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ジョン・マクレガー著

リエージュでやっとアバディーン伯爵と合流した。計画では、これよりずっと前に一緒になるはずだった。彼も今回の航海用にカヌーを新造していた。ぼくのロブ・ロイ・カヌーより一フィート長く、幅は二インチ細かった。一番の違いは、船体に頑丈なオーク材ではなくモミの木を使ってあることだ。そのカヌーはロンドンからリエージュまで送られてきていたが、輸送中にデッキを縁どりしているコーミングが破損していた。それで、家具職人のところに持ち込み、数時間かけて修理してもらった。

ぼくらはカヌーを川に浮かべた。見送る人はなく、真夏の太陽が照りつけるなかで、リエージュを後にした。

これで、今回の旅も気の合う二人連れとなった。それぞれが自分のカヌーに乗り、とても楽しかった。ときどき帆を揚げてセーリングを楽しんだり、一、二マイルをパドルで漕いだり、互いに助けあって堰(せき)をこえたり、川沿いの土手からカヌーを引いて歩いたりした。*2

原注2:この後も何度かやってみたのだが、ずっと座りっぱなしでいるのが苦痛になってきたときには、カヌーを引いて歩くのもありだと思う。連続して十時間とか十二時間とか、ずっと座りっぱなしだったりすると、カヌーを降りて歩きながら引いていくのもそう悪くない。とはいえ、カヌーの旅になれてくると、ゆったりとくつろいだ状態で長時間をカヌーの床板に座っていても平気になってくる(マットやクッションは不要だ)。それに、条件のよい川では、カヌーを降りて気分転換する必要もない。ぼくのカヌーは非常に軽量だったので、運河では小指一本で引いていくこともできたが、引いて歩くよりは、漕ぎ疲れて腕が痛いときでも川を漕いで下った方が早いのは間違いない。

川では、互いに自分が面白いと思う流れのところを進むようにした。川幅が広いと、かなり離れたところから会話をかわしたりするので、その声に土手にいる地元の人々が驚いたりした。というのも、会話している片方の姿は見えるのに、その相手はとなると、川岸の草や丈の高いスゲに隠れて見えないので、なにやら独り言を大声で叫んでいる変なやつ、となる。こういう風に大きな声で話をしていると、大声で歌をうたっているような感じがしてくる。合唱しているようなものだが、単にハモるよりずっとエネルギーに満ちていて、自由にやっていいというと、ぼくらのような根っからのイギリス人はすぐに一つになって常軌を逸した躁状態になる。

八月の真昼の日射しはすさまじく、そうした元気もしまいにはなくなってきた。それで、とある村で食事をしようと上陸した。

食事をすませてカヌーに戻ったとき、川で鋭い叫び声が聞こえたので、そっちを振り返った。叫び声の主は小さな男の子で、どうやら川に落ちたらしい。流れのなかで必死に大きな荷船にしがみつこうとしている。当然のことながら、ぼくは救助に向かった。カヌーで一直線にすっとんでいき、ずぶ濡れの不運な子供をカヌーの細い船尾につかまらせた。その子は叫んだりもがいたりしていたが、ともかく無事に荷船に引き上げられたのだった。

ベルギーやドイツ、フランスの川では、そのほとんどに、川に浮かべた立派な水浴び場がある。これはとても便利な設備で、イギリス人も外国で水浴びする人はとても多いのに、悲しいかな、イギリス本国にはまだない。

この水浴び場は川岸に係留されている。百フィート(約三十メートル)ほどの木の枠組みに、柱やチェーンや金属網を組み合わせた生け簀(いけす)のような構造で、人為的に作った川底には浅いところから深いところへと傾斜がつけてあり、水浴び中に川下に流されてしまうこともない。こうした簡易プールの周囲には浴槽のようなボックスや階段、ハシゴがあり、技量に応じた飛びこみ板もある。現在では、ロンドンにも一カ所できている。

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ジョン・マクレガー著

美しくて幅も広い川で、流れも早く水深もあり、しかも追い風が吹いているという状況では、帆走も楽ちんだ。通りすがりの小型の蒸気船に近づくと、舷窓ごしに小銭をくれたり、コップについだビールを差し入れてくれたりした。乗客たちはぼくらに驚き、笑ったり、あれこれ言いあったりしていたが、なかには、この、どうみても惨めな英国人を見て「笑ったりするのは不作法では?」と懸命にしかめっ面をしている人もいた。

今度の航海では、こうしたかぞえきれないほどの、ちょっとした出来事が次々に起きた。そういうことはすべて、岸辺での出会いとはまるで違っている。ウイという地名の砦まで来たところで一日目の予定が終了したのだが、絵に描いたような、まったく新しい体験はこうしてはじまったのだった。

カヌーは夜間には馬車置き場に保管してもらった。翌朝見るとカヌーに問題はなく、馬具をかける釘に引っかけて干していた帆はまだ半乾きだった。が、厩務員やその仲間の連中がどこにもいなかった。皆、ある偉大な音楽家の長い葬列に参加していたのだ。その音楽家の名前も、ウイという地名についても、それまで聞いたことがなかったのだが、死んだ音楽家はウイに住んでいて、五十歳だったという。ウイについては、巻末の地図に掲載してある。

はじめての川をのんびり下っていく楽しみというのは、なんとも独特で魅力的なものだ。少し進むごとに新奇なものが見えてくるか、わくわくするようなことが始まるのだ。こっちでツルが舞い上がったかと思うと、向こうではアヒルが羽をばたばたさせていたりする。カヌーの脇でマスが跳ねて水しぶきをあげたりするし、川の湾曲部を曲がるときには、岩場を流れ落ちる水音が用心するよう警告してくれる。いきなり水車用の水路が出現することもある。こうしたことすべてが――風景や川沿いに住む人々や天候に加えて、難所に出くわしても何とか先へ進もうと決意したり、カヌーを無人の原野に放置できないので、なんとか暗くなる前に人家のあるところまでたどり着こうと思ったり、昼食を入れるはずのバッグはずっと空っぽだったりという――こうしたことすべてが、馬車にゆられて百マイルの旅をしているときには居眠りしていびきをかいていたはずの旅人の心に緊張感をみなぎらせてくれるのだ。

人生という旅と同じように、悩みや困難も、それ自体がそれぞれ人生について教えてくれる。人生がすべて、一直線の運河で曳航される船に乗っているようなものだったら、どうしたって緊張感も失われるし、ボーッとしたまますごしてしまうだろう。カヌーの旅では、浅瀬や岩場や渦が魂をゆさぶるような試練となって襲いかかるので、波を受けて激しく上下動したりすることのない大型帆船の旅では、小さなカヌーでなんとか無事に港までたどり着けたときの、あの、ほっとした気持ちを半分も味わえないだろう。

川の流れはすぐに早くなり、生命があるようにリズミカルになった。必死で漕いだので、お腹もすいた。いきなり木々が前方に出現し、どんどん高くなってくる。が、実際には、ぼくの方から林に向かって突っ走っているのだ。川岸では、感じのよい村々が、ぼくに会いに来るように、ゆっくり動いている。夢のなかの絵のように、すべての生命が一つになって穏やかに滑っていく。はるか遠くで何か音がしているが、気になるほどではなく、ごみごみもしていない。突然に何かが起きたり、けたたましい物音が聞こえたりすることもない。自分が動いているのではなく、つねに他の物が動いているようだった。州都のリエージュに近づくにつれて、さすがに街の喧騒が聞こえてきた。そこでは高速船スラン号を見た。両舷で水をかいて推進していた。その蒸気船の引き波で、カヌーは激しくゆれた。その波は船着き場の中まで追いかけてきた。着くとすぐにカヌーを陸揚げし、庭のようなところに置いた。夜間はそこに保管するのだ。

リエージュは、いたるところ銃だらけだった。この地では、だれもかれもが銃を作ったり携帯したり発砲したりしていた。背中にライフルを背負った女性さえいたが、ライフル一丁の重さは十ポンドもある。市場にはたくさんの果物が並んでいたし、訪ねてみる価値が十分にある教会も存在しているものの、この地のイメージは結局は銃だった。

だが、旅で目撃した町々の様子をこと細かに表現することがぼくの目的ではない。リエージュについては何年も前に訪ねたことがあるし、実際にこの航海記で取り上げる町のほとんどは、はじめての場所ではない。だから、今度の航海の魅力がどこにあるかといえば、知らない土地に行くことではなく、すでに知っている土地を新しい視点で眺めてみるというところにあるのだ。

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ジョン・マクレガー著

シーアネスからドーバーまで鉄道でカヌーを運ぶことにした。機関車の燃料となる石炭を積んだ貨車の上に積むしかなかったが、土砂降りの雨が降りだし、風も強くなったので、蒸気機関から出る火花が大量にカヌーにも吹き込んでしまう。それで、カヌーは大型のスーツケースみたいなものだからと頼み込んで、なんとか貨物車に積むことができた。今度の長旅は、こんな風にして始まった。

ロンドン・チャタム・ドーバー鉄道会社は、この新種の「箱」を乗客の手荷物として取り扱ってくれたので、追加料金を支払う必要はなかった。ベルギーのオステンドまでの船旅でも、汽船会社は同じように寛大に取り扱ってくれた。というわけで、イギリスのカヌーイストが大陸に渡る際には「このコースがお勧め」だ。

ベルギーに渡航する前、ドーバーに一日滞在した。必要な物資を買い入れ、カヌーで使うジブ(前帆)を腕の良い職人に仕上げてもらった。ドーバーでは、カヌーを緑色の海に浮かべ、埠頭の先端付近の、波が打ち寄せているあたりで試走を兼ねてカヌーを漕いでもみた。ベルギーのオステンドでも、押し寄せてくるうねりに乗ってみたり、巻き波や堤防の砕け波の近くで漕いでみたりもした。オステンドでは、風はドーバーほどではなかったが、引き潮が強くて波も高かった。浅いところでは、太った海水浴客たちがパチャパチャやっていた。アヒルのようにすいすい泳いでいる人もいた。妙な服を着せられ、波で体が上下するたびに泣き叫んでいる子供たちもいて、大人たちは大喜びしていた。そうした光景を横目で見ながら、幅が広くて直線上の運河で帆を揚げて静かに進んでみたりした。

そこからまた汽車に乗ったのだが、鉄道会社にかけあって事情を説明すると、カヌーを貨物車で運ぶことに同意してくれた。ブリュッセルまでの「超過貨物」分の料金として一フランか二フラン払った。ブリュッセルでは、カヌーを荷車に載せ替え、街なかを突っ切って別の駅まで運んだ。夕方にはナミュールに着いた。ここでは夜の保管場所として宿の主人が空き部屋を提供してくれたので、椅子を二つ並べてカヌーを載せておいた。

翌朝、ポーター二人に担いでもらって市街地を抜け、サンブル川でカヌーを漕いだが、漕ぎ下るというほどのこともなく、すぐにムーズ川*1に合流した。

きらめく川面に光輝く太陽、小さく可憐なカヌー、うきうきする心、積みこみ終わった荷物たち、速い川の流れ──こういうものを、だれが徒歩や鉄道や汽船や馬の旅と交換しようと思うだろうか?

こういう航海の最初の段階では、快適な流れがあれば、それで十分に満足できる。岩や急流の魅力についてはまだよくわかっていないからだ。川旅では、川にいるというだけで目新しいことの連続なのだから、初めのうちはこのムーズ川のように静かで、のんびりできる、ちゃんとした川を選ぶべきだ。川岸は水辺から見るとおとなしい感じだが、流れの中央に出てみると新鮮な景色がひろがっている。普通の旅行では車窓に見えている風景が、川の上では自分を中心に一気に拡大し、前方から押し寄せてくるのだ。川に浮かんで穏やかに揺れていると、景色はこっちでは大きくなり、あっちではまた新しくなって、次から次へと自分に向かって迫ってくる。

最初の浅瀬では、ぼくは慎重の上にも慎重を期した。カヌーから降り、手にかかえて渡ったのだ。それからひと月もすると、こういう浅瀬があっても平気で突っこんで舟底を小石でがりがりこすりながら突っ切ったりするようになってしまった。とはいえ、この最初の障害物に遭遇したときは心細くて、どうやって乗りこえようかと思案したものだ。そのとき、うまい具合に男が一人やってきて(ま、たいていはそうなるんだが)、二ペンス払うというと、喜んでカヌーを抱えて陸上を迂回するのを手伝ってくれた。それで、またカヌーに飛び乗ったわけだ。

脚注
*1 ムーズ川 - フランス北東部からベルギー、オランダを経て北海へとそそぐ全長950キロメートルの川(オランダではムース川ともいう)。

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ジョン・マクレガー著

帆を揚げて進んでいくと、だんだん川幅が広くなり、川の水も塩からくなってきた。ぼくはこの界隈の地形についてはよく知っていた。以前、ケント号という小さなかわいいヨットに犬を一匹乗せ、海図に方位磁石とヤカン一個を積んで、テムズ川の河口付近を二週間ほど航海したことがあったのだ。

蒸気船のアレクサンドラ号がやってきた。階段状になったアメリカ式の高いデッキには大勢の人々がいて、この小さなカヌーに歓声をあげてくれた。ぼくらの航海が新聞に掲載されていたのだ。もうここまで来ると、両岸は遠くかすんだ青色になり、川というよりは海という感じになってきた。ノールまで来ると、イルカの大群に遭遇した。悪さをするわけではなく、すばしっこく動きまわる愉快な連中だ。これまでイルカがこれほど近くに寄ってきたことはなかった。カヌーがあまりにも小さいので、シャイで利口なイルカたちにとっても、それほど警戒すべき相手とは見えないのだろう。カヌーは波を乗りこえるたびに揺れたし、イルカたちはパドルが届きそうなところまで何度も近寄ってきたが、追い払ったりはしなかった。連中に尾で一撃されれば、こっちの方がすぐにひっくり返ってしまうからだ。

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マクレガー本人が描いたセーリングカヌーでの航海の様子

サウスエンドまで快適なセーリングだった。それから豪雨になったので帆をおろし、シューバーイネスまでパドルを漕いだ。砲兵隊の野営地に数日滞在する予定にしていた。第一回の射撃競技のために全国各地から集結しているのだった。

英国陸軍砲兵隊は、ぼくらのようなこのイベントの志願兵を丁重に遇してくれた。将校の四分の一が砲兵隊の全国会議に出かけていて留守だったので、余計な気を使わずにすんだ。とはいえ、この野営地は低湿地に作られていて、あちこちぬかるんでいた。ヨークシャーやサマセットやアバディーンなどからやって来た、六十八ポンド砲を扱う頑健で背の高い男たちも、ぬかるみで苦労していた。彼らは分厚いブーツをはき、ユーモアもあった。小雨が降り続くなか、キャンプファイアを取り囲んで歌をうたったりした。翌日は標的に向けて砲撃した。彼らは正真正銘の志願兵だった。

風がちょっとした嵐くらいに強くなってきたので、荒れた海域でカヌーの耐航性を徹底的にためしてみる絶好の機会のように思えた。ひっくりかえって岸に打ち上げられでもしたらカヌーは損傷するだろうし、ぼくも泳いだ上に服も着替えなければならなくなるだろう。

このロブ・ロイ・カヌーの浮力には、あらためて驚かされた。安定性が失われることもなかった。波と波の合間に、マストを立てて帆を揚げることもできた。この実験ではカヌーに荷物を積まなかったので、びしょ濡れになってもまるで気にならなかった。あらゆることを試し、あれこれやってみて、これなら大丈夫だと確信が持てた。

翌朝早く、出発した。向かい風だったので、サウスエンドまで大荒れの海でパドルを漕いた。着いてから服を乾かしたが、乾くまで水浴びを楽しんだ。水温はぬるかった。そこでカヌーを汽車に積みこみ、サウスエンドの埠頭からは列車の旅となったのだった。

テムズ川では、新しいのや古いの、豪華なものなど、いろんな種類の船を目撃することができるが、ぼくらのカヌーは驚くほど人々の興味と好奇心をかき立てた。その理由については特定できない。海に出ていく船としてはあまりに小さいことに驚く人々もいたし、パドルの漕ぎ方が従来の方法とは違っているので、それにびっくりする人もいた。帆を揚げていると、多くの人が面白がってくれた。ロブ・ロイ・カヌーの優美な形が気に入ったという人もいれば、ヒマラヤスギを張ったデッキや小粋な旗に感心する人もいた。多くの人は船長たるぼくの服装をじっと見つめ、「どこへ行くんだい?」と聞き、その後でもまだ、こっちをじっと見つめていたりしていた。ぼくもたいてい「本当のところ、自分でもよくわからないんですよ」と答えたりした。

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ジョン・マクレガー著

第2章

満潮を利用し、喜び勇んで出発した。ウェストミンスター橋をカヌーでくぐり抜け、あっという間にブラックフライヤーズ橋も通過した。よどみではカヌーに乗って波とたわむれた。実際のテムズ川は豆のスープのような色をしているが、このときは朝日をあびて、どこもかしこも金色に光っていた。

グリニッジ付近では、いい風が吹いた。さっそく新品の真っ白な帆に風を受けた。心が浮き立つような波きり音をたて、軽やかに帆走する。蒸気船や外航船、ごつくて小さいタグボートやずんぐりむっくりの大きな荷船で、テムズ川は活気にあふれていた。行きかう船の乗員たちと何度も会話をかわす。こうやって出発したからには、これからは来る日も来る日も、川で暮らしている人々と、英語やフランス語、オランダ語、ドイツ語や他のいろんな方言で話をすることになるだろう。

ユーモアという点では、荷船の連中は気さくで冗談好きだが、言葉づかいは乱暴だ。たいていは「よお、そこのお二人さん!」とか「ちっちゃい舟だな?」とか「保険に入ってるかい、大将?」という台詞(せりふ)ではじまるのだが、ぼくは誰にでも笑顔を見せてうなづくようにしていた。川や湖で出会った人たちは皆、親切だった。

パーフリート周辺はとてもきれいだったので、よく見ようと一、二回タッキング*1で方向転換し、そこにあるすてきなホテルに泊まろうと決めた。出発するならここからがおすすめだ。

カヌーに乗ったまま、うっとりしていると、一匹のアブが手にとまった。みるみるうちに腕が腫れあがってしまった。夜には腕に湿布をし、翌日は包帯で腕を吊って教会に行ったほどだったが、これは村の日曜学校でちょっとした話題になった。川や沼地ではカエルがよく鳴いているので、人なつっこい動物ではなく、餌になるようなハチやアブやブヨがたくさんいるだろうと予測はしていたものの、カヌーの航海で実際に虫に悩まされたのは、これがはじめてだった。

パーフリートの静かな小さい教会に入ると、一人の高齢の紳士が扉のところで倒れて死んでいた。何か悪いことの前兆だろうか。

パーフリートでは、コーンウォール感化院の船が係留されていた。岸辺を散歩している少年たちもいる。そろいの服を着て、礼儀正しかった。この興味深い船の船長が親切にもぼくを船に迎え入れてくれて、夕方の礼拝はいつまでも忘れられないものとなった。

古いフリゲート艦の主甲板には百人ほどの少年たちが列を作って座っていた。開いた窓の下には夕日に赤く染まった川面が見え、夕方の心地よい冷たい風が吹いている。少年たちはオルガンの伴奏で賛美歌をうたった。気持ちのこもった、いい感じの音楽だった。船長がこの雰囲気にぴったりの一節を朗読し、祈りが捧げられた。かつて路上生活をしていた、このかわいそうな少年たちのために力を貸して祈ろう。社会が意図的ではないにしても彼らを放置してきたことに比べれば、彼らが社会に対して抱いている感情はすばらしいとしかいいようがない。

翌朝、干し草保存用の屋根裏部屋からカヌーを下ろした。カヌーはそこで安全に保管されていた。これから先、ぼくのカヌーはいろんな奇妙な場所で保管されることになるだろう!

グレーブスエンドで必需品を積み込み、カヌーを川面に浮かべた。潮に乗り、タバコを一服する。ようやく出発したんだなという実感がわいてくる。ここから不思議な魅力的でもある自由と目新しい体験が始まったが、これは航海の最後までとぎれることなく続いた。

リュックサックを背負ってはじめてどこか遠くへと足を向けるときや、一人でヨットに乗って長距離航海に出かけるときに、こういう感覚を感じることがある。

だが、徒歩の旅では海や川に出くわすと、そこで行きどまりだ。ヨットで航海したとしても、浅瀬や岸辺には近づけない。そこでカヌーの出番になる。カヌーは漕いでよし、帆走してよし、陸にあげて運搬してもよしというわけで、陸からでも海からでもローマに行けるし、本人が希望すれば香港にまでだって行けてしまうのだ。

脚注
*1:タッキング - ヨットで帆に風を受ける向きを右舷から左舷へ/左舷から右舷へ変える方法の一つ。船首を風上に向け、風軸(風の吹いてくる方向)をこえることをタッキング(略してタック)、船首を風下に向けて帆走しながら方向を変えることをジャイビング(略してジャイブ)という。

ヨーロッパをカヌーで旅する 3

ジョン・マクレガー著

長い間ずっと観光地から観光地へという団体旅行を繰り返していても十分に楽しいという人はいる。もう一歩踏みこんだ旅がしたいと思う人々は、ブラッドショー版のこみいった鉄道時刻表を眺めながら旅のプランを練り、大型スーツケースやバッグに帽子を入れる箱やステッキ持参で、お仕着せではない旅を楽しむわけだが、夜汽車で海外に到着するときには、あれこれ手配する必要があるし、知らない町でどのバスに乗るかも決めなければならない。ほっとできるのはホテルの寝室にたどり着いたときで、ため息まじりに「やれやれ、どうやら無事に着いたぞ!」と叫ぶわけだ。

だが、山々や洞窟、教会や美術館、廃墟や戦場をたっぷり見てまわり、経験を重ね、いろんなことを学んでくると、旅では楽しみよりも心配が先に立つようになり、以前に駆け足でながめてまわった国々での自然の景観やその地の人々の生活をもっと知りたいと思ったりするようになる。

ヨーロッパ大陸の大小の河川はイギリスの旅行者にはほとんど知られていないし、その美しさや流域の生活すべてをきちんと見てまわった人もいない。

ガイドブックをなぞって町から町へと移動する旅で、旅行者はこうした河川を渡ってはいるし、水辺の景色に感嘆もいるのだが、それきり忘れてしまう。また蒸気船に乗って夕方まで堂々とした大河を下ったり、川沿いに走っている鉄道に揺られて汽笛を聴きながらトンネルとトンネルの間で愛らしい川をちらっと眺めたりすることもあるが、そういうものはすぐに通りすぎてしまう。

だが、豊かで美しい風景は、旅行者には関係なくそこに存在していて、新鮮で宝石のような生活や人々が、訪れてくれる人を待っているのだ。そういうところは地図に描かれていないし、ラベルもなく、どんなハンドブックにも掲載されていない。そういう宝に遭遇する喜びは、そのためにエネルギーをついやす勇気を持つ旅行者のみに与えられるのだ。

ぼくらはカヌーに荷物を積みこみ、この川という新しい世界の旅に出ることにした。こうしたことすべてがそろってはじめて「人間とその苦闘の物語」*1になる。

ところで、服装はどうだったか、説明しておこう。

今回の旅でのぼくの服装といえば、カヌーに乗っているときは、灰色のフランネル地のスーツを着ていた。また別に買い物や日曜に着て出かけるような普通の軽装の服も持っていた。

「ノーフォーク・ジャケット」は、ブラウスのようなゆったりとしたフロックコートで、肩にトレンチコートのようなヨーク、腰にベルトがついていて、ポケットが六個もある(原注3)。このすばらしい新流行のコートのポケットそれぞれに何か品物を入れ、ケンブリッジの麦わら帽子、キャンバス生地の渡渉靴、青い眼鏡、防水のオーバーコートを用意し、加えて、日よけ代わりにも使える予備の前帆(ジブ)があれば、雨でも晴れでも、深みでも浅瀬でも、空腹でも退屈していても、きっと旅の一日を存分に楽しむことができる。

まず四時間ほど漕ぎ、休憩したり流れにまかせて漂ったり、本を読んだり帆走したりする。その後でまた三時間まじめに漕ぐ。それから、川で泳いだり宿屋で入浴して着替えたり、散歩を楽しむ。そうやって夕方にはまた気分を一新し、うまい食事に舌鼓をうちながらバカ話で盛り上がったり、本を読んだり、絵を描いたり、手紙を書いたりしてから寝るというわけだ。

イギリスが選挙で盛り上がり、国会議員が座席を奪い合い、弁護士が忙しそうに駆けずりまわり、ウインブルドンで最後の議席が決まる七月末には、旅の用意はすべて整い、気温も十分に暑くなっていた。さあ、ロブ・ロイ・カヌーで旅に出るときだ。


原注3
二度目、三度目、四度目の航海にも、これと同じ服装で出かけたが、ボタン一個欠けることはなかった。

 

訳注
*1:人間とその苦闘の物語 - ローマ時代のラテン語の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』の一節をもじったもの

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ジョン・マクレガー著

ここで紹介するのは、そういったカヌーを使った旅の最初のものだが、ほかにも多くの人々が後に続いている。ロイヤル・カヌークラブが刊行している「カヌーイスト」には、そういう人々の一覧が掲載されている。このクラブの会長は英国皇太子で、世界中に六百名の会員がいる。

ぼくが名づけたロブ・ロイ・カヌー*1はオーク材で作ってあるが、デッキ部分にはヒマラヤスギを使った。大きさはドイツの鉄道の貨物車に搭載できるサイズに抑えた。つまり、全長十五フィート(約四・五メートル)、幅二十八インチ(約七十一センチ)、高さ九インチ(約二十三センチ)で、重さは八十ポンド(約三十六キロ)だ。三カ月の旅に必要な荷物は、三十センチ四方で深さ十五センチの黒い袋一個にまとめた。パドルは長さ七フィート(約二・一メートル)で、両端に水をかくブレードがついている。帆走用の帆は四角形の縦帆(ラグセイル)と三角の前帆(ジブ)の二枚。装飾といえるのは、きれいなブルーの絹でできた英国国旗だけだ(原注1)。

この小さなカヌーを手に入れてから、これでどこへ行けるのか、どの川を漕ぐことができるのか、景色がきれいなところはどこなのかを調べるのは、けっこう大変だった。

ロンドンで調べてまわったが、ろくな成果はなかった。パリのボートクラブですら、フランスの川のことについて何も知らなかった。むろん連中はライン川のことは知っているのだが、それはそこがドイツとの国境だというだけのことで、ライン川から先では、ぼくの旅は未知の発見をする航海になるはずだ。だから、この旅が休暇をカヌーに乗ってすごそうという多くの人々にとってのよい刺激になればと思うのと同時に、似たようなカヌーの旅をする人が遭遇するであろうトラブルを減らすことにつながればとも願っている(原注2)。

とはいえ、何も川下りの「ハンドブック」を作ろうってわけじゃない。楽しいことをしようという意欲にあふれた者は、地図にちゃんと載っている川や水路図誌が整備された運河だけを旅することからは、いずれ足が遠のくんじゃないだろうか。たとえば『モーゼル川上流域案内図』から抜粋したものを次に引用するが、こういう、こと細かにびっしり書きこまれた案内書に黙々と従うのではなく、過酷な荒野で、夏でも快適にすごせる装備を持ち、自由きままな旅を夢見てはどうだろうか。その手のガイドブックから実際に引用してみると、

(一) 「右に曲がり、小川を渡り、幅が広く急な森の小道をアルバースバッハの集落まで登る(約40分)。集落は緑濃い草原にある。5分もすると十字路に着く。そこからは「I**」に通じる道を進むこと。10分で低地にある「r**」に着くが、そこに製粉工場がある。さらに10分進み、「r**」へのゲートを抜けると、3分で「I**」に至る踏み分け道になるが、それは礼拝堂に通じている。15分もすると、森へと続く砂利道は登りになる」
(某ライン川ガイドブック、94ページ)

むろん、この手のガイドブックをバカにして笑うつもりはない。旅人にとってはしっかりした道案内として役に立つし、作家にとって有益なこともあるだろう。旅をはじめたばかりのころは、すべてをスムーズに楽に行いたいものだし、荷物を蒸気船や汽車で運搬し、イギリスからの客が多いホテルに宿泊して馬に乗ったり歩いたり、あなたが何を食べたいのか何を見たいのか、何をしたいのかをよく知っている人々と一緒になって移動していくためには、そういうガイドブックが必要だし親切でもあるのだから。


原注1: 今回の航海を終えた後、筆者はもっと短くて幅も狭い改良型を作った(名前は同じロブ・ロイだ)。そのカヌーでスウェーデンやノルウェー、デンマーク、ドイツのホルシュタイン地方や各地の河川を航海した。

 

その旅の記録は『バルト海の航海』(未訳)にまとめてある。こういうカヌーの改良についても、木版画の挿絵とあわせて、その本に記載しておいた。三隻目のカヌーは六カ月間の航海中にカヌーの内側にもぐりこんで眠れるようにしたが、それについての詳しい説明は『ヨルダン、ナイル、紅海、ゲネサレでのロブ・ロイ』(未訳)に記載した。これはパレスチナやエジプトおよびダマスカスの河川や海でカヌーを漕いだ旅の記録である。四番目のカヌーは、オランダのゾイデル海や周辺の島々、フリースラントの海岸で使用した。一番新しいロブ・ロイ・カヌー(七隻目)は、スコットランドの北にあるシェットランド諸島やオークニー諸島、それにスコットランドの湖で漕いでみた。

 

原注2:ドイツやオーストリアの最良の地図にも誤りがあった。川ぞいにあるとされた村を、ぼくは一マイルも離れた森の中で見つけたし、自分のボートから離れないぞと決意した者には(立派な決心だ)役に立たなかった。

 

訳注*1:ロブ・ロイはロバート・ロイの略称で、ジョン・マクレガーが故郷スコットランドの英雄のロバート・ロイ・マグレガー(こちらはマグレガーとにごる)にちなんで名づけたとされる。

robroycanue筆者自身の挿絵から

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ヨーロッパをカヌーで旅する  1

 ジョン・マクレガー(1825年~1892年)はスコットランド出身の冒険家、旅行作家、慈善活動家。
現代のカヤックの原型ともいえるロブ・ロイ・カヌーを設計・製作し、実際にヨーロッパやアメリカ、エジプトなどでそれを使って航海した。本書を含む彼の航海記(三冊)は当時の欧米で大評判となった。
イギリスのロイヤル・カヌー・クラブ(RCC)やアメリカン・カヌー協会(ACA)の創立者でもあり、現代のカヌー/カヤック(を利用した旅、カヌーツーリング)の生みの親ともいえる。
いわば釣りにおけるアイザック・ウォルトン(釣魚大全の著者)のような存在ともいえる。
『宝島』などで知られる若き日のスティーヴンソンも、マクレガーのカヌーを使った航海に触発され、カヌーでヨーロッパの川や運河を旅している。

ヨーロッパをカヌーで旅する

ジョン・マクレガー著
明瀬和弘訳

第一章

ある日のこと、ぼくは列車の事故で客車の座席の下に投げ出され、ちぎれた電信線にからまってしまった。そのためライフルで射撃しようとすると手が震えるようになった。遠く離れたところにいる雄牛の目を狙うのは無理になったが、ぼくはまた少年の頃のように喜々として水辺の生活に戻ろうと、寝床でカヌーを使った新しい航海を夢見たり、どういう舟にしようかと計画を練ったりしたのだった。

川を利用する内陸の旅で、手こぎボートが役に立たないのははっきりしている。なぜか。舟旅に絶好の川でも、自然の河川はオールで漕ぐには川幅が狭すぎたり、逆に広くて水深が浅すぎたりするのだ。まがりくねっていたり、岩や瀬があったり、水草や水没した木、水車用の堰(せき)や障害物も存在している。倒木や急流もあれば渦をまいているところもある。山間部を縫ってくねくねと流れている川には、必ずといっていいくらい滝があったもする。そういう場所は野性味たっぷりで、とても手こぎボートで近づけるようなところではない。また三角波で水浸しになったり、肉眼で見てもわからない水面下に隠れている岩で転覆することもある。

ところが、オールを使った手こぎボートを悩ますこうした状況そのものが、逆にカヌーに乗った旅人にとってはうれしい刺激になってくれるのだ。カヌーでは、漕ぎ手は後ろではなく前方を見ている。自分がたどるコースや両岸の景色もすべて目に見える。障害物があっても、パドルをひとかきすれば脇をすり抜けていくことができる。狭い場所でもこまかな位置の調整ができるし、アシや水草が生い茂っていたり木の枝や草があっても楽に通り抜けることができる。体を動かさず帆を張って進むこともできる。川底につかえたとしても、パドルで押しながら進めるし、あぶないところでは用心して舟を降りたっていい。浅瀬では舟を引きながら徒渉し、草原や生け垣、堤や障害物や壁があっても、乾いた土の上を引きずって進むことだって可能だ。ハシゴや階段では手で押し上げればよいし、高い山々や広い平原では、カヌーを荷車にのせて人が引いたり馬や牛に引かせたりして乗りこえることもできる。

こうしたことすべてに加えて、カヌーにはデッキをおおうカバーがついている*1ので、無甲板のボートよりはるかに耐航性がある。深くよどんだ場所でも水門でも水車用の水路でも、平気で乗り入れることができる。大海原の激しい磯波や川の急流でも、水はデッキの上を流れていき、カヌーの内側はいつも乾いている。

また、カヌーは座る位置が低く、体を移動させる必要がなく、パドルを失うこともない。手こぎボートよりも安全だ。何日も何週間も自力で長時間を漕いで移動し続けるということに関しては、背もたれにもたれることもできるので問題はない。パドルを膝に載せて肘掛け椅子に座っているようにくつろぐことができるし、そうやって流れや風に身をまかせながら周囲を見まわしたり、読書や食事をしたり、スケッチしたり、土手で眺めている人たちとおしゃべりしたりすることだってできてしまう。それでいて、とっさのときには両手ですぐにパドルを持って対応できるのだ。

最後に、帆を日よけや雨よけ代わりに用いてカヌー内部で足をのばして横になることもできる。夜はデッキをおおっているカバーの下で眠れる。ベッドの代わりとしても、偉大なウェリントン公*2も満足するくらいのスペースはある。しばらく水辺はいいやという気分になったときは、カヌーから離れて宿屋に泊まればよいし、そうすれば、馬のように「下を向いて食べる」こともない。また、カヌーを自宅に送り返したり売り払ったりして旅を続け、一等車の快適なクッションにもたれて世界を見てまわることだってできる。

とはいえ、こんな風にカヌー旅を礼賛していると、「それって、別の方法で旅をした上での話なのか? いろんな楽しみがあるだろう? 氷河や火山に登ったことはあるのか? 洞穴や地下墓地に入ったことはあるか? ノルウェーで幌のない馬車に乗ったり、アラブで馬でのんびり散歩したり、ロシアの平原を疾駆したりしたことはあるのか? ナイル川の船旅やトリニティ・カレッジでのボート競争、アメリカの蒸気船、エーゲ海の帆船、そり滑りやヨットでのセーリング、ラントン型*3の自転車――そういうのをやった上でそう言っているのか?」と疑問があびせられるのも当然だ。

そうした質問に対する答はイエスだ。実際に速かったり遅かったりするいろんな移動手段を十二分に楽しんだ上で、そう言っているんだ。ヨーロッパやアジアやアフリカ、アメリカでカヌーを使ってみて、やっぱりパドルを漕いで旅をするのが、すべてにおいて最高だとわかったわけさ。

カヌーの旅にはこんなふうな長所があるし、天気や健康にも恵まれていたので、これから話をさせてもらうカヌーの旅は、本当に楽しさに満ちていたんだよ。


訳注

 

*1:デッキをおおうカバー - カヌーとカヤックの違いについて、カナディアンカヌーに代表されるように上側に何もカバーがなくむきだしになっているのがカヌーで、カヤックは人間が入る部分を除く上側全面にカバーがついている。その両者をあわせて広い意味でカヌーと呼ぶことも多い。パドルもシングルパドルとダブルパドルの違いがあるが、連載にあわせて少しずつ説明を加えていく。

 

*2:ウェリントン公 - イギリスの公爵で、フランスとのナポレオン戦争における英雄。

 

*3:ラントン型自転車 - 前輪が小さく、大きな後輪が2個ついている三輪車。1863年にイギリスで発明されたが、それから数年後の明治維新の頃には早くも日本にも輸入されたという記録がある。

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スティーヴン・クレインの手記 4

航海士に手を貸す

書き忘れていたが、ぼくらはコモドア号と小舟をつないでいる細いロープを伸ばしていたので、ボートはずっと風下に押し流されていた。当然のことながら、なぜ連中がまだ船に残っているのか、ぼくらには不可解だった。すべての救命ボートが船を離れるのを見届けてから小舟に乗り移ったはずなのに。ボートを漕いでコモドア号に戻ろうとしたものの、ぼくらは近づくことさえできなかった。わずか三メートルの小舟に四人もの男が乗っているため、舷側に手を置いただけで水没しそうなほどだった。

船上の一等航海士が、自分たちの三番目の救命ボートは沈没したと叫んだ。人数分の筏(いかだ)のようなものを急ごしらえで作ったので曳航してほしいというのだった。

船長は「わかった」と返事をした。

筏はコモドア号の後方に浮かんでいた。「飛び乗れ」と船長が叫んだが、彼らはむずかしい顔をして、ためらっている。白人五人と黒人二人だ。薄暗い早朝の淡い光を受けて、幽霊がゆっくり動いているような感じがした。沈みかけたコモドア号に残っている七人の男たちは無言だった。航海士が船長に話しかけるのをのぞいて、会話がかわされることはなかった。死がそこにあった。だが、同様に、言葉ではいい表せない不屈の精神もたしかに存在していた。

ぼくの記憶では、四人の男たちが手すりをよじ登って立ちあがり、見渡す限り波が冷たい鋼のように輝いているのを見つめていた

「飛び降りろ」と、船長がまた叫んだ。

最初にその命令に従ったのは老機関長だった。彼は筏のそばに落ちた。船長は筏から離れないように、どうすればつかまっていられるかを指示した。機関長は、乗馬学校の生徒のように、すぐに素直にそれに従った。

航海士の決死のダイブ

一人の機関員が彼に続いた。それから、一等航海士が両手を頭上にかかげ、頭から海に突っこんだ。航海士は救命具を身につけていなかったし、この恐ろしい行為をするときに彼が両手で表現したことに、そし死に向かってダイブする際の彼の頭の動きに、ぼくは彼の心にある言葉では表させない怒りのようなものを感じた。

それから、今度の航海が終わったら、この手の仕事はやめるつもりだと語っていたトム・スミスが筏に飛び移り、ぼくらに顔を向けたのが見えた。残った三人はコモドア号の船上でぐずぐずしている。黙ったまま、顔だけぼくらの方に向けていた。一人は腕を組み、デッキハウスにもたれていた。両足を交差させ、左足のつま先は下を向いていた。彼らは立ったままぼくらを見つめていたが、コモドア号の甲板からも筏からも、ひと声も発せられなかった。重苦しい沈黙が続いた。

筏を曳航しようとしたが……

先頭の筏に乗った有色の機関員がぼくらにロープを投げてよこしたので、ぼくらは筏の列を曳航しながら小舟を漕ぎはじめた。むろん、こんなことは絶対に無理だとわかってはいた。ぼくらの乗ったボートの海面からの高さは十五センチたらずだったし、大海原で波が押し寄せてきているのだ。こんな状況では、タグボートでもこんな風に筏を曳航するのは容易ではないだろう。

だが、ともかくやってみた。どこまでも続けてみるつもりでいたのだが、深刻な事態が起きてしまった。ぼくはオールを握って漕いでいたので、後方の筏の方を向いていた。曳航のロープの調節は料理長がやっていた。と、ボートがいきなり後方に引かれはじめたのだ。先頭の筏に乗った黒人が、両手で曳航ロープをたぐり、どんどん自分の方に引きよせているのだった。

何か悪霊でも乗り移ったようだった。野生のトラのようでもあった。筏にしゃがんだ状態で、いまにもこっちに飛び移ろうとしている。筋肉という筋肉が盛り上がっていた。目はほとんど白目で、自分を見失い、心ここにあらずといった顔をしている。彼の手の重みがボートの舷側に加わった瞬間にボートは転覆するしかなかった。

コモドア号の沈没

料理長が曳航ロープから思わず手を放してしまった。ぼくらは小舟を漕いで、なんとか老機関長の乗った筏の曳航ロープをつかもうとした。その間ずっと、悲鳴もなければ不運を嘆く声もなく、ただただ沈黙だけがあったことを忘れないでほしい。そうこうしているうちに、コモドア号が沈んでいった。

コモドア号は急に風上側に傾き、それから後方に振れ戻すように動いて、そのまま直立しつつ海中に没した。すると、この恐ろしい大海原に開いた口に、筏がいきなり飲みこまれてしまった。三メートルの小舟に乗ったぼくらは声にならない声を発した――言葉でいい表せない出来事だった。

モスキート湾の灯台が、ピンの先端のように、水平線から突き出ていた。

甲板のないむきだしの小舟での三十時間の漂流は、うたがいもなく、ぼくのような若造にも何かしらを教えてくれたのだが、それについては、ここでは語らないことにする。エドワード・マーフィ船長とウイリアム・ヒギンズ機関士の立派な男らしさを伝えるために、ぼくとしては一度はその話をするつもりではいるのだが、ここで語る気にはならない。とりあえず、ボートが波打ち際で転覆したこと、やっとのことで海岸にたどりついたこと、押し寄せる波に翻弄されながらも船長は軍艦の指揮をとっているように明確に命令を発しつづけたことを述べれば十分だろう。

デイトナのジョン・キッチェル氏が服を脱ぎ捨てながら浜辺を駆け下りてきた。彼が馬車を止めて服を脱いだのだとしても、それが消防馬車の馬具だったとしても、ぼくには、あれ以上の早さで服を脱ぐことはできないように思えた。氏は海にとびこむと、料理長を引きづりあげた。それから船長の方へ向かったが、船長はぼくを先に助けるよう合図した。その後で、氏は、寄せては返す波の合間に露出する砂地で、ビリー・ヒギンズがうつぶせに倒れているのを見つけた。すでに死んでいた。

スティーヴン・クレインの手記 3

救命ボートを下ろす

機関室の熱と重労働に耐えきれず、ぼくはまた甲板に戻らざるをえなかった。船の前部に向かっていると、ボートを下ろすという話が聞こえてきた。厨房のそばで、航海士が一人の男と話をしていた。

「なんで救難信号を打ち上げないんだ?」と、見知らぬ男がいった。

すると、航海士はこう答えた。「何のために救難信号を出すんですか? 船は大丈夫ですよ」

ゴム引きのオーバーコートを着て戻ってくると、最初の救命ボートが下ろされようとしていた。最初のボートに真っ先に乗りこんだのが例の男で、他の男たちが彼にバカでかいスーツケースを手渡している。その驚きも冷めぬ間に、別のスーツケースがまた渡されるのを目撃したが、金持ちのこういう行動はおもしろくもあった。

救命具を着こんでふくれあがった男

ホテルとみまがうほどというのはいいすぎかもしれないが、例のスーツケースは、とんでもなく巨大だった。さらにその後も、オーバーコートのようなものまで渡されていた。

機関長が小さな窓に顔を寄せて眺めていたので、ぼくは彼に話かけた。

「あの人、どう思います?」

「小鳥みたいなやつだな」と、老機関長がいった。

そのとき、救命ボートから離れろという指示が聞こえた。救命ボートは甲板室の屋根に固定されていた。甲板室は頑丈だがすべりやすく、船が横ゆれするたびに、そこにいた連中は黒い海に頭から飛びこみそうになった。

甲板室の屋根にはヒギンズがいた。一等航海士と二人の有色の機関員も一緒だ。ぼくらはそのボートを下ろそうと骨を折ったが、ブロードウェイのケーブルカーほどの重さがあったと断言したいくらいだ。ボートは甲板にきつくネジどめされていたのかもしれない。このボートを動かせるのであれば、レンガ造りの校舎だって軽々と押し動かせただろう。一等航海士は風下側の吊り柱(ダビッド)から滑車一式をボートにとりつけた。下の甲板では船長が十分な人手を確保してボートを受けとる用意をしている。

それから、ぼくらは引くのをやめるよう命じられた。そうしたさなかに船の料理長がぼくのところにやってくると、「お前さん、どうするつもりだ?」ときいた。

ぼくが自分の計画していることを話をすると、彼は「そうか、じゃあ俺とおんなじゃねえか」といった。

失意の汽笛

いまはもうコモドア号の汽笛も弱々しくなっていた。失意と死の声があるとすれば、それはこの汽笛の音に示されている。音調も変化した。すでに海水がのどに詰まっているような感じだったが、夜の海でのこの叫び声は、船に水しぶきを舞い上がらせる風の音とともに、怒濤のように船首を乗りこえてきた波が白濁しながら甲板のいたるところで渦をまきつつ、ぼくら一人一人に対して、おそらくは臨終の歌をうたっているのだった。

そのとき、一等航海士が手を離すよう合図をした。救命ボートを浮かべようと能力と経験の限りをつくして努力していたぼくらを、彼は激しい怒りにかられたように叱咤した。とうとうボートが動き、海へ向かって滑り降りていった。

その後で船尾に向かうと、船長が立っていて、吊り具に腕を載せ、負傷していない片方の手で支索を持っているのが見えた。船長はぼくに五ガロン入りの水入れを持たせ、君はどうすると聞いた。自分が正しいと思うことをしますよと告げると、船長は料理長と同じ考えってわけかといい、船の前甲板で全長三メートルの小舟を下ろす用意をするようにと命じた。

全長三メートルの小舟

周囲でうろちょろしていた有色の機関員に船長が羽毛布団みたいに見える救命具を着こむよう命じたのをよく覚えている。ぼくは五ガロン入りの水入れを抱えて船の前方に行った。船長がやってきたので、小舟を下ろした。すると、連中はぼくを小舟に乗せ、一本のオールで押して船から離れさせた。

ぼくは彼らから水入れを受けとった。それから料理長が乗りこんできた。ぼくらは暗闇に座り、なぜこうなってしまったのか考えながら、とはいえ楽観的な希望を抱いてもいた。船長も小舟のところまでやってきて、沈んでいく船からは離れているんだぞと指示した。

船長自身はまだ乗りこまず、他の救命ボートが動き出すのを待っていた。そうして、やっと暗闇で声を発した。「大丈夫か、グレインズ?」

一等航海士は「大丈夫です、船長」と答えた。

「ボートを押し出せ」と船長が叫んだ。

船長が船の手すりを乗りこえてボートに乗り移ろうとした瞬間、黒い影が駆けてきて「船長、お供します」という声が聞こえた。

船長は「ビリーか、乗れ」と答えた。

船を最後に離れたのはヒギンズ

声の主は機関士のビリー・ヒギンズだった。ビリーがさっと飛び降りると、一瞬遅れて船長が続いた。その手には四十ヤード(約36メートル)ほどの測深線の一端が握られていた。その細いロープのもう一方の端は、母船の手すりにつながれていた。

小舟がまた風下に流されると、船長は「君たち、船が沈んでしまうまでは離れすぎないようにしておくからな」といった。

このなんともうれしい指示をぼくらは歓迎した。この細いロープのおかげで、ぼくらの乗った小舟は船首を風上に向けておくことができたし、巨大な波を乗りこえてボートが高く持ち上がるたびに、死につつあるコモドア号のゆれている灯火が見えた。

夜明けが近づき空が灰色がかってくると、全長三メートルの小舟が波で持ち上がるたびに、コモドア号の姿が少しずつくっきりと見えてくる。大量の空気が残っていて浮いていたのだが、ぼくらはあんなにあわてて脱出することはなかったなと笑いあった。「船が沈没しなかったら、俺たちの行動はとんだお笑いぐさだろうな」といいあったりもした。

だが、その後で、ぼくらはコモドア号の船上に人影を見た。しかも、こっちに向かって何か叫びだした。