行くのは無理だろうな」と船長がいった。大波から目を離すことができるたびに、岸の方を凝視する。そうやって、じっと見つめている間、その目にはその者の本性があらわれるものだ。記者は他の連中を観察していたが、彼らはおそれてはいなかった。が、そのまなざしにこめられた真意までは読みとれなかった。

記者自身はといえば、とても疲れていたので、事実に基づいて物事の本質を把握することはできなかった。無理にでもそのことを考えようとしたが、このとき、彼の心は筋肉に支配されていて、筋肉はそんなことはどうでもいいといっていた。おぼれたりしたら、はずかしいだろうなと、ふと思っただけだった。

あわてふためいた言葉もなければ、蒼白な顔もなく、はっきりした動揺もなかった。男たちはただ浜辺を見つめていた。「いいか、飛びこんだら、できるだけボートから離れるようにしろよ」と船長がいった。

オープン・ボート 14

スティーヴン・クレイン著

 記者には今はもう兵士がはっきりと見えてきた。足をのばして砂の上に横たわり、じっと動かない。命が消えていくのを阻止しようとでもするかのように、青白い左腕を胸に載せているが、指の間から血が流れ出ていた。はるか遠くアルジェリアの地で、角ばった形をした市街地が、日没まぎわの淡い空を背景に低く見えている。記者はオールを動かしながら、兵士の唇の動きがだんだん遅くなるのを夢を見るように思い浮かべていたが、かつてないほど深く、完璧なまでに兵士の感情を理解できたことに心を動かされた。アルジェで横たわり死にかけている外人部隊の兵士に心からの共感をおぼえた。

 ボートを追ってじっと待っていたサメは、なかなか状況が進展しないので明らかに退屈したようだ。海面を切り裂く水音も聞こえなくなったし、夜光虫の長い航跡も消えていた。北方の光はまだかすかに見えていたが、ボートとの距離がせばまっていないのは明白だった。ドーンと岸に打ち寄せる波の音が、ときどき記者の耳に響く。そのたびに、ボートを沖に向けて必死に漕いだ。南の方では、誰かが明らかに浜辺でかがり火を焚いていた。とても低く遠くにあって直接それを目で見ることはできなかったが、その火が岸辺の崖に反射した光の揺らめきで、ボートから見わけることはできた。風が強くなり、ときどき、怒って背を丸めた山猫のように波が盛り上がっては激しく泡だった。

 船長は船首にいたが、上体を起こし、水がめに体をもたせかけた。「なんとも長い夜だな」と記者にいい、岸の方に目を向けた。「救援隊は時間がかかってるようだな」

「サメが周囲をうろついているの、見えました?」

「ああ、見た。でかいやつだったな、たしかに」

「船長が目をさましていらっしゃるとわかっていたら――」

 それから、記者は舟底に寝ている機関士に声をかけた。

「ビリー!」 ゆっくり動く気配があった。「ビリー、交代してくれるかい」

「了解」と、機関士がいった。

 舟底にたっぷりたまった冷たい海水につかって料理長の救命帯に体を寄せると、記者はすぐに歯をガチガチいわせながら眠りに落ちた。この眠りはとても心地よかったので、極度の疲労状態の最終段階といった調子の声で自分の名前を呼ばれたとき、眠っていたのはほんの一瞬だったような気がした。

「よう、代わってくれ」

「わかったよ、ビリー」

 北方の光はなぜか消えていたが、すっかり目をさましていた船長が方角を教えてくれた。

 その夜遅く、彼らはボートをさらに沖に出し、船長は船尾の料理長に、オール一本でボートをたえず沖に向けておくよう指示した。打ち寄せる波の音が聞こえるほど岸に近づいたら、料理長が大声で知らせることになった。この計画のおかげで機関士と記者は二人そろって少し休憩することができた。「若い連中の体力を回復させてやろうや」と船長がいってくれたので、機関士と記者は舟底で丸くなった。体を振るわせながら言葉を交わしたりもしたが、二人ともやがて死んだように眠りに落ちた。さっきのと同じか別のやつなのかはともかく、またサメが出現したことも知らなかった。

 ボートが波を乗りこえるたびに、水しぶきが舷側を超えて流れこみ、そのたびにずぶ濡れになったが、眠りをさますほどではなかった。不気味な風や海水もミイラに対して効果がないように影響はまるでなかった。

「おい」と、料理長が遠慮しいしいいった。「また陸にかなり近づいちまった。どっちか、また漕いで沖出ししてくれないか」 記者は上体を起こし、巻波がくずれ落ちる音を聞いた。

 漕いでいると、船長が彼にウイスキーと水をくれたので、寒さを感じなくなった。「もし私が上陸できて、誰かがオールの写真を見せでもしたら――」

やがてまた短い会話がかわされた。

「ビリー、ビリー、交代してくれるかい?」

「わかったよ」と、機関士が答えた。

オープン・ボート 13

スティーヴン・クレイン著

VI

「もしも俺がおぼれるとして――おぼれて死ぬかもしれないが――おぼれ死ぬとして、海を支配している七人の神様の名にかけて、俺はなぜこんな遠くまでやってきて、砂浜や木々をながめさせられているのだろうか?」

この暗く憂鬱な夜には、理不尽なほど不当であるとはいえ、本当に自分をおぼれさせようとするのが七人の神の真意なのだと思ったとしてもやむをえまい。懸命に努力し生きてきた者をおぼれさせるのは、たしかに理不尽きわまりない不当な行為だ。これは自然の摂理にそむく犯罪だと、彼は感じた。装飾した帆を持つ数多くのガレー船が出現して以来、これまでも他に大勢の人間が海でおぼれてはいるのだが、とはいえ――

自然というやつは、俺が溺死したとしても、たいしたことはないとみなし、俺みたいな人間を消したところで世界の完全性がそこなわれるわけではない感じているのだと思うと、彼はまず石でも拾って神殿に投げつけたいと思ったが、そういう石ころも神殿も周囲に存在していないので、くやしくて歯ぎしりしたいほどだった。母なる自然というものが目に見える形で近くに存在していれば、彼はそいつに向かって罵詈雑言の限りをつくしたことだろう。

自分の感情を吐露する目に見える対象がないのであれば、それを象徴するものに向かって膝まづき、両手をあわせ、「おっしゃるとおりです。でも、俺はまだ死にたくないんですよ」と命ごいすらしたかもしれない。

冬の夜、高い位置で冷たく光っている星は、自然が自分に向かって語りかける言葉だと、彼は感じた。そうして自分のおかれている絶望的な状況に思いいたるのだった。

ボートに乗った男たちは、こうした問題を実際に口に出して論じたりはしなかったが、疑いもなく、それぞれが黙ったまま自分の心に問うていた。疲れきった様子を示していたが、それを別にすれば彼らはめったに感情をあらわさなかった。会話はボートの操船に関することだけだった。

感情が音楽で示されるように、不思議なことに、ある詩がふいに記者の脳裏によみがえった。その詩を忘れていたことすら忘れていたが、いきなり心に浮かんできた。

外人部隊の兵士が一人、アルジェで倒れて死にかけていた。看護してくれる女はいないし、涙を流してくれる女もいなかった。だが、戦友の一人がそばに立っている。兵士はその手を握り、こういった。「自分は二度と祖国を、母国を見ることはないんだろうな」と。

彼は子供の頃、この外人部隊の兵士がアルジェで死にかけているという詩*1はよく知っていた。が、そこに描かれていることが重要だと思ったこともなかった。食事のときに、おおぜいの学友がその兵士の苦しみについて説明してくれたが、逆に彼はまったく関心がなくなってしまった。外人部隊の兵士がアルジェで重傷を負って死にかけているという出来事が自分の身に起きるとは思えなかったし、それが悲しいことだとも感じなかった。鉛筆の芯が折れたほども共感しなかった。

だが、不思議なことに、いまになって、それが人間として、生きている人間の問題としてよみがえってきた。その話はもはや、暖炉で暖をとりながらお茶を飲んでいる詩人が頭の中でつむいだ絵空事ではなくて、現実として、――過酷で悲しく、美しくもある現実として感じられたのだった。


脚注
*1:イギリスの社会改革家で著作家のキャロラインE.S.ノートン(1808年~1877年)による『ビンゲン・オン・ザ・ライン』という詩集に収録された詩の一節。
この兵士はドイツのビンゲン・アム・ラインの出身で、アルジェリアでの戦闘に外人部隊として参加し、瀕死の重傷を負ったとされる。

オープン・ボート 12

スティーヴン・クレイン

記者は漕ぎながら、足元で眠っている男二人を見おろした。料理長の腕は機関士の肩にまわされていた。服はやぶけ、疲れ切った顔をしていて、海に迷いこんだ二人の赤ん坊といった風だった。昔話にあった森に迷いこみ抱きあって死んでいたという赤ん坊を、奇怪な姿で再現したみたいな感じだ。

そのうち、彼はほとんど意識もなく漕いでいたに違いない。というのも、いきなり、うなるような波の音が聞こえたと思ったら、波がしらが音をたててボートに崩れ落ちたのだ。救命帯をまきつけた料理人が浮いて流されなかったのが不思議なくらいだった。料理長はそのまま眠っていたが、機関士は上体を起こし、目をぱちくりさせ、新たな寒さに震えていた。

「すまん、ビリー」と、記者は申し訳なさそうにいった。

「いいってことよ、坊や」というと、機関士はまた横になって眠った。

そのうち、船長もうとうとしているように思えた。大海原で、自分ひとりが漂流しているみたいだと、記者は思った。波の上を吹きすさぶ風の声は、なんともみじめな感じをいだかせた。

ボートの後方で、ヒューっと長くつづく音がした。黒い海で、夜光虫の放つ光が溝のように青い炎の航跡となってきらめいている。巨大なナイフで刻んだようだった。

それから静寂があった。記者は口を開けて息をし、海をながめた。

とつぜん、また別の風を切る音が聞こえたと思うと、さっきとは別の青みがかった光がさっと走った。今度はボートと並行に、オールを伸ばせば届きそうなくらいの近さだった。記者は巨大な影のようなひれが、透明感のある水しぶきをあげて海面を切り裂き、きらきら光る長い航跡を残していったのを見た。

彼は肩ごしに船長を見た。顔は隠れていたが、眠っているようだった。海の赤ん坊二人を見た。彼らも眠っているようだった。感情をわかちあう者が誰もいないので、記者は片側に少し体を寄せて海に向かって小さな声で毒づいた。

だが、そいつはボートの近くから離れなかった。船首や船尾にあらわれたかと思うと、右舷や左舷に出没し、その間隔も長かったり短かかったりしたが、きらきらと光る筋がさっと長く走り抜け、黒っぽいひれの風を切るヒューという音が聞こえた。そのスピードとパワーは感嘆すべきものだった。海面を、巨大な鋭い弾丸のように切り裂いていく。

じっと何かを待っているこいつの存在は、遊んでいるときに出会ってしまった人ほどの恐怖を彼には与えなかった。彼はただ海をぼんやり見つめ、低い声で毒づいただけだ。

とはいえ、本音では、こいつと一人で対峙するのは嫌だった。だれか仲間の一人が何かのはずみに目を覚まして、一緒に見守っていてほしかった。だが、船長は水がめにもたれかかって身動き一つしないし、機関士と料理長は舟底で爆睡しているのだった。

オープン・ボート 11

スティーヴン・クレイン

V

「パイだと」と、機関士と記者が怒ったようにいった。「そんな話するなよ、馬鹿野郎!」

「だってよ」と、料理長がいった。「ハムサンドのことを考えていたんだ。そしたら――」

海で甲板のない小舟に乗っていると、夜が長く感じられる。とうとう完全な闇が訪れ、南の海から射していた光が黄金色に変わった。北の水平線には、新しい光が一つ出現した。海面すれすれにある、小さな青っぽい光だ。この二つの光がボートをとりまいている世界で唯一の調度品だった。波のほかには何もなかった。

ボートでは二人が船尾で身を寄せ合っていた。ボートは小さいので、漕ぎ手はその仲間たちの体の下に足先を突っこんで少し暖をとることができた。逆に船尾の二人は漕ぎ座の方に足を伸ばしていたが、船首にいる船長の足まで届いていた。漕ぎ手は疲労困憊しながらも懸命に努力したが、ときどき波がボートにどっと入りこんだ。夜の、氷のように冷たい波だ。彼らはまたしても冷たい水でびしょぬれになった。彼らは一瞬、体をひねってうめき、また死んだように眠りこんだ。その間も、舟が揺れるのにあわせて、ボートにたまった水がパチャパチャと音を立てていた。

機関士と記者の計画では、一人が漕げなくなるまで漕いでから、水のたまった船底に横になっていたもう一人と交代するというものだった。

機関士は眠いのをがまんしてオールを動かしたが、目をあけていられないほど猛烈な睡魔に襲われ、前のめりに頭が垂れてくる。だが、それでもなお漕いだ。それから、舟底にいる男に触れて、彼の名前を呼んだ。「ちょっと交代してくれないか?」と静かにいった。

「わかったよ、ビリー」と記者が応じ、上体を起こして漕ぎ座に移った。二人は慎重に場所を入れ替わった。機関士は料理人に寄り添うように水のたまった舟底に体を横たえると、すぐに眠りに落ちたようだった。

海特有の荒天はおさまってきていた。巻き波はなくなった。ボートを漕ぐ者の義務はボートを転覆させないことと、波頭がボートを追いこしていくときに海水が中に入らないようにすることだった。黒い波は静かで、接近しても、暗闇ではほとんど見えなかった。漕ぎ手が気づく前に、波がボートに襲いかかるということも何度かあった。

記者は低い声で船長に話しかけた。船長が起きているのかわからなかったが、この鉄の男はいつでも覚醒しているように思えたのだ。「船長、ボートをあの北の光の方に向けておくんですね?」

船長はいつもの落ち着いた声で答えた。「そうだ。左舷から二点(22.5度)ほど離しておけ」

料理人は少しでも暖をとれるようにと、ぶかっこうなコルクの救命帯を体に巻きつけていた。漕ぎ手が交代のため漕ぐのをやめると、すぐに寒さで歯がガチガチ鳴ったものの、すぐに眠りに落ちた。料理人はストーブのように暖かかった。

オープン・ボート 10

スティーヴン・クレイン

低い陸地の上空がかすかに黄色みを帯びてきた。夕闇が少しずつ濃くなってくる。それにつれて風が冷たくなり、男たちは体をふるわせた。

「くそったれが!」と、一人がいらだっていった。「いつまで、こんな風にしてなきゃなんないんだ。一晩中こんな感じでいなきゃなんないのか」

「ま、一晩中ってことはないだろう! 心配いらねえよ。あいつら、俺たちを見たはずだし、もうじき、ここまで来るんじゃないか」

 岸の方は薄暗くなっていた。上着を振っていた男は徐々に薄暗い背景にまぎれていき、同様に乗合馬車や人の群れも見えにくくなった。

音も立てず波が舷側を乗りこえてきて水しぶきが舞った。ボートの男たちは、神を冒涜した罪で烙印を押される人々のように体を首をすくめ悪態をついた。

「上着を振っていた間抜け野郎をつかまえてやりたいよ。こんな風にびしょ濡れにしてやるんだ」

「なぜ。あいつが何をしたってんだ?」

「何もしてねえよ。だけど、人の不幸を見て、あんなにうれしそうにしてたじゃないか」

 そうこうしている間も、機関士はオールを漕いでいた。それから記者と交代し、さらにまた機関士が漕いだ。交代しながら、青ざめた顔で前屈みになって、鉛のように重く感じられるオールを漕いだ。灯台の姿は南の水平線に消えたが、青白い星がひとつ、海から昇ってきた。西の方のまだらなサフラン色の空は、すべてを飲みこんでしまう闇の前に消えてしまった。東の海は漆黒だった。陸地は見えず、打ち寄せる波の低く単調な音だけが陸の存在を示していた。

「俺がおぼれるとしたら――もしもおぼれるとしたら――万が一にも俺が溺死するとしたら、海を支配している狂った七人の神の名にかけて、いったい何だって俺はこんな遠くまで来て、砂浜や木々をじっと見つめさせられてるんだ? さあ人生を楽しもうとした矢先に、鼻面を引きまわされてこんなところまでつれて来られるって、なんなんだよ」

忍耐強い船長は、水がめをのぞきこむように体を預け、オールを漕いでいる連中にときおり意識して声をかけていた。

「船首は風上に向けておけ、風上に向けるんだ」 その声は疲れていて低かった。

本当に静かな夜だった。漕ぎ手をのぞく全員がボートの舟底にぐったりと横たわり、ぼんやりしていた。漕ぎ手はといえば、ときどき波頭を抑えつけられるようなうなり音が聞こえる以外には、高く黒い波が不気味なほど静かに押し寄せてくるのが見えるだけだった。

料理長は頭を漕ぎ座に載せていたが、眼下の海水を興味もなく見つめていた。彼は他のことに集中していた。そうして口を開いた。「ビリー」と、夢でも見ているように、つぶやく。「一番好きなのは、どんなパイだい?」